白人神社。神明神社は当社鳥居の反対側、南西約100mのところにある石段(下記写真)を上っていく。


神明神社に至る石段。


丘上にある謎の石積み遺構。五社三門(入口が3つで、内側に5つの祠がある)と呼ばれている。


磐境の正面入り口。入り口の上には、板石が架けてられている。


東西約22m、南北約7mの長方形を呈し、右側に3つの門、左側に5の祠がある。


門の板石をくぐり、石垣内に入る。内部は神域らしい静寂に包まれている。


平石を組み合わせた矩形のなかに祠が納められている。
 徳島県美馬(みま)市を流れる吉野川の中流南岸。同川に沿って走る国道192号から、穴吹(あなぶき)町で国道492号に入り、穴吹川に沿って約8.4kmほど南下した口山(くちやま)に向かう。あたりは山懐に抱かれた谷あいで、穴吹川の清流が静かな山里の景観を醸し出している。

 神明(しんめい)神社は、口山地区の宮内集落に鎮座する白人(しらひと)神社の境内社で、白人神社より南西に約100m。石の鳥居をくぐり、げんなりするほどの急勾配の石段を130段ほど上った丘陵尾根の先端部に祀られている。白人神社の奥社(旧社地)とされているが、社域のなかに神社らしい建造物は一つもない。残されているのは神社遺構としては全国にも類例のない石垣囲いの祭壇で、神を祀るために設けられた「磐境(いわさか)」と考えられている。

 石垣の大きさは、幅1.5〜2.0m、高さ1.2〜1.8mで、東西約22m、南北約7mの長方形を呈している。入口は南側に3カ所あり、内部の北側に5カ所の小祠が設けらている。
 当遺構の初見とされる「白人大明神由来書」(1779年)によると、寛保年間(1741〜1744)に芝刈りの際に当石垣が発見されたという。由来書の記載には、長さ八間余(約15m)横幅四間余(約7.5m)、東南方向に入口2カ所、内側は長さ六間(約11m)、幅約一間(1.8m)とあり、現在の姿とは若干異なっている。
 また、美馬市のホームページ「市指定文化財/神明神社」には、「昭和30年頃、財宝(源為朝)を捜索して大規模に掘削。特に東方では約15mほど掘り下げたといわれ、これにより崩壊寸前になったため、昭和57年一部修復している。」とある。昭和62年(1987)に市の文化財に指定されているが、それ以前はずいぶんぞんざいに扱われていたようだ。

 案内板には、現在の姿は少なくとも江戸時代後半以降の物で、成立年代は比較的新しいと記されているが、元々の築造年代については明らかにされていない。
 一説には、イスラエル南部にある古代都市テル・アラッドの神殿跡に似ていることから、イスラエル系渡来人が築いた古代ユダヤの祭祀場であるともいわれている。珍説・奇説のたぐいとも思われるが。地元では、いくらかの真実性は残されているようだ。美馬市が発行する『広報みま』(平成19年2月号)に、イスラエル駐日大使のコーヘン大使が、市役所を訪れた後、神明神社の磐境を視察された記事が掲載されている。

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 白人神社の伝承によると、創建は第24代仁賢天皇(在位年代は5世紀末頃)の時代にまでさかのぼるという。この地に白髪の老翁が天下り「この谷は聖地なり、神々を祭りしずめ、この地を「宮内」と改めるべし」と告げたことが創建の由来とされているが、詳細については不詳である。
 保元の乱(1156年)の後、讃岐国に流された崇徳(すとく)上皇を慕ってやってきた源為朝(みなもとのためとも)が、阿波と讃岐の国境・相栗峠(あいぐりとうげ)で弓を引いたところ、矢は毘沙門獄に当たり、はねかえって白人神社におちた。以来、弓は神社の宝物となり、旧正月14日にはお的神事が行われ今に伝えられている。
 現在地に社殿が建てられたのは仁安元年(1166)のことで、慶長年間(1596〜1614年)の初めに徳島藩筆頭家老の稲田示植(いなだしげたね)によって再興された。古くは神明宮、白人大明神とよばれていたが、明治3年(1870)に白人神社と改称、村社に列している。

 白人神社の祭神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、豊秋津姫命(とよあきつひめのみこと)、崇徳(すとく)天皇、源為朝(みなもとのためとも)公の6柱を祀っている。また、神明神社の5つの祠には、豊秋津姫神、伊弉冉神、天照大神、瓊瓊杵尊、国常立神(くにのとこたちのかみ)が祀られている。

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 類例を見ないといわれる神明神社の磐境で、一体どのような祭祀がおこなわれていたのだろう? 真相は藪の中だが、今に伝わる白人神社の祭祀のなかに、謎解明の糸口らしきものが見つかるのではないだろうか。
 古来より、白人神社に伝わる祭礼は75人の宮人(みょうど)とよばれる氏子によって続けられている。これらの氏子は、特定の家に代々世襲され、現在も他家をまじえず奉斎を続けており、白人神社の神輿渡御(みこしとぎょ)は宮人に限られているという。宮人は、一種の宮座(神事を行う祭祀集団)と考えられ、その出自は阿波忌部(あわいんべ)といわれている。

 吉野川流域一帯には阿波忌部にまつわる伝承地や史跡が今も数多く残されている。前回紹介した「天石門別八倉比売神社」(徳島市国府町)もその一つであり、吉野川市山川町の忌部山には「忌部神社」が祀られ、吉野川市の前身である麻植郡(おえぐん)の名称は、阿波忌部が穀と麻種を植えたことに由来している。さらに、阿波国の由来についても、阿波忌部が粟を植えたことから「粟国」とよばれていたが、和銅6年(713)の好字令で、地名を二字の「阿波」に変更された。

 忌部(のちに斎部)氏は、中臣(なかとみ)氏と並んで、古代の宮廷祭祀に奉仕してきた名門氏族である。しかしながら、大化改新後は藤原氏の勢力に押され、祭祀氏族の座は中臣氏に占有されていく。奈良時代に入ると、伊勢神宮奉幣使(ほうへいし)の任からも排斥され、本来の職務にも就けない事態となった
 平安初期の大同2年(807)、忌部広成(ひろなり)によって編纂された『古語拾遺(こごしゅうい)』は、こうした忌部の衰微を嘆き、一族の長老(時に81歳であった)として氏族の伝承をまとめ、平城天皇に献上したものである。本書には、『古事記』『日本書紀』にみられない伝承もあって、古代史研究にとっては貴重な文献の一つとされている。

 こうして忌部氏は、歴史の表舞台より姿を消してしまうが、忌部一族は、出雲・讃岐・筑紫・伊勢・紀伊などに部民(べみん)をもち、その地に深く根付いていた。その中心となっていたのが、阿波の忌部である。
 神明神社の磐境は、中臣氏によって排斥された忌部の宮廷儀式を、後世に伝えるための祭祀場であったのだろう。現在に残る「忌部の宮人」が、失われた古代祭祀の面影を守り続けているように思われる。

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2018年5月9日 撮影

白人神社拝殿の扁額。「白人大明神」と刻まれている。
彗雲鉄啀の書で、稲田主税助植春が奉納したもの。



案内板