阿波史跡公園内にある八倉比売神社。社殿はこの石段を上っていく。


八倉比売神社拝殿。杉尾山と呼ばれる小山の上に鎮座しており、地元では「杉尾さん」と呼ばれている。


奥の院は前方後円墳の後円部にあり、五角形の石積みの祭壇が築かれている。


石は阿波特産の青石(緑色片岩)。一説には卑弥呼の墓ともいわれている。


上から見ると五角形の形状がよくわかる。


遺構の上には青石で組まれた祠があり、なかに石棒のようにみえる「つるぎ石」が納められている。
 正式名称は「天石門別八倉比賣(あまのいわとわけやくらひめ)神社」だが、これではちょっと長すぎるためだろうか、通称は「八倉比売(やくらひめ)神社」と呼ばれている。
 八倉比売神社は、気延山(きのべやま、標高212m)の東麓、吉野川の支流である鮎喰川(あくいがわ)の下流左岸にある杉尾山(標高120m)の山頂付近に鎮座している。当地は、国府の町名が示すとおり、古代における阿波国の中心地であった。阿波国府の所在については、国府町府中の大御和(おおみわ)神社周辺と推定されているが、遺構、遺物はまだ見つかっていない。

 当社周辺は「阿波史跡公園」として整備されており、園内には三角縁神獣鏡が完全な形で発見された宮谷古墳や八倉比売神社1号・2号墳、奥谷古墳など、約200基が点在し、県下最大の古墳群を形成している。また、当社の東南1.4kmの地点にある矢野遺跡から、高さ98cm、重さ17.5kgの突線袈裟欅文銅鐸(とっせんけさだすきもんどうたく)「矢野銅鐸」(国重要文化財)が出土している。これは県内で発見された42点の銅鐸の中では最大で、国内でも最大級。弥生時代後期に作られた最新型式とみられている。

 阿波国の「式内社」は50座ほどあるが、なかでも格式の高い「大社」は3社あり、当社は名方郡大社の有力な論社の一つとされている。承和8年(841)に正八位上から従五位下に叙され、貞観7年(871)に従四位下、同13年(871)従四位上、元慶3年(879)正四位上に昇叙。後鳥羽天皇の元暦2年(1185)に神階最高位の正一位の位階を授けられている。
 江戸時代には阿波国を治めた蜂須賀(はちすか)氏が当社を崇敬し、寛保年間(1741〜 43)に正一位杉尾大明神と称し、明治3年(1870)に現社名に改称、同5年(1872)県社に列格した。現社殿は、江戸期に矢野出身の藍商、盛六郎右衛門が寄進したものと伝えられている。

 創建年代は不詳であるが、由緒書きには、当社ははじめ気延山の山頂に祀られていたが、推古元年(593)に現在地に遷座し、江戸時代に奥の院を拝するための拝殿と本殿を造営して現在に至るとある。文化12年(1815)に完成した地誌『阿波志』にも同様の記載があり、当社ははじめ、気延山の山頂近くにあったが、江戸時代になって当地に遷されたと記されている。

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 社殿と奥の院の2つの小山をもつ地形から鑑みて、当社は古墳の上に建てられた神社と考えられている。社殿は前方後円墳の前方部に建立されており、後円部に奧の院として五角形の石積みの祭壇が築かれている。発掘調査はなされておらず、祭壇の内部主体は明らかになっていない。
 神社略記には、祭壇上にある「青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。」と記されている。「永遠の生命」とは、死後の世界のことを意味するもので、墓のことを指しているように思われる。また祠の中の「つるぎ石」は、その形状が男根を象った石棒(せきぼう)のように見えることから、死者の霊を鎮める意味合いをもったものではないだろうか。
 正体不明の謎の建造物だが、一説によると、なんとこれが「卑弥呼の墓」だといわれている。

 当社に伝わる古文書『八倉比賣大神御本記(やくらひめおおかみごほんき)』には、「道案内の先導伊魔離(いまりのかみ)、葬儀委員長大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神(きまたがみ)、松熊(まつくま)二神、神衣を縫った広浜神(ひろはまのかみ)が記され、八百萬神(やおよろずのかみ)のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。」との記載がある。これは大日霊女命(おおひるめのみこと、別名:天照大神)の葬儀執行の模様が記されたものだといわれている。
 「邪馬台国阿波説」と唱える人々は、当社の主祭神である大日霊命=天照大神と卑弥呼を同一と考え、これを根拠に奥の院にある古墳が天照大神すなわち卑弥呼の墓であると比定している。近くの宮谷古墳から見つかった三角縁神獣鏡も、その傍証の一つとして挙げられている。ちなみに「邪馬台国阿波説」で比定されている卑弥呼の居城地は、徳島県神山町神領字高根。鮎喰川の上流、標高700mの山上にある悲願寺(ひがんじ)あたりとされている。

 『御本記』については偽書とする説もあるが、その真偽はさておいても、八倉比売古墳群の築造年代は4世紀後半より遡ることはないと見られている。卑弥呼没年の247年、あるいは248年から、少なくとも100年以上の隔たりがある(徳島市民双書・19『徳島の遺跡散歩』)。また、奥の院の祭壇については、石に苔がついておらず、崩れも少ないことから、江戸期の幕末をさかのぼるものではないとの見方もある(『日本の神々 2』)。

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 当社の主祭神・大日霊命(天照大神)と、天石門別神(あまのいわとわけのかみ)および八倉比売神(やくらひめのかみ)との関係はよくわかっていない。
 天石門別神は、天孫降臨に随伴する神々の一柱で、天照大神が隠れた天岩戸神話に登場する。櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)の別名をもち、天太玉命(あめのふとだまのみこと)の子にあたる。また「八倉」については、一般に「八」は「八重」 や「八千代」など数の多いこと意味し、「倉」は物を保管する建物のことで、「多くの倉」を表している。

 大同2年(807)の『古語拾遺』によれば、神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命(あめのとみのみこと)と阿波忌部(いんべ)氏一族が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、そこを開拓したとあることから、気延山麓一帯も阿波忌部氏の勢力下にあったとみられている。したがって、天石門別八倉比売の神名は、阿波忌部氏の祖霊にあたる天石門別神を奉斎し、気延山麓一帯の水田から収穫された収穫物を保管貯蔵する、多くの倉の守り神という意味であろうと推測される(『日本の神々 2』)。

 「天石門別」を冠する神社は全国にいくつもあり、本サイトでも岡山県美作市の「天石門別神社」を紹介している。ここに直径・高さともに1.5mほどのまんじゅう型をした不思議な石積み遺構がある。形状は異なるが、正体不明の遺構という点では、どこか似ているように思われる。ご照覧あれ。

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2018年5月9日 撮影

社殿右側から、裏手にある奥の院に上っていく。





古代の竪穴住居、高床倉庫などが
復元されている阿波史跡公園。
公園内の駐車場から八倉比売神社まで約300m。


案内板(部分)