吉備津神社・拝殿内部の扁額。


通称「吉備津造」と称される本殿。応永32年(1425)に足利義満による再建以降、
一度も解体修理をされることなく、現在までその姿を残している。本殿・拝殿は国宝。


本殿北側の石段下にある「矢置石」。石の大きさは高さ約80cm、長さ約4.5m。
吉備津彦命が温羅を討つ際、この石に矢を置いたという伝承をもつ。古くは磐座であったと推察されている。
 古代吉備国(きびのくに)は、持統天皇3年(689)の飛鳥浄御原令の発布をもって備前、備中、備後の3国に分割された。このとき、吉備国を治めたとされる大吉備津彦命を祀る吉備津神社も3つの神社に分かれたとされている。
 備前には吉備津彦神社(岡山市北区一宮)、備中には吉備津神社(当社)、備後には吉備津神社(広島県福山市新市町)。そして、のちに備前から分割された美作(みまさか)の中山神社(岡山県津山市)も、祀られているのは吉備津彦命である。
 吉備国以外では、ほとんど祀られることのない神さまだが、地元では絶大な人気を誇っており、4つの神社ともに一つの国の中で最も社格の高い「一の宮」として崇敬されている。

 当社の創建は、社伝によれば仁徳天皇の時代とされているが、それを裏づける確かな資料は見つかっていない。文献上の初見は、平安時代の承和14年(847)に、朝廷から従四位の神階を授けられたという記載で、『延喜式』神名帳では備中国賀夜郡に「吉備津彦神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

 本殿と拝殿は、室町時代の応永32年(1425)に後光厳天皇の命で室町幕府の3代将軍・足利義満によって再建。本殿80坪、拝殿24坪の大建築で、本殿の高さにおいては出雲大社に劣るが、広さにおいては2倍以上という国内屈指の規模を誇る。比翼入母屋造りの優美な建築様式は「吉備津造り」ともいわれ、本殿・拝殿は、合わせて1棟として国宝に指定されている。

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 『日本書紀』によれば、吉備津彦命は、崇神朝四道将軍の一人として当地に派遣され、賊徒を平定し、今日の吉備文化の基礎を築いたとされている。この賊徒とされているのが、温羅(うら)と呼ばれる伝承上の鬼神で、別名「吉備冠者(きびのかじゃ)」と称していた。
 当社に伝わる『吉備津宮縁起』によると、温羅は朝鮮半島南部の百済(くだら)から飛来し、吉備に住みついた。現在の鬼ノ城(きのじょう、総社市)が温羅の住処とされている。温羅は瀬戸内海を航行する船を襲い積荷を奪い、婦女子を連れ去るなど、暴虐のかぎりをつくしていたという。

 吉備津彦命は温羅の討伐に際し、「茅葺宮(かやぶきのみや)」を吉備の中山の麓に造り、これを本陣とした。そして西の片岡山に石の楯を築いて戦にそなえた。現在の楯築神社が、その遺跡とされている。

 いざ決戦となり、吉備津彦命と温羅は互いに矢を放つが、不思議なことに射かけた互いの矢は、ことごとく空中でぶつかり地上に落ちてしまう。吉備津彦は一計を案じ、2本の矢を同時につがえて放ってみた。すると、1本の矢は地上に落ちたが、もう1本の矢は、見事、温羅の左眼を射抜いた。温羅の眼からたくさんの血が流れ出し、たちまち一筋の川となった。これが鬼ノ城から流れて足守川にそそぐ「血吸(ちすい)川」であるという。

 眼を射抜かれた温羅は、たまらず雉(きじ)に姿を変えて山中に逃げた。命は鷹となってこれ追う。すると温羅は鯉に身を変えて血吸川に飛び込んだ。吉備津彦命はすかさず鵜(う)となって、温羅をくわえて捕らえ、その首をはねたという。
 この伝説から、温羅が捕まった場所が鯉喰神社(岡山市)で、二者が放った矢がぶつかり合ったとされる場所が矢喰神社(倉敷市)として今に伝えられている。

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 討たれた温羅の首は、串に刺してこれを晒した。これが「首(こうべ)村(岡山市北区首部)」の地名由来となっている。ところが、何年たっても討たれ首は、時折目を見開いては大声を出し続け、止まることがない。吉備津彦命は家臣の犬飼武(いぬかいたける)に命じて、首を犬に食わせて髑髏としたが、それでも温羅の首は静まることがない。
 吠え続ける温羅の首を、吉備津彦命は吉備津宮の釜殿のカマドの地下八尺に埋めたが、その後13年間、うなり声は止まず、周辺に鳴り響いたという。

 ある夜、吉備津彦命の夢枕に温羅が現れ、「吾が妻、阿曽郷の祝(ほふり)の娘阿曽媛(あそひめ)をしてミコトの釜殿の御饌(みけ)を炊(かし)がめよ。若し世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸あれば裕(ゆた)かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現われ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」と告げた。
 命はそのお告げの通りにすると、温羅の唸り声も治まった。というわけで、お釜殿は温羅の霊を祀るものであり、温羅は吉凶を占う存在となったという。これが当社の鳴釜神事の起こりであるという。

 この吉備津彦命の温羅退治伝承が、のちに誕生する桃太郎伝説のモデルになったといわれている。桃太郎説話は室町時代に原型がつくられ、江戸時代中期から後期にかけて全国に普及した。吉備地方を桃太郎説話発祥の地とする決め手はないが、吉備津彦の温羅退治伝承が、桃太郎説話創作のヒントになったことは、まず間違いないと思われる。


南随神門から下ってくる全長360mの回廊。
天正7年(1579)に再建された。



中山茶臼山古墳
古墳時代前期の大型前方後円墳。全長約120m。
「御陵」と呼ばれ、吉備津彦命の墓と伝えられている。
宮内庁の管理下にあり調査・発掘は行なわれていない。
墓域から特殊器台型埴輪(片)が採取されている。




穴観音。


八畳岩(奥宮磐座)。


鏡岩。


環状石籬。

 吉備の中山を散策する前に、中山の南山腹にある「岡山県古代吉備文化財センター」を訪れる。展示室には、陶棺や人形埴輪、特殊器台などの県内の遺跡の出土品が展示されている。

 当センターの駐車場に車をおいて、ここから吉備の中山を散策する。遊歩道から170段の石段を上り広場に出ると、左手に大吉備津彦命の墓に治定されている「中山茶臼山古墳」(全長約120m)がある。社伝によれば、吉備津彦命は中山の麓の「茅葺宮」に住み、281歳で亡くなり、山頂に葬られたとある。こうした伝承から、現在「御陵」として宮内庁の管理下にあるが、具体的な被葬者については詳細不明である。 吉備津彦命の親である孝霊天皇が欠史八代の一人であることから、当然、吉備津彦命の実在にも疑問がもたれている。
 古墳の造られた時代、中山は「吉備の穴海」と呼ばれた海に浮かぶ島であり、古墳の南麓には海が迫っていたという。岡山市北区尾上にある「尾上車山(おのうえくるまやま)古墳」(全長約135m)と同じく、当古墳の被葬者も、この地域の大首長の墓と考えられる。

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【穴観音】
 中山茶臼山古墳の一角に、穴観音と呼ばれる自然石(花崗岩)の岩石群がある。本来は陵墓内の敷地で立ち入ることはできないが、ここだけ鉄格子の扉が設けられて自由に出入りすることができる。岩石群の一つに石仏が刻まれており、その左側面に、口径約20cm、 深さ約16cm、底径4cmほどの穴が彫られている。風化も激しく、何のための穴かは不明だが、この穴に耳を当てると観音様の声が聞こえるとの言い伝えが残されている。
 一説には平安から室町時代初期に造られたものといわれているが、穴観音の背後に古墳後円部の頂部があることから、古墳の埋葬者を拝む遙拝所であったと考えられている。

【八畳岩(奥宮磐座)】
「ダイボーの足跡」と呼ばれる窪地から数10m西に進むと、大小100を超える岩が並ぶ奥宮磐座群がある。八畳岩はこの磐座群なかでもっとも大きく岩で、高さ4m、奥行3m、幅10mほど。天井部が畳八畳ほどの広さがあることから八畳岩の名がついたという。この岩の根元部分から古墳時代から平安時代にかけてつくられた土師器(はじき)の破片がかなりの数発見されている。このことからも、この岩は神の依代として何らかの祭祀が行われたものと推測される。

【鏡岩】
 八畳岩から南西に約200mほど進むと遊歩道に沿って大小の岩が一列に並んだ場所がある。この列の最南端にあるのが鏡岩で、高さにおいては八畳岩を上回るほどの大きさだ。この岩の南面は鏡のように真っ平らであることからこの名がついたという。

【環状石籬(せきり)】
 「ダイボーの足跡」の東側、「お休み岩」の100mほど手前に環状石籬と呼ばれる岩石群がある。ストーンサークルともいわれているが、人工による石組みではなく、自然につくられた岩石群のように思われる。

【夫婦岩遺跡】
 環状石籬から「お休み岩」を経て、東に進むと夫婦岩への案内板が見える。この夫婦岩遺跡は、岡山市の遺跡一覧表に記載されながら、その所在は長く不明であったが、平成19年11月に「吉備の中山を守る会」のメンバーにより発見され、以降その周辺と散策道の整備が進められた。

 このあたりまでくると、人っ子一人いない寂しい山の中にいる気分になってくる。すでに足が棒になっている。最後の力を振り絞って40分強歩き、古代吉備文化財センターにたどり着いた。

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2015年4月27日 撮影

赤磐市の弥上古墳から出土した陶棺。
陶棺は古墳時代後期に近畿、中国地方で
多く使用された陶製の棺で、
その多くは古墳の横穴式石室から見つかっている。
陶棺の出土点数は、岡山県がダントツトップで、
全国出土数の約80%を占めるという。
(岡山県古代吉備文化財センター)



赤磐市の土井遺跡から出土した盾持ち人形埴輪
埴輪は古墳時代に登場した古墳を飾る素焼きの土製品。
盾持ち人形埴輪は警備をする兵士の姿を表している。
(岡山県古代吉備文化財センター)

夫婦岩遺跡。