丹生川の支流・佐野川に架かる神橋が丹生神社参道の入口となる。


入母屋造りの屋根に唐破風と千鳥破風を設けた凝った造りの拝殿。


境内社・稲荷社。寛文6年、臼杵藩主・稲葉信通の寄進によるもので、かつて丹生神社の本殿として使われていた。


朱沙の原石。丹生大明神のご神体とする説もある。 【朱沙の原石のカラー写真】
 日本各地に点在する「丹生(にう)」と名のつく地名と神社は、そのほとんどが水銀を含む「朱砂(しゅしゃ」、または「辰砂(しんしゃ)」とよばれる鉱物が採取される土地であったとされている。
 今や考古学界の定説となっているこの見解は、1970年に刊行された『丹生の研究』の著者・松田壽男(ひさお)氏の研究によって明らかにされた。古記録から拾いあげた氏の調査によると、丹生と名のつく神社は、廃絶した神社を含めて全国に159社あるという。

 この松田説を裏付けるように、『豊後国風土記』(天平5年(733)頃に刊行)海部郡(あまべぐん)丹生郷の条に「昔時(むかし)の人、此の山の沙(すなご)を取りて朱沙(に)に該(あ)てき、因りて丹生の郷といふ」と記されている。大分市佐野地区(旧坂ノ市町)に鎮座する丹生神社の境内には、朱砂の原石がご神体石として祀られている。当社は別府市から「臼杵(うすき)石仏(磨崖仏)」に向かう途中にある。丹生郷の総社・丹生神社の原石を一目見ようと立ち寄ってみた。

 丹生神社は、大分市を流れる大野川の下流右岸、九六位山(くろくいさん、451.7m)を水脈とする丹生川の支流・佐野川に架かる神橋が神社参道の入口となる。神橋をわたり、一の鳥居をくぐり、ツツジの咲き誇る参道を歩き、石段を上って境内に入る。ニの鳥居をくぐると随神門、その先に入母屋造りの屋根に唐破風と千鳥破風を設けた凝った造りの拝殿がある。その奥に流造りの本殿、拝殿の左には境内社の稲荷社が祀らている。

 朱砂の原石は、境内山側(南西)の一段高くなった平地の一角にあった。石の大きさは、高さ1m余、幅約50cm、厚さ約30cmほどで、まだ新しいと思われる祠のなかに納められている。邦光史郎著『朱の伝説 古代史の謎』(集英社 1994)に、この原石が写真入りで紹介されているが、その写真では、原石は台座の上にむき出しで置かれている。祠に納められたのは最近のことだろう。
 一概に「朱」といっても、その顔料には、辰砂(水銀朱)とベンガラ(酸化鉄赤)および鉛丹(鉛の酸化物)の3種類があるという。はたしてこの原石がどれにあたるのか、私のような素人目にはよく分からない。

 案内板には「往古白鳳時代文武天皇二年(西暦六九八年)丹生郷より朱沙を朝廷に献上している地名を赤迫(あかさこ)といい これが「丹生」の地名の起源といわれている」と記されいる。朱の出土地「赤迫」は、当社から約3km離れた丹生川の上流にある赤迫池付近と考えられている。当社の原石はこのあたりから運ばれてきたものだろうか。

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 当社に伝わる由緒によると、鎌倉時代初期の建久7年(1196)、大友能直(よしなお)が豊後国に下向する途中、大在(おおざい)沖で台風に遭い難破寸前となるが、丹生大明神の導きによって難を逃れ、無事上陸を果たすことができた。翌年、これを感謝して社殿を奉納、後に社殿の近く(現社務所)に京都仁和寺の末寺として恵日山来迎寺を建立したとされている。
 豊臣時代の天正14年(1586)、島津軍の進攻により社殿を焼失。江戸時代の寛文6年(1666)に臼杵(うすき)藩主・稲葉信通(のぶみち)により社殿を再興。現社殿のうち拝殿より奥の建物は昭和5年(1930)、拝殿は昭和18年(1943)に改築されたとある。

 現在の祭神は、丹生都比売命(にうつひめのみこと)でなく、罔象賣神(みづはのめのかみ)と建岩龍命(たけいわたつのみこと)とされている。罔象賣神については、文武天皇2年(698)、丹生郷の人々が五穀豊饒は水の神様の御威徳によるものと崇敬し、以来、丹生大明神として祀られることとなり、建岩龍命については、応永元年(1394)に、大友家臣である富高氏によって、肥後国の一ノ宮である阿蘇神社から勧請し、合祀されたという。元々の祭神は、丹生都比売命であったが、時代の変遷によって当社の祭神も変わっていったのだろう。

 享和3年(1803)に完成した、豊後岡藩の儒医・唐橋君山(からはし くんざん)によって編纂された『豊後国志』によると、丹生の郷にはもともと3社の丹生神社があり、一ノ宮(現宮河内阿蘇社)、二ノ宮(現在地)、三ノ宮(屋山村)に分かれていたが、現在まで丹生神社の社名が残されているのは、当神社(二ノ宮)のみとなっている。

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 蒲池明弘氏の『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書 2018)によると、古代において「朱には金、銀に匹敵する貨幣的な価値があった」と記されている。
 中国において朱は、不老不死をねがう錬丹術の仙薬の原料として珍重され、赤色の顔料や漢方薬の原料、防腐剤、防虫剤としても利用されていた。古代から室町時代あたりまで、朱・水銀は、硫黄や金・銀とともに、日本から中国や朝鮮半島への主要な輸出品のひとつであったといわれている。

 わが国での朱の採掘は、縄文時代から行われており、約1万年前の宮崎県国富町の塚原遺跡(縄文草創期)から、赤色顔料が塗布された土器が発見されている。
 また、当社から北東に約7.5km離れた神崎(こうざき)地区にある古墳時代中期(5世紀中頃)の前方後円墳・築山(つきやま)古墳から、総量34kgという大量の朱が石棺内から見つかっている。
 この古墳から出土した2基の石棺には4体の遺骨が納められており、右腕に貝釧(かいくしろ)をつけた1体の女性だけが単独で石棺に埋葬されていた。当時たいへん貴重であった水銀朱を、これほど大量に使われていることから、女性の被葬者は呪術者ではないかと推測され、邪馬台国の女王・卑弥呼、もしくは台与ではないかとする説もあるという。

 埋葬にともなう朱の意味には諸説あるが、元来、赤色は血の色に通じ、朱は生命の根源に関わるものという認識は古代からあったようだ。いずれにしても古代の人々にとって、朱の赤色は神聖で、邪悪なものを寄せ付けない、呪術的な意味合いをもった特別な色と考えていたことは確かなことである。

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2019年4月19日 撮影

大正・昭和初期の頃まで、この原石を削り、
水に溶いて眼病の薬にしたといわれている。

案内板