王墓山丘陵の南、鎮守の森に鎮座する岩倉神社。


参道脇の巨石。左の石鳥居の根元付近から弥生時代前期の土器片が出土している。


かぎ型に割れた岩。高さ約3m、横の長さ約10m。


元は一つの岩であったと思われる。左の岩が割れ、片割れが右下に滑り落ちている。


横にスライスされたような不思議な岩。


一つの岩が割れ、次第に角度がズレてきたものだろう。


安政年間(1854〜1860年)に再建された拝殿(右)と本殿(左)。
 真宮神社から、南東に約700mはなれた岩倉(いわくら)神社に向かう。王墓山丘陵のなだらかな坂道をくだり住宅地を過ぎると、平地に浮かぶ島のごとき社叢が見えてくる。
 岩倉神社は「王墓の丘史跡公園」の南側、足守(あしもり)川西岸の田園地帯に鎮座している。現在、ここから倉敷市の水島港まで約18kmあるが、縄文海進が最大規模となった紀元前4000年頃には「吉備の穴海」とよばれる海域にあり、当社は海の底にあったという。
 弥生時代に入り、足守川が運んでくる土砂により沖積化が進むと、王墓山丘陵の南側の微高地が陸地化し、周辺に岩倉遺跡や上東遺跡、下庄遺跡、才楽遺跡などの弥生集落が出現する。

 岩倉遺跡は、当社周辺を北端とし、山陽新幹線を南に越えたあたりにまで広がっていたと考えられている。これまでに当社周辺の発掘調査は行われていないが、当社境内の石鳥居付近から弥生時代前期(紀元前800年頃)の土器片が出土している。
 このように岩倉神社の周辺には、多くの遺跡が集中している。その理由として、足守川が運んできた肥沃な土地が米作りに適していたこと。海の玄関口である吉備津を目の前にし、瀬戸内海航路の重要な中継地であり、古代山陽道に通じる交通の要衝にあったことなどがあげられる。

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 岩倉神社の社叢は直径約80mの円形状で、中央部が盛り上がり、社殿もそこに建てられている。周辺の田んぼに大きな岩は見られないが、この森の中だけに、おびただしい数の巨石が累々と横たわっている。かぎ型に割れた岩や真っ二つに割れた岩、スライス状に割れた岩など形状はさまざまだが、割れた隙間の大きさから長大な年月が感じられる。

 これらの石は元からここにあったのか、または周囲から掘り出され、寄せ集められたものなのか。何とも不思議な光景に首をかしげてしまう。

 拝殿に掲げられた由緒書によると、祭神は大稲船命(おおいなふねのみこと)という産土神(うぶすながみ)で、吉備津彦命が吉備国へ下向のとき、片岡の伊佐穂(いさほ)という人が、稲を栗坂の里(現・倉敷市栗坂)で刈り、軍卒に命じて船に積み北に向かったが、潮が急で進むことができず、船を廻して西の岬に泊まり、稲を積み上げて軍糧として献上した。この功績によって、大稲船の名を賜わったという。潮の急だったところを「瀬口」、稲を積み上げたところを「稲倉」と名付けたが、後年、泥砂が流れ落ちて切り立った岩が露出してきたことから、これが訛って「岩倉」といった。
 創建は仁徳天皇の御代(313〜399年)とされ、吉備津宮の五社七十二宇が創建された時に、岬に一宇を建立された。元禄年間(1688〜1704年)に再興され、明和5年(1768)及び安政年間(1854〜1860年)に再建して、今日に至る。と記されている。

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 由緒書にある「後年 泥砂(でいさ)流れ落ちて巉巖(ざんがん)突峙(とつじ)す」の文言から察すると、やはり社叢内の巨石群は、元からここにあったと思われる。

 これだけ多くの巨石があれば、集落のなかの特別な場所として位置づけられてもおかしくない。この巨石群が基点となって、集落の精神的支柱である産土神を祀る場所にふさわしいと考えられてきたのだろう。
 弥生時代から現代に至るまで、聖地として生きつづける鎮守の森に、日本人の想起する原風景が感じられる。

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2017年4月26日 撮影

グーグルマップより作成



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