博士論文 「ゴムのアヒルと一緒なら平気」

 2010年、マリレット・フォン・デル・コルフ(Marilette van der Colff)の博士論文 One Is Never Alone with a Rubber Duck: Douglas Adams's Absurd Fictional Universe が出版された。概要は以下の通りだが、翻訳したのは素人の私なのでとんでもない誤読をしている可能性は高い。そのため、これはあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


Table of Contents 

Chapter One
That's Just The Way The Cookies Gets Completely Stomped On And Obliterated...
1.1. "Hang the sense of it" and join a flying party
1.2. "That hoopy Douglas Adams....Now there's a frood who knew where his towel was"
1.3. Why the Hitchhiker books?
1.4. A Summary of the Hitchhiker books
1.5. "This is the way the world ends..."

Chapter Two
Reason Is In Fact Out To Lunch...

2.1. Attebery's "functions of fantasy"
2.2. The fabric of functional fantasy
2.3. "Arresting strangeness"
2.4. "Primary reality" versus "dreamscape"
2.5. "Primary realities", "dreamscapes" and the "malignant genius"
2.6. The concept of "fuzzy sets"
2.7. The Hitchhiker books as functional fantasy

Chapter Three
Aliens and Existential Elevators

3.1. "Angst"
3.2. "Nothing Happens"
3.3. "Being and nothingness"
3.4. Being in a bubble
3.5. Sisyphus
3.6. Improbability
3.7. "Being and nothingness" in the Hitchhiker books

Chapter Four
Roma Wasn't Burnt In a Day

4.1. "Tone deaf and colour blind"
4.2. Adams's satirical style
4.3. "Our vice and folly shaped into a thing"
4.4. "Telling the truth with a smule" --Invective, zeugma, burlesque
4.5. Satirical theme in the Hitchhiker books
4.6. That is indeed the way the cookies get stomped on

Conclusion
"Some unhelpful remark" about things that have been said already


Chapter One
That's Just The Way The Cookies Gets Completely Stomped On And Obliterated...

「銀河系は愉快なとこだぜ。そうだ、この魚を耳に入れといたほうがいい」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 76)

1.1. "Hang the sense of it" and join a flying party

 ダグラス・アダムスの宇宙へようこそ。

一説によると、この宇宙がなんのためにあるのか、またなぜここにあるのか、それをだれかが正確に突き止めてしまったら、宇宙はたちまち消え失せて、いまよりもっと変てこでわけのわからないものに変わってしまうという。(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 5)

 これが『銀河ヒッチハイク・ガイド』の宇宙だが、同時に私たちの宇宙でもある――それが、アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの美しさだ。
 では、アダムスによると、この変てこな宇宙はどのように機能しているのだろうか。まず、そもそも「一つの宇宙」ではなく「多元的宇宙」であって、変てこさも一つではなく無限にある。次に、多元的宇宙の中で自分がどこに住みたいかを選ぶことはできない。勿論、人間がいいかヴォゴン人がいいかを選ぶこともできない(この二つの種族に違いがあるとしての話だが)。それから、多元的宇宙とたまたまその中に存在するすべての生命には、何の意味もない。と、宙吊りの気分になったところで、空飛ぶパーティに参加することにしよう。

1.2. "That hoopy Douglas Adams....Now there's a frood who knew where his towel was"

 ダグラス・ノエル・アダムスは、デビュー作『銀河ヒッチハイク・ガイド』(1979年)の著者として知られているが、もともとはラジオドラマとして派生したものであり、続く『宇宙の果てのレストラン』(1980年)、『宇宙クリケット大戦争』(1982年)、『さようなら、いままで魚をありがとう』(1984年)、『ほとんど無害』(1992年)へと発展していく契機となった。『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの他にも、アダムスはダーク・ジェントリーを主人公にした小説を2冊上梓している。『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』と『長く暗い魂のティータイム』だ。ダーク・ジェントリー・シリーズは、ファンタジーとSFと神話とコメディと伝統的な探偵小説を混ぜ合わせたものである。アダムスがかかわった仕事としては、適切な言葉を持たないものごとを定義づけるための辞書編纂も含まれる。The Meaning of Liff(1983年)は、ジョン・ロイドとの共著であり、The Deeper Meaning of Liff - A Dictionary of Things There Aren't Words for Yet(1990年)という改定版も作られたが、これはシニフィアンとシニフィエの間にあるランダムな関係性にアダムスが強く関心を寄せていたことの証だろう。The Meaning of Liff では、なぜか未だに名前がついていないけれどみんなが大いに馴染みのある感情や出来事に、単語が与えられる。たとえば、"abercrave" は「バスの後部入り口のポールを掴んで回転したい気持ち」の意味で、"duddo" は「そこにあるいくつかのジャガイモの中でもっとも変な形のジャガイモ」を意味する。
 アダムスの作品の中には、エコロジーや社会意識への強い関心が反映されているものもある。1989年7月から1989年4月にかけて、アダムスと動物学者のマーク・カーワディンはインドネシア、ザイール、ニュージーランド、中国、そしてモーリシャスを旅行し、コモドオオトカゲやロドリゲスオオコウモリ、ヨウスコウカワイルカといった絶滅危惧種の動物についての本、『これが見納め 絶滅危惧の動物たち、最後の光景』(1990年)を出版した。M・J・シンプソンによると、この本はアダムスの一番のお気に入りであるだけでなく、一番よく書けている、とのこと。アダムスいわく、

この企画に興味をもった理由の一つは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズを書いている時、日常のありふれたものが新鮮に思えるような、異なる視点を探し続けていたからだと思う。で、ある日突然気づいたんだ。世界中の動物たちは、全く異なる近くシステムを持っており、私たちが見ている世界は私たち特有のものであって、他の動物たちの視点ではまるっきり別の場所なんだってことに(Simpson, 2003: 250-251)。

  以上の作品の他に、アダムスの死後の2002年、死の直前まで書かれていたダーク・ジェントリー・シリーズの小説の11章分や、短編小説、手紙、記事などを集めた The Salmon of Doubt -- Hitchhiking the Galaxy One Last Time が出版された。彼の洞察力に満ちた言葉がこんなにも早く聞けなくなったことは残念だ。アダムスの作品を讃える多くのウェブサイトやフォーラムを見れば、いかに彼の洞察力が強く希求されているかわかる。毎年、5月25日には「タオル・デー」と称して世界中のファンが著者を追悼する。タオル・デー・フォーラムでは、「偉大なる人」「フーピィなダグラス・アダムス……タオルのありかをわきまえているフルード」を追悼し、タオル・デーにはどこにでもタオルを持ち運ぶ世界中のファンたちを呼び寄せている。
 ダグラス・アダムスのような多様多才な人の業績を要約する作業は、不可能ではないにしても複雑なものになるだろうから、簡単な紹介にとどめておこう。ダグラス・アダムスは、1952年3月11日、ケンブリッジで誕生した。アダムスは後に自分のことを「神経質な子供で、落ち着きがなく、自分の世界にこもりがちだった」と述べている。加えて、「4歳くらいまで言葉を話せなかった。心配した両親は、聾唖や学習遅滞の検査を受けさせた」(Simpson, 2003: 6)、とも。Don't Panic--Douglas Adams and The Hitchhiker's Guide to the Galaxy の中で、アダムスの友人でもあったニール・ゲイマンは、いかにもゲイマンらしい語り口調で、「ダグラスは、ちょっと変わっていて、ひょっとすると知恵遅れかもと思われていた」(Gaiman, 2003: 3)と書いている。ゲイマンによると、アダムスは自分のことを、目を開けていても街灯柱にぶつかる子供のようだと考えていた。
 後に明らかになるように、アダムスは実際に「自分だけの世界」の住人であり、一時期、自身のドットコム組織で「チーフ・ファンタジスト」に任命されていた。とは言え、彼が残した愉快かつ哲学的な本の数々をみれば、彼が学習遅滞だったとはまずもって考えられない。
 1971年、アダムスはケンブリッジ大学に進学し、英文学の学士号と修士号を取得した。数々の哲学的なアイディアに触れたわけで、そんな彼を単なるエンタメの人とみなすべきではない。アダムスが大学生だったのは、1970年代と1980年代の間で巻き起こったいわゆる理論闘争の時代であり、その頂点とも言えるのが1981年に起こったコリン・マッケイブのスキャンダルである。マッケイブは、「大学の中、それも英文学部の中で生み出された、情報に特化し、識別力があり、高度な訓練を積んだ知的エリートがイギリスの生活と文学の文化的連続性を保持し続ける」(Drabble and Stringer, 1996: 330)ことの重要性を強調するリーヴィス的な文学研究のアプローチに反対した。F・R・リーヴィスは、英文学における知性重視の姿勢は、マスメディアやポップカルチャーによって脅かされていると信じていた。アダムスは「高度な訓練を積んだ知的エリート」畑の人であるけれど、彼が参加することを決意した学部生のみ所属可能の「フットライツ」は、ある種のカウンターカルチャーを体現していた。この組織は、学術理論や知的偏重をポップ・カルチャーやアイロニーや自虐ネタへとシフトさせることの象徴だった。知的偏重とポップ・カルチャーという両極端なものを浴び続けたことで、アダムスは口当たりのよい形で哲学と関わることができたのだった。
 アダムスのアイドルであり、モンティ・パイソンのスターであるジョン・クリーズもフットライツのメンバーであり、フットライツが体現するカウンターカルチャーの支持者だった。アダムスはイギリスのラジオのコメディ番組の大ファンで、「おもしろい人、というのは、ある意味、頭のいい人が自分自身を晒すやり方にもなりうる」し、そのやり方だと、「同時にものすごいバカにもなれる」(The Salmon of Doubt -- Hitchhiking the Galaxy One Last Time, xxi-xxii)と語っている。ケンブリッジ在学中のアダムスのスケッチは、「突拍子もない」とか「個性的」(同、xxii)と言われて、それは彼独自の素晴らしく不条理な想像力によって形作られたものだった。アダムスの作品には不条理の要素が満ち溢れており、しばしば不条理演劇の一場面を思い出させた。ちなみに、アダムスの曽祖父の一人でドイツの俳優兼監督のベンジャミン・フランクリン・ヴェデキント(1864-1918)は、不条理演劇の先駆者であり、自身の作品に歪んだセットや噛み合わないセリフやカリカチュアを取り込んでいた(Simpson, 2003: 7)。アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズには、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』とよく似たキャラクターやシチュエーションが登場するし、彼のキャラクターたちは物事の意味を見つけようと空しい企てをしたり、基本的に無意味な多元的宇宙の中で自嘲したりと、しばしば狂気の様相を帯びている。
 ケンブリッジ大学を卒業し、いくつかの不条理スケッチを製作した後、アダムスはしばらくの期間、モンティ・パイソンのメンバーの一人であるグレアム・チャップマンと仕事をした。彼らの共同作のうち、Out of Tree と名付けられたテレビのコメディ番組では、「花を摘む男が出てくる。ほんのちょっとした行為が、一連の事件の引き金となる。警察が文句を言い、消防隊が登場し、ついには軍隊まで出動してきて、最終的に地球が吹っ飛ぶ」(Bbc.co.uk, 2005)。が、Out of Tree の脚本はあまり良い出来ではなく、アダムスはまだ経験が浅くて「モンティ・パイソンの猿真似」(Simpson, 2003: 64)だったらしい。
 結局、ユーモラスなスケッチを書こうという試みも、グレアム・チャップマンとの共同製作も、不首尾に終わる。だが、グレアム・チャップマンと仕事をしている期間も、アダムスは自分の執筆の腕に磨きをかけており、1978年にラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』が始まると、彼は極めつけに頭のよいキャラクターを使ってコミカルな言葉を書けることを証明した。ラジオドラマが放送されてからほんの数ヶ月の間に、アダムスはラジオドラマ第2シリーズとテレビドラマと小説第1作目を執筆する。彼は原稿の締め切りを守るのがいつも苦手で、「私は締め切りが好きだ。締め切りが通り過ぎて行く時に立てるヒューヒューという音がいい」という言葉を残した。というわけで、可能な限り早く原稿を仕上げるようにと、しょっちゅうホテルに缶詰にされていた。それでも、彼は生前に9冊の本を書き上げている。
 1992年以降、アダムスの執筆量は激減した。なぜ? ユングの自我のサイクル論でいうところの「内省期」に突入し、内なる自分を見つめ直す「マンダラの季節」(Boeree, 2006)だったから、だろうか。でも、この時期のアダムスは精力的に講演活動を行い、デジタル・ヴィレッジという会社をロンドンで立ち上げて先進的なコンピュータ・ゲームを製作した。つまり、彼はアカデミックな環境に片足をつっこみつつ、もう一方の足でポピュラー・カルチャーやマルチメディアの世界を固く踏みしめていたのだ。
 アダムスの見果てぬ夢の一つが、映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』を作る手助けをすることだった。1999年、彼は夢の実現に向けて映画産業の拠点サンタバーバラへと引っ越す。しかし、これは悪手となる。2001年5月11日、ダグラス・アダムスは運動中の心臓発作で突然死し、世界中のファンが心を打ち砕かれた。イギリス時間の2001年5月16日午後7時30分、アダムスの遺体はサンタバーバラでタオルと共に火葬された。その時刻には、世界中のファンが紅茶や汎銀河ウガイバクダンを模した飲み物で追悼したという(Bbc.co.uk, 2005)。The Unravelling of DNA: Douglas Noel Adams, 1952-2001の中で、ティム・ウィン=ジョーンズは、「締めにあたり、最後から2番目に書かれた本のタイトルを引用して、今の彼がどの次元にいようとも、最大級の愛をこめてタオルを振り、「さようなら、いままで魚をありがとう」と言おう」(2001: 632)

1.3. Why the Hitchhiker books?

 この論文で『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズしか分析しないことに疑問を持たれるかもしれない。たとえば、どうして『ダーク・ジェントリー』シリーズの小説ではダメなのか? そりゃ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの本を選んだのにはいくつかの理由がある。まず(当然ながらもっとも客観的な理由だが)、これらの本がアダムス独自のコミカルな声を一番よく反映しているから。次に、ファンタジーの機能(詳しくはのちほど)を分析するのに適しているから。第三に、実存主義者の哲学と人間の条件の不条理さについて、明示的かつ暗示的に言及しているから。それから最後に、このシリーズが現代の風刺の素晴らしい一例となっているからである。

1.4. A Summary of the Hitchhiker books

 アダムスのプロットは急展開しがちで、複数のありえなさの層で成り立っている。プロットはあまり重要視されていないのだが、それでも『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ全5作それぞれを要約すれば物語の流れを明確化できる。この論文では、『銀河ヒッチハイク・ガイド』30周年を記念して2009年に出版された、オーエン・コルファーによる「どちらかというとあまり望まれていなかった」『新 銀河ヒッチハイク・ガイド』にも時々言及する。そのため、この本についても要約を追加した。

1.4.1. The Hitchhiker's Guide to the Galaxy
1.4.2. The Restaurant at the End of the Universe
1.4.3. Life, the Universe and Everything
1.4.4. So Long, and Thanks for All the Fish
1.4.5. Mostly Harmless
1.4.6. And Another Thing...Douglas Adams's Hitchhiker's Guide to the Galaxy--Part Six of the Three (By Eoin Colfer)

 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの要約。

1.5. "This is the way the world ends..."

 コルファーによる続編で、地球はまたしても破壊され、言ってみればボタンのひと押しでさまざまな仮想の存在が粉々に砕け散った。『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズでは、いつもの終わり方とも言える――単なるドカンではなく、もっと大きなドッカンだ。突き詰めて言えば、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は私たちにこの世界を見せてくれることに成功した――私たちも知っている通りこの世界は欠陥だらけだ、というだけでなく、もっと他の世界や内なる世界が存在する可能性を。
 ということで、続く3つの章で、何か重要なことをお伝えできるよう願っている。

Chapter Two
Reason Is In Fact Out To Lunch...

 ブライアン・ アトベリーやツヴェタン・トドロフ、ローズマリー・ジャクソン、アーシュラ・K・ル・グウィンといった人々による理論的な著作は、ファンタジーやSFの分野に大きな影響を与え続けている。ファンタジーの分野でのこれらの理論や所見は、(私の理解する限り)ニール・ゲイマンの『アメリカン・ゴッズ』からカフカの『変身』にまであてはめることができる。
 この章では、いくつかの現代のファンタジー小説を、アトベリー、トドロフ、ジャクソン、ル・グウィンが提唱した理論を念頭において読み解き、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』を分析するための前段階としたい。『銀河ヒッチハイク・ガイド』におけるファンタジーに関連するテーマとして、夢(デカルト)、シミュレーション(ボードリヤール)、狂気(フーコー)についても取り上げる。

2.1. Attebery's "functions of fantasy"

 ブライアン・ アトベリーは、文学におけるファンタジーの様式について次のように問うた。

J・R・R・トールキンは、「修飾語と名詞をいったん切り離し、それを再び結びつけて、緑の太陽や空を飛ぶ蛇を作り出す」といったが、そのようにファンタジーは本来言語の働きによるものであるのか、あるいはそれは、心理的な抑圧がもたらす堪え難い現実を隠蔽しようとすることから生まれるといえるのか。それともそれは、経済学が説明するように、革命への衝動を不満を持つ芸術家のそれに置きかえたものなのか。あるいはそれは、文学の進化によるもので、古くなったジャンルが、自分では気づかない内部矛盾によって覆されていくことから生まれるのか。それともそれは一種のゲームなのか。脳が自らを体系づける仕組みの一つの反映でもあるのか(『ファンタジー文学入門』、p. 26)。

 アトベリーは、これらの疑問に対し、言語について取り扱っているファンタジーもあれば、心理の過程を表しているものもある、と回答した。社会を映す鏡となっているファンタジーもあるし、著者自身の、あるいは社会の哲学と交流しているものもある(1992: 5)。アトベリーが言うところの「ファンタジーの機能」は、ポピュラー・カルチャーやグラフィック・ノベル、ハイカルチャーをも含む、さまざまなストーリーの中に表れるようだ。
 たとえば、ニール・ゲイマンとデイヴ・マッキーンのグラフィック・ノベル『ミラーマスク』では、ヘレナ・キャンベルは自分が描いた絵の通りに出来上がった世界を夢見ることで、「堪え難い現実」をごまかそうとする。彼女は自室の絵を作り出すように、夢の世界を作り出し、管理している、とも言える。夢の中で、彼女は二人の少女になる。一人はホワイト・クイーンの娘で、もう一人はミラー・マスクの裏の顔である、邪悪なダーク・クイーンの娘だ。「光の街と影の荒野の間には、境の公園がある。それが夢の公園だ。ちゃんと描写できる気がしない。だって夢のようなものだから」(2005: ページなし、グラフィック・ノベル)。ヘレナは、自身のファンタジー世界をデザインする。「夢なら、私は小さい建物を入れよう――小さな白いドームで――真ん中にプールがあって――前にこの場所を絵に描いた時のように。壁に貼った絵の中に、ドームがあった。だから、そこにあるってわかってた……」(2005: ページなし、グラフィック・ノベル)。やがてヘレナは気づく。「生きることは、何かの人形みたいに、逃げ場なしの状況に備えることじゃないと思う」。敵が「本当の人生が欲しい」と言うと、彼女はこう切り返す。「本当の人生? そんなもの、あなたの手に余ったじゃない」(2005: ページなし、グラフィック・ノベル)。
 ヘレナの人格のある一面は、「ごまかそうとした」夢の世界へ這い戻ることを望み、別の面はこれが本当の現実だとわかっているもののほうに向き合いたいと望んでいる。このグラフィック・ノベルは、「人間はあまり多くの真実には耐えられないのです」(T・S・エリオット「四つの四重奏」、p. 48)ことを示しているのではないだろうか。このようなグラフィック・ファンタジーは、矛盾しているようだけれど、私たちが見ないふりをしようとしている現実をよりよく理解するためのガイドとなる。
 ブルーノ・ベッテルハイムは、著書『昔話の魔力』の中で、「白日夢にうつつを抜かし、反芻し、組み替え、空想する……」(1976: 7)ことを通じて、意識と無意識の自我の理解を達成すると主張する。意味づけをし、現実を把握したいという衝動は、ファンタジーの形式の中ではよく見られるものだ。アーサー・C・クラークの『遥かなる地球の歌』で、カライナは惑星サラッサとつながる細いリボンを耳に入れ、惑星の上空3万キロのところには巨大な宇宙船マゼランが浮いている。その音は、宇宙の中心にある空っぽで無意味な隙間を彼女に思い起こさせた。

 初めのうちは、天体の間に弦を張った巨大なハーブから出る、最も低い音を聞いているように思えた。……それを聞けば聞くほど、人けのない渚を打つ果てしない波を連想した。宇宙の海が、あらゆる天体の岸辺を洗っている感じだった――やるせない宇宙の空虚に反響する無意味な空しさに、恐怖を掻きたてる音だった。(p. 315)

2.2. The fabric of functional fantasy

 ダグラス・アダムスのファンタジーは、物事の意味を見出したり、おなじみの世界を再認識したり、現実の骨組みを反映させる架空世界を創り上げたりすることで、根本的なレベルでの理解を試みるための手段と言えるかもしれない。
 アダムスのストーリーは、アトベリーが呼ぶところの「ファンタジーの様式」を引き起こす。それが「言語の様式としてのファンタジー」であり、例えば、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズではしばしばシニフィアンとシニフィエの間の恣意的な関係性が炸裂する。例えば、スコーンシェラス・ゼータ星に棲息する知能を持ったマットレスは、「フロロップ」し、悲しいニュースを耳にすると「グロバー」し、時々これといった理由もなく「ヴォリュー」する(安原訳『宇宙クリケット大戦争』、pp. 84-85)。アダムスの「スコーンシェラス・ゼータ星の湿地帯での会話」は、意味の恣意的なコードを無視して、シニフィアンとシニフィエが別の概念となるファンタジーの領域を反映している。また、アダムスのファンタジーは人間心理の迷宮、狂気に意味を見出すという、もっとも強力な欲求にも踏み込んでいる。
 だが、アダムスのファンタスティックな設定やキャラクターは、20世紀の精神を持つ哲学者と同様に、現代の社会のダイナミクスについても深い提言をしている。だからこそ、彼のファンタジーは、離れたところからむき出しで荒涼とした社会を眺めるために、「この世界から読者を異化する様式」という、もう一つ別の様式にも寄与する。
 ということで、アダムスの「現実」へのコメントは、お分かりの通り、堪え難いものであると同時に耐えられるものでもある。しかし、彼は、夢や幻想から生まれたもう一つの「現実」にも足を踏み入れる。世界的に輝かしい評価を受ける作家の一人、J・R・R・トールキンは、エッセイ「妖精物語について:ファンタジーの世界」で「もう一つの現実」について次のように述べた。

 もちろん、「空想」は、まずその出発点において、ふしぎさをとらえるという利点を持っている。 しかし、この利点がかえって仇となり、「空想」の不評判をかってきたのだった。人々の多くは「とらえられる」ことを好まない。人々は、「第一の世界」をかきまわされることは、何によらず好まないのである。なじんでいるのは、この世界のほんの一部でしかないのに、人々はそれを己が世界のすべてだと思っている。そこで愚かにも、また敵意さえ抱いて「空想」と「夢」をわざと混同するのだが、「夢」には技巧はいらない。また人々は、これと同様、「空想」を妄想や幻覚などの精神異常とも混同するが、それらのなかには、技巧どころか、抑制力さえないのである。(pp. 100-101)

2.3. "Arresting strangeness"

 物語のリアリティと「ふしぎさをとられる」ことの意図について少し考えてみよう。「ふしぎさをとらえる」とは、実のところ、何をほのめかしているのだろう。完全な異世界で「私たちのリアリティ」とは切り離された夢の光景のことだろうか。ファンタジーの断片とリアリティの断片を混ぜ合わせたものだろうか。ツヴェタン・トドロフは、著書『幻想文学――構造と機能』の中で、「幻想文学の肝」は「現実か夢か、事実か幻覚か、この曖昧さは、物語の結末まで持続」(トドロフ、p. 40)することと定義づけ、この問いに答えを出そうとした。トドロフが考えるところの純粋な幻想文学とは、物語の中の出来事は現実とみなすべきかそれとも幻想とみなすべきか、その両義性に基づいている。

確かにわれわれのものである世界、悪魔も空気の精も吸血鬼もおらず、われわれのよく知っている世界、そうした世界でひとつのできごとが起る。ところがこのできごとは、馴れ親しんだ当の世界の法則では説明不能なのである。そのようなできごとを知った者は、考えられるふたつの解釈のいずれか一方を選ぶほかない。すなわち、すべてを五感の迷妄にして想像力の産物であるとしてしまえば、世界の法則は手つかずに残る。さもなければ、そのできごとが本当に起ったのであって、現実の一部をなしていると考えるほかないのであるが、そうすると、この現実がわれわれの識らない法則に支配されていることになろう。(pp. 40-41)

 トドロフに言わせれば、純粋な幻想文学の肝は、物語の現実が本当はどういう性質のものなのか、読者にその答えを与えないことにこそある。物語の中で登場人物が夢を見ているだけなのか、それとも本当にその通り体験していることなのか、最後まではっきりと明かされない。もっと言えば、登場人物自身も現実かどうか不確かに思えるような体験をするかもしれず、「読者の役割は、当の作中人物にいわば委ねられているのであり、それと同時に、ためらいもまたテキスト内に表象されることとなる。つまり、当の作品のテーマのひとつとなってくる」(p. 53)。読者は、物語の中で起こることが本当なのかどうか確信が持てない登場人物たちに共感するのだ。
 登場人物なり読者なりが夢か現実かの間の不確定さに答えを見つけ出すことができたとしたら、そのような作品は、敬意をこめて驚異というか怪奇として、ファンタジーのサブジャンルに定められるだろう。「幻想というものを検討しようとすれば、それが一部で重なり合っているふたつのジャンル、すなわち、驚異と怪奇のことを無視するわけにはいかない」(p. 71)とトドロフは主張する。
 「驚異」モードで書かれた物語の一つであるJ・R・R・トールキンの『指輪物語』は、明らかに超自然的な出来事に分類される。「驚異的ファンタジー」の中で起こる出来事は、我々が概して知っている自然法則とは劇的に異なる法則で説明される。ファンタジーのこのモードの特徴は、読者と物語世界の住人たる登場人物の両方から、超自然(天使とかボビットとか吸血鬼とか狼人間とか妖精とか、その他もろもろ)が受け入れられていることである。
 その一方、ローズマリー・ジャクソンによると、「幻想文学の不気味モード」は、「心をかき乱すような強力な推進力」(「幻想文学――転覆の文学」、p. 79)を指し示す。「不気味」の中では、超自然的な出来事は、常軌を逸した心理状態によって説明がつく。ジャクソンは、「不気味」の物語について、「主人公の精神が歪まされ、歪まされているがゆえに異様さが醸し出されることになる」(p. 51と言う。
 トドロフもジャクソンも、ファンタジーのサブジャンルにはっきりとした境界を打ち立てようとするも、両者が重なり合う余地を残している。私が思うに、これらのジャンルはもっと複雑に関連し合っているのではないか。誰かにとっての「リアル」とか「真実」は、別の誰かにとって「錯覚」や何かになりうる。「夢の世界」や「幻想」のように見えるものも、誰か別の人にとっては根源的な「現実」たりうる。あるいは、物語の中の出来事や登場人物が「幻想」のように思えても、それがやがて別の登場人物の「現実」になるかもしれない。

2.4. "Primary reality" versus "dreamscape"

 そもそも、「一次的な現実」と「夢の世界」がそのように入れ替わってみえるとしたら、両者をきちんと区別することができるのだろうか? ルネ・デカルトは、夢について、人を不安に陥れるような問いをした――今この瞬間も、あなたは自分が夢を見ているだけではないと確信が持てるだろうか? 『省察I』の中で、デカルトはこのように論じる。

 ……言ってみれば私とて人間なのであって、夜は眠り、そして睡眠中に〔夢のなかで〕は、そうした狂人たちが目ざめているときに夢想するのと同じことのすべてを、あるいはまた時折はそれよりもいっそう真実らしからざることを夢想する、のが常であるのではなかろうか。実のところ[はしかし]、どれほどしげしげと、夜の眠りのなかで、自分がここにいて、服を着込んで、炉辺に坐っている、といった平素の慣わしをそのまま信じこんでしまっている〔ということが私には起こった〕ことか、私がしかし[それでも]着物をぬいで床のなかに臥っているというその時に。……とはいえ、私は、またこの類の〔幻の〕思いによっても私が別のときには睡眠中に〔夢のなかで〕だまされたことがあるのを、想い起こさぬというわけにはまずゆかぬのであって、これらのことをいっそう注意深く思惟する際には、覚醒は睡眠からけっして確実な標識によって区別されることのできないということがよくわかり、そのために私は呆然としてしまって、〔私の〕この驚愕といったらそれこそは、[今私がここにいて、服を着込んで、炉辺に座っている、ということも]夢であるとあわや私に思い定めしめかねない〔ようなものである〕、というほどなのである。(「第一省察」、p. 31)

 デカルトが言っているのは、自分が夢の中で夢を見ているのかどうか確証を持つことは不可能だということだ。ある時点で夢かどうかの判別ができないとしたら、自分の人生全体が鮮明で首尾一貫した夢を見ているだけではないと言い切れない。「実際そこでは、人間はみな自分の卵形の容器の中で眠っている」(ローランズ『哲学の冒険』、p. 63)。デカルトが夢について言及したことは、今日では「水槽の脳」仮説としてしばしば言及される。SF映画では、「マトリックス」(ウォシャウスキー兄弟監督)や「13F」(ジョセフ・ラスナック監督)など、人気のテーマだ。
 『夢の劇場』(The Theatre of the Dream)において、ソロモン・レズニックは夢を次のように定義した。

夢は複数の要素からなる入り組んだ景観である。家や、橋や、具象的もしくは抽象的なものの欠片から成っていて、多重性に基づく世界、慣習的な規則を無視し、独自の路線を創り出し、非現実的な法則に支配された世界の様相を呈する……(1987: 135-136)

 夢を支配する法則が「現実」か「非現実」かは問題ではない。先の述べた通り、「現実」と「幻想」の区別は非常に主観的なものだからだ。大事なのは、夢というのは、夢をみている人が好きなように再創造することができ、かつ、夢の中ではそれが実際の出来事だと思っている、という見解である。この考え方は、意味とは主観的な意味――個人の精神の中で作り出され、構築され、夢想されたもの――でしかない、という実存主義の論理にかなり近い。主観的な意味が夢や幻想で形作られている、というのは重要な論点であり、夢における「非現実」と「現実」の区別をあいまいにすると考える。

2.5. "Primary realities", "dreamscapes" and the "malignant genius"

 ヨースタイン・ゴルデルの哲学的なファンタジー小説『カードミステリ――失われた魔法の島』は、先に述べたようなデカルトの問いを上手に取り上げている。この物語では、フローデという名の老人が、たった一人、難破してたどり着いた島で50年も暮らしている。痛々しい孤独の末に、彼はカードで延々と一人遊びをし、やがて退屈から逃れるためにそれぞれの小さなカードをキャラクター化するようになる。「あんたにはわからないだろうが、長い長い間、たった一人でいるというのは、なんともつらいものだ。果てしない沈黙の時間! ……島に着いて数日たつと、わしは独り言を言い始めた。二、三カ月もすると、トランプのカードに話しかけるようになった。カードをまわりにぐるりと置いて、血と肉でできた普通の人間に見たてて、遊んだこともあった」(p. 186)
 ある日、フローデは、自分の想像上のカード人間たちが、彼の精神の外側で、独自に生き始めていることに気づく。彼の最初の反応は、もちろん、自分は夢を見ているにちがいない、というものだった。小説の次の数節は、フローデが自分の人生がとても鮮明な夢なのではないかと考える辺り、デカルトを想起させずにおかない。

「その前の晩は、特にはっきりとした夢を見た。朝早く、わしは小屋を出て、朝霧の中を歩いていた。太陽が山の端から顔を出した。そのとき、東の山の峰から人が二人、歩いて来るのが見えた。ようやく島へ人が来たんだ、とわしはおもった。早く会いたくて、駆け出した。だが近づいてみて、心臓がでんぐり返りを打つほど驚いた。それは、クラブのジャックとハートのキングだったのだ。
 とっさにわしは、まだ小屋の中で眠っていて、二人に出会う夢を見ているんだと思った。だがはっきり目覚めているということも、確かにわかっていた。だが、眠っている間に、起きていると思うこともよくあったから、ますます、何がなんだかわからなくなった。……たとえ新しい友人たちと暮らし、一緒に村を作り、畑を耕し、食べ物を作り、一緒に食べていても、まわりの人たちは現実なのだろうかと、絶えずわし自身に問い続けてきたのだ」(pp. 188-191)

 前章で書いた通り、ニール・ゲイマンとダグラス・アダムスは友人だった。現実味のあいまいさについて探求した現代のファンタジーとして次に取り上げるのは、ゲイマンの『ネバーウェア』だ。リチャード・メイヒューは、魔法と怪奇が生まれる「下ロンドン」から戻ってくる。しかし、現実のロンドン――「上ロンドン」――は、都市の暗い腹の中に比べると、突如として現実味を失ってしまった。

 轟は車の騒音で、リチャードはトラファルガー広場をくぐる地下通路から出てきた。空は完璧な雲ひとつない青、電波のこないチャンネルに合わせたテレビのブラウン管の色だった。……自分は本物なのだろうかと考えながら、リチャードは広場を歩いていった。(p. 286)

 この文章の中で、空は「電波のこないチャンネル」のテレビ画面に喩えられている。これは、ゲイマンの子供向けファンタジー『コララインとボタンの魔女』で「もう一人の母親」が創り出した「非現実の」世界の「牛乳っぽい白」や、SF映画「マトリックス」におけるプログラムが流れ続ける虚無と呼応する。下ロンドンでの体験後、リチャードの素朴な現実感は、空疎な、ファンタジーが跋扈する白紙状態に変化してしまった。
 デカルトは、自分の人生が実はただの夢だったという可能性だけでなく、世界観そのものが歪められている可能性にも言及する。つまり、夢の中にいるのではなく、悪魔のような存在、デカルトが言うところの「邪意にみちた守護霊」によって騙され続けているかもしれない、というのだ。

 私はそこで、真理の源泉たる最善の神ではなくて、或る邪意にみちた、しかもこの上もなく力能もあれば狡智にもたけた守護霊が、その才智を傾けて私を欺こうと工面してかかってきている、と想定しよう。すなわち、〔われわれに見えている〕天空、空気、大地、色、形、音、ならびにその他の外物の全部が、この霊が私の信じやすい心を誑かそうとするため〔に用いているところ〕の夢、その夢の愚弄にほかならない、と考えよう。(p. 35)

 この「邪意にみちた守護霊」は、多くのサイエンス・フィクションの語り口の中に影をひそめている。SF映画「マトリックス」では、人類は知的で邪悪な機械生物が創り出したシミュレーションの夢世界の中にいる。この映画で、人類は自分では平凡な人生を送っているつもりでいる。が、実際のところは、彼らは人間バッテリー、その生体は機械を維持するためのグロテスクな卵形のエネルギー源にすぎない。「人間バッテリー」がマトリックスの「邪意にみちた」人工知能によって隠されている真実に気づいたら、システムから放逐され、かくして欺瞞は続く。
  「邪意にみちた守護霊」の本質を描くもう一つの例として、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『バウンダーズ この世で最も邪悪なゲーム』を挙げる。この子供向けSF小説の世界では、「現実と古代ゲームのマスター」と呼ばれる邪悪な存在の一群が世界を統べていて、人間の生死は彼らの邪悪なボードゲームによって決定される。ここでもまた、真実に気づいた者はシステムから放逐され、残りの人生を一つの次元からまた次の次元へと旅し続ける羽目になる。悪魔の一人は、主人公ジェイミーにこう説明する。「お前は今や放逐された……このゲームの中でお前はもう役に立たない。バウンダーズの中を好きに歩き回るのはいいが、他の世界でプレイするのは規則違反だ」(1993: 23)
 とは言え、デカルトは、あらゆる合理的な疑いを越えてこの世界は邪意にみちた守護霊に支配されている、と述べているわけではない。「……これがものごとの本当の有り様だとデカルトが考えていたとしたら、つまり我々はみな「本当のところ」いつも不吉な悪魔によって騙されているのだと主張していたのであれば、彼は偉大な哲学者というよりも薬物中毒が原因の妄想性疾患に罹っていたに違いない(両者の区別は実際には難しいが)」(ローランド、p. 65)。デカルトはただ、人類をペテンにかけることを生きがいとする邪悪な知的生命体が世界を支配している可能性もある、と主張しただけだ。だからこそ、デカルトに言わせれば、我々にはこの素朴な現実が実際に存在していると絶対の確信を持って知ることができない。
 「現実」か「非現実」かの間には、もちろん、妄想や夢や幻覚といったものが入り込む膨大な余地があり、「不思議系」ファンタジーはそういったもので成り立っている。ソロモン・レズニックは、狂気や精神病の夢想空間を以下のように描写した。

 精神病の夢想空間とは、遠心力によって育ち拡大していくもので、外的現実を見据えている。夢や妄想は「世界のシステム」へと音や形態を変えていく。妄想は抑制力を失った夢のことであり、元の空間を離れて世界の空間に新しい立ち位置を占めるようになる。(1987: 137)

 ショシャナ・フェルマンは、このアイディアにさらにこう付け加えた。「……文学やフィクションは、狂気と哲学、精神錯乱と思想が出会うことのできる唯一の場所である」(1958: 48)。「現実」はさまざまな形式で明らかであり、基本的に客観的なものであるからには、ファンタジー作家の作品を「真実」か「幻覚」かで区別しようとする研究は単純に無意味だと思う。実存主義者の真の精神において、ファンタジー作品がどのくらい読者に主観的に意味、「現実」か「妄想」かの意味を考えさせるかを精査すべきだ。
 ニール・ゲイマンの子供向けファンタジー『墓場の少年』で、小さな5歳のスカーレットはボッドに言う。「ボッドには勇気がある。あたしが知ってるだれよりも。ボッドはあたしの友だちよ。想像の友だちでもかまわない」(p. 57)。ボッドとスカーレットの友情は、たとえボッドが想像上の存在だと信じるようになったとしても、「意味がある」し真実だ。現実の構造について、スカーレットは、多くの子供たちが分かっているのに大人たちは気付き損ねている事柄について理解している。「ユニコーンは本当にはいないということも、本当にはいないけれどもユニコーンを書いてある本は、それが良いものならば、真実の本なのだということも、子供たちはちゃあんとわかっているのです」(アーシュラ・K・ル・グウィン、p. 92)

2.6. The concept of "fuzzy sets"

 ブライアン・アトベリーの「ファンタジーの機能」を簡単に説明した。しかし、ファンタジーと現実は流動的な概念であり、両者を絶対的に区分けすることができないと判明し、アトベリーはファンタジーのジャンルは「境界のあいまいなもの」とし、「境界ではなく、むしろその中心によって決まる」(p. 40)とみなすべきではないかと主張する。
 アトベリーの「境界のあいまいなもの」というアイディアは、カフカの『変身』を例に挙げれば明らかだ。グレゴール・ザムザは、ある朝目覚めると、驚くべきことにグロテスクな形態の虫に変身していることに気づく。最初、彼はこの変身は明晰夢にすぎないと退ける。「もう一眠りして、こんなナンセンスはすべて忘れてしまおう」。しかし、物語が進むにつれ、ザムザは自分の身に起こった不幸な変身を原初の現実の側面として受け止める。
 カフカの『変身』を「境界のあいまいなもの」として捉えた場合、驚異的で純粋に幻想的な、「不思議系」ファンタジーの陰を帯びている。だが、幻想的な語りを分類することは、実際のところ、この本の要点ではない。問題は、もっと単純に、それぞれの作品が持つ意味合いだ。このファンタジー作品はどのような目的を果たそうとしているのか、そして――ポスト・モダン的に言うと――いかにしてテキストから読者に主観的な意味を形作るよう強いるのか。そして、もっとも重要な問題は、アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズにそのような目的はあるのか、である。

2.7. The Hitchhiker books as functional fantasy

2.7.1. Adams's fantasy: a vessel of philosophy and a portal into psychology

2.7.1.1. Much ado about madness

 ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズは、独創的なコメディシーンの宝庫であることに加えて、ファンタジーの様式の結晶でもあり、そこでは夢や幻想状態や幻覚や狂気といったテーマが哲学的に変形され、奇妙で両義的な雰囲気を作り出している。ファンタジーの機能についての論考は、幻想文学が哲学――現実と非現実、意識と無意識といったアイディアの容れ物であることを明らかにする。現実と他性の間のゆらぎは、フォード・プリーフェクトとアーサー・デントがたびたび狂気に陥ることからもはっきりしている。たとえば、宇宙船〈黄金の心〉号によって絶対にありえない確率で救助された時、時空連続体が少しばかり歪みを生じ、アーサーとフォードは説明のつかない一連の現象を目撃し、ごく当然の流れとして自分たちが発狂したのだと結論づける。

「サウスエンドの海岸みたいだ」
「それを聞いてほっとしたよ。……ぼくの頭がおかしくなったのかと思ったからさ」
「おかしくなったのかもしれないぞ。ぼくがそう言うのを聞いたと思っただけかも」
……
「となると、ふたりとも頭がおかしくなったのかもな」
……
「で、ここはサウスエンドだと思う?」
「もちろん」
「じつはぼくもだ」
「ということは、ぼくらはふたりとも頭がおかしいんだな」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、pp. 109-110)

 その後も状況を悪化させるかのように「頭が五つあって、薫製ニシンをどっさり突き刺したニワトコの木を持った通りすがりの狂人」(pp. 110-111)が現れたり、「五百万リットルのカスタード入りのおけが頭上で引っくり返った」(p. 112)りする。フォードとアーサーは、何か非現実的なことが起こっているとわかっているが、それが「もう一つの現実」であると受け入れる代わりに、自分たちが知っている世界を支配する法則に基づいておのれの正気を疑うことにする。シリーズ第1作目の別のシーンでは、フォードとアーサーは「ハムレット」を仕上げたサルの一群から話をしたいともちかけられる。無関係すぎて奇天烈であるだけでなく、「ハムレット」の主要テーマの一つが狂気であることを考えると、この出来事は重要だ。アダムスの作品内にあるテキスト間のほのめかしが、軽い風刺に哲学の風味を加えた世界について、特定のテーマや理論があることを指し示している。
 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』における狂気に関しては、エミリー・ディキンソンの"Much madness is divinest sense"(野田寿訳「大いなる狂気は、この上もない正気」)に同意できるかもしれない。シリーズ3作目の『宇宙クリケット大戦争』で、アーサーが毎朝目覚めるたびに、自分が先史時代の地球のじめじめした洞窟にいることを思い出して悲鳴を上げる様は、カフカの『変身』でグレゴール・ザムザが奇妙な変身を遂げたと気づいた時の様に呼応する。ある日、アーサーは、自分がおかれている状況の不合理さを直視して、速やかに発狂しようと決意する。錯乱した精神のほうが、この状況の「現実」に納得できるのではと考えたのだ。

ついさっきすばらしいアイディアを思いついたのだ。恐ろしい孤独にも、夜ごとの悪夢にも、畑作りが失敗続きだということにも、この先史時代の地球で人生に未来も意味もないことにも、もう二度と悩まされることはない――気が狂ってしまえばいいのだ。(安原訳、p. 17)

 アーサーの発狂しようという決意は、フォード・プリーフェクトならではの精神撹乱と同じである。再会後、二人は次のような会話を交わす。

「てっきり死んだもんだと思ってたよ……」とそれだけ言った。
「ぼくもしばらくそう思ってた」フォードは言った。「でもそのあと、自分はレモンだとわかったんだ。二週間ほどだったけど、そのあいだはずっとジントニックに飛び込んだり飛び出したりして遊んでたよ」
 アーサーは咳払いして、それからもういちど咳払いした。
「どこでその」彼は言った。「その……」
「ジントニックを見つけたかって?」フォードは陽気に言った。「自分をジントニックだと思っている小さな湖を見つけて、飛び込んだり飛び出したりしてたのさ。少なくともぼくは、その湖が自分をジントニックだと思ってると思ってたんだ」
「まあでも」と付け加えてまたにっと笑った。正気の人間が見たら、あわてて森に逃げ込みそうな笑顔だった。「あれはぼくの妄想だったのかもしれないな」(p. 19)

 もう一つ、狂気と幻想と妄想の興味深い混合物の例として、アーサーとフォードがチェスタフィールド・ソファに乗って先史時代の地球から現在のイギリスへとありえない旅をする場面が挙げられる。アダムスのファンタジーの機能の一つが、人の心理の過程とか、現実と折り合いをつけずにいられない人間の精神についてのアイディアを伝えるためのものであることは言うまでもない。この場面では、「過度の狂気」は、逆説的に、アーサーとフォードの「素晴らしい正気」となっている。

 アーサーは幸福だった。有頂天だった。これほど計画どおりに進む1日もめずらしい。発狂しようと決めたのはほんの二十分前なのに、いまはもう先史時代の地球の野原でソファと追いかけっこをしているのだから。(p. 29)

 夢と(ある種の)狂気というテーマは、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ4作目、『さようなら、いままで魚をありがとう』でさらに追求される。そもそも、アーサーはフェンチャーチと狂ったような恋に落ちるのだが、フェンチャーチ自身、彼女の兄から「ただ頭がトチ狂ってるだけ」(p. 43)とみなされている。この兄によると、彼女の病状は「いま自分の生きてるこの世界は現実の世界だっていう妄想」(p. 46)に取り憑かれているとのこと。『さようなら、いままで魚をありがとう』において、アーサーはまたしてもにとんでもない出来事と向き合う羽目になり、最初のうち、そういう出来事はタガの外れた想像の産物にすぎなかったのだとして退ける。一例をあげると、アーサーは、半年もの間どこにいたのかについて、上司に電話でこう説明する。「もしもし、アーサー・デントです。半年も無断欠勤してすみません。頭がおかしくなったもんですから」(p. 73)。明らかに、アーサーは自分の正気を疑っている。

 頭を勢いよくふり、全体から外れて飛び出した事実が収まるべき場所に収まってくれないかと思った。そうすれば、まったくでたらめなこの宇宙も、少しはわけがわかってくるかもしれない。しかし、飛び出した事実がかりにあるとしても、それには収まるべき場所に収まる気がまったくないらしく、アーサーはまた道路を歩きはじめた。元気よく歩いていれば……少なくとも自分の実在は実感できるだろう――正気は実感できないかもしれないが。(p. 53)

 夢の中で、アーサーは自分が今いるのはもう一つ別の次元の地球なのだと気づく。「目もくらむ亀裂の縁に危なっかしく立っていた。足下で、夢がはるかな奈落に落ち込んでいる。……そのぎざぎざの亀裂を越えると、そこには別の領域、別の時間があった。もとの世界。完全に裂けてはいないが、ぴったり嵌まってもいない。ふたつの地球。」(p. 69)。彼は、今いる次元では、地球の破壊は世界中の人間が薬のせいで幻覚を見たのだとして片付けられていることも知る。フェンチャーチはトチ狂っていたのではない。彼女は、もう一つの地球に気づいていた、ただ一人の人間のようだった。「ばかみたいに聞こえるでしょ。みんながあれは幻覚だったって言ってるわ。でもあれが幻覚だったとしたら、わたしが見てた幻覚は大画面の3D画像で、16トラックのドルビーステレオだったんだわ」(p. 154)。
 アーサーもフェンチャーチも、地球の破壊が幻覚しにすぎなかったという説明に満足していない。「『幻覚だった』って言えば、それで説明したいことはなんでも説明がついて、しまいには理解できないことはなんでも消えてなくなるってみんな思ってるだけなのよ。なんの意味もないわ、なんの説明にもなってない」(p. 156)。このことについて、ローレンス・M・ポーターは次のように述べている。「我々が自然の法則だと思っているものに反しているとか、法則性なしにはいられない我々の感覚から外れているすべてのものが「幻想的」と呼ばれる」(1995: 536)。
 アーサーとフェンチャーチは折り合いをつけたりお茶を濁したりすることなく、「現実」と「非現実」を見分けるための探究を続ける。皮肉なことに、探究の結果たどりついたのは、彼らの問いにもっともらしい答えを与えてくれそうなただ一人の男、「正気のウォンコ」だった。ウォンコの不条理な論拠を前にして、すぐさま彼らは「正気」なるものが世間一般で受け入れられている正気というものの概念を前提としていないことに気づく。

 彼の家は確かに変わっていた。……内と外がさかさまになっていた。
 文字どおり完全に裏返しになっていて、カーペットのうえに車を駐めなくてはならなかったほどだ。
 ふつうなら外壁と呼ばれるはずのところが、趣味のよいいかにも内装ふうのピンクに塗られ、本棚が並び……ほんとうに変わっていたのは屋根だ。
 屋根はひっくり返っていた。マウリッツ・C・エッシャーが街で夜な夜な飲み明かしていたら……そういう夜のあとにエッシャーが思いつきそうな屋根だった。(pp. 214-215)

 ウォンコの家のレイアウトがこんなにおかしなことになったのは、彼はこの世界が狂っていることに気づき、世界全体を精神病院に閉じ込めようとしたからだった。それゆえ、ウォンコは世界でただ一人「正気」であり、残りの世界は自浄作用が働くまで巨大精神病院の中に封じられた。このような考え方は、1841年4月27日、ジェラール・ド・ネルヴァルがエミール・ド・ジラルダンに宛てた手紙にも書かれている。「残念ながら私が賢者の家の住人であり、狂人のほうが野放しになっている」(Felman, 1958: 59)。ウォンコは、不可思議なものを精神錯乱の産物とみなすだけでは問題の解決にならないと信じている。

科学者はまた、徹頭徹尾子供のようでなくてはならない。私が子供のころの愛称を名乗っているのは、それを肝に銘じるためなんだ。なにかが見えたら、見えたと言わなくてはならない。たとえそれが、そこに見えるはずだと思っているものではなかったとしてもね。まず見て、次に考えて、それから検証する。つねに見ることから始めるんだ。そうでないと、そこにあると思っていたものしか見えなくなる。(p. 220)

 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズには、また別の、狂気/精神錯乱の概念に基づくテーマがあって、それはいうまでもなくフォード・プリーフェクトの酒好きである(先に引用した箇所からわかる通り、とりわけジントニック)。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のアルコールの項目に登場する汎銀河ガラガラドッカンの効果は、「レモンのひと切れで脳髄をブン殴られたようなもの――もっとも、そのレモン、大きな金塊でぐるりと包んでいるのだけれど」(風見訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 29)と描写される。オーエン・コルファーの『新・銀河ヒッチハイク・ガイド』にはドラゴン・スラマーという飲み物が登場し、「奇想天外なアルコール飲料で、汎銀河ガラガラドッカンもこれに比べたら船底の汚水としか思えなくなる」(上巻、p. 161)。ドラゴン・スラマーとは、マグラメル山の純粋な湧水に極小のシードラゴンの魂を溶かしたものだが、その効き目は、椅子から吹っ飛んだフォードとぜいフォードに「パンセオーのオペラ『ハラン大虚脱』の「メリメリの場」を完璧なハーモニーで」(p. 163)歌わせたほどだった。
 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズで、アルコールのつまらない効果についてたびたび言及されるのは、単に笑いを取るためだけでなく、「現実」の夢のような側面と、「現実」が夢の中で見る夢であるかもしれないというデカルトの提言への論評でもある。

2.7.1.2. "Simulation proper"

 伝説の惑星マグラシアを訪問中、フォードとトリリアンとゼイフォードはマグラシアで製造されたエキゾチックな惑星の、本物そっくりなシミュレーション・カタログを見せられる――夢に閉じ込められた夢のようなマトリョーシカのイメージで、やがてくっきりとした現実感が薄れてしまう。
 ジャン・ボードリヤールは、「シミュレーション」と「シミュラークル」という概念の生みの親であり、「シミュラークル」とはモノや出来事の再生産を意味しているが、登場順にいくつかの段階があるという(Kellner, 1989: 78)。ボードリヤールいわく、現在我々が生きている世界は第三段階のシミュラークルを経て今に到る。「適切なシミュレーション」の時代であり、長く続いたシミュレーションの過程の終盤、シミュレーション・モデルが世界を構築して乗っ取り、最終的に表象を食い尽くす」(Kellner, 1989: 79)。明らかに『銀河ヒッチハイク・ガイド』の主人公たちも「第三段階のシミュラークル」が支配する世界に囚われていると感じていて、実際、しょっちゅうシミュレーションに溺れさせられるため、常に「現実感」の縁を綱渡りしているような有様だ。
 先に述べた仮想現実の場面は、(デカルトの)夢と(ボードリヤールの)シミュレーションが相互乗り入れしている状態を示している。ゼイフォードの仲間たちが、ガスで眠らされて夢を見ている彼を起こそうとし、彼は目を覚ますと、地面が純正の黄金で出来ていることに気づいて飛び上がる。が、これはただのシミュレーションだと知らされて、彼は文句を言う。「せっかく完璧に楽しい夢を見てたのに、わざわざ他人の夢を見せるために起こしたのか?」(安原訳、p. 249)。『宇宙の果てのレストラン』にも仮想現実の場面があり、ここではゼイフォードは荒廃したフロッグスター星系第二惑星(のシミュレーション版)にいることに気づく。彼はこの現実がシミュレーションであることには気づいておらず、変わった鳥のような生き物から声をかけられると、すぐにこう問いかける。

「あっちに行け」ゼイフォードは言った。
「わあったよ」鳥はぼそりとつぶやき、また埃のなかへばたばたと姿を消した。
その去っていく後ろ姿を、ゼイフォードはあっけにとられて見送った。
「あの鳥、いま返事をしたか?」とマーヴィンに恐る恐る尋ねた。空耳だと言われたら喜んで信じるつもりだった。
「しました」マーヴィンは答えた。(安原訳、p. 94)

 最初、ゼイフォードがこれらはすべて夢か幻覚であってほしいと願うにもかかわらず、マーヴィンは「現実」だと答える――確かにある意味ではそうだ。SF映画「13F」(監督:ジョセフ・ラスナック、1999年)では、主人公が最初のうち現実だと思っていたものが、実は複数のレイヤーを持つコンピュータ・シミュレーションだとわかる。このコンピュータ・シミュレーションの複数のレイヤーの中で起こる出来事は、特定の登場人物の視点では「現実」だと認識される。同様に、フロッグスター星系第二惑星の場面も、何やら非現実的なことが起こるのはこれが仮想空間の中の出来事だからなのでは、という疑念を抱かせる。そして、人為的に作られた「現実」の背後には、何かが、誰かがいるのではないか、という考えへと導いていく。

2.7.1.3. Beware the "Malignant Genius"

 先にデカルトの「邪意にみちた守護霊」について述べた。『宇宙の果てのレストラン』では、「邪意にみちた守護霊」は「どこか陰に隠れて、別の人間だか生きものだかなんだかが究極の権力をふるって」(安原訳、p. 40)いるとされる。最初のうちは生来邪悪なものであるかのようにほのめされているが、話が進むにつれ、どうやらこの究極の悪人は、実のところ、完全に頭がどうかしていて、小さな小屋から宇宙を支配しているようだった。この恐れ多い天才の言葉を引用すると、

「魚は遠いところから来るんだよ。少なくともそう聞いている。少なくともそう聞いたとわたしは想像してる。あの男たちが来るとき――というか、わたしの頭のなかでは、ときどき男たちが六隻の黒いぴかぴかの船に乗ってやって来るんだけど、そういうときはおまえの頭のなかでもやっぱり男たちが来ているのかな。」(p. 276)

 ということで、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』で書かれていたように、この宇宙は狂人の想像の産物なのかもしれない。この常軌を逸した「宇宙の支配者」は、自分自身の現実味についても多くの問いを投げかけている。たとえば、事象の実存に確信を持てるかどうかを疑う。

「あの外になにかあるとどうしてわかるのかね」男は穏やかに尋ねた。「ドアは閉まっているのに」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、pp. 282-283)

 まさしくこれと同じ問いを、1700年代にジョージ・バークリが発している。彼は、この世界に存在する物が現実であるという結論に安易に飛びつきすぎではないかという。言葉を変えると、我々は自分自身にこう問いかけるべきなのだ。「ぼくたちの世界は現実だろうか、それともぼくたちは神の意識に取りこまれているだけなんだろうか」(『ソフィーの世界』、p. 360)。「宇宙の支配者」が「過去は虚構でないとどうしてわかるね? 現在の肉体の感覚と精神状態との不一致を説明するための虚構かもしれない」(同、p. 281)と問うのは、時間と空間とは単に「神の心のなかにしかないかもしれない」((『ソフィーの世界』、p. 360)というバークリの主張に呼応する。この場面は、「邪意にみちた守護霊」が椅子に座ってうたた寝をするところで終わる。

しばらくしてからまた紙と鉛筆で遊び、いっぽうでいっぽうに線が書けるのに気づいてうれしくなった。外からはずっとさまざまな音が聞こえていたが、ほんとうに聞こえているのかどうか彼にはわからなかった。それから一週間はテーブルに向かって話しかけ、どんな反応を見せるか観察した。((安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 286)

2.7.1.4. "Tricks of the light"

 これまでのところ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズにおいて、夢と現実の代替物について言及される時、人はでっちあげの幻想に向かいがちだと指摘しているように思える。夢の世界や個人的な幻想を構築するにあたり、実際に私たちが生きている世界、アトベリーがいうところの「耐え難い現実」から逃れたり抑圧したりするために、自分自身の存在さえ改変する力を持っている。『宇宙クリケット大戦争』で、巨大コンピュータのハクターは既知宇宙を消し去れるほどの超新星爆弾を開発した。ハクターは、その爆弾を無効にしようとしたせいで破壊されてしまい、アーサーとトリリアンが訪れた際には弱々しい姿をとどめているだけだった。その状態でハクターにできたのは、幻覚を見せることだけ。「おかまいしようにも、なにもお出しできるものがなくて」ハクターがかすれた声で言った。「せいぜい光の手品くらいで」(安原訳、p. 280)この言葉は、「人生はたかが歩く影」(『マクベス』第五幕第五場)をアダムス流に言い換えたものかもしれない。自分で勝手に幽霊を作り出す、欺瞞の達人だ。アダムスは、ハクターを通して、実存の反乱と、意味があると考えることの幻想について語っているのではないか。ハクターとの会話の中に、めくるめく幻想を見せるための一手段、という、ファンタジーというジャンルそのものについてのメタテキストを見ることもできよう。
 アーサーは、ハクターが作り出した幻想のソファを「本物」だと感じる。

 本物だった。
 少なくとも、本物でないとしても、ともかく体重を支えてはくれた。ソファというのはそのためにあるものなのだから、意味のあるどんな基準に照らしても、これはたしかに本物のソファだった。(同、pp. 280-281)

 やがてアーサーも、「時間と距離はひとつであり、精神と宇宙はひとつであり、認識と現実はひとつ」(同、p. 297)だと気づく。ソロモン・レズニックによると、「自分自身に疑いを持つ者は、内なる世界の曲がりくねった秘密の道を突き進むことを選ぶ。「内なる」者は、世界の本質と直面する。心を開く経験で、不思議な指向性や内なる「真実」が与えられる……」(1987: 170-171)。つまり、『宇宙クリケット大戦争』で登場人物たちが感じたことは何であれ、現実か幻想かは関係なく、彼らの内なる現実であり、主観的真実であり、個人的な幻想なのである。

2.7.1.5. "Shady blanknesses"

 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズにおける「光の手品」のもう一人の達人は、怪物アグラジャグである。『宇宙クリケット大戦争』で、アーサーは、ローズマリー・ジャクソンの「陰が落とされた空虚さ」(p. 80)の格好の例としか言いようのない場面で、アグラジャグと対面する。当然、アダムスが想像した宇宙の悪夢的側面は、無意識の心の働きで自分自身の恐怖と向き合うために怪物を呼び出したことを反映しているかもしれない。ある意味、アグラジャグという怪物は、何度生まれ変わっても(暴虐に全く無自覚の)アーサーに殺されるという、不運なキャラクターである。アグラジャグによると、ウサギになろうとイエバエになろうとペチュニアの鉢になろうとイモリになろうとクリケットの観客になろうと、常にアーサーによって抹殺されてきた。怪物は、カフカの作品に出てきそうな、コウモリのような形態の化物になる。彼の秘密の洞窟は、狂人の想像力が生み出した悪夢さながらだ。「(大聖堂は)単にねじれた心の産物というばかりではない。捻挫した心の産物でもあった」(風見訳、p. 162)。「憎悪の大聖堂」の内部を細かく見ていくと、これまたカフカの作品に出てきそうな狂気の様相が付け加わった。たとえば壁の色は、邪意をこめて選ばれていた。「肝臓紫やら嘔吐色やら膿黄色やら火傷色やら二日酔い青やらを含む死外線から赤害線まで」(同、p. 162)。
 このレベルの現実では、「邪意にみちた守護霊」は正気が足りないものとして描かれる。「三つある眼は小さく、きらきら輝いており、陸にあがった魚ていどの正気しか見られなかった」(同、p. 166)。明らかに、アダムスが描くリアルな想像上の迷宮には、精神の怪物を洞窟からおびき出して根絶させる、ファンタジーの力がある。

2.7.1.6. "Paper doll universe"

 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ5作目『ほとんど無害』で、アダムスはさらなる「現実」の小路に分け入る――「多元宇宙」だ。ライスナー=ノルドシュトロム幾何学によると、ペアになっている宇宙が無限になって、かつ、それらは繋がっており、チェーン状につながるように紙を人の形に切り抜いた様と似ていることから、「ペーパードール・トポロジー」として知られている(Gribbon, 1992: 172)。「ペーパードール宇宙」というアイディアは、勿論、多様性を強調したポストモダン的思考を反映している。多元宇宙は、いわゆる「複数の宇宙が存在しているという仮説」に従って説明される。「量子レベルでは常に選択肢が開かれており……2つの宇宙の両方に進める可能性がある」((Gribbon, 1992: 202)。
 この仮説は、量子力学の有名な「シューレディンガーの猫」の実験に基づいている。この実験では、仮想上の猫を、猛毒と、放射性物質と、放射線測定装置と一緒に箱の中に閉じ込める。放射性物質が崩壊すると、放射線測定装置が作動して猛毒を噴出し、猫を殺す仕掛けだ。では、放射性物質が崩壊する確率を五分五分に設定した時、箱の中の猫の状態を知りたいとしたら? グリボンいわく、「常識的に考えて、猫が生きているか死んでいるかのどちらかだ」(1992: 201)。しかしながら、量子力学の世界では猫は生きていると同時に死んでおり、つまり2つの宇宙が存在することになるのだ。
 『ほとんど無害』におけるダグラス・アダムス的多元宇宙の特徴は、ある次元ではテレビのレポーターをしているトリシア・マクミラン、別の次元では宇宙物理学者で銀河を股に掛けるヒッチハイカーのトリリアンの共存である。

「裏口のドアがあいてたので、外へ出てみたんです。ライトが見えました。それになにかつやつや光沢のあるものが。わたしが外へ出るのと同時に、それは空に向かって上昇しはじめたの。音もなく昇っていって、雲のうえに消えてしまった。それだけ。それでおしまい。ひとつの人生が終わって、別のが始まった。でもそれ以来ずっと、別のわたしのことがかたときも頭から離れないんですよ。バッグを取りに戻らなかったわたし。そのわたしが宇宙のどこかにいて、このわたしはその影のなかを歩いているような気がするんです」(p. 42)

 トリシア・マクミランは、選び損ねたもう一つの人生、目下トリリアンが歩んでいる人生に比べると、自分の今の次元の人生は影のように幻想的で現実味の薄いものように感じている。多元宇宙が存在するとしたら、現実という概念も一つではなく、複数の現実があるということになる。

いまこの瞬間からも、この瞬間からも、何十億何百億の未来が、一瞬一瞬に枝分かれしていくのだ! あらゆる電子のとりうるあらゆる位置から、何十億何百億の可能性が膨らんでいくのだ! 何十億何百億のまばゆく輝く未来が!(p. 88)

 フォードはアーサーの「末期的なまでに衰えた脳味噌」に、人間が現実の本質について問うのは、人には感覚のフィルターがあり、それ故、すべての現実を知覚することができないからだと理解させようとする。

「新しい『ガイド』は研究所から生まれた。無制限知覚っていう新しいテクノロジーを利用してるんだ。……無制限知覚っていうのは、すべてを知覚するって意味だよ。わかった? ぼくはすべてを知覚してるわけじゃない。きみだってそうだ。ぼくらにはフィルターがあるからな。新しいガイドには、感覚のフィルターがなんにもない。すべてを知覚するんだ……それでつまり、ありうる宇宙のすべてをあの鳥は知覚できるわけだから、ありうる宇宙のすべてにあいつは存在してるんだ」(pp. 276-277)

 『ほとんど無害』の登場人物らしきものは、狂気か幻想の産物のように、多元宇宙のタペストリーの中にあるもう一つの宇宙のこととして説明できるかもしれない。たとえば、トリシア・マクミランが惑星グレビュロンに招かれた時の記憶が、不確かさに包まれてしまったように。

 また早送りボタンを押した。ここには使えそうな場面はなにもない。なにもかも悪夢のように狂っている。
 ……頭をふって気を落ち着けようとした。
 夜の便で東に飛んで……それを乗り切ろうと睡眠薬を服んだ。睡眠薬の効きをよくするためにウォトカを飲んだ。
 ……きっとノイローゼになっていたのだ。
 そうにちがいない。疲れ果ててノイローゼになって、帰国してしばらくしてから幻覚を見はじめたのだ。なにもかも夢だったのだ。異星の人種が自分自身の現在も過去も失って、太陽系の辺境で身動きがとれなくなり、文化的な真空を人類の文化的がらくたで埋めているなんて。ばからしい! これは本能が警告しているのだ――金のかかる病院にいますぐ駆け込めと。(pp. 308-309)

 グレビュロン人の存在について真剣に考える代わりに、トリシアは自分の幻想的な体験を安易に神経衰弱のせいにする。不可思議な出来事の録画テープを検証しているうち、ルパートのリーダーとのインタビューは自分がでっちあげたものだとさえ考える。だがすぐに、だとしたら自分は今もなお幻覚を見ていることになると気づく。「きっと、まだ幻覚を見ているのだ。……ぼうぜんとして、魅入られたように画面を眺めつづけた」(p. 310)。ということで、つまり、デカルトの命題が小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ5作目にして再浮上する。

2.7.1.7. "The truth, as always, will be far stranger"

 物語は、あらゆる次元の地球が破壊されて終わる(だよね?)。主要登場人物は全員殺され、読者は深い喪失感と共に残される。きっと、別次元の地球はまだ残っていてそれが発見されるのでは? 残念ながら、アダムスの潜在意識で「幻想」と「現実」のどの領域が休眠中なのか、我々には知る由もない。主観的な「現実」の繭――現実か想像か、夢から生まれたものか狂気から生まれたものか、あるいは他の誰かの「耐えがたい現実」から出てきた妄想か、どの可能性も排除できない。前にも引用した通り、「人間はあまり多くの真実には耐えられないのです」(T・S・エリオット「四つの四重奏」、p. 48)
 アダムスの奇妙なファンタジーは、心理学上の過程の興味深い領域へとつながるアイディアや糸口の宝庫である。実際、すべての理性がお留守になったところで、彼の不条理ファンタジーの中の「いよいよおかしな」現実が、異星人や実存主義のエレベーターの目を通して観察できるようになる。
 だが、まずはアーサー・C・クラークの言葉より。

 そうした仮想の天国や地獄のいくつぐらいに、いま生物が存在し、彼らはどんな形態をしているのだろうか。……だが距離の壁は崩れようとしている。われわれはいつの日か、人類と同等の存在――もしかしたら人類より優れた存在と星の海で出会うことになるだろう。
 こうした展望を持つまでに、人は長い時間を要した。なかにはいまだに、その実現を望まない者もいる。だが、こう問いかける人の数はどんどん増えている――
「なぜそのような出会いがまだ起こっていないのか? われわれ自身が宇宙の門口に立っているというのに」
 本当に、なぜだろうか? ここにあるのは、そうしたもっともな問いに対するひとつのありうる答えである。だが、お忘れなきよう。これはたんなるフイクションなのだ。
 真実は、例のごとく、はるかに異様であるにちがいない。(p. 22)

Chapter Three
Aliens and Existential Elevators

 ヒッチハイカーやその他のクリーチャーによって提示された問題の一つが、「人生の目的はなんだったかとか、どっちの足に靴を履いているかとか」(『新・銀河ヒッチハイク・ガイド』、pp. 31-32)そういった趣旨の事柄である。アダムスが描くエイリアンは、実存主義のエレベーターにせよ感傷的なマットレスにせよ、汎銀河の生き物すべてがさまざまな形で同じ問いを発しており、得られた答えは「42」だけだ。
 クリーチャーたちは、この「答えのなさ」に対してそれぞれに違う反応をする。無と向き合って、不条理なヒーローとなる道を選ぶものもいれば、おのれの不運な事実性(この言葉に関しては後ほど説明する)を嘆くことのほうを選ぶものもいる。
 この章では、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの哲学的基盤となっているものを、特に実存主義(ジャン=ポール・サルトル )と、不条理ならびに不条理なヒロイズム(アルベール・カミュ)に付随する概念の観点から探っていく。
 狂気や(前章でみてきたような)堂々巡りの現実といったテーマも、不条理の観点からみても興味深いので、あらためて調査してみたい。

3.1. "Angst"

 実存主義者によると、この世の木とかチェスターフィールド・ソファとかゴムのアヒルと一緒に、人間は即時存在の大釜にほうりこまれる。この件に関して選択の余地はない。ドイツ人哲学者のハイデガーはこの状況をGeworgenheit、「被投」と呼んだ。また、実存主義者たちは、自分たちの制御を超えた状況にほうりこまれることについても論じている。このような状況に、いわゆる「事実性」も含まれている。
 しかしながら、「事実性」とは単なる限界ではなく可能性をもほのめかしている。人間は自由であると宣告された、ともとれるからだ。我々には選択の自由があり、自分自身を作り替えることができる。故に実存主義者は、「事実性」は実存的な絶望や不安(主にキルケゴールと関連して使われることが多い言葉)の原因だと主張する(Butler, 1984: 46)。ランス・セント・ジョン・バトラーは、「不安」という言葉を大変雄弁に「自由という深淵を覗き込むこと」と述べている。この「不安」は、自らを定義しようとする人間の衝動強迫に深く染み込んでいる。私たちは、自分の「実際の条件」を選べず、それでいて常に意味を探したり自分自身を改革したりせずにはいられない。
 ジャン=ポール・サルトルの実存主義小説『嘔吐』に出てくる、「事実性」についてのロカンタンの記述は、「不安」と「事実性」の概念に共鳴している。

私たちは、自分自身を持てあましている多数の当惑した存在者だった。私たちの誰にも、そこにいる理由などこれっぱかりもなかった。存在者の一人ひとりが恐縮して、漠とした不安を抱えながら、他のものに対して自分を余計なものと感じていた。余計だということ。これこそ私が、木々や鉄柵や砂利のあいだに確立することのできた唯一の関係だった。……そしてこの私――無気力で、憔悴して、猥褻で、食べたものを消化しながら陰気な思考をもてあそんでいるこの私――私もまた余計だった。(pp. 213-214)

3.2. "Nothing happens"

 文学運動としての実存主義は、ベケットの古典的不条理劇「ゴトーを待ちながら」(1952年)にはっきりと現れていて、「目的のある行動の不可能性や、人の野心の停滞を表すために道化芝居や笑劇の手法を復活させた」(The Oxford Dictionary of Literary Terms、「the Absurd」の項)。この劇を特長は、二人の道化じみた放浪者、ヴラジーミルとエストラゴンが、「どこでもない」と見事に表現された場所で、ゴトーと呼ばれる謎の男を待ち続けることにある。この二人の放浪者は、意味の真空地帯にいて、待つより他にすることもなく、互いをおもしろがらせるためだけに存在している。劇の中で、オチは一切ない。登場人物は、ひたすら些事にとらわれている。「何も起こらず、誰も来ず、誰も出ていかない。ひどいもんだ」(Beckett, [1952]1990: 41)。
 Beckett and the Quest for Meaning と題されたエッセイで、マーティン・エスリンはベケットの世界について次のように主張する。

幻想や慰めや希望から離れて、彼らはユートピアの住人、あるいは理想の人間となる。もし笑い声に満ちていなかったとしたら、ダンテの地獄篇に似ていなくもない無情な場所だっただろう。(2001: 28)

ヴラジーミルとエストラゴンは、狂気の様相で互いを面白がらせることで意味を生み出す。さまざまなタイプのエンタメが可能だ。自殺の企てからも、運動からも、行動からも、物真似からも、靴を履こうとするとか、蕪や大根や人参についての議論からでも、どんなものからでも生み出せる。この芝居の中に出てくる以下の対話は、人生の本質的に単調さや意味をもたせずにいられない人間の衝動をよく表している。

エストラゴン ああそうか。(間)じゃあ、どうしよう?
ヴラジーミル どうしようもないさ。
エストラゴン しかし、おれはもう、がまんできない。
ヴラジーミル 蕪はいらないかい?
エストラゴン あるのはそれだけか?
ヴラジーミル 蕪に大根だ。
エストラゴン 人参は、もうないのかい?
ヴラジーミル ない。だいいち、おまえ、むりだよ、そう人参、人参って。
エストラゴン じゃあ、蕪をくれ。……黒いじゃないか!
ヴラジーミル 蕪だよ、しかし。
エストラゴン おれが桃色のでなけりゃ嫌いだってことは、よく知ってるじゃないか!
(略)
ヴラジーミル 全く無意味になってきたな。
エストラゴン いや、まだそれほどでもない。
         沈黙。
ヴラジーミル ひとつ、ためしてみたらどうだい?
エストラゴン もう、なにもかもためしたよ。
ヴラジーミル いや、その靴をさ。
エストラゴン そうさね。
ヴラジーミル 暇つぶしにはなる。……間違いないよ。気散じになる。(pp. 131-133)

 ヴラジーミルの言葉には、人間が置かれている状態の不条理さと、世界の中核にある虚無から意味をこねくり上げずにいられない衝動が鳴り響いている。

われわれは待っている。われわれは退屈している。……われわれはあきらかに退屈しきっている。これは議論の余地がない。よろしい、そこへ気晴らしの材料があらわれる。それだのに、われわれは何をしているか? いたずらにそれを腐るにまかせている。……まもなく、すべては消え去り、われわれは再び虚無のまん中に取り残されるだろう。(p. 160)

3.3. "Being and nothingness"

 サルトルは、著書『存在と無 現象学的存在論の試み』の中で、存在には2種類の様相があるとしている。無意識な存在の様相を即自存在、意識的な存在の様相を対自存在と名付けた。即自存在はさまざまな自然現象のことを指していて、こういった現象は自分自身の存在を意識していない。一方、対自存在は存在していることへの自意識がある。

 対自存在とは、意識の範囲と同一の広がりを持ち、また意識はその性質上、自身を越えて広がろうとしてやまない。我々の思考は、我々自身を越えて明日へ、昨日へ、世界の果てまでも進んでいく。(Barrett, 1962: 245)

 サルトルは、人間とは、木や川や花瓶といったものと同様に、物理的現象の融合から成り立つ即自存在であると同時に、おのれの存在を意識する対自存在でもあると主張する。しかし、この意識は、無、即自存在に分類できない何か、として語られる。それゆえ、サルトルは「人間とは存在と無だ」という結論に至る。ここに、人間の実存的な不安があり、現象と共に調和が弱まり、それらを超越しようと虚しい欲望を抱く。

3.4. Being in a bubble

 無意味な世界において、我々はどうすればいいのだろう? サルトルは、生き残るための唯一の方法は、行動を起こし、自らに意味を創り出すことだと提案する。この観点からすると、自我とは中が空洞になっている泡のようなものに思えるかもしれない。

 泡とは中身が空っぽですぐに壊れてしまうものであり、我々に残されているのは、泡を長持ちさせるため労力と情熱を傾けることだけなのだろうか。人の存在は、その人のことを知らない宇宙の只中にあっては不条理なものである。自身に与えることのできる意味は、自分自身の無の中から立ち上げた自由な企画を通してしかない。(Barrett, 1962: 247)

 バレットの「泡のような存在」は、ウィリアム・バトラー・イェイツの信念を思い起こさせる。

聞いたり見たりしたものがその人の人生の撚り糸であり、こんがらがった記憶の糸巻き棒から慎重に引き抜いてやると、何であれ自身を一番喜ばせる信念の衣服を織り上げることができる。私も他の人のように私自身の衣服を織り上げたが、自分に似つかわしいならば着て暖かく、快適な服になるよう心がけただろう。

 これまで見てきた通り、我々は何かを、世界を作り出さずにいられない。サルトルの提案は、事実性や不条理に対する唯一の解毒剤は狂気の中から意味を捻り出すことだとしたアルベール・カミュにも呼応している。カミュの『異邦人』への序文で、シリル・コノリーはこう書いた。

カミュの哲学は不条理の哲学であり、彼にとって不条理は人と世界、人の望みの多様さと無益さに対する筋の通った熱望から生じるものだった。(Camus, 1942: 6)

3.5. Sisyphus

 カミュは不条理と向き合う勇気について論じている。勇気とは、無意味な世界で継続的に自我を作り続けることである。カミュは、人類が不条理な存在である実存主義者の意見を指示する。だが、それならば、不条理な人間とはどう定義すべきなのだろう? カミュいわく、不条理な人間とは永遠の未来に何の希望も抱けない者のことである。そのような者は、限られた資源を用いて好きなように自分自身の意味を作り出そうと絶えず試みる。その資源というのは、カミュによると、勇気と理性だ。
 不条理と不条理な人間に関するカミュの主張は、(1942年に出版された)『シーシュポスの神話』にはっきりと反映されている。ギリシャ神話では、神々はシーシュポスに、山の上まで岩を転がし、岩が山の頂きから転がり落ちたらまた上まで転がして戻す、という永遠に終わらない罰を与えた。カミュは次のように説明している。

 シーシュポスが不条理な英雄であることが、すでにお解りいただけたであろう。その情熱によって、また同じくその苦しみによって、かれは不条理な英雄なのである。神々に対するかれの侮辱、死への憎悪、生への情熱が、全身全霊を打ちこんで、しかもなにものも成就されないという、この言語に絶した責め苦をかれに招いたのである。……この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。きっとやりとげられるという希望が岩を押しあげるその一歩ごとにかれを支えているとすれば、かれの苦痛などどこにもないということになるだろう。こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。……かれ(注/シーシュポスのこと)を苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り越えられぬ運命はないのである。(pp. 191-192)

 カミュは、幸せと不条理は交換できるものではないとして『シーシュポスの神話』についての議論を締めくくる。究極の、有意義な目的地はない。最終的な勝利も報酬もない。シーシュポスは人生が終わるその日まで重荷を負い続ける。が、勇気と挑戦の気持ちを持って重荷を負うのだ。「頂上をめがける闘争ただそれだけで、人間の心を充たすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。」(p. 194) 

 よって、カミュの哲学は明らかに絶望の哲学ではない。

 悲観的どころか、彼の全作品は、恐ろしい戦争体験からほとんど誰も逃れられないという、彼の子供時代にもてはやされていたニヒリズムの思想とは別の選択肢を前提としている。(Masters, 1974: 1)

3.6. Improbablity

 第2章では、アダムスの作品中で構築された幻想と現実の相反する仕組みを検討した。この章では、両義性が中心的なテーマであり、即自存在と対自存在の間の相違と、結果としてそこから生じる不条理に光をあてたい。「DNAをときほぐす」と題した記事の中で、ティム・ウィン=ジョーンズは次のように主張する。

アダムスが描いたありえない宇宙においては、一杯の水が返事をしたっておかしくない! アダムスは銀河系を、ありきたりなヒト型爬虫類の化け物よりはるかにすごい生き物たちで満たした。……彼の不条理主義には、あなたのところに駆け寄って顔をひっぱたくようなところがある。(2001: 630)

 この記事の中で、ウィン=ジョーンズは不条理主義について言及しているが、それは不条理とは別のものだ。不条理主義は、キリスト教信仰の真実はその不条理さにあると主張した、初期キリスト教の教父、テルトゥリアヌスにまで遡れるかもしれない。テルトゥリアヌスは、次のように推測した。

無限の力を持つ神が自分の似姿を作り、人類のためにひどい苦痛を耐え忍ばせるというのはあまりに非論理的すぎて、誰かがでっち上げたストーリーだとは考えられない。それ故、これは真実なのだ。(2001: 630)

 このテルトゥリアヌスの不条理主義は、多くの面でアダムスの小説に反映されている。例を挙げると、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の中の、「どんな不可能性計算にも、擬似相反性・循環性という性質があって、実際には無限に不可能なことほど起こりやすくなるのである。それもたちどころに起きてしまう」(安原訳『宇宙クリケット大戦争』、p. 134)にも見ることができる。この章では、実存主義哲学の定義に基づく人間がおかれている条件の不条理さについて焦点をあててきたが、アダムスの不条理主義には、不条理と、自分自身で意味を作り上げる必要性というテーマ全般に関わるものとして、言及しておく価値はある。

3.7. "Being and Nothingness" in the Hitchhiker' Books

3.7.1. Of "little men" and "absurd heroes"

 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の第1章へとつながる序文で、アダムスは次のように書いている。

 星図にも載っていない辺鄙な宙域のはるか奥地、銀河の西の渦状腕の地味な端っこに、なんのへんてつもない小さな黄色い太陽がある。
 この太陽のまわりを、だいたい一億五千万キロメートルの距離をおいて、まったくぱっとしない小さな青緑色の惑星がまわっている。この惑星に住むサルの子孫はあきれるほど遅れていて、いまだにデジタル時計をいかした発明だと思っているほどだ。(安原訳、p. 5)

 コミカルな作風で提示されているとは言え、「意味がない」というテーマは小説のまさに最初のページで紹介されていることは明らかだ。アダムスが描く宇宙では、より広い視点でとらえれば地球も人類もちっぽけで無価値だとされる。第1章において、アーサー・デントはごく一般的な普通の男として紹介される。アーサー・デントの中に、アルベール・カミュの『異邦人』の主人公ムルソー、人間の置かれている状況の不条理さとあらゆる個人の生活に内在する曖昧さ、また同時に、何とか意味を見出そうとする孤独なあがきを具現化したようなキャラクターの姿が反映されているのがわかる。カミュの小説の主人公は、「ちっぽけな男」で、つまらなくて注目に値しない人物である。ムルソーなアルジェのオフィスで働いている。ほとんど口をきかず、たいして行動することもない。母親の死を知った時も、「適切な」感情的反応を表に出せない。ムルソーの隣人は、かつてのアラブ人の愛人にひどい扱いをしたことで、二人のアラブ人から命をつけ狙われる。この二人のアラブ人が浜辺にいるところにたまたま出会したムルソーは、太陽がまぶしかったからというだけの理由で二人のうちの一人を射殺する。その結果、ムルソーは逮捕され、裁判で有罪になり、死刑の判決が下される。ムルソーの人生は退屈で無感動なものだ。しかし、狭い独房で死を待つうち、ムルソーは突然、失いつつある生命の中に喜びを感じる。彼は、死以上の何かを期待してはいない。囚われの場所にあるすべてのレンガとすべての割れ目を記憶することで、現在の時世の中に意味を見出したのだ。ムルソーは人生の不条理を受け入れ、それ以上を望むことを拒否する。宗教でムルソーに慰めを与えようとする神父と激しく対立する。抵抗の時にあって、ムルソーは人生が不条理であるからこそ生きねばならないのだと理解する。
 ダグラス・アダムスが生み出した「ちっぽけな男」、アーサー・デントは、やかんとか、プラグとか、冷蔵庫とか、あと忘れちゃいけない、紅茶とか、そういう日常的でささやかなモノが詰まったバブルの中で生きている。が、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズが進むにつれ、アーサーは宇宙がどこまでも無意味であり、かつ、自分が「ちっぽけな男」であることに、向き合わされる。それでも、彼はどうにかバブルを長持ちさせ、どんなに馬鹿馬鹿しくて不条理だとしても、意味をもたせる方法も学ぶ。「ゴトーを待ちながら」の二人組がやっていたように、自分で自分をおもしろがらせることだけが、生き延びるための唯一のやり方だと学ぶのだ。たとえるなら、『異邦人』の主人公が人生の最後の数時間をやり過ごしたように、アーサーも彼自身の独房のレンガと割れ目を数えて過ごすことを学んだ、と言える。

3.7.2. Nothing happens and continues to do so for an indefinite period of time

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくる不条理と無意味さのテーマにかなり近いものとして、退屈というテーマと何も起こらないというアイディアがある。これは、何も起こらないままいつまで続くとも知れぬ時が流れるという不条理劇を想起させる。たとえば、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の第1章では、

 フォード・プリーフェクトはわらにもすがる思いで、どんな円盤でもいいからすぐに来てくれないかと願っていた。十五年というのはどこへ流れ着いたにしても長い年月だが、それが気も遠くなるほど退屈な、地球のような星とくればなおさらだ。(安原訳、p. 18)

3.7.3. "My favourite bath time gurgles" and other heinous attempt at poetry

 人生の単調さを和らげるため、人はモノを書いたりする。『銀河ヒッチハイク・ガイド』第7章では、宇宙で3番目に恐ろしい詩として、ヴォゴン人の詩が紹介される。ヴォゴン人の詩の箇所では、芸術を創ったり、人が置かれている状況の不条理さや人生の無意味さを表現したりする、人間らしい試みと関連づけられるかもしれない。ウィリアム・バレット著『実存主義とは何か:人間存在の根源をさぐる』によると、「芸術家もまた平面的で説明のできない世界に面と向かって立たねばならない」(p. 53)。アダムスは、宇宙で二番目に恐ろしいとされるクリア星のアスゴート人の詩について次のように書いた。

アスゴートの詩聖、げろ吹きグランソスが自作の詩「ときは真夏の朝、わが脇の下に萌えいでし小さき緑のべたべたに寄す」を朗読したときには、聴衆のうち四人が内出血で絶命し、銀河系中部文芸盗用協会会長は自分の足を一本かみ切ってようやく助かった。グランソスは聴衆の反応に「失望した」と言われ、『わが愛しの浴槽のゴボゴボよ』と題する十二巻の叙事詩の朗読にとりかかろうとしたが、そのとき彼自身の大腸が、このままでは人命どころか文明さえ危ういとあせって飛びあがり、のどを突破して脳みそを締めあげたということである。(安原訳、p. 87)

 グランソスが自身のえげつない詩のために選んだ主題は、グロテスクなユーモアと人間がおかれている状態の不条理さを明らかに反映している。これらの主題は、壮大な理想や人間の熱意を称揚したりしない。意味を見出すという実存主義者の見解に忠実に、即時存在として取り扱われ、瑣末というだけでなく、時には日常の猥褻さをも祝そうとする。『銀河ヒッチハイク・ガイド』第9章には『ハムレット』への言及が見られるが、これは狂気というテーマを裏打ちすると同時に、存在の不条理なまでの無意味さや、宇宙の不条理さを描こうとする芸術家の試みを想起させる。先の章で、マーヴィンに呼ばれたフォードとアーサーが『ハムレット』の脚本を書こうとしているサルの一群と遭遇するシーンについて少し述べた。このような形で『ハムレット』に言及することは、狂気が『ハムレット』の主要テーマであるという意味で重要だと言える。

『ハムレット』は狂気についての物語である。狂気を、シェイクスピアは迷いから目を覚まさせたり登場人物に深みを与えたりする手段として使う。それ以上に、狂気はこの芝居の構造の中核であると同時に、テーマを発展させる。(Lidz, 1976: 33)

3.7.4. Arthur and Ford in- and-for-itself

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』第9章で、アーサーとフォードは、超空間突入後、即自存在の不条理さ、もしくは世界の現象と向き合い、どっぷり浸ることになる。

 管弦楽器の悲鳴が風をつんざいて響き、一個十ペンスのあつあつのドーナツが道路から飛び出し、不気味な魚が空から土砂降りに降ってくる。たまらず、アーサーとフォードは逃げ出すことにした。
 ふたりは分厚い音の壁を突き抜け、古代の思想の山脈を、ムードミュージックと外反母趾セミナーと逆子のコウモリの谷を抜け……(安原訳、pp. 111-112)

 上記の記述は、事実性と即自存在に対する人間の抵抗という意味で重要であるかもしれない。アーサーとフフォードは、世界の一部でありながら、この世界の中で自意識を持ち、続いて起こった困惑のせいで実存主義的な不安を経験し、「逃げ出す」という選択をする。「管弦楽器の悲鳴」や「不気味な魚が空から土砂降り」といった文章は、この章でみてきたように、不安と人間がおかれた状態の徹底した不条理さを表している。

3.7.5 "Don't talk to me about life"

 実存主義の用語では、無意味や無といった概念は相互に関連づけられており、その両方が鬱病ロボットのマーヴィンの中に具現化されている。マーヴィンはカミュのシーシュポスや不条理劇の主人公とはちょっと違う。読者が「幸せなマーヴィン」を想像することは絶対にない。人類(何なら人工知能も含めてもいいが)が中核に空洞を抱えた実存主義の泡の中に存在しているとしたら、マーヴィンは「泡の中でぐずぐず」したりしない。彼は、不条理な世界で生き延びるためになすべきだとカミュが提示したこととは正反対だ。いかなる形であれ生命を称えるのではなく、マーヴィンは永遠に続く実存主義の絶望の中に居座っている。

 マーヴィンは冷ややかな憎悪をこめてドアをにらんだ。彼の論理回路は嫌悪感にカチカチ鳴り、物理的暴力を加えるという概念をもてあそんでいた。そこで次の回路が割り込んできて、そんなことをしてどうする、と言いだした。なんになる? この世にはかかりあいになる価値のあるものなどなんにもない。(安原訳、pp. 128-129)

 マーヴィンと言えば、自虐と鬱にどっぷり浸かった独り言が有名だ。たとえば、

「失礼、なにかまずいことでも言ったでしょうか……息をするのも申し訳ない気分です。でも、もともと息なんかしてないのになんでこんなことを言うんだろうわたしは。ああ気が滅入る……人生! わたしに人生を語らないでください」(安原訳、p. 131)

 夜空を鑑賞しているアーサーへの反応からも、マーヴィンが人生を楽しんでいないことが見てとれる。

「夜が来るぞ」彼は言った。「見ろよ、星が出てきた」……
 ロボットは言われたとおりに星を眺め、またアーサーに目を向けた。
「そうですね」彼は言った。「みすぼらしいですね」
「でもあの夕陽はすごい! あんなのが見られるなんて夢にも思わなかったよ……太陽がふたつもあるなんて! まるで火の山が沸騰しながら落ちていくみたいだ」
「見ました」マーヴィンは言った。「つまらない」(安原訳、pp. 201-202)

3.7.6. "What do I mean by who I am?"

 人間が置かれている状態についてのもっとも力強い描写は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』第18章、ひとりぼっちのザトウクジラがよその惑星の地表上空に突如出現させられた(というか、放り出された)シーンである。この「よその("alien")」という単語が重要で、というのも、実存主義者によれば、人間は敵対的な宇宙に放り出されたようなものであり、そこでは我々はよそ者、アウトサイダー以外になりえないからだ。出現した瞬間から最期の瞬間までのクジラの思考を、正確に分類してみよう。

 あれ……なんだ、どうなってるんだ?
 えーと、すいません、わたしはだれですか?
 だれかいませんか?
 わたしはなぜここにいるのか? わたしの生きる目的ななんなのか?
 わたしはだれってどういう意味だろう? (安原訳、p. 181)

 クジラには事実性、言い換えると、たとえば、墓場となる惑星とか、尻尾の色とか、そういったものを選ぶ機会は全くない。内在する意味とか生きる目的といったものを発見しようとあがいた(もちろん発見できずじまい)挙げ句、不条理で冷淡な宇宙の中で、最期の瞬間に向かって突っ込む。しかし、短い人生の終末へと向かう途中で、クジラはやがて自分で自分をおもしろがらせようという実存主義の考えを理解する。

そうだな、これは……そうだ、風と呼ぶことにしよう! この名前どうかな? まあとりあえずいいか……たぶんあとで、これがどういうものかわかったら、もっといい名前を思いつくかもしれない。きっとすごく大事なものにちがいないぞ、だってまわりじゅうそれだらけみたいんだもんな。おい、これはなんだ? この……これはしっぽと呼ぶことにしよう――そうだ、しっぽだ。このしっぽってやつはずいぶんよく動くじゃないか。いいぞ! いいぞ! (安原訳、pp.181-182)

 同じ章の中で、ペチュニアの鉢植えも空中に出現させられるという不運に見舞われるが、こちらは意味とか目的とかを考えたりしない、というより、そもそも何も考えない。ただちらっと、「まいったな、またか」(p. 183)と思うだけである。この「まいったな、またか」は、時空に関する何かとか、多次元宇宙の可能性といったものを示唆している。ペチュニアの鉢植えは、後に明らかにされる通り、アグラジャグという生き物の生まれ変わりだ。つまりペチュニアの鉢植えは、宇宙の核にある謎と無秩序を映し出している。

3.7.7. "A Stupendous super computer"

 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』第25章でも、でたらめな宇宙の究極の意味探しが続いている。こんなふうに。

 はるか一千万年以上もむかしのこと、超知性汎次元生命……のある種族が、人生の意味についてのべつ議論するのはもううんざりだと考えた。そんな議論のせいで、かれらの愛するブロッキアン・ウルトラ・クリケットという娯楽(それらしい理由もなくいきなり人をぶん殴って逃げるという奇妙なゲーム)にしょっちゅう水を差されていたからである。そこでかれらは、本腰を入れてこの問題に取り組み、最終的な解決に持っていくことにした。(安原訳、p. 223)

真の実存主義者の精神に則るなら、これら超知性汎次元生命は、人生に内在すると思われる意味について熟考することの不条理さを理解し、ブロッキアン・ウルトラ・クリケットの終わりなきゲームに関われることのありがたみをより強く感じることになる。しかしながら、人生の意味は依然として灰色の霧のように内なる心に漂い続けたため、彼らはディープ・ソートというコンピュータを設計し、彼らのために人生の意味を計算するという厄介な任務を課した。

 そしてそのために、ずば抜けたスーパーコンピュータを建造した。このコンピュータは感動的に賢かったため、データバンクもまだ接続されないうちに、早くも「われ思う、ゆえにわれあり」というところから推論を始めていた。人々が気づいてスイッチを切るころには、すでにライスプディングや所得税の存在まで推論するに至っていた。(安原訳、pp. 223-224)

 その一方、ベケットの「ゴトーを待ちながら」の二人組のように、生命と宇宙と万物についての答えが出るのを辛抱強く待つ間、自分たちで自分たちのことを楽しませることになる。大事なことなので思い出しておきたいが、実存主義者によれば、待つという行為そのもののほうが待つ対象よりも重要――なぜなら意味を求めて待っていても意味は永遠に見つからないかもしれないからだ。「期待が続くのはしばらくの間――実存主義的で精神的な次元においては、何かのために待つのではなく、待つという行為そのもの」(States, 1978: 49)が重視される。
 ディープ・ソートは、その素晴らしい回路を用いて、実際に生命と宇宙と万物についての答えを計算してしまう。超知性汎次元生命たちはその答えをわくわくしながら待ち、そして叫ぶ。「もう二度と、朝に目覚めて頭を悩ますことはないのです――わたしは何者なのか、私の生きる目的は何なのか、私が起きあがらず仕事に行かなかったからと言って、この宇宙にほんの少しでも影響があるのかと」(安原訳、p. 238)。そして七百五十万年後、ディープ・ソートはその究極の答えは「42」だと告げて群衆を呆然とさせる。42だなんて、生命と宇宙と万物についての究極の答えにしては、あまりにムカつくほどにつまらないではないか。
 ディープ・ソート自身では究極の問いを計算することはできないが、42という答えの意味を理解するために「究極の答えに対する究極の問いを計算することができる」コンピュータを設計することはできると告げて、がっかりした超知性汎次元生命を慰める。そしてディープ・ソートが設計したコンピュータというのが、実は地球であり、「無限にして精妙な複雑さをそなえ、有機生物そのものが演算基盤を構成する」(安原訳、p. 245)。
 そのため、ディープ・ソートは、人生の意味という絶え間ない疑問に答えるため、すべての人間を地球という演算基盤の構成要素となるようプログラムした。ディープ・ソートが個々の人間に人生の意味について考えるよう仕込んだとしたら、結果として実存主義者の主張に立ち戻るのではないかと考える人もいるかもしれない。しかしながら、幸運なことに、ディープ・ソートの預かり知らぬところで、フォードとアーサーという生命体は、無意味な冒険の数々を繰り広げた後、人生の意味を問うのをやめて、狂気という方法で自分で自分を楽しませることによって、意味を創り出し始める。 

3.7.8. "This is a lonely place"--a not-so-randam South African play

 同じようなテーマは、南アフリカの劇作家アソル・フガードの戯曲「ボーズマンとレナ」にも見受けられる。この戯曲が描き出そうとするのは、苦難の循環構造のような人生に意味を形作ろうと不毛な試みをする二人の放浪者の姿だ。実存主義や不条理の伝統に則り、レナはボーズマンにこう言う。「今夜だけはそういうのはやめて。ここは孤独な場所。私たち二人だけしかいない。私に話しかけて」。レナに話すことなど残っていないとボーズマンが答えると、彼女は言う。「私、気が狂ってしまう」(Fugard, 1983: 9)。つまり、人生のむなしさや実存の孤独に向き合ったなら、あとは自分で自分を楽しませるしか手はない。たとえその結果、狂気へと立ち戻ることになるとしてもだ。ボーズマンとレナは、ベケットの道化二人や『銀河ヒッチハイク・ガイド』の超知性汎次元生命と同様に、常に自分自身を生み出し、前に進み、何者かになろうとし続ける。

3.7.9 "Hang the sense of it"

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』第30章では、スラーティバートファーストという謎めいた老人が、実存主義者たちの、究極の意味などないのだから生きるためには自分で自分を楽しませることが必要、という主張を裏付ける。

「老いぼれてしまったせいかもしれんが、わたしはずっとこう思っておるんだ――ほんとうはなにが起きているのかわかる可能性は、もうお話にならんほど小さいものだ。とすれば、意味なんぞ考えるのはやめにして、その時間をほかのことに使えと言うしかなかろう。たとえばこのわたしだ。海岸線の設計が仕事だ。ノルウェーでは賞をもらった」(安原訳、p. 257)

 上記のスラーティバートファーストの言葉は、実存主義哲学や『銀河ヒッチハイク・ガイド』における人類の不条理な状態に対する、かなり直接的な言及の一つである。また、「泡」のような存在であるという概念や、泡の外側で回り続けることの切実さを反映している。
 結局、スーパー・コンピュータだった地球は破壊され、究極の疑問を見つけるという希望も失われた。正しい問いが何なのかわからなければ、正しい答えも用をなさない。

3.7.10. Of questions and answers

 アーシュラ・K・ル・グィンの古典的SF小説『闇の左手』では、答えに注目するのではなく、正しく問うことに力点が置かれている。使節として惑星〈冬〉を訪れた主人公が予言者たちに彼らの行について学びたいと相談した時、次のように教えられる。

「質問をこまかく限定すればするほど、答も正確になります……曖昧さは曖昧さを生みだします。そしてある種の質問にはむろん答えられないのです」(p. 82)

 答えられない問いをしてしまったらどうなるか、と主人公が尋ねると、

「解答不能の質問が予言者たちをだめにしてしまったことがあります……ショルスの領主の話を知っていますかね? 彼はアセンとりでの予言者たちに人生の意義とは何か? という問にむりやり答えろと命じた。ええと、二千年ばかり前の話ですよ。予言者たちは六日六晩、暗闇にこもった。そしてとうとう、“独身者”は緊張病にかかり、“うすのろ”は死に、“倒錯者”はショルスの領主を石でなぐり殺し……」(p. 82)

 人生の意味についての問いは究極的に解答不可能のようであり、無理に答えようとすると、ル・グィンの小説の予言者がそうなったように、死ぬか発狂するかのどちらかで終わることになりそうだ。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、汎次元生命体の一人であるフランキー・マウスが地球に降り立ち一千万年にわたるプログラムを運営していたが、我々が人生の意味などという問いに向き合わされた時に感じるであろうことをうまく要約してくれる。

「そりゃ、理想主義もけっこうだし、純粋科学の尊厳もけっこう。いろんな形の真理の探究もけっこうだが、いつかは疑問に思いだすときが来るんじゃないかな。ほんとうに真理なんてものがあるのかとか、この無限の多次元宇宙はどこもかしこも、まずまちがいなくひと握りの変質狂が動かしているにちがいないとかね。そこへもってきて、そんなことを突き止めるのにまた一千万年かけるか、金をもらっておさらばするかって選択肢を目の前にしたら、わたしとしては頭を使いたいところだな」(安原訳、p. 268)

 『宇宙の果てのレストラン』からアダムスの言葉を引用すると、「はじめに、宇宙が創造された。これには多くの人が立腹したし、よけいなことをしてくれたというのがおおかたの意見だった。」(安原訳、p. 7)。これは、サルトルが言うところの「事実性」や、ハイデガーの「被投性」という概念にも見ることができる。先に書いた通り、この「事実性」は、しばしば人々を絶望の洞窟の住人に変えてしまうのだから。

3.7.11. "The Coming of the Great White Handkerchief"

 この世界は理解しがたいというテーマは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に馬鹿馬鹿しい形で盛り込まれていたが、『宇宙の果てのレストラン』でも続く。この小説には、人類の馬鹿げた企てにより、徹底して無意味な宇宙に意味がもたらせるというおもしろさがある。たとえば、ジャトラヴァート人が宇宙をどのように説明しているかを見てみよう。「ヴィルトヴォードル星系第六惑星のジャトラヴァート人の考えでは、この宇宙はすべて“大きな緑のアークルシージャー”という生物がくしゃみをしたときに鼻から飛び出してきたのだという」(安原訳、p. 7)。このジャトラヴァート人の創世神話は、アダムスが創造論をうそくさいと考えていることの表れだろう。ジャトラヴァート人は小さな青い生きもので、常に彼らが言うところの“大きな白いハンカチの到来”を恐れている。創世神話と救世主的な預言者に振り回されているジャトラヴァート人の世界観は、キリスト教の世界観や創世記に基づく宇宙の起源のパロディとみなすことができる。まるで人類の鏡のような生き物は、理解不能な宇宙に放り込まれ、ただでさえ不条理な世界にさらなる馬鹿げた説明を付け加えている、と主張することも可能だろう。
 とはいえ、たとえ作り上げられた創世神話が想像の産物だったとしても、必ずしも無意味ではないのではないか。J・R・R・トールキン は、ミルトン・ウォルドマン宛の手紙の中で、彼が作り上げた創世神話『シルマリルの物語』について言及している。「自分が作り上げているのではない、と思わない時はなかった」([1951]1999:x)。また、「私以外の誰かの興味をひくとは思わない」([1951]1999:x)、とも。幻想や創世神話から造り出された主観的な意味は、それが現実か非現実かとは別に、重要な問題となる。自分たちの創世神話を創り出して“大きな白いハンカチの到来”を待っている、というのは、一見ひどく恐ろしいことだけど、アダムスの描くジャトラヴァート人は50本以上の腕を持ち、少なくともエアゾール式制汗剤を発明して楽しく暮らしている。

3.7.12. "Did I ask for an existential elevator?"

 ジャトラヴァート人はエアゾール式制汗剤を発明した。では、実存主義のエレベーターは? 小熊座ベータ星にある『銀河ヒッチハイク・ガイド』のビルを訪れたゼイフォード・ビーブルブロックスは、実存主義のエレベーターと出くわし、次のような会話を交わす。

「いらっしゃいませ」エレベーターは愛想よく言った。「今回はわたくしがお客さまのご用を務めさせていただきます。ご希望の階をお知らせください。わたくしは〈シリウス・サイバネティックス〉社設計のエレベーターでございまして、『銀河ヒッチハイク・ガイド』をお訪ねくださったお客さまを、ご用のオフィスにお連れするのが仕事でございます……」
「なるほど」ゼイフォードはなかに足を踏み入れて、「しゃべる以外になにができる?」
「上に参ります」とエレベーター。「下にも参ります」
「けっこう」とゼイフォードは言った。「上に行こう」
「下にも参れますよ」エレベーターが指摘した。
「ああ、わかったわかった。上に行ってくれ……」
「お尋ねしたいのですが」エレベーターは、このうえなく愛想がよく、このうえなく理性的な声で尋ねた。「下にどんなすばらしいことが待っているか、よくお考えくださいましたでしょうか?」……
「どんなすばらしいことが待ってるって?」ゼイフォードはうんざりと言った。
「そうですね」ビスケットにかける蜂蜜のように甘い声で、「地下室がございます。マイクロ資料室に、暖房施設に……え……」
 黙り込んだ。
「とくべつ浮き浮きするものはございませんね」エレベーターは認めた。「ですが、ともかく選択肢のひとつではございます」
「やれやれ」ゼイフォードはつぶやいた。「実存主義のエレベーターなんか頼んだ覚えはないぞ」(安原訳、pp. 63-64)

 エレベーターの存在は、上に行ったり下に行ったりの反復行動するものと決められている。それゆえ、エレベーターは自分のことを、永遠にコンクリートのシフトの中で上下運動を繰り返すことを運命づけられた、いわば電動シーシュポスとみなしているのかもしれない。シーシュポスが究極の超越的な宿命を持たなかったのと同様に、エレベーターも人生における究極のゴールを持たない。シーシュポスは、神々によって丘の上に巨石を運び上げてはまた転がり落ちる、という行為を永遠に続けることを運命づけられたが、その労苦が、たとえば、寺院とかビルといった建物として結実するのを目にすることは決してない。彼は自身の労苦を、自身に残された最後のものである不条理なプライドと忍耐をもって、ただ耐え忍ぶ。とは言え、もしシーシュポスに究極のゴール、たとえば寺院を建てるといったものがあり、そしてその寺院が完成したなら、彼は深い絶望から巨石の下敷きになってしまうのではないか。少なくとも現時点のシーシュポスには、何も期待しないということで人生を楽しむことができる。なぜなら、カミュに言うように、それ以上何もないからだ。
 同様に、アダムスの実存主義エレベーターは、何の達成もないまま上に行ったり下に行ったりするという巨石を負っている。これは、「自分自身の無から出た」行動だ。頂点に立つこともなければ、何かすごいことを達成できるわけでもない。言ってみれば、自身の存在の底に意味を見出せないのだ。以下は、電動シーシュポスの考え方が描写されている箇所である。

 いわば当然のことだが、知能と予知能力を与えられた多くのエレベーターは、頭の要らない単純作業にひどい欲求不満をつのらせるようになった。なにしろ日がな一日、ただ上がっては降り降りては上がりをくりかえすだけなのだ。一種の実存主義的抵抗としてちょっと横に動く実験をしてみたり、意思決定に参加させろと要求したり、あげく地下にじっとうずくまってふさぎ込んだりするようになった。(安原訳、pp. 66-67)。

 横に動くというエレベーターの反抗的な実験には、意味のあるものにしようとする、人類特有の絶望的な試みを見ることができる。だが、『シーシュポスの神話』が教えてくれたように、どんなに存在が不条理だとしても、不条理な英雄となるために、つかの間の人生を楽むべきだ。この点で、アダムスが描く実存主義のエレベーターは、生きることへの愛も見られず、反抗に情熱を傾けるどころか地下で絶望しているだけなので、不条理な英雄とみなすことはできない。カミュがシーシュポスの苦しみについて語ったように、「頂上をめがける闘争ただそれだけで、人間の心を充たすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ」(p. 194)。でもアダムスの実存主義エレベーターの幸福そうな様を想像するのは不可能である。人間の条件と不条理な英雄性に関することを、彼らは単に理解できるようプログラムされていないのだ。

3.7.13. "One fairly small and crowded nut tree"

 この他にも、『宇宙の果てのレストラン』には存在の不条理についての強力でとびきり愉快な考察がある。それが、それほど大きくない人口の密集したナッツの木で暮らす種族の話だ。この種族の無益な存在について、アダムスは次のように書いている。

銀河系の東の渦状腕の片隅に、オグラルーンという大森林惑星がある。この星の「知的」生物はひとり残らず、昔からずっと、ただ一本のナッツの木に住んでいる。それほど大きな木ではないから人口密度はたいへんなものだ。かれらはこの木のうえで生まれ、成長し、恋をし、ちっぽけな思弁的論文を樹皮に刻んで、生の意味と死の無意味さと産児制限の重要性を論じ、極端に小規模な戦争をささやかにくりひろげ、死んだときには人の通わぬ外縁部の枝の裏側にくくりつけられる。(安原訳、p. 99)

 もちろん、ナッツの木をこの世界の顕微鏡的宇宙とみなすことができよう。人は特定の環境の中に投げ込まれる。それが東の渦状腕のナッツの木だったり、「まったくぱっとしない小さい青緑色の惑星」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 5)だったりするだけだ。取り巻く環境とか境遇がどんなものであれ、人々は生の意味と死の無意味さについて推察し、結果をその世界のナッツの木の皮に刻みつけずにいられない。「小規模な戦争」は、明らかに人類の努力の無意味さや、ウィリアム・バレットが言うところの「無から飛び出した企て」(Barrett, 1962: 247)を反映している。とらえ難い生の意味について生涯考え抜いた挙げ句、死んで土に還るか、あるいは人通りの少ないナッツの木の枝にくくられるのだ。

3.7.14. "The entertainment possibilities of a speck of dust"

 前章で、気の触れた「宇宙の支配者」について言及した。老人と猫が意味を作り出すわざとらしい企ても、同じくらい不条理だ。彼が紙と鉛筆に魅了される様は、不条理の劇場に登場したとしてもおかしくない。

紙で鉛筆を包み、鉛筆の尖っていないほうを紙にこすりつけ、次には尖っているほうをこすりつけた。すると線が書けたので、毎日のことだが彼はうれしくなった。(安原訳、p. 276)

 紙に線が書けることを「発見した」後、彼は別の娯楽の源へと目を向ける。かれこれ一週間ばかり、テーブルに話しかけてはどう反応するのかを観察しているのだ。飼い主の指示に従いながら、猫は限られた資源の中で好き勝手に楽しんでいる。「猫は埃で遊ぶのに飽きて、魚に飛びかかっていった」(安原訳、p. 276)。老人は、孤立した小屋の外の世界の存在について疑いを抱いており、生命と宇宙と万物についての究極の意味になどまったく関心がない。それ故、彼は「存在の泡」を長持ちさせるため、自分を楽しませることをよすがとする。

3.7.15. Scrabble

 『宇宙の果てのレストラン』のラストで、フォードとアーサーは先史時代の地球に取り残され、それでも究極の答え、42に対する究極の問いを見つけ出そうとしている。アーサーは、先史時代の人類に進化を促そうと、オリジナルのボードゲーム、スクラブルを教えることを決意する。しかしながら、これは不可能な行為であり、結局、「この連中が知ってる言葉は唸り声だけだし、その綴りもわからない」(安原訳、p. 322)。不毛なスクラブルの授業を数週間続けた後、原住民の一人がたまたま綴ったのが「FORTY TWO」だった。
 そこでアーサーは、穴居人の精神から究極の答え、42に対する究極の問いを引っぱり出すための画期的なアイディアを思いつく。が、その結果は「What do you get when you multiply six by nine(6掛ける9はいくつですか」であり、無意味さが明らかになっただけだった(実際のところ、これは計算ミスであり、問いは「6掛ける7はいくつですか」であるべきだったことに注意)。このことの無意味さの立証として、アーサーが原住民に42とは一体どういう意味なのかと問うと、「ひとりは寝ころがり、両足を高くあげ、寝返りを打って眠り込んだ」(安原訳、p. 327)
 この小説の最後には、フォードもアーサーも、究極の意味を明らかにすることの不毛さを受け入れる。先史時代の地球で二人の女性が近づいてくると、フォードは「こいつとふたりで人生の意味について考えてたんだよ。ばかな話さ」(安原訳、p. 333)と釈明する。そして、ばかばかしさを心に留めた上で、「なにのなんのためでもないんだ……こっちへおいでよ、ぼくはフォード、こいつはアーサー。ちょうどいまなにもすることがなくて退屈するつもりだったんだけど、退屈はいつでもできるから」(安原訳、p. 334)。
 最後のしめくくりで、フォードは、汚れなき先史時代の地球の姿について語りながら、人生に謎めいた意味を押し付けるのではなく、単純に祝福し愛すべし、と、まるでカミュのようなことを言う。「もうどうでもいいよ。問題なんかなんにもない。今日はこんなにいい天気なんだし、いまを楽しもうぜ。太陽は輝き、山は緑で、川は谷を流れ、木々は色づきはじめてる」(安原訳、p. 336)。

3.7.16 "An unfortunate accident with an irrational particle accelerator, a liquid lunch and a pair of rubber bands"

 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ3作目、『宇宙クリケット大戦争』の第1章で、無限引き伸ばされワウバッガーという不死人が登場する。彼の目的は、既知宇宙を侮辱すること。この目的があればこそやる気を出し、孤独な宇宙空間を楽しみで満たすことができる。

彼には目的があった。あまり褒められた目的ではないし、そのことは本人がまっさきに認めるだろうが、少なくとも目的にはちがいないし、少なくともそのおかげで前に進むことはできる。(安原訳、p. 11)

 説明によると、この異星人は、彼自身の事実性として、自ら望んで不死になったわけではない。むしろ「彼が不死性をうっかり獲得してしまったのは、さる不運な事故のためだった。その事故には不合理粒子加速器と、オチャケと称して昼間っから飲む酒と、ゴムバンド二本とが関わっていた」(安原訳、p. 12)。この事故の詳細は重要ではない。なぜなら、「それが起こった状況をそっくりそのまま再現できた人はひとりもいなかった」(安原訳、p. 12)からである。ワウバッガーの状況は、またしても、宇宙の不作為な構造の結果なのだ。
 無限引き伸ばされワウバッガーは、永遠に続く時間の中で宇宙を侮辱するという厄介な任務を遂行するという意味で、異星人版シーシュポスと言えるかもしれない。ただし、不条理な英雄のシーシュポスには抵抗と実存主義的反逆という特徴があったのに対し、ワウバッガーは絶望していないし宇宙を侮蔑してもいない。彼の反抗とは、生きることを楽しみその美を堪能してやろうという決意である。彼は決して不条理な英雄ではなく、宇宙を愚弄することに崇高な目的など持っていない。無限引き伸ばされワウバッガーは、鬱病ロボットのマーヴィンが自身の存在を傷つけられたことに憎しみと苦悩を募らせるままにした時と同じ、実存主義的な間違いを犯している。彼自身の存在の泡には、不条理な英雄としてのスペースはない。
 コルファーの小説『新 銀河ヒッチハイク・ガイド』では、人々はワウバッガーが来るのを楽しみにし始めている、「アルファベット順に並んで、侮辱されてくれようときゃーきゃー言っている」(上巻、p. 122)ことがわかり、既知宇宙侮辱企画にうんざりするようになった。ワウバッガーにとっては人を驚かせる要素こそがやりがいだったのに、もはや人々が彼の失礼な長口舌に驚かなくなった以上、また以前通りの「不機嫌な退屈」(上巻、p. 121)に戻ってしまった。真の不条理なアンチヒーローにふさわしく、ワウバッガーは無意味さにさらされ続けて死を待ち望んでいる。コルファーの小説で、ワウバッガーはこれまでに本来なら死ぬはずの物質を何度も飲んだり、危険な猛獣を煽ったりしたが、いずれも効果がなかったことが明らかになった。ゼイフォードは珍しく共感し、“蜘蛛魔女”をくらったことがあるかと訊くと、ワウバッガーはこう答える。「あるとも。カクテルに混ぜて飲んでいる。気分が悪くなることすらない」(上巻、p. 126)。
 そこでゼイフォードは、ワウバッガーがグレビュロンの死の格子からみんなを助けてくれたら、雷神トールに頼んでワウバッガーの苦しみを終わらせてやる、と宣言する。ワウバッガーいわく、「たしかに、名高いトールのハンマー“ミョルニール”なら、わたしの息の根を止められるかもしれん」(上巻、p. 128)。
 結局のところ、ワウバッガーは空っぽの宇宙空間をロマンスで満たすことに決め、死ぬのはまだ先でいいと結論を出すのだが。

3.7.17. "I decided I was a lemon for a couple of weeks"

 『宇宙クリケット大戦争』でとびきりおもしろい箇所は、フォードとアーサーが先史時代の地球で正気を保とうと企てる場面だ。前章では幻想と関連づけて簡単に取り上げたが、不条理という観点からみても同じくらい興味深い。我々には、この二人の主要登場人物はベケットの道化に姿を変えたように見える。

「てっきり死んだもんだと思ってたよ……」とそれだけ言った。
「ぼくもしばらくそう思ってた」フォードは言った。「でもそのあと、自分はレモンだとわかったんだ。二週間ほどだったけど、そのあいだはずっとジントニックに飛び込んだり飛び出したりして遊んでたよ」……
「どこでその」彼は言った。「その……」
「ジントニックを見つけたのかって?」フォードは陽気に言った。「自分をジントニックだと思ってる小さな湖を見つけて、飛び込んだり飛び出したりしてたのさ。少なくともぼくは、その湖が自分をジントニックだと思ってると思ったんだ」
「まあでも」と付け加えてまたにっと笑った。正気の人間が見たら、あわてて森に逃げ込みそうな笑顔だった。「あれはぼくの妄想だったかもしれないな」(安原訳、p. 19)

 さらにフォードはアーサーに、アフリカに行って突拍子もないことをしたと話す。「ただの趣味で」(安原訳、p. 21)動物を虐待したりもしたし、空を飛ぼうとしたりもした。フォードの振る舞いは、単にグロテスクすれすれというにとどまらず、実際に狂気から発したものだ。が、人類にとってこの種の狂気に折り合いをつけるのなんて楽勝である。誰もが自分の実存の核に空洞があることを知っているのだから。
 『宇宙クリケット大戦争』とジョセフ・コンラッドの古典的小説『闇の奥』に、顕著な類似を見出すことができるかもしれない。フォードはおのれの狂気を罪なきアフリカの動物に向けた。『闇の奥』で、クルツはアフリカのジャングルと自分の心、その両方の混濁した狂気に吸い込まれる。クルツの狂気は、彼が木の杭に並べさせた、ひからびた人のクビが歪んだ笑顔を見せている様を反映している。フォード・プリーフェクトは、存在の核にある空洞を観察し、自身を狂気に向かわせた。同様に、人類の努力などとことん不毛で何も生み出さないことに向き合ったクルツはこう叫ぶ。「恐ろしい! 恐ろしい!」(p. 171)。フレデリック・R・カールのエッセイ、「死の舞踏への招待――コンラッドの『闇の奥』」によると、

……『闇の奥』は、典型的な実存文学作品の一つだ。物語のイメージは、詩のイメージに似て、人間の不条理観、そして孤立感を深めている。薬に酔って青ざめ、重病で死にかけているクルツの姿に、権力の虚しさを努力の不毛さの引き延ばされたイメージを見る。

 クルツの狂気への転落は、やり方が違うだけで、フォードの体験と通底している。ミシェル・フーコーは、著書『狂気の歴史――古典主義自体における――』の中で、狂気とは人間に際立った特徴だと主張した。「狂気と狂人は、威嚇と嘲笑、世界のもっている、目がくらむほどの非理性、人間のちっぽけな愚かさという多義的な姿をした、中心人物となる」(p. 30)。人類がおのれの狂気に魅了されてきたことについて、フーコーはこう語る。「狂人の相貌が西洋の人間の想像力につきまとったことはまったく真実である」(p. 31)。フーコーいわく、狂気が芸術作品の花開いたことは、鑑賞者自身が持つ精神異常を反映したのだと考えれば納得できる。「創作活動は一つの空虚、一つの沈黙の時間……をつくりだすのであり、世界が自分に問いかけざるをえない、和解を許さない分裂をひき起こすのである」(p. 559)。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズにおいて、アダムスは、単に人間の狂気を映し出すのみならず、狂気とは意味つけのメカニズムなのかもしれないと提示する。たとえば、フォードが自分を「レモン」だというフリをする時には、実際のところ、自分自身の不条理なまでの無価値さから気の触れたプロジェクトを「ぶち上げる」。いま一度、エミリー・ディキンスンの詩を引用しよう。

ひどい狂気は識別する眼にとって
この上ない正気――
ひどい正気は――全くの狂気――
ここに、多数が
全体のように跳梁する――
賛成すれば――あなたは正気で――
異議を唱えれば――あなたは忽ち危険人物――
そして鎖をもって扱われる。(四三五番)(p. 16)

3.7.18. "Bistromathics"

 アダムス作品における狂気のテーマには、不条理と不条理主義のテーマが混ざり合っている。だが、『宇宙クリケット大戦争』第6章では、先に述べたテルトゥリアヌスの不条理主義が表に出てくる。スラーティバートファーストの宇宙船はイタリアン・レストランに似ていて、スラーティバートファーストが言うところの「レストラン数論」(安原訳、p. 72)で駆動する。その結果、小さな部屋でロボットたちが食事をし、別のロボットたちが給仕することになる。「そしてそのすべてがいっしょになって、ちょっとしたダンスをつくりあげている。つまり、複雑な一定の手順に従って、メニュー、伝票、札入れ、小切手帳、クレジットカード、時計、鉛筆、ペーパーナプキンが操作されているのだ」(安原訳、p. 71)。スラーティバートファーストはアーサーたちに「レストラン数論」は「超科学が生んだ最も強力な情報処理理論」(安原訳、p. 72)だと説明する。アーサーには到底信じられず、目の前に広がる光景は基本的にジョークなのだと考える。

そうと信じる気にはなれなかった。いくらなんでも、この宇宙があんなふうに動いているわけがない。そんなことはありえない。そんなふうに思うのはばかげている。どれぐらいばかげているかというと……と考えかけて、そこでその方向に考えを進めるのを中止した。どんなばかげたことにしろ、彼に思いつけるぐらいのことはすでにほとんど起きてしまっている(安原訳、p. 70)。

 この章の中で先に述べたように、テルトゥリアヌスは、キリスト教信仰はあまりに不条理ゆえに逆に真実にちがいない、なぜならあんな不条理な話をでっち上げるなんて誰にもできないからだ、と主張した。これと同じことが、アーサーが体験したレストラン数論のような不条理にも当てはまる。この不条理主義について、アダムスはこう表現した。

どんな不可能性計算にも擬似相反性・循環性という性質があって、実際には無限に不可能なことほど起こりやすくなるのである。それもたちどころに起きてしまう(安原訳、p. 134)。

 ピーター・シモンズは、「宇宙」と題した記事の中で、一般的に宇宙は秩序あるシステムとみなされていると書いた。

宇宙の構成要素とか物事には、ある程度の偶発性はあるにしても、それなりの理屈も存在する。どんなに少なく見積もっても、何らかの時空的な繋がりがある法則によって構成されたシステムで出来ている(Simons, 2003: 247)。

 しかしながら、ジョン・グリボンは著書『時間の果てを探して』の中で、宇宙は秩序ある構造をしているかのように見えるけれど、もともと不条理なものだと述べている。「常識は、宇宙の法則を導き出すための良いガイドにはなるとは限らない」(1992: 198)。

3.7.19. A mattress called Zem

 実存主義者と不条理主義者のテーマは『宇宙クリケット大戦争』の第9章に入っても続くが、哲学的視点は異なっている。スコーンシェラス・ゼータ星という惑星では、沼地でセンチメンタルなマットレスの一群が暮らしている。「多くは捕まり、殺され、乾かされ、輸出され、上で眠られる。誰もそのことを気にしてはいないようで、全員がゼムと呼ばれていた」(風見訳、p. 75)。マットレスたちが全員「ゼム」を呼ばれていたのは、ひょっとすると仏教の禅への上手なほのめかしなのかもしれない。禅の解説書によると、

私たちの苦しみは、この流動的で相互に影響を与え合うような経験の瞬間の上に独立した自我という幻想を置き、そして自我を取り巻く力で境界線が失われるのを恐れ、偽りの自我を守ろうとすることから始まる。真の悟りとは……個別の存在などなく、「天地我と同根、万物我と一体」と気づくことである。(Blackstone and Josipovic, 1986: 52-53)

 仏教の禅という側面を心に留めておくと、スコーンシェラス・ゼータ星のマットレスがすべて「ゼム」と呼ばれることで、個々の存在として生きているというのは幻想であると知らしめ、すべてのマットレスが宇宙の万物と一体であるという事実を強調するためとも考えられる。仏教の禅は、実存主義の用語を使うなら、対自存在なるものを受け入れてはならないと我々に促している。むしろ即自存在、宇宙の中の木々や雲やチェスタフィールド・ソファ等で成り立つタペストリーであるべし、と。20世紀の禅の達人は、次のように説明する。

万物一体こそが真実……誤って自分自身を個別の存在からなる世界と立ち向かおうとするなら、反目や強欲、そして必然的に、苦しみが生み出される。座禅の目的は、精神からこのような汚辱の影を振り払い、心の奥底からすべての生命と一つになる経験をすることにある。

 スコーンシェラス・ゼータ星の場面は、無というテーマが全面に出ているという点で、不条理劇を思い起こさせる。

 湿原の水面に霧がまといついている。沼地の木々は霧に包まれて灰色で、丈の高い葦も見えないほどだ。霧は、ひそめた息のようにじっと垂れ込めている。
 動くものはない。
 静寂があるだけ。
 太陽は弱々しく霧と闘い、こちらにわずかにぬくもりを、あちらにわずかに光を投げかけようとしたが、どうやら今日もまた延々と空を渡るだけに終わりそうだった。
 動くものはない。
 長い静寂。
 動くものはない。
 静寂。
 動くものはない。
 スコーンシェラス・ゼータ星では、丸一日がこれが終わるのもめずらしいことではない。今日もやはりそんな一日になりそうだった。(安原訳、pp. 80-81)

 『宇宙クリケット大戦争』から引用したこの箇所では、無と静寂(silence)が歯擦音(シューとかシーという音)で強調されている。霧(mist)、水面(surface)、沼(marches)とか、丈の高い葦も見えない(tall reeds indistinct)とか。静寂という概念は、仏教の禅における静穏を強く想起させる。ロバート・M・パーシグは著書『禅とオートバイ修理技術』でこう語る。「禅のもっとも称賛すべき点は、静寂を奨励することにある」。
 このような「無」は、E・M・フォースターの小説『インドへの道』に出てくるマラバール洞窟でも暗示されている。この洞窟では、何を言おうと、意味を欠いた空っぽな音の泡となって戻ってくる。

マラバール洞窟の反響は……明確さをまったく欠いている。何を言っても答えはいつも同じ体調な不協和音で、側壁にそってあちらこちら移動しながら、最後には屋根の中に吸い込まれてしまう。人間の使うアルファベットでは、バウム Boum とかバウ・アウム bou-oum あるいはアウ・バウム ou-boum という、まったくにぶい音以外には表現できない。希望の言葉も、丁重な言葉も、鼻をかむ音も、靴が鳴るきゅーきゅーという音も、その反響はすべて「バウム」である。(pp.242-243)

 フォースターの小説においてマラバール洞窟が空っぽの音の塊を反響する様は、まるで「究極の意味」を見つけ出そうとあがいているかのように思えてくる。『宇宙クリケット大戦争』のスコーンシェラス・ゼータ星のこの場面では、太陽は霧に包まれた中をがんばって昇り、日々何事も成し遂げられないままに終わるという、まるで不条理な英雄のように描かれている。が、マーヴィンと実存主義のエレビーターの話と同様、太陽は絶望を慰撫するのではなく、立ち直って元気いっぱいで霧まみれの新しい一日に立ち向かう。「数時間後には、その落とした肩をそびやかして顔を出し、また空に向かって昇り始めた」(安原訳、p. 81)。

3.7.20. "The dew has clearly fallen with a particularly sickening thud this morning"

 不条理と向き合った時の太陽の勇気ある立ち直りっぷりと並行して描かれるのが、鬱病ロボットマーヴィンである。沼地を陰気な様子でとぼとぼ歩いていたマーヴィンと出会したマットレスのゼムは、しばしお天気の話をちょっとお天気の話をしようともちかける。マットレスは、ベケットの道化のように、天気の話は最低限の娯楽というかありがたい気晴らしになると考えている。太陽がまたしても「いくら頑張ってもなんの甲斐もない」(安原訳、p. 81)まま地平線に沈むまでの、時間潰しになるかもしれない、と。しかしながら、マーヴィンは天気の話をするには理想的な相手とは言えず、会話は次のように進む。

「おれの名はゼムだ」マットレスが言った。「ちょっと天気の話でもしようじゃないか」
 マーヴィンはトボトボ歩きをやめた。
「今朝、滅入るようなドサッという音をたてて」彼は意見を言った。「露がおりたらしい」(風見訳、p. 76)

 ここでもまた、マーヴィンは不条理という虚無主義の元凶を体現している。

3.7.21. "Squornshellous swamptalk"

 スコーンシェラス・ゼータ星での出会いの場面は、無から立ち上げた無意味な企画を反映しているとみなせばとりわけ興味深い。ベケットの道化の一人であるエストラゴンは、『ゴドーを待ちながら』でこう言った。「人はみな生まれた時から気違いよ。そのまま変わらぬばかもある」(p. 141)。ナンセンスから企画を立ち上げて、ナンセンスに行き着く。マーヴィンとマットレスのゼムによる次のやり取りは、この点を明らかにしている。

「ねえ、どうしておんなじとこをぐるぐるまわってるの?」
「片足が引っかかっているからだよ」マーヴィンはあっさり答えた。 
 マットレスは気の毒そうにそれを見て、「なんだかずいぶんお粗末な足に見えるけど」
「そのとおり」マーヴィンは言った。「お粗末だよ」
「ヴーン」マットレスは言った。
「そう言うと思った」マーヴィンは言った。(安原訳、p. 86)

 マットレスは、心をこめた「ヴーン」という言葉で共感の気持ちを表現するが、「ヴーン」という言葉自体は、勿論、何の意味もない。マーヴィンは、このナンセンスに対し、「そう言うと思った」と感謝をこめて返事をする。このちょっとしたやり取りには、実存主義者たちが人生の根本で見つけた無意味と無を描き出している。「スコーンシェラス・沼トーク」の恣意的な構造については、前章で簡単に触れた。先に引用した「ヴーン」は、「意味の記号はすべて恣意的であり、また記号なしに現実を理解することはできない」(Drabble and Stringer: 1996: 562)。「ヴーン」という言葉自体は、我々が知っている、あるいは表現する現実のいかなる側面とも何の関係もない。これは、シニフィエとシニフィアンの間のズレに言及しているのみならず、実存主義者の目で見た現実のランダムな性質をも示している。

3.7.22. "Trying to fly and talking to birds"

 『宇宙クリケット大戦争』において、フォードはおそらく、無や物事の無意味さを可能な限り最大限に受け入れ、究極の意味の代替として楽しくやっていくことを選ぶ心構えが十分以上にできている登場人物の一人である。実存主義的な不安を和らげるにはアルコール飲料がおすすめだといい、自分でもしょっちゅう酔っぱらっている。理解不能なことや不条理なことと出会すと、フォードはいつも大量の酒を飲み、女の子と踊る。ひどい二日酔いにすら前向きで、「一週間後に目が覚めたら銀河系の反対側にいて、腎臓がなくなってて妻が三人いて刺青まで入れてた」(『新・銀河ヒッチハイク・ガイド』、 p. 161)こともあるが、それもまた束の間の退屈しのぎだと考えている。
 〈ヴーンドゥーン聖なるランチ修道会〉は、フォードが抱く確たる信念、実存主義的不安を和らげる処方箋としての快楽主義を支持している。

ランチは現世の一日の中心に位置するものであり、また現世の一日は人の霊的な生と相似関係にあるものだから、したがってランチは(a)人間の霊的な生の中心をなすものと見なすべきであり、(b)雰囲気のよい高級レストランでとるべきである(安原訳、pp. 190-191)

 〈ヴーンドゥーン聖なるランチ修道会〉は、霊性であるとか究極の意味の探求であるとかいった事柄をバカにしていないにもかかわらず、人類の不条理な存在の核心は、その時その時を楽しく過ごすことであり、そうすることこそが意味をなすのだと考えている。
 『宇宙クリケット大戦争』の終盤、登場人物たちは気まぐれな宇宙において何とか自分を楽しませようと泥沼のあがきを続ける。たとえばアーサーは、すべての物事の背後に究極の意味があるのではないかという希望を育んでいるにもかかわらず、次第に一つところに落ち着いて、楽しみながら待つことに決める。待っているのは、ゴトーか、理由か、それとも説明だろうか。読者は、アーサーが惑星クリキットに定住し、そこでかなりの時間を空を飛んだり鳥と話す訓練に費やしたが、鳥との会話は「気が遠くなるほど退屈」(安原訳、p. 316)だとわかる。小説は、意味を見つけようという見当違いな企てをしているすべての人々を侮辱して回るため、まだ宇宙を放浪し続けていた無限引き伸ばされワウバッガーの再登場により、一巡して終わる。

3.7.23. A "perpetually recurring senselessness"

 『さようなら、いままで魚をありがとう』で、アーサーはもう一つの地球に戻る。先にベケットの『ゴドーを待ちながら』や南アフリカの戯曲『ボーズマンとレナ』に言及した際、不条理に基づく実存に起因する狂気への直接的な関連について述べた。それ故、アーサーが電話でBBCの所属長に長期間の不在について次のような説明をしたのも驚くにはあたらない。「もしもし、アーサー・デントです。半年も無断欠勤してすみません。頭がおかしくなてたもんですから」(p. 73)。BBCの上司のほうでもアーサーが狂気の発作を起こしたと聞かされてもほとんど動じず、「ああ、そうだったのか。おおかたそんなことだろうと思ってたよ。ここじゃしょっちゅうあることだからな」(p. 73)と切り返す。つまり、狂気というのはたいして珍しくもない概念ということだ。
 『さようなら、いままで魚をありがとう』で、フォードは狂気についての異星人の見解を開陳する。

 人生ってのはグレープフルーツみたいなもんだよ……つまり、オレンジがかった黄色で、外側はぶつぶつしてて、なかはびちょびちょしてる。種子も入ってる。ああそうだ、朝食に半分食べる人もいる。(p. 174)

 フォードの「深い智恵」は、意味を作り出すための類推思考を茶化している。狂気はフォードにはごく自然なものと化し、恐らく、時空が織りなす不条理のタペストリーについて知ったことで、一貫性のある意味を持ちたいという気にならなくなったのだ。
 この小説で、究極の意味を求めるというテーマは、アーサーとフェンチャーチが惑星プレリアムターンを訪れて「被造物への神の最後のメッセージ」を目にするところでクライマックスを迎える。メッセージは、「天井世界の神の明るさで燃えている」(p. 267)が、書かれていたのは「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」(p. 268)だった。この小説は、意味を待つのも、ゴドーを待つのも、神の最後のメッセージを待つのも結局は同じ――無でしかない、というメッセージを届けているようにも見える。
 この種の無意味や無という考えは、当然、ニーチェ のニヒリズムや神の死という信念を思い起こさせる。ニーチェ によると、

もともとの秩序などない。立ち上ってくるのは混沌であり、どこも見ず、何も望まず、もっとも美しく壊れやすいランダムな動きに任せ、湧き起こる自我などを振り返って考えない。深遠な無意味に身を置くこと。神意を信じ、自然の流れを監視し、悪から善を導き出し、天上だか地上だかの勝利のために災害を変形するなど無駄であり、過酷な事実に耐えられない臆病な羊が見る夢にすぎない。すべては無意味で、永遠に無意味であり続ける。(Earl, Edie and Wild, 1963: 80)

 アーサーとフェンチャーチは、神の最後のメッセージを見つめて、「ゆっくりと、言葉にできないほどに、大きな安堵感が、そしてまったき理解が胸にあふれてきた」(p. 267)。恐らく、彼らはついに、実存とは、無意味な音がこだまする泡の中に留まり続けることだと理解したのだ。人類に残された唯一の選択肢は、外見上この泡を回し続けることだとも言える。あるいは、登場人物たちは、キルケゴールのように、神は「唯一の正気である狂気」(Earl, Edie and Wild, 1963: 75)であるという信仰を理解したのかもしれない。決めるのは読者だ。
 『さようなら、いままで魚をありがとう』には、読者にカミュの「世界は幻想、何か永遠に続く超越的なものへの希望という幻想の鋳型である」という信念を思い起こさせるような、幻想や妄想への言及が多く見られる。たとえば、飛行機の中からアーサーとフェンチャーチのエロティックな夜間飛行を観察した高齢の女性は、「いままで人から聞かされてきたことは、なにからなにまでまちがっていたのだ。そう思うと、急にとても心が軽くなったような気がした」(p. 193)と思う。カミュによれば、「我々は、希望なしに生きていると認識すべきである。現状が唯一なのだ。明日はない」(Masters, 1974: 45)。が、彼はこう付け加える。「希望なしで生きるとは、絶望して生きることではない。幻想を抱かずに生きるということだ」(Masters, 1974: 45)。

3.7.24. Banana fruitcake and herring sandwiches

 アダムスの小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ5作目、『ほとんど無害』は、狂気とか、意味付けへの強迫観念といった、不条理のテーマを煮詰めて完結する。この小説で、著者は、無限不可能性ドライブと、宇宙の構造におけるその効果について言及する。

無限不可能性ドライブの登場によって、あちこちで惑星がまるごとバナナ・フルーツケーキ化するようになったため、マクシメガロン大学の由緒ある歴史学部はついに白旗をあげ、学部の歴史を閉じて建物を引き払った。あとを引き継いだのは、成長著しい神学・水球合同学部だった。(p. 10)

 ニーチェ の「在るのはカオスのみ」(Earl, Edie and Wild, 1963: 80)に同意するなら、宇宙のありようを解明しようとする人類の試みは馬鹿げているように思える。十分に時間をかけて現実の不条理構造を熟考すると、ひょっとすると惑星が突然お菓子になったのにも納得できるようになるかもしれないし、他のことも同様かもしれない。どうしてバナナ・フルーツケーキなのかと疑問に思う読者もいるだろう。でも、逆にどうしてバナナ・フルーツケーキではいけない? アダムスの宇宙構造が映し出しているのは、完全な無作為だ。ナシーム・ニコラス・タレブは、著書『ブラック・スワン 不確実性とリスクの本質』の中で、無作為な宇宙という概念を確信した上で、「人生は大きな出来事がいくつか積み重なってできている」(p. 6)のであり、「生きているとだけのことが……ものすごい比率の、偶然の出来事」と書いた。
 『ほとんど無害』で、存在の恣意性は「ランダム」と名付けられた、アーサーとフェンチャーチの子供というキャラクターにより一層反映されている。アーサーは、豪勢な旅を続けるために自分の貴重な精子を精子バンクに提供した。宇宙からのしっぺ返しのように、精子はトリリアンに移植され、「誰か」の子供をランダムに身篭った。ランダムはその名に沿うように成長し、手のつけられないティーンエイジャーになり、どこにも自分の居場所がないという理由で、宇宙と宇宙が内包するすべてを呪う。

「ここになら居場所があると思ったのに」彼女は叫んだ。「あたしはこの惑星から生まれたんだから! なのに来てみたら、おかあさんまであたしがだれだかわからないんだ!」払いのけるように時計を力まかせに放り投げた。時計はカウンター奥のグラスにぶつかり、内部機構が飛び散った。(p. 348)

 ランダムが時計を破壊したことは、宇宙が時間だか何だかに沿って論理的に構成されているわけではないことをほのめかしていると言えるかもしれない。時計を壊すという彼女の行動で、存在の混沌と無意味さに彼女が苛立っていることがわかる。ある意味、「時計仕掛けの宇宙」という概念が打ち捨てられたのだ。
 この小説では、人生が一貫して不条理であることはマクシメガロン大学の「地道にこつこつばかでもわかること研究所」が行ったニシン・サンドイッチの実験結果によって示されている。

 研究所の科学者たちはこうして、この世のあらゆる変化、発展、革新を引き起こす原動力を発見した。それはニシン・サンドイッチである。かれらはそういう趣旨の論文を発表し、あまりにもばかすぎると多方面から広く批判された。そこでデータを見直した結果、実際に発見されていたのは「退屈」だったこと、というよりむしろ、退屈の実際的な効用だったということがわかった。(p. 77)

 ニシン・サンドイッチは、バナナ・フルーツケーキと同様、存在の恣意性を指し示す機能を果たしている。課題に取り組む科学者たちの真剣さは、彼らの学術的な大望と研究対象のバカバカしさとのギャップを考えると、もはや不条理の域だ。「そういう趣旨の論文を発表」という形式的な言い回しには、不条理なアカデミズムを強調する効果がある。
 たびたび登場する「退屈」というテーマは、アーサーが遠く離れた惑星ラミュエラでサンドイッチで起業したことにも反映されている。

「アーサー、きみはこんなとこでなにをしてるんだ」フォードが突っかかるように尋ねた。
「そうだな」とアーサー。「おもにサンドイッチを作ってるよ」……
「それで楽しいのか?」
「うん、まあね、けっこう楽しんでるよ、正直な話。いいナイフを手に入れたり、いろいろね」
「それじゃたとえば、脳みそが腐ったり気が狂ったりあっと驚いたりむかむかしたりするほど退屈だとは思わないのか」
「まあその、思わないね、そこまでは。むかむかしたりとかはしないな」(pp. 266-267)

 惑星ラミュエラの隔絶ぶりは、『ゴトーを待ちながら』に出てくるベケットの道化たちが支配していた不毛で空虚な空間を思い出せてくれる。ベケットの道化たち同様に、アーサーも、ひたすら待ち続けるしかない時間を、娯楽の種を作り出してやり過ごす。

 肉を薄切りにしながら歌を歌った。薄切り肉を薄切りパンにきれいに載せ、端を切り落とし、切り落とした肉片をジグゾーパズルのように組み合わせる。野菜を少し、ソースを少し、そこへパンを重ねれば、またサンドイッチのできあがり。そこでまた「イエローサブマリン」をひとくさり。(p. 186)

3.7.25. "Some light music instead"

 前章で述べた通り、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』5作目は、ありうるすべての次元の地球が破壊されて終わり、読者は深い虚無感とともに取り残される。

 ヴォゴン船の心臓部、ブリッジの暗闇のなか、プロステトニック・ヴォゴン・ジェルツはたったひとりで座っていた。いっぽうの壁を覆う船外展望画面に、つかのま光がひらめいた。青緑色の水をたたえた不連続のソーセージが、彼の頭上でひとりでに溶けていく。選択肢は収縮し、可能性は互いのなかに後退していき、ついには全体が溶けて消え失せた。
 深い闇が降りた。ヴォゴン人の船長は、いっときじっとその闇にひたっていた。
「明かりをつけろ」彼は言った。
 答えはなかった。……ヴォゴン人は自分で明かりをつけた。……
 これでよし。彼の船は漆黒の虚無にひっそりと消えていった。(p. 353)

 たとえ主人公たちの意味をなさんとする数々の試みが「深い闇」によって無効なったととしても、実存主義のメッセージは、ヴォゴン人のキャプテンが自分で明かりをつけるという行為の中に刻み込まれている。実存主義者によると、究極的な「光」は存在しない。あるのは、泡の中心の「漆黒の虚無」だけだ。意味とか、光とか、ゴドーを待っていたら、永遠に待つ羽目になるかもしれない。このことを踏まえて、アダムスは、単純にグレビュロンのリーダーの例に従い、「代わりに軽音楽をかけ」(p. 354)てみてはどうか、と提案しているように思える。
 アダムスの登場人物たちは、エイリアンであれ、実存主義のエレベーターであれ、知覚を持つ青い陰であれ、自分自身の存在を作り替えようとするか、あるいは「鏡におぼろげに映った」我が身を不運とみなしている。次の章では、アダムスの小説に出てくる人間やエイリアンを、「鏡におぼろげに映った」ものではなく、風刺家の目を通して見ていくことにする。

Chapter Four
Rome Wasn't Burnt In A Day

 主観的な現実と客観的な道徳性は互いに相入れないという意見もあるかもしれない。しかし、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズでは、これらの見解の区別はむしろ曖昧なものになっている。読者は、主観的な意味の繭を作るように促される一方、もっと普遍的な道徳の青写真についても想起させられる。
 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』からも明らかである通り、アダムスの道徳の青写真は、宗教的な意味での「道徳」では決してない。アダムスの道徳心は、実用的な何か――現世的なリベラリズムに基づく道徳コード、とでも表現したほうが適切だろう。
 この章では、主観的または一般的(CS・ルイス)なものとしての道徳心の見解も見ていくが、アダムスの道徳心は一般的ではないし、言葉で語れるものでもないと指摘しておく必要がある。そうではなくて、彼の道徳心は穏当な、ホッブスが言うところの「社会契約」、あるいは(ホッブスが名著『リヴァイアサン』で示したように)人々の暮らしから「孤独や貧困や不快や野蛮や欠乏」([1651] King, PJ, 2004:84)などを減らすためのルール作りに近い。
 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズで、アダムスは、(とりわけ)「不快や野蛮でない」と「環境に優しい」という、かなり一般的な信念に基づく20世紀の社会の悪弊を風刺している。

4.1. "Tone deaf and colour blind"

 風刺家は、(一般的だったり主観的だったりする)道徳コードの擁護者のように思われているかもしれない。でも、このコードが客観的か自己中心的かどうかについて、大抵の場合、無視される。『人間廃絶』において、C・S・ルイスは客観的な道徳心を「あらゆる叙述を超えた現実」([1943] 2002: 405)であると語り、客観的な道徳心に倣おうとしない者がいるとしたら、たとえば「音痴とか色盲」のように、その者には個人的な欠陥があると考えるべきだ、と主張した。ということは、明らかにルイスの考え方は、実存主義者の主観的現実やそれに付随する客観的な意味の構築への衝動といった見解とは相容れない。
 前章では、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズに反映されていると考えた、実存主義の業績について議論した。その過程で、実存主義者たちに擁護された主観的な現実は、アダムスの小説では隠された道徳の青写真と並べ置かれることも明らかとなった。そして、アダムスは主観的意味を強調するのみならず、一連の道徳律に割と「音痴とか色盲」だったりする社会を風刺する。既に指摘した通り、アダムスの視点がルイスのそれと異なっているのは、彼の道徳心は一般的なものではなくかなり主観的なものであり、それゆえに反実存主義的ではない。つまり、一連の道徳コード(他人や環境に優しくしましょう、といった、広く信じられている信念)は間違いなく『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズに存在しているけれど、アダムスはこれら一般的な信念に基づく20世紀の社会の悪を風刺している。

4.2. Adams's satirical style

 アダムスの風刺に関して真っ先に気付くのは、うわべをとりつくろってきれいにとかかっこよく見せかけようとはほとんどしていないことである。このことは、以下の『銀河ヒッチハイク・ガイド』の引用からもよくわかる。「アンタレスインコの陰嚢を小さなスティックに刺したものは、見た目はぞっとしないがカクテルのつまみとして人気が高く、高音で買い取れることも少なくない。腐るほど金を持った阿呆を感心させたいという、腐るほど金を持った阿呆はどこにでもいるものだ」(安原訳、p. 174)。「阿呆」は「阿呆」と呼ばれる――阿呆という概念が、もうちょっとやんわりした、同じような意味でありながらもそこまで単刀直入ではない言葉でオブラートに包まれたりしない。
 風刺という観点から小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズをみていく前に、風刺にはさまざまなモードがあることを強調しておきたい。アーサー・ポラードいわく、「実際のところ、ちょっとした風刺すら乗り入れを拒むような文学作品など滅多にない、というのも風刺は……その場の環境に適応するカメレオンだからである」(1970: 22)。小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズは、風刺的な観察や銀河間の社会や奇妙な生き物のごった煮のように見える。このようなファンタジーと風刺の融合は、決して特異なものではない。著書『風刺の解剖学』で、ギルバート・ハイエットはこう記した。

もちろん、すべてのファンタジー小説に出てくる旅を風刺と呼ぶことはできない。多くの夢想家が、夢の中で遠く高く旅をしたことがある――大地を横切り未知なる土地へ、海底二万マイルへ、はるか彼方の銀河世界へ……夢想家によっては、単純に人間の勇気を示したり、人間の想像力を探究したり、ものすごい冒険を繰り広げたりしたかっただけで、実人生で自分が暮らしている世界への批判的言及を持たないこともある。そういう冒険譚は、風刺ではない。(1962: 175)

 『SF/稼働する白昼夢』で、パトリック・パリンダーは「未来とか平行宇宙を予測する概念全般は、過去をふりかえって概念化するときと同様、われわれが住んでいる現在の考え方を投影したものにすぎぬという議論には一理ある」(p. 221)と指摘した。このことは、スウィフトの『ガリバー旅行記』のような昔の作品にもあてはまる。ギルバート・ハイエットは『ガリバー旅行記』について、「多くの読者は、ガリバーは本当は別の国を旅しているのではなく、彼自身の社会をゆがんだレンズを通して眺めているのだとはっきりわかっている」(1962: 159)。小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズがファンタジーとSFと風刺の混合物である以上、アーサー・デントは、本当のところ、ガリバー同様に別の惑星を旅しているのではない、と、これらのジャンルのうちの一つに限定すべきではない。要するに、彼が別の惑星で遭遇するものは、間違いなく読者に「ゆがんだレンズ」を通して見た自分たち自身の社会を想起させる、ということである。

4.3. "Our vice and folly shaped into a thing"

 レンズと言えば、パトリック・パリンダーは『SF クリティカル・ガイド』の中で、SFはしばしば異星人のレンズのように機能し、そのレンズを通して私たちは自分たち自身の社会を批判的に評価することができると主張した。さらには、「人は他者性を恐れると同時に、完全な自分自身になるために必要としている」(1979: 122)と述べる。つまり、SFは、風刺と一体化した時、私たちがこの社会の怪物や狂気と向き合えるようにしてくれる。自分自身の愚行から距離を取るため、異星人の話のようにごまかしているけれど。
 キングズリイ・エイミスの『地獄の新地図』に出てくる次の詩は、こういった考えをはっきりと示している。

かの星明りの回廊に我らを徘徊させるものは、
我らお悪夢と愚行とが形をなしたるものに、
ひいては我ら自身と対決したいという
衝動かもしれぬ。我らをそこにいざなうものは、
災厄のあからさまな姿にほかならないのだ――(p. 11)

 『ファンタジー文学入門』で、ブライアン・アトベリーは、 SFはしばしば私たち自身の社会を映し出すという考えを支持している。「SFのほとんどのものが基本的に外向的であり、人々の行動や物理的環境、社会の組織などに関心をもっている」(p. 231)と彼は主張する。さらに続けてこうも語る、「実際SFは、作者の生きていた時代や世界を映し出す忠実な鏡である。そのために、今世紀の始めごろないしは一九五〇年代あたりから、SFは、失われた世界観や過去の未来観の資料として、歴史家に用いられるようになったのである」(pp. 232-233)。

4.4. "Telling the truth with a smile" - Invective, zeugma, burlesque

 アダムスは独自のやり方でコミック・ファンタジーとSFを融合させ、「笑みを浮かべて真実を語る」(Highet, 1962: 235)ために、毒舌やパロディやくびき語法や茶番劇といった、さまざまな風刺の技術を用いた。、たとえば、毒舌なら、『宇宙クリケット大戦争』に出てくる無限引き伸ばされワウバッガーの、見当違いな既知宇宙侮辱計画で間違いない。ワウバッガーは、このたった一つの目的のために先史時代の地球にいたアーサー・デントのところにやって来て、彼のことを「あんぽんたん」(p.8)呼ばわりする。アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズを通じて、アーサーは全般的に穏やかな話し方をするけれど、コルファーの『新・銀河ヒッチハイク・ガイド』では、ワウバッガーのようになかなか話の通じない相手に自分の考えを伝えるため、次第に汚い言葉遣いに逆戻りする。

「よし、こんちくしょうども!」アーサーはブリッジに駆け込んでくるなり言った。「このくされバケツを方向転換するんだ。さっさとポルムラングラーのけつをあげてスーリアニスとラームの暗黒星雲に出発だ」(上巻、p. 184)

 アダムスのさりげない茶番劇は、宗教や政治といった事柄をコミカルに取り扱う際に現れる。彼は、実際にこの世界で観察したものを基に、不条理な宗教をでっちあげてコメントをつけたが、中でもとりわけ印象的なのが、「大きな白いハンカチの到来」と、「大きな緑のアークルシージャー」と呼ばれる全能の存在だ。
 このほかに、アダムスの文章の中でとても巧妙に使われている風刺の技術が、「くびき語法」である。「くびき語法」とは、一つの単語を用いて、一つの単語にあてはめるだけでなく、文中の二つ以上の単語を修飾すること」(Drabble and Stringer)。たとえば、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの序文、"Some unhelpful remarks from the author" で、アダムスはケンブリッジ大学に進学し、在学中に「たくさんの入浴体験――加えて英文学の学位を得た」と書く。これは勿論、アダムスに、(自分自身を含めた)人類をおもしろがり、「笑みを浮かべて」人類のうぬぼれを指摘する能力があることを示している。英文学の学位について言及した直後に、「自分のバイクに起こったこと」や「女の子のことで大いに頭を悩ませた」(フォード・プリーフェクトやゼイフォード・ビーブルブロックスのキャラクターにある程度反映されているとみた!)とも書いている。英文学の学位と同じレベルで、異性のこととかバイクのことといったチャラいことも大切だった、と描く中で、アダムスは『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズで広く取り上げられているテーマである、人類の壮大な馬鹿さ加減について言及しているのかもしれない。その他に、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズに出てくる風刺のテーマには、軽薄さ、愚かさ、馬鹿さ、官僚主義や無能、自然破壊、「我は買う、故に我あり」現象、ポップカルチャーの著作権問題、外国人や自分と異なる者への嫌悪、それから大事なことを言い忘れていたが、「意地悪と残酷」。

4.5. Satirical themes in the Hitchhiker books

4.5.1. The silliness of grandiosity--of humans and lab mice

 人類の尊大さに対するアダムスの嘲りを際立たせるため、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の冒頭では人類の存在の無意味さが強調されている。

 星図にも載っていない辺鄙な宙域のはるか奥地、銀河の西の渦状腕の地味な端っこに、なんのへんてつもない小さな黄色い太陽がある。
 この太陽のまわりを、だいたい一億五千万キロメートルの距離をおいて、まったくぱっとしない小さな青緑色の惑星がまわっている。この惑星に住むサルの子孫はあきれるほど遅れていて、いまだにデジタル時計をいかした発明だと思っているほどだ。(安原訳、p. 5)

 この人類の無意味さは、同じ小説の第8章でさらに示されていて、ここでアダムスは宇宙間の距離を「レディングにピーナツ」とか「ヨハネスブルグに小さいくるみ」とか、「めまいのしそうなたとえ話」(安原訳、p. 105)といった言葉で説明する。
 人類(というか、正確には異星人だが)の尊大さのもう一つの例が、ゼイフォード・ビーブルブロックスが不吉な惑星フロッグスターで事象渦絶対透視機に入れられた時のこと。透視機は彼に「じつにまったくもって大物だ」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 111)と告げる。が、もし本物の事象渦絶対透視機に入れられていたとしたら、そんな彼とて助からない。

「ああそれから、これはもうわかってるかもしれないが」とザーニウープは付け加えた。「ここはきみに来てもらうために特別につくった宇宙だ。だから、ここではきみが一番の重要人物なんだよ」と、さらに強力なレンガ誘引性の笑みを浮かべて、「事象渦絶対透視機に入れられたら、現実の宇宙ではきみも無事ではすまない」(安原訳、pp. 122-123)

 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズにおける思い上がった人類の幻想は、人類と動物の関係性への誤解からも明らかである。実のところ人類はイルカやハツカネズミのような動物よりも劣っていて、その逆ではないとアダムスは主張する。

惑星・地球では、人類はずっと自分たちのほうがイルカより賢いと思い込んでいた。なぜなら人類は多くの偉業をなし遂げ、車輪を発明したりニューヨークを築いたり戦争をしたりしてきたのに、イルカは水のなかでむだに時間をつぶし、ただ遊びほうけているばかりだったからだ。しかしイルカはイルカで、自分たちのほうが人間よりずっと賢いと思っていた――その理由はまったく同じである。(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 211)

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』によると、実験用のハツカネズミと人類の関係性においても同種の誤解がある。この小説で、実は人類は単なる実験動物だったことがわかる。フランキーとベンジーという二匹の実験用マウスが全人類を実験台にしていて、アーサー・デントの判断能力にはたいして関心がなく、アーサーが(地球というコンピュータ・マトリックスの最後の残りである)自分の脳を提供するのを拒むと、二匹のハツカネズミは次のように答える。

「いつでも代わりはつくれるよ」ベンジーが冷静に言った。「そんなに大事だっていうんなら」
「そうそう、電子頭脳をつくってあげるよ」とフランキー。「単純なやつでじゅうぶんだろうし」(p. 270)

4.5.2. Frivolity -- a "ship of fools"

 軽薄というテーマがとりわけ顕著なのは、『宇宙クリケット大戦争』で描かれる、空飛ぶ酔っぱらったパーティー集団である。物語によると、遠い遠い昔に酔っぱらった航宙技術者たちがパーティは空を飛ぶべきだと決め、建物を飛行用に改造した。アダムスは、永遠に飛び続けるパーティの問題の一つをこう語っている。

 数ある問題のひとつは……このパーティ会場にいる人はみな、最初に居残りを決め込んだ人々の子か孫か曾孫だということだ。つまりどういうことかと言えば、選択的交配とか遺伝子の退化とかそういうもののせいで、いまパーティ会場にいる人はみな、パーティ至上主義者か脳みその足りないおしゃべりか、あるいはそういう例は増えるいっぽうなのだが、筋金入りのパーティ至上主義者で脳みその足りないおしゃべりなのである。(安原訳、pp. 205-209)

 空飛ぶ酔っぱらいのパーティ集団と言えば、セバスティアン・ブラントの『阿呆船』を思い出させる。ブラントの『阿呆船』は、人類のあらゆる悪徳と愚行を運ぶ、もう一つの乗り物だ。『阿呆船』の序詩で、ブラントは船についてこう述べている。

この世は闇夜に蠢いて
罪を犯して目がさめぬ。
通りも横町も阿呆に満ち、
馬鹿な行為を繰返し、
自分にゃそれがわからない。
そこで私は、阿呆船
造ってやろうと考えた。
大船、小船、軍船、
商船、客船、貨物船、
手押し車に橇に馬車、
一隻だけではすべてみな
運びきれない阿呆の数。(pp. 11-12)

 アダムスの空飛ぶ建物も、ブラントの船も、人類の愚行を煮詰めて世界の縮図を作り出している。これらの船が特定の場所に行き着くことはなく、乗客にも行くアテはない。彼らの行動はただただ軽薄さに満ち、彼らの行動は無意味さを表している。たとえば、空飛ぶパーティ集団が唯一気にしているのは「酒が切れそう」(p. 206)ということだけだ。このことは、勿論、人類は催眠性の液体で悪徳と愚行に溺れる傾向にあることを意味している。『阿呆船』では、人々は船に向かって泳ぎ、必死で愚行を追加しようと望む。ブラントは、酔っ払っての宴会騒ぎについてこう書いた。

阿呆はむやみにがぶ飲みし、
手桶で酒を流し込む。
賢者の酒はほどほどで、
はるかにからだのためになる。(p. 70)

 空飛ぶパーティは、ブラントの『阿呆船』だけでなく、『ガリバー旅行記』に出てくる空飛ぶ島、ラピュタのことも思い出させる。空飛ぶ島ラピュタに住むのは聖人と哲学者ばかりだが、アダムスの空飛ぶパーティにいるのはバカばかりだ。空飛ぶ集団という類似を意識すると、彼らの大いなる相違に気づかずにはいられない。この相違にこそ、アダムスの風刺的な洞察力が横たわっている。ラピュタの君主が「磁石の引力圏であれば自分の支配が及ぶ領土」(p.197)と言うのに対し、アダムスの空飛ぶパーティ集団は上空から下の惑星に向かって「都市まるごと人質にとって、チーズクラッカーとアボガドソースとスペアリブとワインとウイスキーの補充を要求した」(p. 207)のだから。
 空飛ぶ島ラピュタの下にある国や街が王への貢物を拒んだり歯向かったりしないよう、ラピュタの王は次のような方法で住民たちを従わせる。「第一の穏やかなやり方は、町、そしてその周辺の土地の上に浮島を移動させ、太陽の恵み、恵みの雨を遮断する。結果、住民は欠乏と病禍に苦しむことになる」(p. 198)。アダムスの空飛ぶパーティも、住民に死や病気をもたらす意図はなかったとしても、結果として下の町や都市に破壊的な影響を与えている。

 もう何年も前から、このパーティには押しかけ客が訪れるようになっていた。流行に敏感な連中がほかの星からやって来るのだ。そしてしばらく前から、パーティの出席者たちは眼下の惑星を眺めてふと考えることがあった――荒れ果てた都市、略奪されたアボガド畑、枯れた葡萄園、かつてはなかった広大な砂漠、クラッカーのくずだらけの海などなどを見ていると、この惑星はほんのちょっぴり、すぐには気がつかないほどだが、昔ほどおもしろくなくなったような気がする。(安原訳、p. 222)

4.5.3. Idiocy and plain stupidity --"Take me to your lizard"

 『さようなら、いままで魚をありがとう』でも、アダムスは人類の愚かさを風刺し続ける。アーサーとフェンチャーチは「正気のワンコ」の”精神病院”を訪ね、最初のうちは彼は正気そのものだと思う。ワンコは、自分が定期的に〈ドクター・ショールズ〉のサンダルを履いた天使が尋ねてくると言い出す。このこと自体は完全にイカれているように聞こえるけれど、人類が爪楊枝の箱に使用方法として「楊枝のまんなかあたりをつかんでください。尖った先端をなめて湿らせます。歯と歯のすきまに挿入し、尖っていないほうを歯茎に近づけていきます。ゆっくり前後に動かしてください。」(p. 217)と書かれていて当然とみなすようになって以来、全世界のほうが狂っているのだ、と、ワンコは言葉を続ける。ワンコいわく、

どんな文明でも、爪楊枝のケースにくわしい使用方法を書くほどになったら、もうまともな頭をしているとは言えない。そんななかで暮らして正気を保つことなんかできないよ。(p. 218)

 この小説では、空飛ぶ円盤がロンドンに墜落する。その乗組員は巨大な銀色のロボットで、地球のことをトカゲが人類を支配する惑星だと勘違いする。それ故、そのロボットは、

「わたしは平和的な交渉のためにまいりました」それは言った。また長い間があって、さらにギーギーギシギシ言ってから付け加えた。「トカゲのところに案内してください」(p. 241)

 フォードはアーサーに、トカゲが支配する惑星があって、そこでは人類はトカゲの支配を憎んでいると説明する。フォードいわく、「(トカゲを厄介払いするという)そういう発想がないんだよ。人間はみんな選挙権を持ってるから、自分たちが投票した政府はまあだいたい自分の望む政府に近いと思い込んでいるんだ」(p. 242)。人類は本当にトカゲに投票しているのかと訊くと、フォードは「だって、そのトカゲに投票しなかったら、よくないトカゲが当選するかもしれないからさ」(p. 242)と答える。『銀河ヒッチハイク・ガイド』はSFとファンタジーの融合だから、政治家はトカゲで投票者はだまされやすいアホばかりという見解も、そんなに直接的な攻撃ではないと言えるかもしれない……。
 『宇宙の果てのレストラン』で、アダムスはまた別の「お偉いさん」の例をあげて笑いものにしている。ゴルガフリンチャムの船長は、忠実なるゴムのアヒルと一緒に一日中バスタブに浸かっていて、社会の中のリッチで怠惰な人々を体現している。ゴルガフリンチャムのテレビ・プロデューサーは、この振る舞いを大変に高貴な気晴らしとみなし、是非とも船長の「責任」についてのドキュメンタリーを製作したいと言いだす。

「そう言えば」と彼女はふり向き、うとうとしかけていた船長に向かって言った。「船長、次はあなたを撮りたいってプロデューサーが言ってるみたいですよ」
「えっ、ほんとうかね」船長ははっとして目を覚ました。「それはまた楽しみだな」
「とても印象的な描きかたを考えてましたよ。責任の重圧とか、指揮官の孤独とか……」
 船長はしばらくハミングしたりぶつぶつ言ったりしていたが、やがて口を開いた。
「どうかな。そういう面はあまり強調しないほうがいいと思うが」しまいにこう付け加えた。「孤独なんか感じないよ、ゴムのアヒルちゃんがあれば」(安原訳、pp. 314-315)

4.5.4. Bureaucracy and incompetence--"beware of the leopard"

 これまで、(『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズにはっきりと描かれている)20世紀の問題点のいくつかを取り上げてきた。小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』で、アダムスが特にこだわりを見せているのが、官僚主義と人間社会の無能さである。小説の第1章で、ミスター・プロッサーはアーサーに、彼の家を壊す計画について全く知らなかったなんてありえないと言う。計画は、過去9ヶ月に亘って閲覧可能だった、というのだ。これに続くアーサーとミスター・プロッサーのやりとりは、権力者集団の奇妙な無能さを照射している。

「ですがね、計画書は貼り出して……」
「なにが貼り出してだよ。わざわざ地下室まで降りていかなきゃ見られなかったんだぞ」
「だって、地下が掲示場所ですからね」
「懐中電灯を持ってだぞ」
「そりゃ、たぶん電灯が切れてたんでしょう」
「電灯だけじゃない、階段まで切れてたよ」
「ですがね、いちおう告知はしてあったわけでしょ?」
「してあったよ」とアーサー。「もちろんしてあったさ。鍵のかかったファイリング・キャビネットの一番底に貼り出してあったよ。しかもそのキャビネットは使用禁止のトイレのなかに突っ込んであって、ごていねいにもトイレのドアには『ヒョウに注意』と貼り紙がしてあった」(安原訳、p. 14)

 このシーンが想起されるものの一つが、カフカの小説『城』の主人公Kが体験したイライラだ。この小説全体が城と城の住人の仲間入りしようとするKの不毛な努力について物語っており、ある面では、社会と官僚制度の陥穽についての比喩という見方もできるかもしれない。小説は次のような言葉で始まるが、この時点で既に城への接近が無理で困難なのは明らかで、また官僚制度の不透明性についても示されている。

 Kが到着したのは、晩遅くであった。村は深い雪のなかに横たわっていた。城の山は全然見えず、霧と闇とが山を取り巻いていて、大きな城のありかを示すほんの微かな光さえも射していなかった。

 アルベール・カミュは、「フランツ・カフカ作品における希望と不条理」と題した記事でKの苛立ちについて書いている。

……村から城への連絡は不可能だ。何百ページもの長さにわたって、Kは方法を模索し、あらゆる手を使って前に進む……そして当惑させられながらも善意を持って、自分に託された任務を担おうとする。(Gray, 1962: 151)

 『城』という小説でKが体験させられる苛立ちは、人間が探究することの無益さとか、実存主義者が言うところの無意味さを指しているのかもしれない。
 
 人間の探究、とりわけ社会の官僚的な側面にしばし話を戻し、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が「ヴォゴン土木建設船団」の項目を見てみよう(ヴォゴン人の心性に、人類が持つ官僚主義システムを見出すのは難しくない)。

ヴォゴン土木建設船団。ヒッチハイクしたいとき、ヴォゴン人の船が通りかかったらどうするか――あきらめよう。銀河系広しといえども、ヴォゴン人ほど不愉快な種族はめったにない。正真正銘の悪党というわけではないが、癇癪もちで官僚的で差し出がましく鈍感な種族である。トラールの貪食獣バグブラッターから自分の祖母を救うためであっても、かれらは指一本動かさない。かれらを動かすためには、三重に署名がなされ、提出され、突っ返され、疑問を正され、紛失され、発見され、公聴会で審議され、また紛失され、柔らかい泥炭に埋もれたあげく、三か月後に焚きつけとしてリサイクルされた命令書が必要である。(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 72)

 この箇所で、アダムスは上手に頓降法を用いてヴォゴン人の官僚主義の愚かさを強調する。ヴォゴン人の指令の複雑な官僚主義的「命の循環」を、「疑問を正す」とか「公聴会で審議」といった言葉で説明し、そのような過程を「泥炭」とか「焚き付け」といった、言うまでもなくまるで似つかわしくない言葉で締めくくる。

4.5.5 Annihilation of all things natural -- smashing jewelled crabs with mallets

 もう一つ、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズでアダムスが関心を寄せているものがあって、それは「緑の政治」である。人類があらゆる自然の美や資源を考えなしに搾取する様は、たとえば、ヴォゴン人の惑星ヴォグスフィアに対する野蛮な破壊ぶりに反映されている。

惑星ヴォグスフィアの自然は、最初の大ポカを取り返すべく超過勤務までこなしてがんばっていた。きらめく宝石をちりばめたハシリガニが生まれたが、ヴォゴン人は金槌でその甲羅を割って食べた。すらりと高くそびえる樹木はため息が出るほど細く色あざやかだったが、これをヴォゴン人は切り倒してカニの肉を焼くのに使った。優美なガゼルに似た生物は絹糸のような毛並みと優しい目をしていたが、ヴォゴン人はそれをつかまえてまたがった。背骨がすぐに折れてしまうので輸送手段としては役に立たないのに、それでもヴォゴン人はまたがった。(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 63)

 『これが見納め 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景』で、ダグラス・アダムスとマーク・カーワディンは、世界中の絶滅危惧の動物を探してさまざまな国を旅したことを記述した。この本では、アダムスは環境学と自然破壊への深い関心を雄弁かつユーモラスに表現している。絶滅の恐れがある種の一つが、中国・揚子江の汚染された水の中で暮らすヨウスコウカワイルカだ。『これが見納め』で、アダムスはこの稀少な生き物に対する人類のないがしろぶりについてこう問いかける。

「ということは、半分目が見えないか、半分耳が聞こえない人が、ストロボ光のショーをやってるディスコで暮らしてて、そこではトイレはあふれてるし、天井や通風機のファンがしょっちゅう頭に落ちてくるし、食べ物は傷んでいるわけだね。きみならどうする?」(p. 228)

 するとすぐにマークはこう答える。「たぶん管理会社に苦情を言うだろうね」(p. 228)。しかしながら、イルカも他の絶滅危惧種の動物もそうすることができず、彼らはただ「管理会社が気がつくまで待つ」(p. 228)しかない。
 アダムスは、実際のところ管理会社(ヴォゴン人/人類)が自然に対する壊滅的な影響について気づくことはなく、「きらめく宝石をちりばめたハシリガニ」やヨウスコウカワイルカやロドリゲスオオコウモリを保護できないだろうと考えている。人類はヴォゴン人とよく似ていて、壊滅的な影響に気づけないというだけでなく、故意に動物の王国を破壊する、それも「スポーツ感覚で」やっているようだからだ。アダムスの世界で、ヴォゴン人は酔っ払って宝石をちりばめたハシリガニを粉々に砕き、フォード・プリーフェクトはアフリカの動物にひどいことをし(「真剣にやってたわけじゃない。ただの趣味でね」)(安原訳『宇宙クリケット大戦争』、p. 21)、そして現実の世界では「大きなおとなしいハト――ドードー――は、たんにひまつぶしのために殴り殺された」(『これが見納め』、p. 299)。「環境にやさしくあれ("Being green")」は、明らかにアダムスの主観的な道徳の中でも中心的な役割を果たしている。

4.5.6. The "I shop therefore I am" phenomenon

 人類は、自然の壮大さに幻想を抱いて搾取するだけでなく、他のものにも手を伸ばし、世界のありようをさらに不快で野蛮なものにしようとする。『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、資本主義と、現在社会の「我買う、ゆえに我あり」な精神構造が上手に批判されている。マグラシアにおける「オーダーメイドの豪華惑星の建造という産業」は、おそらく、20世紀の消費文化への批判だ。オーダーメイドの惑星というアイディアは、個人の欲望にしたがって生活を形作るという人類の性向をも反映している。

莫大な財を築き名をなした豪商たちには、人生はどうしても退屈でちまちましたものになりがちだ。というわけで、これは住んでいる星が悪いのだとかれらは思うようになった。どんな星も完全無欠ということはない。夕方近くになると気候がいまひとつだとか、昼間が半時間長すぎるとか、海の色がどんぴしゃりに不快な色あいのピンクだとか。(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 156)

 この惑星製造業が大人気になった結果、惑星マグラシアは「宇宙始まって以来の裕福な惑星になり、銀河系のほかの星々は極貧状態に陥った」(同、p. 156)。
 人類が不満を抱く結果をもたらしたものこそ、富める者がますます富を得て、貧しい者がますます貧しくなる資本主義社会である。

こうして社会の基盤が崩れ、帝国は滅び、十億の飢えた星々は長く憂鬱な沈黙に閉ざされた。その静寂を乱すのは、学者たちの走らせるペンの音だけ。かれらは夜の更けるのも忘れ、ひとりよがりのつまらない論文をせっせと書きつづけて、計画経済のすばらしさを褒めたたえていたのである。(同、pp. 156-157)

 金と権力の追求こそが、「ヴォゴン性」とヴォゴン性と似たり寄ったりの人間性の核にある普遍的な悪徳であり、これを際立たせることにアダムスは成功している。
 『宇宙の果てのレストラン』でも、アダムスは引き続き資本主義と企業世界を風刺している。物語が進むと、惑星ゴルガフリンチャムに住んでいた何百万もの美容師やテレビのプロデューサーや保険の外交員や電話消毒係といった人々が宇宙船で宇宙に送り出され、原始時代の地球に激突して破滅した。宇宙船の地球への激突の後、生き残った人々が沼沢地からゆっくりと這い上がった。そのイメージは、幾千もの生物が地球の始原のヘドロの中から這い出して次第に人類へと進化していく様を思い起こさせる。やがてアダムスは、「進化」といってもたいして洗練されているわけではない、と、人間性の「進化」についても風刺する。この箇所でアダムスは、「掻いている」「うごめく生物たち」「這い出して」といった、動物に対して用いるような言葉で描写する。

 朝日が昇ったとき、その弱々しい薄い光に浮かびあがったのは、一面にうごめく美容師や広告代理店の重役や世論調査員たちだった。全員がうめきながら、乾いた土地をめざして必死に泥を描いている。
 気の弱い太陽ならすぐに引き返して沈んでしまいそうな光景だったが、この太陽はそのまま昇りつづけた。しばらくするうちに、その暖かい光のおかげで、弱々しくうごめく生物たちにもいくらか体力が戻ってきた。(略)日が高くなるとともにかれらは周囲に這い出していき、一平方メートルばかりの乾いた土地を探した。(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 265)

 ひとたび原始時代の地球に定住すると、ゴルガフリンチャムの棄民たちは、無意味な打ち合わせを手配したり、くだらない広告キャンペーンをぶち上げたり、自分たち自身についてのドキュメンタリーを製作したりする。とりわけ不条理なシーンは、第32章の、ゴルガフリンチャムの棄民たちの間で開催された午後のミーティングを描写する箇所だ。フォードが先史時代の地球に墜落したのだと彼らに説明したいと思っても、彼らは直ちにその問題が議題に入っているかどうかのほうを知りたがる。

「ニュースがあるんです」彼は言った。「面白いことを発見したんですよ」
「それは議題に入ってるかな」フォードに発言を邪魔された男が噛みついてきた。
(略)
「なに言ってるんだ」
「申し訳ないがね」男はぷりぷりと言った。「長年経営コンサルタントを務めてきた経験から、これはどうしても言わせてもらう。委員会のルールは守らなくてはならないんだ」
 フォードは集まった人々を見まわした。
「どうかしてるよな」彼は言った。「ここは原始時代の惑星なんだぜ」
「発言するなら議長に許可を得てくれ!」経営コンサルタントがぴしゃりと言った。
「議長もなにも、ここは議場じゃない」フォードは説明した。「ただの空き地だ」
(略)
「きみはどうも把握できていないようだ」経営コンサルタントは高飛車はやめて、得意の尊大な態度をとることにした。「現代のビジネスがどういうものか」
「あんたこそ把握できてないよ、ここがどういうとこだか」(同、pp. 305-306)

 このシーンでは、またしても人間の思い上がりと企業世界の壮大なまでの薄っぺらさが風刺されている。火炎開発小委員会が火を作り出すことに失敗し、代わりに与えられた二本の棒でヘアアイロンを作った時、マーケット業者は人々に向かって新製品はまず適切なリサーチを行ってから作るものだと説明する。「顧客が火になにを求めてるか、どんなふうにつきあってるか、どんなイメージを持ってるか探らなくちゃいけないのよ」(同、p. 308)。勿論、マーケティング業者の視点は、この状況下では馬鹿げている。極めて原始的な「製品」である火すらまだ作り出せていない段階で、ゴルガフリンチャムの企業部門は火を商品に変えているのだから。アダムスが風刺しているのは、すべてのものが代価を支払って消費するものへと変えられていく世界である。それは、扇情主義と宣伝と企業イメージの世界でもある。フォード・プリーフェクトは、この状況の異常さを次のような言葉で完璧に要約してみせる。「気にするなよ。(略)ローマは一日にして焼けずだ」(同、p. 308)
 ゴルガフリンチャムの議題に載っているディスカッションで次なる風刺ネタになっているのが、フォードを心底びっくりさせた、財政政策である。フォードが金は木になるわけじゃないと言うと、経営コンサルタントは実のところ「なっている」と報告する。ゴルガフリンチャム人は木の葉を法定貨幣にすると決定していたのだ。このことに関連して起こった明白な問題は、「木の葉が容易に入手可能なことから、少々インフレ」で、目下のレートだと「船のピーナツ一個買うのに落葉樹の森が三つほど必要」(同、p. 316)。この問題の解決策は、ゴルガフリンチャム人いわく、森全体を焼き払うことだった。
 アダムスは、「この問題を防ぐ」とか「大規模な枯葉作戦に乗り出す」といったシリアスっぽいフレーズを使って、財務とか企業社会とか「我買う、ゆえに我あり」な現代社会の現象を笑い飛ばしている。社会や政治の評論家でもあったジョージ・オーウェルに言わせれば、随筆「政治と英語」の中で「頭の中で思い浮かべることなくものを言おうとすれば、こうした言い回しが必要になってくる」(p. 27)。オーウェルはさらに「大げさな文体はそれ自体一種の婉曲話法である」と主張する。たとえば、「枯葉作戦」という言葉の使用は、明らかに「森全体を焼き払う」の婉曲話法である。しかし、「枯葉作戦」という言葉からは、立ち上る黒い煙や燃え盛る木々といったイメージが直ちに心に浮かぶことはない。

4.5.7. The pop culture copycat trend

 さらに、アダムスの笑いのネタには、私が「ポップ・カルチャー模倣トレンド」と呼びたいものもある。『ほとんど無害』で、もう一人のトリリアンであるトリシア・マクミランは惑星ルパートを旅してグレビュロン人と会う。彼女は、彼らが自身のアイデンティティも文化も持っておらず、地球のゴミのような文化を貪っていることを知る。彼らは自分たちの高度な電気システムがどのようにして機能しているのか思い出すことができず、地球のクイズ番組をただただ「映し出し」、地球のテレビ画面からコピーした娯楽番組に釘付けになったり、取り寄せたマクドナルドのハンバーガーに夢中になったりしている。グレビュロン人がパロディであることは見逃しようがない。まるで人類の悪徳と愚行が具現化したようだ。「冥王星の軌道の外側についに第十惑星が見つかった」(p. 31)からって、そこまで旅しなくても、自分たちの愚かさに気付けそうなものではないか。

4.5.8. The dislike of foreigners and other aliens

 『宇宙クリケット大戦争』で、アダムスは普遍的で「汚らわしい(nasty)」人類の欠点のようなものについて言及している――外国人恐怖症とか、他者を滅ぼしたいと願う傾向についてだ。
 この小説の第12章で、主人公は惑星クリキットの歴史のヴァーチャルドキュメンタリー映像を見る。史実によると、クリキットの住人たちは自分たちの惑星だけが存在していて、クリキットの外には何もない、ただ虚空があるのみと信じていた。宇宙にはたくさんの恒星や惑星があることを知った時、彼らが下した結論は「あれはあってはならないものだ」だった。

 船は雲を突き抜けていた。
 いつも無限の塵を見ていたところに、いまは息をのむ夜の宝石が輝いている。かれらの心は恐怖の歌を歌った。
 船はしばらく飛び続けたが、星の輝く広大な銀河の前には動いていないも同然だった。そしてその銀河でさえ、無限の宇宙の広がりの前にはまるで動いていないも同然だった。船は方向転換して引き返しはじめた。
「あれはあってはならないものだ」クリキットの男たちは、故郷に戻りながら言った。(安原訳、p. 139)

 クリキット人の極端な外国人恐怖症は、明らかに人類の外国人やよそ者への恐怖心を象徴している。このテーマは、思い上がりの愚かさとか、自分たちが多次元宇宙の中心にいると思いがちな傾向といったものと間違いなく関連している。たとえクリキット人たちがこの壮大な宇宙に目を見張ったとしても、心の中では恐怖の歌を歌ったにもかかわらず、それでも彼らは自分たちこそが多次元宇宙の中心でなければならないと決心するのだ。

 その帰り道でも、かれらは美しく内省的な歌をいくつも歌った。そのテーマは平和であり正義であり、道徳、文化、スポーツ、家庭生活であり、そして他のあらゆる生命の抹消であった。(同、p. 139)

 最後の一行に出てくる平凡な日常と、その日常との不調和は、明らかに人類の偽善を指し示している。
 アダム・ロバーツは、著書 Science Fiction - The New Critical Idiom で、「他者性は……受容できるよう訓練しなけければならないものだ。あれかこれかの二者択一だと、理屈の上では、誰も彼もが自分自身の戯画化ヴァージョンに押し込められてることになる」(2000: 183) 恐らく、クリキット人たちは、惑星クリキットの外で出会う何かに投影した自分自身の悪徳に怯えるべきだった。無論、同じことは私たち自身にも言える。
 おもしろいことに、オーエン・コルファーの『新・銀河ヒッチハイク・ガイド』で、「無限引き伸ばされワウバッガー」は最初のうち「緑のエイリアン」と言及される。が、正体が判明した後には、「ワウバッガー」と呼ばれるようになる。ここで挿入された「ガイドによる注」は、「厳密に言えば、この船にはエイリアンなどひとりもいない。ただ宇宙旅行者がいるだけだ。この「エイリアン」の正体が明らかになりしだい、この分類は破棄される」(上巻、p. 119)。

4.5.9. "Nastiness and Brutishness"

 人類の悪徳が反映されているもう一つの例が、「最初の入植者たちの第一声にちなんで」(『ほとんど無害』、p. 94)名付けられた惑星ナウホワット(「勘弁してくれよ」という意味)だ。この陰気な惑星に生息する唯一の野生動物はナウホワット・ヌマブタだけで、この小型ながら凶暴な生きもののコミュニケーション手段ときたら、相手の腿に力いっぱい噛みつくこと。ここが我々の知る地球でないことは明らかだが、それでもここで生息している異星の動物の姿を通じて人類の「意地悪さと残虐さ」と容易に認識できる。ナウホワット・ヌマブタに人間の執念深さを見出すだけでなく、既知宇宙にあまねく広がる狂気も見て取れる。惑星ナウホワットの観光パンフレットによると、

主要な産業はナウホワット・ヌマブタの皮の輸出だが、これはあまり盛んとは言えない。頭のまともな人間ならナウホワット・ヌマブタの皮など買おうとは思わないからだ。輸出が細々と続いているのは、銀河系にはつねに、頭のまともでない人間が一定数存在するからにすぎない。(同、p. 95)

4.6. That is indeed the way the cookie gets stomped on

 人類は無知であるという一般的見解への一助として、『ガイド』のオフィスにあるコンピュータ端末は次のような役に立つ情報を提供している。

これを惑星・地球で読んでいる人へ。
(a)お気の毒だが、あなたには意味のわからないことがここには山のように書かれている。もっとも、わからないのはあなたたちだけではない。ただあなたたちの場合、わからないともっとたいへん困ったことになるのが問題だ。とはいえ、じたばたしてもしかたがない。粉々に踏みつぶされるクッキーだって、どうして自分がこんな目に遭うのかわからないのだ。(『ほとんど無害』、p. 109)

 この引用箇所では、人類の無知が公然と強調されている。でも、バカなのは自分たちだけではないという事実に慰めを見いだせるかもしれない。この世界は、外でもない、阿呆船なのだ。これまでにもみてきたように、アダムスの世界にしろ現実のこの世界にしろ、バカ者は世界に広く普及しており、クッキーはただ粉々になるだけでなく「踏みつぶされる」のだという点で、アダムスに同意できるかもしれない。

Conclusion
"Some unhelpful remarks" about the things that have been said already

 『ほとんど無害』によると、MISPWOSO(The Maximegalon Institute of Slowly and Painfully Working Out the Surprisingly Obvious――マクシメガロン地道にこつこつばかでもわかること研究所)の科学者たちは、かつて、すべてのものの背後にある原動力を見つけるための実験を行った。その実験では、ロボットをニシン・サンドイッチ好きにさせるという、実に退屈でくだらない手順が含まれていた。実験の結果は丹念に記録され、「この世のあらゆる変化、発展、革新を引き起こす隠れた原動力」(p. 77)は実のところニシン・サンドイッチであるというバカげた論文が発表された。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズにおける哲学的土台を分析するという本書の目的もまた、「何もないところからぶち上げる」企画であるか、もしくは、あまりにも一目瞭然なことを指摘しているだけの行為である。一目瞭然かどうかはさておき、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の一種独特な素晴らしさは指摘しておく、あるいは再確認しておかなければならない。
 ダグラス・アダムスがすぐれたコメディの代弁者だったことは誰の目にも明らかだが、彼のフィクションは20世紀の時代精神や社会概念に深く根を下ろしている。
 本書が指摘しようとしたいくつかの(一目瞭然な)事柄には、以下の点を含む。

1. ある意味、アダムスの空想世界は既知の世界の再発見であり、彼の夢想は。その核にある不条理を反映している。

2. 狂気はアダムスの作品のテーマの一つであり、不条理と深く結び付けられている。この狂気は、現実の世界と空想の世界の間で逡巡した後にもたらされる。

3. 狂気は、生きるとは自分自身の無から生み出されたプロジェクトであり、生き続けるためには狂気と他者性を総動員しなくてはならないという認識の上に立つ。

4. 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズで、アダムスは(もともとは哲学や社会学や環境学や宗教などで取り扱われるべき)現実の20世紀の問題を強調するために他者性を用いたが、これは望ましい社会的な行いへの議論の余地のない信頼に基づいている。

5. アダムスはまったく新しい「天国か地獄か」を作り出してはいない。その代わり、実存主義のエレベーターとか感傷的なマットレスとか鬱病ロボットとか青い色の超知的生命体の形を借りて新しい視点から人間の愚かさを読者に提示したのである。

 では最後に、実存主義のエレベーターとか感傷的なマットレスとか鬱病ロボットとか人類とかその他のエイリアンにどんな共通点があるだろうか? 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズによると、誰もが明らかに答えを求める――これは一つの例だけれど。では、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズにはどのような問いがちりばめられているだろうか(生命と宇宙と万物についての究極の問いの他に)。

Questions about reality

・ガイドによる注

歴史を通じて、人々は現実から目をそむけるために概念構成体を使ってきた。絶望から逃避する最も安あがりな方法は、自分の想像の世界に逃げ込むことだ。(略)言うまでもなく、想像力の欠如した人々も何十億と存在するわけだが、そういう人のためには汎銀河ガラガラドッカンがある。(『新・銀河ヒッチハイク・ガイド 上巻』、pp. 66-67)。

・さらに別のガイドによる注

宇宙――そこで生きていくのに役立つ情報をいくつか。

人口――なし。
 知られているとおり、惑星の数は無限である。これはたんに、空間が無限なので惑星も無限に存在しうるからである。しかし、すべての惑星に人が住んでいるわけではない。したがって、人の住んでいる惑星の数は有限のはずである。有限の数を無限で割ると、答えはゼロに近づいてほとんど無視できるほどになる。そのため、宇宙の全惑星の平均人口はゼロであると言うことができる。このことから、宇宙全体の人口もまたゼロであると言うことができ、ときどき人に出くわすのはたんに狂った想像力の産物にすぎないと言うことができる。(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、pp. 201-202)

 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズでは、(小説世界においての現実である)第一世界と(第一世界から準創造された)第二世界の間で宙吊りになっているように感じることがある。読者も登場人物も、時折、現実世界なのか幻覚なのかの選択を迫られる。トドロフが「純粋なファンタジー」と呼ぶものに特有の選択だ。本当なのか夢なのか、現実なのか幻想なのかとためらう気持ちは、デカルトの言うところの夢の中の夢や、シミュレーションと仮想現実をめぐるボードレールの思想という観点からも、新たな重要性を見出せる。アダムスの宇宙についての語りは、単にすごいとか、空想的だとか、異様だというだけにとどまらない。もっと複雑で、というより断片的なものだ。彼の語る現実は、アトベリーが言うところの「境界のあいまいなもの」(p. 40)である。ファンタジーのさまざまな側面やジャンルや機能が、アダムスのオープンエンドな物語世界の中に集束する。
 この他にも、アダムスの創造物には(実存についての問いへの答えを欲する以外に)共通点があって、それは彼らがみんな生まれながらに狂っており、一部のものはその狂気を抱き続けているということだ。異様なまでにアダムスのファンタジーは狂気や妄想といった概念に染まっている。狂気はアダムス作品のテーマの一つであり、不条理の問題とも一つに結び付けられている。この狂気は、現実の世界なのか夢の世界なのか区別できなくなることから生じてくる。また、人生は「何もないところからぶち上げる」しかない不毛なものであり、それでも生き続けるためには狂気と他者性という手段を用いて自分で自分を楽しませるしかないという認識に基づくものでもある。さらに言うと、この狂気は、歪んだ社会、絶滅危惧の動物を絶滅に追いやり、爪楊枝の箱に使用方法を記載するような世界における、固定化された物の見方との合わせ鏡だ。つまり、アダムス作品において、狂気は空想や実存や風刺を具現化している。
小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズにおいて、夢や夢想状態や幻覚や狂気といったテーマは哲学的に融合されている。今一度、ショシャナ・フェルマンの言葉を引用しよう。「……文学やフィクションは、狂気と哲学、精神錯乱と思想が出会うことのできる唯一の場所である」(1958: 48)。アダムスの物語空間では、狂気と哲学と精神錯乱と思想の組み合わせが、一般的には宇宙全体、その中でもとりわけ人類に固有の不条理を指し示していることは明らかだ。

Existential question

 はじめに宇宙が創造された。
 これには多くの人がたいへん立腹したし、よけいなことをしてくれたというのがおおかたの意見だった。(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 7)

アーサー・デントの心の中を覗き見してみると、

・そうだ、あるじゃないか(略)お茶がある。この宇宙は不確実だし錯覚の産物かもしれないが、その中心にはつねにお茶があるんだ。(『新・銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 21)

・まったく、なんてことだ(略)このこつを身に着けるのにどれぐらいかかったと思ってるんだ。ビスケットをお茶に浸すのと、サンドイッチを作るのと、それ以外に人になにが残ってる?」(同、p. 22)

フォード・プリーフェクトの心の中を覗き見してみると、

・「この青いスエードの靴。いかすだろ」(同、p. 76)

・「ビターを六パイント」(略)「大至急頼むよ。地球の終わりが近いんだ」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、pp. 30-31)

鬱病ロボット、マーヴィンの心の中を覗き見してみると、

・「幸福を感じるわたしの能力は」(略)「マッチ箱の中に簡単に入れられる。なかのマッチを出す必要もない」(安原訳『宇宙クリケット大戦争』、p. 84)

 (42以外に)究極の答えはない、という、(多次元宇宙の何でもありな特質という十分すぎる証拠に基づく)事実を前にしては、人類もエイリアンも、シーシュポス的な反逆込みの空っぽな狂気と向き合うことを余儀なくされる。たとえば、フォード・プリーフェクトとアーサー・デントは、チェスターフィールド・ソファやジントニックや非特異的狂気などで楽しく遊ぶ技法を完璧にすることを学ぶ。ただのヴォゴン人ですら、既知宇宙で三番目にひどい詩を書いたり、宝石をちりばめたハシリガニからさまざまな次元の惑星にいたるまで、さまざまなものを破壊したりしている。ゼムのような感傷的なマットレスが、「多くは捕まり、殺され、乾かされ、輸出され、上で眠られる」(風見訳『宇宙クリケット大戦争』、p. 75)という事実を受け入れるなら、「その生活からいかなる利益を得ているのか」(風見訳『宇宙クリケット大戦争』、p. 75)誰にもわからない。それでも、読者が出会ったゼムは、差し迫った死を辛抱強く待つ一方で、天気について長々とおしゃべりすることもできる。
 答えのなさに向き合わされた時、ある人、あるエイリアンは、当然ながらむくれたり隠れて悪事を企てたり自滅しようとしたりする。既知宇宙の全員をアルファベット順に侮辱して回るという、もっと虚無的な戦略を取る者もいる。鬱病ロボットのマーヴィンのようにむくれる道を選んだ者は、無意味さやはびこる無に直面して耐え抜くことに失敗している。実存主義は極度に悲観的な考え方だと広く信じられているけれど、カミュのような思想家は生来の楽観主義を主張する。生命の美しさは意味の有無以上に重要だとカミュは信じているのだ。であればこそ、マーヴィンがふたつの太陽が沈む様を「見ました(略)。つまらない」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 202)と言った時、彼は虚無主義に闇落ちし、不条理のヒロイズムの敵となる。彼の実存に対する見解はあまりに暗いので、彼がちょっとした話をしようとブラギュロンの船に外部接続したら、船のほうが自殺してしまった。
 小熊座ベータ星の実存主義エレベーターは、地下でむくれたりするくらいだから、もちろんこのカテゴリーに入る。
 もう一人の闇落ちキャラクターがアグラジャグだが、彼はむくれるだけでなく悪事も企てる。度重なるおのれの不幸な生と死のでたらめさを思い知らされると、底知れぬ洞窟にひそみ、あこぎな報復計画を考案する。
 不条理演劇の姿勢では、アダムスが描く不条理な英雄はただ待ちながら自分で自分を楽しませることしかできない。小屋に住み宇宙を支配していると言われている気の狂った老人はその好例である。彼が毎日鉛筆と紙を使って娯楽の可能性を目一杯使い尽くしている様は、サミュエル・ベケットの道化たちが靴や人参で楽しみを見出そうとしているのと似ている。
 「退屈の実際的な効用」(『ほとんど無害』、p. 77)はアダムス作品には広く行き渡っていて、とてつもない退屈から意味をこねくりだそうとする試みを描く場面などはしばしば不条理演劇の要素、時には悲喜劇の資質を持っている。先史時代の地球のじめじめした洞窟で一人、正気を失うアーサー・デント。レモンになったフリをするフォード。鳥に話しかけるアーサー・デント。惑星ラミュエラでサンドイッチ作りにいそしむアーサー・デント。チェスターフィールド・ソファを追いかけるフォードとアーサー。小屋の中でテーブルに話しかけ、反応をうかがう老人。
 狂った世界で意味が空洞化することへの風刺以外にも、無に対する人々の態度と同様、アダムスは実際のところ、たとえどんなにばかばかしくてくだらないものだとしても自分なりの意味を見出して行動するよう、読者に促している。おそらく、アダムス自身も鉛筆と紙を使って娯楽の可能性を探り、鉛筆で紙に印をつけている過程で、主観的な意味が構築されることを発見したのだろう。サルトルは意識を「無」と書いたけれど、アダムスは泡の空洞を無視して空っぽな自分の外に飛び出そうと読者を誘う。
 つまり、小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズは、不条理絵画を描いているのだ。自身の実存に刻まれた事実性と、自身の主観的世界の再構築への衝動と。

Questions about the world "out there"

・寛容が憎むべき大罪となる一例

ナッツの木を離れたオグラルーン人といえば、憎むべき大罪を犯したというので放り出された罪人ばかりなのだ。そしてその大罪とは、ほかの木でも生きていけるのではないかとか、ほかの木々はオグラナッツの食べすぎで見える幻覚だというのはまちがいではないかと疑いを抱いたことである。(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、po. 99-100)

・人類史の一例

「スクラブルなんかほっとけよ、アーサー。人類はそれじゃ救えない。この連中は人類にはならないんだ。人類はいま、丘を越えた向こうの岩のまわりに座って、自分たちのドキュメンタリーを撮ってるよ」(同、p. 324)

 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズは、内宇宙と外宇宙の創造について記述するのみならず、多くの人間が知っている「目の前に広がる世界」について風刺している。資本主義とか、官僚制とか、尊大とか、偽りとか、あるいは分類しようもない愚かさといったものの現実である。
 アダムスの風刺は、さまざまな現代社会の問題に向けられていて、それらは単に笑いをとるためだけではないけれど、もし読者が軽いエンタメだけを求めていたとしても、アダムスの小説は期待を裏切らない公算が高いと私は思う。でも、文学へのアダムスの貢献は、時たまの言葉遊びやパロディをはるかに超えて重要だ。
 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの風刺は、たとえ悲喜劇の場面をあれこれ指摘するにしても、暗いユーモアや苦々しさには明らかに染まりきっていない。アダムスの風刺には、埋め合わせとなる資質があるのだ――自分自身の破滅的で愚かしい気質に目を開かせる、という。たとえば、アダムスは地球という惑星が考えなしに開拓されることを批判する一方で、読者に理想的な代替案を提示する。(もう少し「ひどくて野蛮」じゃない世界、宝石をちりばめたハシリガニが金槌で殺戮されたり優美なガゼルに似た生物が輸送手段として使われたりしない世界)。
 実存主義者の視点から、アダムスは多元宇宙の答えのなさを指摘し、主観的な意味を作り出すことの大切さを強調する。思想家によっては(たとえばC・S・ルイス)、道徳心を一般的で客観的なものとみなす(実存主義者が考える主観性とは対照的だ)。C・S・ルイスに言わせると、もし何者かがこの世界を外側から観察しているとしたら、彼らは道徳コードが存在する兆しを見つけられないだろう、それというのも社会はそれを無視する傾向にあるからだ、という。C・S・ルイスは次のように説明する。

わたしたちが電気やキャベツを研究するように、人間を外側から研究している者がいたと仮定してみよう。彼はわたしたちの言葉を知らず、したがって内側の情報をわれわれから得ることができないで、ただ外から、われわれのやることを見ているだけである。さてこの場合、その研究者は、われわれが今言った道徳的法則を持っているという証拠を、ほんのわずかでも、掴むことができるだろうか。できるわけがない。なぜなら、彼の観察は、われわれが実際にやることを明示するだけであって、一方、道徳的法則はわれわれのなすべきことにかかわるものだからである。(p. 55)

 それに比べ、アダムスの道徳心は決して普遍的なものではない。彼の道徳コード一式はかなり穏当かつ実際的であり、ホッブスの「社会契約論」に近い。アダムスは客観的な道徳コードに基づいて社会を分類したりしないが、それでも自前の道徳心や望ましい社会的振る舞いを無視する様をほのめかしたりする。
 つまり、その客観性においてルイスの道徳心の概念が明らかに非・実存主義的であるのに対し、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの道徳心は主観的、あるいは自前の現実に根付いている。
 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズでは、「目の前に広がる世界」が阿呆船なのは明らかだ。アダムス想像上の多元宇宙は地球の鏡像であり、人類の悪徳やら愚昧やらをさまざまな視点から反映している。ヴォゴン人の宇宙船団も、〈黄金の心〉号も、ゆっくりと回転している「小さい青緑色の惑星」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 5)も、等しく阿呆船であり、愚かさが心の中で確実かつ着実に脈打っている。

One final unhelpful remark

 最後に『銀河ヒッチハイク・ガイド』そのもの(表紙に「あわてるな」と書いてあるほう)について語ってしめくくりたいと思う。おそらく、アダムスが理解不能な多元宇宙――どこかの小屋に住む狂った老人が支配していることになっているらしい――についての項目を作り上げたという事実は、そもそもそんなガイド自体たいして役に立たないというメタテキスト的コメントである。小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1作目の冒頭で、アダムスはこの点についても書いていた。

 銀河の東の渦状肢の外縁部にはずっとのんびりした文明社会が散在していたが、そこではすでに『銀河ヒッチハイク・ガイド』があの偉大なる『銀河大百科事典』にとってかわり、あらゆる知識と知恵の宝庫を目されていた。『銀河ヒッチハイク・ガイド』には遺漏も多かったし、いいかげんな事項――少なくとも、ひどく不正確な事項もたくさん載っていたが、ふたつの重要な点で、かの古めかしく、退屈な大事典を凌いでいたのである。
 ひとつには、ガイドのほうがちょっと安い。いまひとつには、そのカバーに大きな親しみやすい文字であわてるな≠ニ書いてある。(風見訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 7)

 というわけでつまり、『銀河ヒッチハイク・ガイド』そのものが、イカれてぐずぐずの宇宙を構築しようとするもう一つの試みだったのだ。実存の徹底した無作為という視点に立つなら、「あわてるな」はとんでもなく皮肉な言葉ではないか……。
 筋の通った意味を求める試みが有益なのか、あるいはひどく間違っているかは問題ではない。問題は、世界が砕け散るときは、かならず「あのいまいましい本が。なんという本だったっけ。そうだ、『熊手使いの誇りは誤り(The Pitchforker's Pride is a Fallacy)』だ」(『新・銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 23)

 (明らかに)今も、そしてこれからも、「まことに並みはずれた本」(風見訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 6)であり続けるにちがいない。

 

〈引用文献〉

アーサー・C・クラーク著 伊藤典夫訳『2001年宇宙の旅〔決定版〕』、早川書房、1993年
同著 山高昭訳『遥かなる地球の歌』、早川書房、1996年
アーシュラ・K・ル・グウィン著 小尾芙佐訳『闇の左手』、早川書房、1977年
同著 山田和子訳『夜の言葉』、岩波書店、1992年
アルベール・カミュ著 清水徹訳「シーシュポスの神話」『カミュ全集2』、新潮社、1972年
E・M・フォースター 瀬尾裕訳『インドへの道』、筑摩書房、1994年
ウィリアム・シェイクスピア著 松岡和子訳『マクベス』、筑摩書房、1996年
ウィリアム・バレット著 島津彬郎訳『実存主義とは何か 人間存在の根源をさぐる』、サイマル出版社、1975年
エミリー・ディキンスン著 新倉俊一訳編『ディキンスン詩集』、 思潮社、1993年
キングズリイ・エイミス著 山高昭訳『地獄の新地図』、早川書房、1979年
サミュエル・ベケット著 安堂信也/高橋康也訳『ベスト・オブ・ベケット ゴドーを待ちながら 《新装版》』、白水社、2008年
C・S・ルイス著 柳生直行訳『C・S・ルイス宗教著作集4 キリスト教の精髄』、新教出版社、1977年
J・R・R・トールキン 著 猪熊葉子訳『妖精物語について――ファンタジーの世界』、評論社、2003年
ジャン=ポール・サルトル著 鈴木道彦訳『嘔吐』、人文書院、2010年
ジョージ・オーウェル著 川端康雄編『オーウェル評論集2 水晶の精神』、平凡社、2009年
ジョセフ・コンラッド著 黒原敏行訳『闇の奥』、光文社、2009年
ジョナサン・スウィフト著 高山宏訳『ガリヴァー旅行記』、研究社、2021
セバスティアン・ブラント著 尾崎盛景訳『阿呆船 上』、現代思潮社、1968年
ツヴェタン・トドロフ著 渡辺明正/三好郁朗訳 『幻想文学――構造と機能』、朝日新聞社、1975年
ナシーム・ニコラス・タレブ著 望月衛訳『ブラック・スワン 不確実性とリスクの本質』、ダイヤモンド社、2009年
T・S・エリオット著 岩崎宗治訳『四つの四重奏』、岩波書店、2011年
ニール・ゲイマン著 柳下毅一郎訳『ネバーウェア』、インターブックス、2001年
同著 金原瑞人訳『墓場の少年 ノーボディ・オーエンズの奇妙な生活』、角川書店、2010年
パトリック・パリンダー著 大橋洋一・佐伯泰樹・池上嘉彦訳 『SF/稼働する白昼夢』、勁草書房、1985年
ブライアン・アトベリー著 谷本誠剛/菱田信彦訳『ファンタジー文学入門』、大修館書店、1999年
フランツ・カフカ著 原田義人訳『城』、青空文庫
マーク・ローランズ著 石塚あおい訳『哲学の冒険 「マトリックス」でデカルトが解る』、集英社、2004年
ミシェル・フーコー著 田村俶訳『狂気の歴史――古典主義時代における――』、新潮社、1975年
ルネ・デカルト著 所雄章訳 「第一省察」『デカルト著作集2 増補版』、白水社、2001年
ヨースタイン・ゴルデル著 池田香代子訳『ソフィーの世界』、日本放送出版協会、1995年
同著 山内清子訳『カードミステリ――失われた魔法の島』、徳間書店、1996年
ローズマリー・ジャクソン著 下楠昌哉訳「幻想文学――転覆の文学」『幻想と怪奇の英文学V』 春風社、2018年

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