吉備国(きびのくに)が、備前、備中、備後の3国に分割されたのは7世紀後半頃と考えられ、のちの和銅6年(713)に備前国から美作国(みまさかのくに)を分立された。備前、備中、美作が現在の岡山県、備後が現在の広島県東部にあたる。
吉備の中山は、備前、備中の国境にある独立した山塊で、東西約2km、南北約2.5km、周囲約8km。古来より神体山として信仰されており、平安前期の勅撰和歌集『古今和歌集』に「真金(まがね)吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川(ほそたにがわ)の音のさやけさ」と謳われ、清少納言の『枕草子』や『平家物語』にもその名が登場する名山である。
中山の東麓には、備前国一の宮の吉備津彦神社があり、西麓には備中国一の宮の吉備津神社がある。この2つの一の宮は、吉備の中山をはさんで、直線距離でわずか1.3kmの地点に鎮座している。一の宮どうしがこれほど近接した例は、全国でもここだけだといわれている。
中山の国境線は、北側を流れる細谷川から、宮内庁により大吉備津彦命の墓に治定されている中山茶臼山古墳、国史跡の尾上車山古墳の麓を経て、山裾を南に流れる境目川に至るラインとされている。吉備国の分割に際しては、神が宿る山と信じられていた霊山なので、備前も備中もこの中山を自分の国に欲しがっていたが、仲良く二等分することで諍いを解決したという。
吉備の中山には、吉備津彦神社の元宮磐座や奥宮磐座を始め、たくさんの祭祀跡や古墳が点在している。今回「吉備の中山」については、吉備津彦神社側と吉備津神社側の2回に分けて紹介する。 【次回「吉備津神社と吉備の中山(2)」を掲載予定】
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吉備津彦神社の祭神・大吉備津彦命は、第7代孝霊天皇の皇子とされ、第10代の崇神(すじん)天皇の命令で全国に派遣された四道将軍の一人として当地におもむき、この中山に陣を設けて吉備国を平定したといわれている。のちに大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが当社の起源とされている。
社伝によれば、創建は推古天皇の時代とされているが、『延喜式神名帳』に当社の名は記載されておらず、実際の創建年代は明らかでない。初見の記事は、平安末期の『永万文書』で、「吉備津彦神社は永万元年(1165)には神祇官を本所としていた」(『吉備の中山を歩く』岡山文庫)とあることから、当時から備前国一の宮として崇敬を受けていたと思われる。
戦国時代の永禄5年(1562)に、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元賢によって社殿を焼失され、のちの慶長6年(1601)に備前国主小早川秀秋によって再興された。江戸時代になると小早川氏に代わって岡山藩主の池田利隆の保護を得て本格的な再建が行われる。現在の本殿は元禄10年(1697)に池田綱政によって造営されたものである。
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吉備津彦神社に向かう参道の両脇に「神池」とよばれる大きな池がある。池には3つの島が浮かんでおり、随神門に向かって右側(北)に住吉神を祀った鶴島、左側(南)に宗像神を祀った亀島、その奥に五色島と呼ばれる小さな島がある。訪ねたときは、亀島から五色島にわたる石橋が崩れかけており、立入禁止になっていた。庭を整備されている庭師の方の許可を得て、そーっと石橋を渡る。
五色島の大きさは、およそ25m×12mほどの楕円形で、島の中央に約20個の自然石が環状に置かれている。神社の境内図には「古代祭祀場」とあるが、はたしてこの島が創建時に造られたものか、近世の再建時のものなのかが判然としていない。『全国「一の宮」徹底ガイド』恵美嘉樹(PHP文庫)には「神池は、飛鳥・奈良時代にはすでに造営されていた可能性も指摘されている」とあるが、規模が小さいだけに、作庭の折に配された石組みのように見える。私見では、環状列石は墳墓に関係した祭祀遺跡と考えているので、浮島にはふさわしくないと思えるのだが、いかがなものか。
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吉備の中山には、神社の南側にある「吉備の中山登山口」から登っていく。比較的なだらかな上り坂を約900mほど進んでいくと「元宮磐座・八大龍王へ0.3km、天柱岩へ0.5km」の案内が見えてくる。
【元宮磐座】
吉備の中山の北峰、龍王山の頂付近に、周囲を注連縄で囲まれた高さは1.5mほどの巨大が磐座が鎮座している。このあたりは木立も途切れており、ゆるやかな斜面に横たわる巨石は格好のメルクマール(目印)となっている。
説明板には「神社の社殿がまだ無かった古い時代、人々は自然の大きな岩や崖に神様が鎮座されていると考え、これを磐座としてあがめ奉った。吉備津彦神社では、この岩は神社が建てられる以前の元のお宮と考え、元宮磐座の名前を付けて大切にお祀りしている」とある。吉備津彦神社では、毎年5月第2日曜日に「磐座祭」を執り行い、元宮磐座に神饌を供え、他の磐座や古墳などを巡拝している。
【八大龍王】
吉備の中山の最高峰、標高170mの龍王山山頂に、八大龍王を祀る龍神社(龍王神社)があり、吉備津彦神社の末社となっている。龍神は雲をあやつり雨を降らせる力をもつとされ、貞観(859〜877年)の頃、備前、備中の国司を歴任した藤原保則が、龍神社で雨乞いの儀式を行ったことが伝えられている。
横に広がる石の祠は、長さ約4m、側面32cm、基壇を含めた高さ63cm。4つに分かれた表面には、それぞれ2個、計8個の丸い穴が開けられている。この祠は、岡山の商人常磐屋(ときわや)が、天明の大飢饉(1782〜1788)のときに奉献したもの。
【経塚遺跡】
八大龍王を挟むような形で南北に2つの経塚がある。この経塚からは粘板岩製の外容器に納められた、長さ約22cm、径10cm、蓋の高さ4cmの鋳銅製の経筒が出土している。銘文はないが、鎌倉時代のものと推定されている。発掘された2つの経筒は、雨乞い祈祷の際に経塚から取り出して、龍神に水を供える斎器として用い、使用後は元の場所に埋葬されていたという。この内の1個は明治10年頃に盗み去られ、その行方は分かっていない。残された1個は、現在吉備津彦神社蔵として岡山県立博物館に保存されている。
【天柱岩(権現岩)】
八大龍王から元宮磐座に引き返し、西に約100m下っていくと、急な坂道のための鎖場もどきのロープ場がある。一歩一歩慎重にロープを伝って降りていくと、山の斜面から突き出た大きな岩が見えてくる。
この岩について、吉備津彦神社に伝わる文化11年(1814)の絵図には「権現岩」とあり、古文書『備前州一宮密記』には「権現の神座(しんざ)」と称されている。「天柱岩」と呼ばれるようになったのは、近年のことで、吉備津神社の北東にある福田海(ふくでんかい)を開いた中山通幽(つうゆう)が、昭和9年頃に江戸末期の備前吉永の漢詩人で医師でもあった武元登々庵(たけもととうとうあん)の書をもとに、岩に「天柱」の2字を刻んだことによる。
この天柱岩が、古代より神が降臨する磐座として信仰されていたのであれば、どれほどりっぱな文字であっても、石に文字を刻む行為は無粋なものに思えてくる。磐座は自然のままの姿で残してほしい。
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2017年4月25日 撮影
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吉備津彦神社の神池。
龍王山山頂から眺めた岡山市内。 中央に見えるのは岡山ドーム。
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