ホキ石仏第2群の阿弥陀三尊像。中尊の阿弥陀仏は座高約2.8m。頭部は丸彫りに近く、臼杵石仏中の傑作といわれている。


ホキ石仏第1群の地蔵十王像(部分)。中尊に地蔵菩薩をすえ、左右に5体ずつ十王像を配置している。


山王山の如来三体石仏。中尊に如来坐像をすえ、左右に脇尊として小さめの如来坐像を配している。


古園石仏の十三体仏。中尊に大日如来坐像をすえ、左右に如来像2体、菩薩像2体、明王像1体、天部像1体を配している。


古園石仏の大日如来像。平成5年(1993)、 大日如来の仏頭がもとの位置に復元された。


修復前の写真を複写。古園石仏の大日如来像は頭部が落ちて仏体下の台座に置かれたいた。


石仏の造立を発願したといわれる真名野長者の夫婦像。室町時代作。
 昭和46年(1971)に刊行された大久保貫之著『臼杵(うすき)石仏ー義経と運慶の秘密』の序章に「しずかーですな。いつ来てみても」「竹笹の薮だたみや、のび放題の雑草の陰に、苔むした石仏が点々と見えかくれしている。像はこわれたもの、台座のくずれ落ちたもの──」とあり、当時の深刻な荒廃ぶりが記されている。
 この本を読み、ひなびた山村にある相当にさびれたところを想像していたが、やはり国宝の威光だろうか、思い描いていた風景とはだいぶ趣きが異なっていた。
 手入れの行き届いた公園と遊歩道。野ざらしにされていた石仏群は、壮麗な覆堂(おおいどう)に守られて、すべてが小綺麗に整備されている。

 臼杵石仏が、世間の耳目を集めるようになったのは比較的新しいことである。大正2年(1913)、京都大学の小川琢治教授による調査研究と写真集『日本石仏小譜』の発行がきっかけとなり、大正11〜13年(1922〜24)に京都大学の学術調査。大正15年(1926)、スウェーデン皇太子同妃両殿下の訪問で、一躍世間の脚光を浴びることになる。
 昭和27年(1952)に国の特別史跡、昭和37年(1962)に国の重要文化財に指定される。昭和55年(1980)から本格的な保存修復工事が行われ、平成6年(1994)に完了。平成7年(1995)に4群59体が国宝に指定され、平成29年(2017)に 金剛力士立像2体が国宝に追加指定された。

 修復の完了以前、古園(ふるぞの)石仏群の大日如来像の頭は、胴体から離れて、ながらく仏体下の台座に置かれたままであった。修復にあたっては、この仏頭を元に戻すべきかどうかで、激しい論争がおこなわれたようだ。石仏は本来、堂内に祀られるものではなく、風雨にさらされる山野にあってこそ美しいと思われるが、何事にも延命を願うのが人間の業である。「諸行無常」に抗うこうした流れも致し方ないと思うが、修復前の姿も見ておきたかったと、今さらながら悔やまれる。

◎◎◎
 臼杵石仏(磨崖仏)は、大分県臼杵市の南東部、臼杵湾に注ぐ臼杵川をさかのぼること約6km、三方を山に囲まれた深田(ふかた)の丘陵地帯にある。
 石仏群は4つのグループに分かれ、丘陵地の山裾をめぐる約800mのコース上に点在している。グループは、ホキ石仏第2群、ホキ石仏第1群、山王山石仏、古園石仏と名づけられている(ホキには、山腹などのけわしい所「崖(がけ)」の意味がある)。
 いずれの石仏も溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)の岩壁に、彫技のなかでもとくに難しいとされる厚肉彫りによって造立されている。火山灰が固まった熔結凝灰岩は、通常の岩石に比べ軟質で、加工がしやすい半面、水に弱く雨風による浸食を受けやすい。享和3年(1803)に編まれた『豊後国史』には、大小合わせて100余体の石仏があったと記されているが、いまでは60余体しか残されていない。

 臼杵石仏はいつ、誰によってつくられたのか? 石仏群には刻銘がなく、確たる文献も残されていないが、石仏発願の由来につながる伝説として、真名野長者・炭焼き小五郎の伝説が残されている。炭焼き小五郎伝説は全国に点在しており、いくつもの類話がある。ここでは、柳田国男の「日本の昔話」に収められている「炭焼き小五郎」をもとに、当地の附会を加えて紹介する。

 昔々、豊後の国の真野(まのの)長者は、元は炭焼き小五郎という貧しい青年で、三重の内山という所に小屋を建て一人で暮らしていた。この炭焼き小屋に、都から顔にアザのある玉津姫とよばれるお姫様が、清水の観音様のお告げを受けて、小五郎と夫婦になるために訪ねて来る。小五郎が貧しさを理由にためらっていると、姫は小判を出して、町にお米を買いに行くように頼む。
 町に出かけた小五郎は、途中で淵のそばに佇むおし鳥をみつけ、手にした小判を礫(つぶて)にして投げつけ、失ってしまう。仕方なく小屋に引き返した小五郎に、姫は「あれは小判というもので、たくさんの米や魚鳥が買えたのに、惜しいことをなされました」という。すると小五郎は、あの石がそんなに貴い宝だとは知らなかった。それならばこの小屋の後ろの山に、いくらでも転がっているという。早速2人で行ってみると、果たして小五郎のいうとおり、一谷の小石はことごとく純金であった。さらに淵の水で顔を洗うと、姫のアザが消え、絶世の美女になった。2人は結婚し、小五郎は長者となって、大きな屋敷を造り、観音のお堂を建てて信心した。のちに御殿を建てた地名から真名野長者とよばれた。やがて2人の間に、玉のようにきれいな娘が生まれ、般若姫と名づけられた。

 般若姫が美しい娘に成長すると、都から姫を帝(みかど、後の用明天皇)の妃として差し出せと勅使がくる。長者は財力に任せてこれをお断りするが、帝は、自ら三重の内山に訪れ、「山路」と名乗り長者屋敷の牛飼いとなる。しばらく働くうちに、長者に気に入られ姫との結婚を許される。やがて姫は身ごもるが、都から迎えが来て、帝は都に呼び返される。生まれた子どもが男ならば都に連れて上がり、女ならば小五郎の跡を継がせよと言い残し、帝が都に帰っていった。女子を生んだ般若姫は、帝の後を追い船出するが、周防灘で嵐に遭い亡くなってしまう。悲しんだ長者夫婦は、姫の菩提を弔うために中国の寺へ黄金を寄進し、欽明天皇15年(554)、中国の天台山から蓮城(れんじょう)法師を招き、臼杵石仏の造立を発願する。

◎◎◎
 上記「真名野長者伝説」に欽明天皇の第4皇子、聖徳太子の父である用明天皇が登場することから、伝説の舞台は6世紀後半(飛鳥時代)と察せられるが、実際の造立年代は、仏像の様式から推察して、大部分は平安時代後期(11世紀後半)、一部は鎌倉時代の彫造と考えられている。
 年代的にはかなりズレているが、臼杵石仏の守護寺である満月寺には、室町時代の作とされる「真名野長者夫婦像」(写真上)と「蓮城法師像」(写真右上)が残されている。両者が実在の人物なのかどうか、その存在を疑う説もあるが、いずれにしても、これほどの石仏を彫らせるほどの財力をもった長者がいたことは確かなことであり、伝説のなかに何らかの史実が投影されていると思われる。

 臼杵石仏が造られた平安時代後期、国東半島周辺では、宇佐八幡信仰と天台修験道が融合した独特な仏教文化が築かれていた。以前紹介した「熊野磨崖仏」(豊後高田市)の大日如来像は平安時代後期、不動明王像は鎌倉時代初期と推定されており、臼杵石仏と同時代につくられたものと考えられる。
 この時代、事実上この地を支配していたのは、大和大神(おおみわ)氏の傍流である臼杵一族である。平安時代の仁和2年(886)、大神良臣(よしおみ)が豊後守となって入国し、以来、豊後に根付き4代目の大神惟盛(これもり)が豊後臼杵氏の祖となった。

 臼杵一族は海運業で財を成したといわれているが、石仏建造の莫大な費用の捻出には、一見荒唐無稽にみえる炭焼き小五郎の黄金伝説が結びついているとみる説もある。また、「丹生神社」で紹介したように、臼杵地区は中央構造線上にあって、銅や水銀等の鉱物資源が豊富な地域である。玉津姫の顔のアザが消えたのは、白粉(おしろい)の効果と想定すれば、黄金とは、朱の採掘や水銀の製造によってもたらされた対価とも考えられる。

 国宝となってよみがえった臼杵石仏を見て、黄金伝説の発生は、都から遠く離れた地方の郷に、世界的にも傑作と称される石仏群が存在する、この不思議さに秘められているように思われる。

◎◎◎
2019年4月19日 撮影

長者のもとで石仏を彫ったといわれる蓮城法師の像。




深田の鳥居。
旧満月寺日吉社の鳥居といわれている。
近くを流れる臼杵川の氾濫によって、
鳥居の柱脚が地中に埋没している。
柱脚が太く、2つの石を積み重ねているのが特徴。
県指定有形文化財。

案内板