楯築(たてつき)遺跡の駐車場に車を置いて、南に約700mの王墓山(おうぼさん)古墳群に向かう。「王墓の丘史跡公園」の総面積は約6.5ヘクタール、東京ドーム約1.4個分の大きさになる。北側から楯築地区、日畑赤井堂地区、王墓山地区の3つのゾーンに分かれており、園内には「楯築遺跡」を筆頭に60基を越える古墳が群集している。
「王墓山」という地名がいつごろのものなのか、詳しいことはよく分かっていないようだ。森浩一の『考古学と古代日本』(中央公論社)には、王墓山の名は「明治時代になってからの俗称ともいわれている。もっと古い伝承であれば、“吉備王国”を考える一つの手がかりになる。」と記されている。
「王墓の山」という堂々たる名称には、全国最大規模の弥生墳丘墓「楯築遺跡」こそふさわしいと思えるが、楯築遺跡が広く知られるようになるのは、1970年代の住宅団地造成に伴う発掘以降のことである。岡山県の郷土史家・永山卯三郎は、昭和5年(1930)にここが古墳であるといち早く見抜いていたようだが、一般にはまだ知られていなかった。王墓山が古代からの名称であるなら、まさに「地名」こそ「歴史の生き証人」ということになるのだが。
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真宮(しんみや)神社は丘陵尾根の南端に位置し、そこに至るまでの遊歩道周辺には、あちらこちらに大きな岩がごろごろと点在している。
王墓山古墳は明治42年(1909)、石材採掘中に発見された。すでに墳丘、石室ともに破壊されていたが、石室から掘り出された家形石棺が残されており、現在も墳丘の裾に展示されている。古墳の形態、規模の詳細は、後世の破壊により分かっていないが、大きさは25m程度で、築造時期は古墳時代後期の6世紀後半頃と推定されている。
古墳からの出土品は、中国から舶載された画文帯四仏四獣鏡をはじめ、金銅装馬具・鉄製武具・装身具類・須恵器など、100点を超える副葬品が出土している。
また、王墓山中央部の丘陵上にある「女男岩(みょうといわ)遺跡」から、昭和45年(1970)に倉敷考古館の間壁忠彦、間壁葭子両氏らによって、器台の上に家形を取り付けた「台付家形土器」が発掘されている。現在見つかっている唯一の台付家形土器で、古墳時代の家形埴輪(はにわ)より100年ほど早く出現しており、他に例のない貴重な資料とされている。
こちらも墳丘の形態、規模の詳細は分かっていない。土壙墓の大きさは長さ4m、幅2.5mで、粘土床の上に木棺が置かれ、なかには粉状になった人骨と、わずかに歯が残されていた。歯のエナメル質から17〜22歳、少なくとも25歳以下の男性と推定されている。
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王墓山丘陵の南端に鎮座する真宮神社の標高は約33m。南方の眺望を妨げるものはなく、眼下に山陽新幹線の高架が東西に走っている。高架の先数100mのところに、弥生時代に港として栄えた上東遺跡があり、そのあたりまで海が迫っていたといわれている。
真宮神社の神域内にも現存5基の古墳が確認されている。参道左手にある「6号墳」は、王墓山古墳群のなかで最も長大な横穴式石室を有しており、南に開口する片袖式の石室は全長11m、玄室長5.6m、同最大幅1.8m。墳丘はすでに流出しているものの、石室はほぼ完全な状態で残されている。
一般には、神社は死の穢(けが)れを嫌うといわれているが、これほど古墳の群がる丘陵上に、なぜ神社が建てられているのだろう。
楯築遺跡の墳丘上にも、明治時代末期まで楯築神社が鎮座していた。近くの鯉喰神社も弥生墳丘墓の上に建てられた神社である。また、王墓山丘陵から北西に約2.5kmにある日本第4番目、全長350mの前方後円墳・造山古墳にも前方部に荒(こう)神社が建てられていた。
これらの神社に祀られている祭神は、当社では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、別名は須佐之男命(すさのをのみこと)。楯築神社は片岡多計留命(たけるのみこと)で、吉備津彦命の湯羅退治に関わったとされ、日畑西山の産土神とされている。片岡山の地名はこの祭神の名前によるという。鯉喰神社は夜目山主命(やめやまのぬし)ほか3柱で、4柱ともに吉備津彦命に寝返った温羅の元家来とされている。造山古墳の荒神社については、いろいろと調べてみたがよく分からない。一般には、荒神社は火の神、竈(かまど)の神とされているが、中国地方では同族や村の守護神とされて、岡山県にはこの「荒神社」が約200社と全国で最も多い。
上記神社の創建年代はすべて不詳とされ、古墳の被葬者も明らかになっていない。神社と古墳の結びつきは推測することしかできないのだが、真宮神社の氏子は、当地名の「西尾」と同じ西尾姓の人たちのみという。ネットの記事であり、その真偽を明かになし得ないが、この古墳群の被葬者が西尾氏とダイレクトに結びつくとは、ちょっと考えにくい。
古墳と神社の関係については、墳丘上に設けられた祭壇が、後世神社に発展したとするもの。また、古墳の荒廃とともに被葬者の記憶も失われ、後に古墳の墳丘が聖地化され神社が設けられたとする見解がある。当社の由来も、祖霊を祀り遥拝する行為だけが引き継がれ、いつしか地域の氏神を祀る神社へと変貌していったのではないだろうか。
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2017年4月26日 撮影
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真宮神社 拝殿。
1970年、王墓山丘陵の女男岩遺跡より出土した
「台付家形土器」高さ49.5cm。(倉敷考古館蔵)
弥生時代後期(3世紀)。
供えものをのせる器台の上に、優雅な反りをもった
入母屋造りの家がのせられている。
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