神社入口に立つ鳥居と社号標「土佐一ノ宮土佐神社」。主祭神は一言主神と味耜高彦根神。


拝殿。素木づくりの簡素な建物だが、奥行きと広がりが感じられる豪放なつくりとなっている。


国の重要文化財に指定されている本殿、幣殿、拝殿は、元亀元年(1570)に長宗我部元親によって再建されたもの。


本殿。建物の配置を上から見ると、本殿に向かってとんぼが飛び込む形に見える「入蜻蛉式」と称される独特の様式をもつ。


つぶて石。境内東北方にある畳2畳程の自然石。土左大神が鎮座地を定めるにあたり鳴無神社から投げた石とされている。


この地域は蛇紋岩の地層だが、「つぶて石」はこのあたりでは見られない珪石からなっているという。


境内東方の神苑にある禊(みそぎ)岩。かつては禊の斎場であった境内西方のしなね川に祀られていたという。
 高知市の東部、一宮しなねの地に鎮座する土佐神社。さすが土佐国の総鎮守一の宮である。神社の境内は広く、県道384号線の脇にある楼門(神光門)から真北に伸びる参道は約300m、その直線上に国の重要文化財に指定されている拝殿・幣殿・本殿が建ち並んでいる。神寂びた社叢「しなねの森」には、樹齢数百年の杉や檜が鬱蒼と生い繁り、一種神厳な趣をかもし出している。

 地名の「一宮」は「いちのみや」ではなく「いっく」と読む。土佐三大祭の一つ「しなね祭」で有名な「しなね」の語源は、『古事記』では志那都比古神(しなつひこのかみ)、『日本書紀』では級長津彦命(しなつひこのみこと)と称される風の神の名によるとも、新稲(しなね)祭の意ともいわれているが定説はない。

 土佐国の延喜式式内社は21社あるが、当社はそのなかで唯一の大社(土佐郡所属)であり、古くは、土佐坐(とさにます)神社、土佐高賀茂(とさたかかも)大社、高賀茂大明神、一宮大明神などと呼ばれていた。また、土佐は「土左」「都佐」とも表記され『延喜式』には「都佐坐神社 大」と記載されている。

 社伝によると、創建は雄略天皇(5世紀後半)の時代といわれているが、詳細は明らかでない。現在の主祭神は、一言主神(ひとことぬしのかみ)と味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)の2柱とされているが、もともとの祭神は都佐国造の祀る「土左大神(とさのおおかみ)」であったといわれている。
 土左大神の史料上の初見は、『日本書紀』の天武天皇4年(675)の条にあり、土左大神が神刀一口(あやしきたちひとから)を天皇に進(たてまつ)るとの記載がある。同書朱鳥元年(686)の条には、天皇の病気平癒の祈願に朝廷から秦忌寸石勝(はたのいみきいしかつ)が派遣されて土左大神に奉幣したことが記されている。

 奈良時代に編纂された『土佐国風土記(逸文)』には、「土左の高賀茂の大社あり、その神の名を一言主尊とせり、その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味耜高彦根尊なりといふ」と記されている。
 一言主神と味耜高彦根神は、大和葛城に根を発する賀茂氏によりあつく祀られた神である。土左大神から一言主神・味耜高彦根神への祭神の変遷は、『日本書紀』から『風土記』編纂の時代に、賀茂氏が土佐に移り住んだことでおこなわれと推察される。

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 大和・葛城を本拠地とする賀茂氏が、土佐に移り住んだ事情を物語るものとして、大和・葛城山での雄略天皇と一言主神との出会いの説話が挙げられる。
 『古事記』雄略天皇の条によると、雄略天皇が葛城山に遊猟のため登ったおり、向かいの山の尾根を、天皇の行列とまったく同じ身なりで登ってくる一行と出会った。誰かと問うとそっくり同じ言葉を返し、矢をつがえると同様に矢をつがえた。そこで天皇が互いに名のりあおうと述べると「吾は悪事も一言、善事も一言で言いはなつ、葛城の一言主の大神である」と答えた。ここに天皇は恐れかしこみ、矢を収め武器と供人の衣服を献上したと書かれている。
 『日本書紀』では、雄略天皇に瓜二つの一言主神と出会うところまでは同じだが、その後はともに狩りを楽しんだとあり、一言主神と天皇は対等の立場で描かれている。
 『続日本紀』(平安時代初期の歴史書)、『釈日本紀』(鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書)にも、雄略天皇と一言主神と出会うシーンが記されているが、ことの成り行きは記紀の説話と大きく異なっている。

 『続日本紀』(巻25)天平宝字8年(764)の条には、雄略天皇が葛城山で猟をしているとき、老夫があらわれ獲物を競い合い、天皇を怒らせてしまう。老夫は土佐に流されるが、のちにその老夫が賀茂氏の祖先神「高鴨の神」と知り、元の大和葛上郡に祀らせたとある。
 また『釈日本紀』雄略天皇の条にも、天皇が猟をしているとき、顔が天皇に似た長人の神(一言主神の化身)があらわれ、いさかいを起こし土佐に流されたという記載がある。そこには「一言主神は即葛城の高賀茂に坐す味耜高根彦尊なり」とあり、一言主神と味耜高根彦神が同神であることが示唆されている。

 古代の土佐国は、「陸の孤島」「遠流(おんる)の国」と呼ばれ、隠岐や佐渡などと並ぶ流刑地の一つであった。大和の葛城を本拠地とした賀茂氏が、土佐に流され移り住んだことによって、土佐神社の祭祀権は賀茂氏に移り、祭神は土左大神から賀茂氏の祖先神・一言主神と味耜高根彦神に変遷したものと思われる。

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 『釈日本紀』には、流された一言主神は土佐において「初め賀茂の地に到り、のち高賀茂の社(現在の土佐神社)に遷座す」とある。その後、天平宝字8年に賀茂氏の奏言によって一言主神は大和国葛城に遷されたが、その和魂は土佐国にとどまり、今に至るまで祀られているという。
 一言主神の土佐における最初の鎮座地「賀茂の地」の比定地は明らかでないが、賀茂の地と土佐神社を結びつける伝承が、当社の境内東側にある「礫(つぶて)石」の謂れに残されている。

 案内板「礫石の謂れ」によると、流れ着いた土佐大神は、まず高岡郡浦の内に身を寄せ、そこに宮を建て加茂の大神として崇奉されたとある。この「浦ノ内」が、現在の須崎市浦ノ内に鎮座する鳴無(おとなし)神社と比定されている。祭神は土佐神社と同じ一言主神と味鋤高彦根神で、一説には土佐神社の元宮であるといわれている。
 鳴無神社の社伝によれば、雄略天皇に逆らい流された一言主神は、雄略天皇4年の大晦日にこの地に流れ着き、神社を造営したのがはじまりとされている。
 その後、大神は石を取って、この石が落ちた所を新たな社地として宮を建て、祀りかえよといって大石を投げた。石は7日7晩この周辺をぐるぐるとまわったのち、14里(約55km)離れた現在の土佐神社に落下したという。この大石が「礫石」である。

 石を投げ、落ちた所に神社を建てるという伝承は、群馬県藤岡市の「鬼石神社」にも見られる。ここでも石を投げた地点と落ちた地点とは、深いつながりあると考えられている。また、『日本の神々〈2・山陽/四国〉』(白水社)には「石を投げて社地を決める方法は、投げた石の落下点を結んで山林の境界を決めるという杣(そま)たちの近年までつづいた慣習に相通ずるものがある」という見解が示されている。
 「礫石伝承」の真意は明らかでないが、土佐神社の発祥が礫石の磐座祭祀に起因していることは、まちがいないだろう。

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2018年5月10日 撮影

境内にある杉の御神木。

案内板