東側の入口石段。石鳥居の扁額には「大明神」とある。古くは「柱立明神」とよばれていた。


拝殿、その横に2つのメンヒルが鎮座している。


背の高い方は7.3m 隣は5.9m。


寄り添うように並ぶ2本の大石柱。


背後から眺めると、漫画『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクター「ぬりかべ」のように見える。
 臼杵石仏から柱立(はしらだて)神社のある竹田(たけた)市に向かう。距離はおよそ43km。カーナビの地図には入っていないが、中九州横断道路(国道57号)の朝地IC〜竹田IC間が平成31年1月に開通している。小一時間ほどのスムーズな走行で、予約していたホテルに着いた。

 柱立神社は、大分県の南西部、北にくじゅう連山、西に阿蘇山、 南に祖母山(そぼさん)など、1,700m級の山岳に囲まれた竹田盆地の底にある。竹田市役所の南西約5km、祖母山系を源とする大野川水系の玉来川(たまらいがわ)と滝水川(たきみずがわ)の合流地点を約200m北上したところにある。

 境内は、約190m×45mの島状の段丘上に鎮座している。くびれがあれば古墳を思わせる細長い形状だが、これは自然にできた地形と思われる。観光名所にはなっていないようで、案内も少なく場所はちょっと分かりにくい。駐車場がないので路肩に車を駐めた。

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 柱立神社は、巨石をご神体とする小さな神社である。境内に「鶴原(つるばる)メンヒル」の由緒書きはあるが、神社に関してはなんの記載もない。巨石信仰に関わる古い由緒をもつものと思われるが、来歴については明らかではない。

 境内への入口は、東と南の2カ所ある。東側の石段は急勾配すぎて上るにはおっかない。南側の石段を上り境内に入ると、正面に吹き放しの拝殿があり、その横に2本の立石が天に向かってそそり立っている。石の高さは7.3mと5.9m、一種異様の感がある。

 岩質は、阿蘇カルデラから流下した火砕流堆積物「阿蘇溶結凝灰岩」で、中部九州に広く分布している。なかでも大野川沿いの岩は、柱状節理が発達しており、大きな原石が得やすいことから古くから石材に利用されてきたという。
 鶴原メンヒルもこうした節理によって生まれたものだろうか、本殿側から眺めると、柱状というより分厚い板のように見える。素人考えだが、板状節理によってできたものではないだろうか。

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 江戸時代後期の享和3年(1803)に完成した『豊後国志』直入郡(なおいりぐん)の項に、「鶴原春日祠」と称して「柱立明神」の記載がある。入田郷鶴原にあり、天種子命(あめのたねこのみこと)を祀る。祠の側に高さ二丈余、径二尺余の大石柱が直立している。古くは7柱あったが、慶長元年(1596)の大地震で4柱が倒れたことが記されている。
 天種子命は、邇邇藝命(ににぎのみこと)に随伴し、天孫降臨してきた天児屋命(あめのこやねのみこと)の孫で、中臣(なかとみ)氏の遠祖とされる神である。
 また、ここでの大地震とは、安土桃山時代の慶長元年9月4日、豊後国をおそった「慶長豊後地震」のことだろう。別府湾を震源地として、マグニチュードは6.9ー7.8と推定されている。ちなみに阪神・淡路大震災が7.3であった。これほどの大地震でも境内の2柱は倒れなかったのだから、見た目と異なる抜群の安定感をもっていることがわかる。

 古い案内板には、現在5基の自然石(メンヒル)が点在しており、その内の2基は神社境内に、3基は神社背後の山林中にあるという。
 周囲を探してみると、本殿の背後10数mの林のなかに、一枚岩と思われるモノリス風のシルエットが見える。より近くで見たいが、道はついておらず、下生えをわけて進むのは困難で近づくことはできない。他にも見つかるかと丘の周囲を巡ってみたが、それらしい石は確認できなかった。

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 鶴原メンヒルの名称は、大正年間に人類学者の鳥居龍蔵によって命名されたもので、「鶴原」は当地の旧字名、「メンヒル」は人工的に立てられた巨石記念物の一種で「立石(長い石)」のことをいう。

 鳥居龍蔵のメンヒルといえば、愛媛県大洲市の「高山ニシノミヤ巨石遺跡」(通称:高山メンヒル)も氏から「東洋一のメンヒル」とよばれにわかに有名になったものである。高山メンヒルは明らかに人の手によって立てられたものだが、鶴原メンヒルは自然由来のものと思われるなので、人工物を想起させる「メンヒル」の名称は、今となるとまぎらわしい。

 奇怪な形状をした岩に神聖感を抱くのは、古代人に限らず、われわれ現代人においても同じ思いだろう。残念ながら、現在はあまり人の訪れない神社となっているようだが、地元の人にとっては、大地震にも倒れなかった誇らしい石柱である。この地区を守る大切な石神として信仰されているのだろう。

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2019年4月20日 撮影

本殿北の叢林のなかに見える巨岩。



案内板