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手入れの行き届いた「矢喰の岩公園」のなかにある矢喰神社。
鳥居の脇にある「矢喰の岩」。
なぜか、このあたりだけに巨石が並んでいる。
元は一つの石だったと思われる。
現在、濠の水はなくなっているが、かつては浮島のように見えていたのだろう。
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矢喰(やぐい)神社は、岡山自動車道「岡山総社IC」のすぐ東、国道180号線北側の「矢喰の岩公園」のなかにある。
境内に入り参道を進むと、鳥居の脇に「郷土記念物 矢喰の岩」と呼ばれる大小5つの花崗岩の巨石が並び、随神門の先には、濠(ほり)に囲まれた石積みの基壇があって、そこに拝殿と流造りの本殿が鎮座している。
本殿の背後にはビルも工場も見当たらない。広々とした田園風景がどこまでも広がり、はるかに山の稜線が浮かんでいる。
神社の西側には、鬼城山(きのじょうさん、標高397m)付近より流れ下ってきた「血吸川」が、東側には「足守川」が流れている。当社の創立年代は不詳とのこと。後に天満宮を合祀したことから矢喰天満宮、矢喰宮(やぐいのみや)とも呼ばれている。祭神は吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)で、一説には吉備津彦の弟といわれ、吉備津彦とともに鬼の温羅を討ったという伝説が残されている。
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矢喰神社の由来も「吉備津神社と吉備の中山(2)」でふれた吉備地方の温羅退治伝説に依拠している。
吉備津彦命が本陣を設けたとされる「吉備の中山」は当社の南東約5kmの地点にあり、温羅の居城とされる「鬼ノ城」は当社の北西約5kmの地点にある。当社が吉備の中山と鬼ノ城を結ぶ直線上のほぼ中間点にあることから、吉備津彦の射た矢と、温羅の投げた石が空中でぶつかり、この地の落ちてきたという。
鳥居の脇にある「矢喰の岩」は、鬼ノ城から投げた温羅の岩とも、吉備津彦の矢が石に化したものともいわれている。
それにしても石や矢が、はるか5kmの距離を飛んでくるとは、なんとも荒唐無稽、にわかに信じられない話だが、伝承によれば温羅は身長一丈四尺(約4.2m)にも及ぶ大男で怪力無双。両眼は爛々として虎狼のごとく、蓬々たる鬚髪は赤きこと燃えるがごとく、大酒飲みで、空も飛べた等、まるで異類異形のごとき逸話が残されている。
さて、実際のところはどうなのだろう?
当時このあたりは「吉備の穴海」と呼ばれる内海であったという。九州から畿内を結ぶ瀬戸内海航路の重要な中継地であり、楯築遺跡近くの上東遺跡(弥生時代後期の集落遺跡)からは船着き場とみられる遺構が見つかっている。また、吉備の中山も古墳時代以前は穴海に浮かぶ島であり、吉備津の「津」は港の神を表わしているといわれている。
こうしたことから、当時の戦いは船による海戦であった、と考えてみた。 おそらくは1〜 2名乗りの小型の丸木舟を使った集団が、このあたりで激突し、熾烈な矢の射掛け合いや石つぶての投げ合いが行われたのだろう。後になって陸地化が進み、往事の「古戦場」の記憶が神話化し、今に残されているのではないだろうか。
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薬師寺慎一氏は『祭祀から見た古代吉備』(吉備人出版)のなかで、矢喰宮の巨石が磐座(古代の祭祀場)かどうかについて次のように述べている。
「矢喰宮は平野の真ん中に鎮座していて、南には庚申山、東には吉備の中山、西には長良山、東北には龍王山(最上稲荷)、西北には新山・鬼城山・経山などを望むことができます。これらの山々はいずれも聖なる山と考えられるので、古代の矢喰宮は、これらの山の神々をお迎えする祭場(後の神社)、言い換えれば、これらの山々の遥拝所であったと考えられます。」とし、冬至の日の出線にあたる吉備の中山を拝んでいた可能性を挙げている。
たしかに、四方の山々を見渡せる絶好のロケーションにあるが、逆にどの山を、境内のどの位置から遥拝していたのかと考えてみると、どこか茫洋とした印象で明確なイメージが掴めない。
境内の配置も、本殿と巨石群が離れていて、古代から信仰されていた磐座を重視した社殿配置とは思えない。さらに、遥拝所であれば、祭神の吉備武彦命から鑑みて、社殿の向きは吉備の中山を拝むかたちが自然のように思えるが、正面鳥居と本殿の延長線上に見えるのは、吉備の中山とは真逆の鬼城山を向いている。
当社周辺に生えている竹は、吉備津彦命の放った矢が芽吹いたものという伝承も残されている。ここはやはり、古戦場の記憶を跡づけるメルクマールとして、巨石群が祀られているものと考えたい。
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2017年4月26日 撮影
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本殿の背後に広がる田園風景。
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案内板。
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