房総半島の南端部に位置する安房国(あわのくに)。北方は上総国(かずさのくに)と接し、東・西・南の三方を浦賀水道、相模湾、太平洋の海に囲まれている。
安房国の一ノ宮・安房(あわ)神社の由緒によると、阿波国(あわのくに、現在の徳島県)を開拓した天太玉命(あめのふとだまのみこと)の孫・天富命(あめのとみのみこと)が、東国により肥沃な土地を求め、四国の阿波国に住む忌部(いんべ)一族を率いて、海路黒潮に乗り、安房国南端の布良(めら)の阿由戸(あゆど)の浜に上陸した。忌部一族は、この地を安房開拓の拠点とし、のちに布良浜の男神山・女神山に祖神の天太玉命・天比理刀v命(あめのひりとめのみこと、天太玉命の妃神)を祀ったのが安房神社の創祀とされている。
時代が下り、養老元年(717)、吾谷山(あづちやま、標高101m)の麓である現在地に遷座され、天太玉命と天比理刀v命を祀る本宮(上の宮)を建立、併せて天富命(天太玉命の孫神)と天忍日命(天太玉命の兄弟神)をお祀りする摂社(下の宮)も造営されたという。
『令集解(りょうのしゅうげ)』によると養老7年(723)には、伊勢神宮、出雲大社、宗像大社、鹿島神宮、香取神宮などとともに「八神郡(しんぐん)」のうちの1つに認められた由緒ある神社である。
平安初期の大同2年(807)、忌部広成(ひろなり)によって編纂された『古語拾遺(こごしゅうい)』には「安房社(あわのやしろ)」と記され、平安時代編纂の『延喜式』神名帳には名神大社「安房坐(あわにいます)神社」と記載されている。「坐」は、奈良県橿原市にある忌部氏の総氏神・天太玉命神社と区別するための命名とされている。また、地元では町名の大神宮にみられる「大神宮様」ともよばれている。
徳島県美馬市の「神明神社の磐境」でも記したが、忌部(のちに斎部)氏は、中臣(なかとみ)氏と並んで、古代の宮廷祭祀に奉仕してきた名門氏族である。「安房(あわ)」の国名・社名は、この阿波(あわ)忌部氏の移住・開拓から名付けられたといわれている。
◎◎◎
国道410号線から南に約400m。車を降りてまず目を惹くのは、靖国神社と同形の反り増しのない神明系白丸鋼鉄製の大鳥居である。鳥居脇の社号碑は、東郷平八郎元帥の揮毫(きごう)によるという。桜並木の参道は広く、いかにも官幣大社にふさわしい由緒と威厳のある佇まいをみせている。
二の鳥居をくぐった境内の一番奥に、吾谷山を背景にした神明造りの本殿・上の宮が北東に向いて鎮座している。現在の本殿は、明治14年(1881)に造営されたもので、平成21年(2009)に大修造が行われている。本殿前の拝殿は、昭和52年(1977)の造営で、鉄筋コンクリートによる神明造り。また本殿の右手には、神様の食事をつくるための神饌所(しんせんしょ)が接続している。
拝殿正面の石段を下ったところに、ひときわ目を惹く巨大な岩塊が横たわっている。この岩は、古来よりここにある海食岸で、かつてはここが海岸であったことを示している。
館山市立博物館監修の資料によると、この海食岸は「社殿のできる前にはこれを岩倉(いわくら)として、祭神を天よりあるいは吾谷山の頂より招いて、原始的な祭祀が行われていたと考えられる」と記されている。
現在、海食岸の左側には、岩の一部をくり抜いてつくられた厳島社の小祠が置かれ、その右側には日露戦役記念碑が建てられている。
磐座とは、神の依りつく岩石の意で、岩石そのものを神とみなす場合も多い。日露戦役記念碑は、明治39年(1906)に建てられたとある。当時は磐座信仰の伝承が途絶えた時期だったのだろうか。私の目には、磐座がえぐられ、石碑の台座にされていることは、無残であり痛々しいものに見える。
◎◎◎
本堂の右手に樹齢400年といわれる「槙(まき)のご神木」があり、その先に摂社・下の宮が鎮座している。下の宮の正面参道を下ったところに「あづち茶屋」があり、その裏手に千葉県指定史跡の「安房神社洞窟遺跡」がある。
昭和7年(1932)、関東大震災の復旧工事として神社参籠所(さんろうじょ)の改築に伴う井戸の掘削工事が行われた際、地下1mのところで偶然に洞窟が発見され、洞窟内の堆積土のなかから、人骨や土器などがみつかった。
洞窟発見直後の調査は、当時内務省神社局に勤めていた大場磐雄氏によって行われ、人骨、貝製腕輪193個、石製の丸玉3個などとともに土器などが出土した。大場氏は出土した遺物から、当遺跡はあきらかに弥生土器を主体としたもので、出土人骨の年代を弥生時代の末期と報告した。
出土人骨の分類と同定は、人類学者の小金井良精(よしきよ)氏によって行われ、頭蓋骨22個体、顔面骨21個体、上腕骨19体、腓(ひ)骨20個体が確認され、埋葬されていたのは少なくとも20人以上と推定されている。頭蓋骨のうち15体に抜歯があったことから、弥生時代の抜歯人骨が出土した洞窟遺跡として、考古学界のなかで定着していった。
その後、発掘された土器が縄文時代のものである可能性が指摘され、平成20・21年に千葉大学考古学研究所によって再度の発掘調査が行われる。その結果、開口部は不明だが、洞窟の大きさは推定全長22m以上、幅約4.5mの規模であることがわかり、出土遺物の大半は、縄文時代晩期後半の「五貫森(ごかんもり)式」土器の破片で、大半が縄文土器の出土であったという調査成果が得られた。
成人、婚姻、服喪などの通過儀礼として、健康な歯を抜く抜歯の風習は、縄文時代晩期に盛んに行われていた時期にあたり、当遺跡の抜歯人骨は、縄文時代晩期にものである可能性が高くなったと考えられている。
この洞窟遺跡は、現在埋め戻されて見ることはできない。出土した人骨の一部は、社務所の手前(北側)の細い道を入り、数分歩いた竹藪の先にある「忌部塚」に埋葬されている。
忌部塚に向かう道の山裾の崖に“やぐら(矢倉)”と思われる横穴が多数見られる。鎌倉から室町時代にかけて作られた横穴式の納骨窟または供養堂の跡だろうか。
忌部塚は、丘陵の崖の一部をくり抜いてつくられた“やぐら”のなかにあり、年代を感じさせる苔むした岩肌は、なんとも謎めいた雰囲気を醸し出している。
忌部塚の名前からも分かるように、出土した20体以上の人骨は、古代の房総半島の開拓に従事した忌部一族の遠祖として祀られている。
神社境内から少し離れているが、悠久の歴史をしのぶのにふさわしい場所である。
ぜひこちらにも足を運んでいただきたい。
◎◎◎
2018年12月15日 撮影
|
二の鳥居。白い鋼鉄製の神明鳥居。
「忌部塚の由来」
忌部氏は、日本建国のいにしえより祭祀・社殿造営などをつかさどり大功のあった名族で、天富命率いる阿波の忌部は、房州に入植するや辺境の開拓に力を尽くして当地に農漁業・建築技術をもたらし、先住民とともに力を合わせて房総の地を切り拓かれた。忌部塚にまつられている二十二柱の御霊・人骨は、安房神社境内の洞窟遺跡より発掘されたもので、生存年代は弥生以前にさかのぼるものである。この二十二柱を忌部一族の遠祖と仮託して塚にまつり、房総開拓・隆盛の大功を偲ぶよすがとしている。毎年七月十日には、報恩崇祖の誠を捧げる忌部塚祭が執り行われている。
安房神社社務所
現地説明板より
|