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「鬼石神社」参道入口にある社号標は、神流川中流より産出する三波石によって建てられたもの。
拝殿。祭神は磐筒男命、中筒男命、底筒男命の三柱である。
銅板葺き流造の本殿(南側)。
本殿床下(北側)
瑞垣の隙間から本殿床下に鎮座する鬼石の一部が見える(南側)。
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群馬県藤岡市(旧鬼石町)の南部。埼玉県との県境である神流川(かんながわ)中流の北岸、片側1車線の国道462号線(十石峠街道)に面した農産物直売所「JAたのふじ四季菜館冬桜」の駐車場前に鬼石(おにし)神社の入口がある。
境内は高台に位置している。30段ほどの石段を上り赤い鳥居をくぐると、正面に瓦葺入母屋造りの拝殿、右手に神楽殿、その奥には杉の古木が林立する社叢が広がっている。境内南側は、何も置かれていない広場になっている。どことなく閑散としているが、町民の集会や祭事に利用されているのだろう。
当社の創祀年代は不明とされているが、江戸時代には「鬼石大明神」と称し、元禄16年(1703)5月の宣旨をもって正一位を授けられ、寛政6年(1794)5月に社殿を改築、明治初年に鬼石神社と改称し、郷社に列せられている。
祭神は磐筒男命(いわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)の三柱である。筆頭に挙げた磐筒男命は経津主神(ふつぬしのかみ)の祖とされ、名前からも「岩」に関係する神であると思われるが、他にも「刀剣」や「岩の槌(ハンマー)」の神とする説もある。
社号、町名の由来となった「鬼石」は、本殿の床下に納められており、残念ながら石の全貌を見ることはできない。本殿を囲う瑞垣の外から、床下のわずかな隙間をとおして覗き見るしかないのだが、もちろん内部は暗いので、明かりなしで見るのはむつかしい(懐中電灯を照らすとよく見える)。上記の写真は、瑞垣の隙間にレンズを入れ、ストロボを発光させて撮影した。
一説によると、地表に露出している石の大きさは、直径約4尺(約120cm)、地上高約3尺(約90cm)、地下の深さは不明とされている。
それにしても、拝殿の背後に、玉垣をめぐらし巨石をご神体として祀っている神社はこれまでに多く見てきたが、当社のように本殿の床下に磐座がすっぽりと収められている形態は珍しい。速谷神社(広島県廿日市市)の本殿の下にも巨大な岩石があるといわれているが「社人も拝することなし」といわれ、何人も見ることはかなわず、どのような石なのかはあきらかになっていない。
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鬼石の伝承については諸説あるが、ここでは『日本の神々〈11・関東〉』(白水社)で紹介されている江戸時代の伝承を引用させていただく。
一、御荷鉾山(みかぼやま)の頂に鬼が住み、麓の村人に害をなしていたが、弘法大師に調伏され、巨石を投げて逃げ去った。その石の落ちたところを鬼石といい、その石は今も村中にある。(『上野国志』毛呂権蔵、安永3年(1774))
二、昔、大同年暦の頃、御荷鉾山に二鬼が住んでいた。これは伊勢国鈴鹿山の鬼神の子孫で、里人を大いに悩ませた。ときに弘法大師修行の途次、この地に至って阿毘遮廬(あびしゃろ)の護摩をたかれたところ、鬼はいたく感じ、居所を失して石と化した。この石は遥かに飛んで神流川のあたりに留まり、そのところを鬼石村と号し、その精霊を祀って鬼石大明神とした。(西田美英『上野国風土記』江戸後期)
三、鬼石神祠、土師大明神は鬼石村にある。いずれも平親王の公達(きんだち)を祭るという。(富田永世『上野名跡考』文化6年(1809))
四、鬼石大明神は鬼石村にあって平親王の公達を祭ると言い伝えている。神流川の上流御荷鉾山の麓にあって、平将門の宮女の潜居の地とも伝えられる。また、それは秩父の内、将門の城山であるとも伝えている。(『上野国風土記』)
鬼の住むという御荷鉾山は、鬼石の西方、群馬県神流村にそびえる名山で、古来より地域住民の信仰を集めてきた山である。山名の「みかぼ」は、三株の意味をもつとされ、古くは西御荷鉾山 (1286m)、東御荷鉾山(1246m)、オドケ山(1191m)の三峰を総称して「三株山」と呼ばれていた。東西の御荷鉾山の間に「投げ石峠」と呼ばれる峠があるが、石はここから投げられたと伝えられている。
御荷鉾山は不動明王信仰が盛んであり、東西の御荷鉾山の山頂には不動明王像がまつられている。鬼石神社の境内から、御荷鉾山の山容を見ることができるのかは確認していないが、当社の西方3km余りのところにある冬桜で知られる桜山公園の頂上(591m)からは、山容を眺めることができるという。
御荷鉾山から投げられた石と、その石を祀る神社。鬼石神社が、神体山である御荷鉾山を拝む遥拝所であったとも考えられるが、その関係はよく分からない。
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『日本の神々』によると、当社には石棒2点、凹み石(くぼみいし)1点が保管されているという。凹み石とは、こぶし大の石に浅いくぼみをもつ縄文時代の石器の一つで、物をすりつぶしたり、たたいたりするのに用いられた。また、発火のために用いられたとも推定されている。
当社の境内より北方に続く台地上からは、かなり広い範囲にわたって、縄文時代中期から後期にかけての土器や土偶、石器が発見されているという。また、当社の南西2.5kmの地点には、縄文時代の遺物が発見された譲原(ゆずりはら)遺跡(国指定史蹟)がある。これらのことから、『日本の神々』の執筆者・田島桂男氏は、「「鬼石」は自然崇拝に基づく石神で、いわゆる「神籠石(こうごいし)」であろう」とし、「祭祀の起源は縄文時代にまでさかのぼるのであろうか」と記している。
そうであるなら、当社の信仰の起源は、神の依り代とされる「磐座(鬼石)」を拝することにはじまり、後に神社が建てられた際に、即神的な「石神」に変化し、本殿の床下に収められたと考えられる。
すると、鬼石伝承は神社創建後につけ加えられたことになるが、はたしてそうであろうか? 神の概念は時代とともに変化していく。今となっては遥拝所説同様、両者の関係はよく分からない。
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2017年12月16日 撮影
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拝殿。
瑞垣に掛けられた鬼のイラスト。
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本殿の後方にある長屋状の境内社。このほかにも多くの境内社が点在している。
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