楯築(たてつき)遺跡は、弥生時代の後期(1世紀半ばから3世紀半ば頃、邪馬台国が日本のどこかにあったとされる時代)に造営された首長の墳丘墓である。
倉敷市の東端、標高46.5mの片岡山(かたおかやま)と呼ばれるなだらかな丘陵の北側にあり、遺跡の規模は直径約50m。主墳に北東・南西側に2つの突出部(団地造営工事のため破壊されてしまった)を備えており、全長は約72m。墳丘墓としては日本最大級の墓である。
主墳には2つの埋葬が確認されている。墳頂中央部の地下1.5mあたりに埋葬されていた木棺がこの墳丘墓の主人のものと推定され、中心墓壙(ぼこう)は南北9m、東西6.25m。底の深さは2.1mもある大型のもので、墓壙側面からの湧き水を受け止める排水設備も設けられていた。
木棺は全長約2m、全幅約0.7mで、全長3.5m、幅1.45mの木槨(もっかく)に納められていた。棺の底には当時不老長寿の薬と考えられ、たいへん貴重とされた朱(水銀朱、赤色の顔料)が厚く(32kg以上)敷きつめられていた。骨はすべてなくなっていたが、歯のかけらが2片見つかっている。歯の擦り減り程度からそれほどの高齢ではなく、小型であることから女性の可能性が指摘されている。
副葬品は、長さ47cmの鉄剣1ふりと、翡翠の勾玉(まがたま)1、瑪瑙(めのう)の棗玉(なつめだま)1、碧玉(へきぎょく)の管玉(くがたま)27からなる首飾りが発見された。もう1つの埋葬施設は、中心埋葬から南東約9mの位置にあるが、わずかに朱が認められるのみで副葬品は見つかっていない。
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墳頂部には1個の立石を中心に、その周囲に4個の巨石が立ち並んでいる。板石状のもの2個、棒状のもの2個、腰掛け状のもの1個。いずれも花崗岩の自然石で、とくに加工を施された痕跡はみられない。
これらの巨石について「吉備津神社縁起」に石の来歴が記されている。それによると吉備津彦命は、鬼ノ城に陣取る温羅(吉備冠者)との戦い際し、この片岡山に防御のための石楯を築いて、戦いに備えたとされている。(温羅伝説については「吉備津神社と吉備の中山(2)」を参照ください)
この石楯が「楯築」の名の由来とされているが、実際にいつ立てられたのかについては、残念ながら具体的な証拠は見つかっていない。また、何のために設けられたのかも、このように巨石を立ち並べた遺跡は、全国どこにも類例がなく、今のところ謎のままとして残されている。
しかし、1978年・1989年に行われた第2次・第7次の立石発掘調査から、わずかであるが推定の手掛かりとなる証拠の断片が見つかっている。3号立石の埋まっている部分から弥生土器の小片が見つかり、その上層には中世土器の小片が認められた。また、5号立石の埋め土からは、立石の埋まっている部分の側面や円礫の一部に、棺内の朱と同様の赤色顔料の付着が見つかっている。
こうした発見から、立石は墳丘墓の築造当時からあったとする説が有力視されているが、その一方で、石の表面観察から、とても1800年の風雪に耐えた石とは思えないという地元の古墳研究者(コフニスト)・和気誠二氏の指摘もある。1600基の古墳を巡り、多くの石を見てきたという和気氏の言葉には、妙な説得力と重みがある。私もはじめて3号立石を見たときには、石の表面に黒ずみがなく、きれい過ぎることに違和感を覚えたものである。
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かつてこの墳丘上には、西山宮と呼ばれる神社があった。江戸前期の天和年間(1681〜1684年)に社殿が造営され、その際に楯築神社と改名されたという。その後、明治時代末期の神社合祀政策によって、ここから約700mほど北西にある鯉喰(こいくい)神社(こちらも弥生墳丘墓の上に建てられた神社である)に合祀され、明治42年(1909)に社殿は解体された。
このとき「亀石」と呼ばれるご神体石も鯉喰神社に移されたが、大正5年(1916)に地元の願いによって再び楯築にもどることになった。これを納める場所として急遽つくられたのが、1号立石に併設された石の祠である。
昭和56年(1981)、当遺跡は「楯築弥生墳丘墓」として国の指定史跡となり、翌年にはご神体の亀石も国の重要文化財に指定される。これを機に、周辺は史蹟公園となり、亀石は墳丘脇のコンクリート製の収蔵庫に移されて、厳重に保管されることとなった。
亀石は長径93cm、短径88cmの不整菱形で、厚さは35cm。重さ350kg。江戸時代の縁起には「白頂馬龍神石」(はくちょうばりゅうじんせき)と記されている。石質は紅柱石(こうちゅうせき)を含む蝋石(ろうせき)で、この石材は岡山県南部の浅口市金光町・鴨方町、笠岡市の丘陵地帯に産出するという。
石の表面全体には「弧帯文(こたいもん)」と呼ばれる不思議な文様がびっしりと隙間なく線彫りされている。また、石の正面と思われる菱形の突出部に楕円形をした顔があり、眼、鼻、口らしきものが浅い刻線で描かれている。亀石の名前は、この突き出した顔に由来するものか、あるいは全面に施された弧帯状の模様が亀の甲羅に似ていることから付けられたものだろう。
この亀石と同じ弧帯文の文様をもつ石片が、墳丘墓の円礫堆下部から弥生時代後期の土器と一緒に出土している。意図的に砕かれた大小100 個以上の石片を接合し復元してみると、最大長61cm、幅30cm、厚さ16cmで、平面で亀石のおよそ5分の1、体積では9分の1の大きさになる。この発見から、ご神体の亀石は弥生墳丘墓にともなうものであり、同時代に製作されたことが明らかになった。ちなみに、1999年に鯉喰神社の境内からも「亀石」にそっくりな文様をもつ別個体「弧帯文石」の残片が発見されている。紋様の持つ意味は不明だが、この弧帯文は古墳時代に用いられた直弧文(ちょっこもん、直線と弧線を組み合わせた文様)の源流と考えられている。
その他にも墳丘の各所から、おびただしい数の壺形土器や特殊器台、特殊壺の破片が見つかっており、特殊器台を用いた最初の墳丘墓とされている。
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一般には、3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを「古墳」、それ以前につくられた墳丘をもつ墓は「墳丘墓」と呼ばれ区別されている。日本最古の前方後円墳であり、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)の築造が3世紀後半と考えられており、そこから吉備国独特の特殊器台が出土し、纏向遺跡の石塚古墳周濠内から、弧帯文の入った弧文円板が見つかっている。
吉備の特殊器台は、楯築とほぼ同時期に造られた出雲市の四隅突出型墳丘墓「西谷3号墳」でも見つかっている。この出雲の四隅突出型墳丘墓が、楯築の巨大な突出部の原型となり、さらに前方後円墳の突出部に発展したとみることも可能だろう。
吉備地方には全長100mを超える古墳が18基もあり、そのうち岡山市の造山古墳は全長350mで、日本第4位の規模をもつ。1位から3位までは、仁徳、応神、履中天皇の御陵とされているから、吉備地方に近畿政権に匹敵する勢力をもつ王国があったと考えて、まず、まちがいないと思われる。
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2007年3月15日、2017年4月26日 撮影
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かつてあった楯築神社の鳥居。
鯉喰神社(倉敷市矢部)。
大正6年に楯築神社は鯉喰神社に合祀された。
出雲市の西谷3号墳(四隅突出型墳丘墓)。
四隅にヒトデのような突出部が設けられている。
突出部を含めた規模は約55m×40m、高さ4.5m。
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