熊野磨崖仏の参道。拝観時間は4〜10月は8時から17時、11〜3月は8時から16時30分まで。


巨大な岩壁に刻まれたの石の仏。向かって右に大日如来、左に不動明王。


高さ約6.8mの大日如来像。平安時代後期の作とされている。


1000年以上の雨風にさらされたとは思えない保存のよい面貌だ。


高さ約8mの不動明王像。鎌倉時代初期の作とされている。


熊野磨崖仏の少し先、石段を登り切ったところに熊野神社がある。本殿は背後の岩壁に食い込むように建てられている。
明治維新の神仏分離令により胎蔵寺から独立し、熊野権現社から熊野神社に改名された。
 朝一番に八幡宮の総本山・宇佐神宮を参拝して、国東(くにさき)半島の付け根を南東に走ること約30分。豊後高田市(ぶんごたかだし)の南端にある熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)に向かう。

 熊野磨崖仏への入り口は、田染(たしぶ)地区旧熊野村の田原山(別名:鋸山、542m)の西麓にある胎蔵寺(たいぞうじ、天台宗)である。
 案内所で拝観料の300円を払い、杉木立に囲まれた山道を登っていく。300mほど登ったところに「三社大権現」の扁額がかけられた石の鳥居が見える。距離にすればわずかな道程だが、すでに大きく息を切らしてる。一休みして、ここから鬼が一夜で築いたといわれる急勾配の石段を登っていく。下から見上げても先が見えない石段に気は重くなるばかり。悲鳴を上げる足をだましだまし登りつづけ、やっとの思いで磨崖仏のある護摩堂跡にたどり着いた。

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 降り注ぐ太陽光線の下、強い陽射しに照らされた高さ約6.8mの不動明王は、手に剣をもち、怒れる面貌の細部にくっきりとした陰影を焼き付けている。向かって右手の如来像は、山の壁に遮られて影となり、おぼろげな輪郭のなかに森厳な気を漂わせている。
 如来像については、大日如来と比定するにはいささか問題があるという。精巧に刻まれた螺髪(らほつ)から如来像であることは一目瞭然だが、大日如来をあらわす宝冠はなく、印も結んでいない。薬師如来とみるむきもあるが、頭上壁に種子曼荼羅(しゅじまんだら)が刻まれていることから、大日如来と称されるようになったという。

 ゆったりとした半身像は、彫技のなかでもとくに難しいとされる厚肉彫りによって造立されている。両像ともに胸より下が崩れているが、これは軟質な凝灰岩(ぎょうかいがん)が、1000年以上の雨風にさらされた風化によるものと思われる。
 野ざらし、雨ざらしの石仏は、立派な伽藍のなかに納められた仏像と異なり、権力や財力をもたない一般庶民のためのものであった。磨崖仏の作者は不明だが、想定されるところでは、庶民のために念仏を唱え、深い信仰の中で工人の技を磨いてきた遊行僧であったと思われる。伝承によれば、奈良時代の養老2年(718)に宇佐八幡の化身・仁聞(にんもん)菩薩の造立とされているが、大日如来像は平安時代後期、不動明王像は鎌倉時代初期の彫造と推定されており、仁聞菩薩とは時代が異なっている。

 瀬戸内海に突き出した国東半島は、中央の両子山(ふたごさん、721m)の火山活動によって形成された径約30kmの丸い形をした半島である。
 古代、国東半島を中心として国崎郡には、武蔵(むさし)、来縄(くなわ)、国東(くにさき)、田染(たしぶ)、安岐(あき)、伊美(いみ)の6つの郷が形成された。この6つの郷に、奈良時代から平安初期にかけて、宇佐八幡宮の境外寺院として、本山(学問の地)・中山(修行の地)・末山(布教の地)の三山組織がつくられ、28の寺院が開創される。
 6つの郷に開かれた寺院群は「六郷満山(ろくごうまんざん)」と称され、宇佐八幡信仰と天台修験道が融合した、神仏習合の独特な山岳仏教文化を築いていった。

 熊野磨崖仏と同じく、六郷満山の天台宗寺院は、すべて養老2年(718)に仁聞(にんもん)菩薩が開基したという伝承をもつ。他にも6万9千体の仏像を造ったとされているが、その時代の遺物・古文書の存在は認められておらず、今日では、仁聞は実存の人物ではなく、伝説上の人物と見なされることが多い。
 柳田国男は、『妹の力』のなかで、仁聞は「人聞」とも表記されることから、人聞=人母=神母であり、人母もしくは神母の誤伝であると考えていたようだ。「神母」「人母」は宇佐八幡神の母菩薩・比売大神(ひめのおおみかみ)の仏教的表現と考えられている。

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 今朝、宇佐神宮を訪れたとき、本殿前の境内にある「大元神社遙拝所」を撮影した(下の写真)。
 大元(おおもと)神神社は宇佐神宮の奥宮とされ、宇佐神宮の南東約5kmの地点にある御許山(おもとさん、647m)に鎮座している。御許山は宇佐神宮の中殿(二之御殿)の祭神である比売大神(湍津姫命・市杵嶋姫命・田霧姫命の三女神)が降臨した地とされ、山頂の禁足地には、三女神が降臨されたといわれる三柱の石がご神体として祀られている。比売大神は八幡神が現れる以前から、この土地の神さまとして崇敬されていたと思われる。

 豊後高田市教育委員会の冊子によると、大分県内には全国の磨崖仏の6〜7割が集中しており、現在確認されているもので約90ヶ所、約400体もあるという。
 この地に磨崖仏が多い要因として、県中・南部に分布する溶結凝灰岩が、軟らかく石仏彫刻に適していることが挙げられる。しかし、その起こりはこれだけではないだろう。国東半島の宗教世界の根底には、御許山の西、大分県と福岡県の境にまたがる神体山・英彦山(ひこさん、1199m)を拠点とした山岳宗教の影響も考慮されなければならない。
 英彦山は、出羽三山・熊野三山と並ぶ日本三大修験場の一つで、山内には修行のための岩窟が49ヵ所あり、この岩窟が英彦山信仰のはじまりとされている。

 古代、遊行僧たちは、庶民のために念仏を唱え、村々を布教してまわるかたわら、山に籠り、神聖感の感じられる石壁を見出し、そこに仏の姿をあらわしていった。見えなかった神を、神仏習合のもとで見える仏へと変容したものであろう。
 国東半島に点在する多くの磨崖仏に、石そのものを礼拝する巨石信仰の片鱗が偲ばれる。

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2019年4月19日 撮影

鶏鳴(けいめい)伝説をもつ急勾配の石段。
自然石を乱積みした石段は
赤鬼が一夜にして築いたといわれている。

宇佐神宮の境内にある「宇佐神宮奥宮 大元神社遥拝所」。


熊野磨崖仏 案内板。