阿智神社 拝殿。


「鶴石組」。西芳寺(京都市)の枯山水に影響を与えたといわれている。


「鶴石組」。後方に本殿。


「亀石組」。右の石が上を向いた亀の頭に見える?。
 白壁の町並みが続く倉敷美観地区の北にある鶴形山(標高40m)の山上に、倉敷の総氏神、阿智(あち)神社は鎮座している。
 かつてこのあたりは「吉備の穴海」の西部にあたる「阿知の海」と呼ばれる海域で、鶴形山は独立した島であった。海岸線の後退と高梁川の押し出す土砂の堆積によって「鶴形島」が陸続きになるのは平安時代のこと、山の周辺には「阿智潟」と呼ばれる干潟が広がっていたという。阿智潟の干拓は天正年間(1573〜1592)頃より江戸時代初期にわたり続けられ、倉敷の名前が登場するのは近世になってからであるという。

 創建の由来について、永山卯三郎著の『倉敷市史』第5冊に「神功皇后が三韓外征の折、暗夜この近海で航路を見失い、航海の神宗像三女神にお祈りされたところ、明るく光り輝く三振りの剣がこの山に天降ったことにより航路が分かり、無事航海できたことから三体明剣(さんたいみょうけん)として崇め氏神として斎き祀った」と記されている。
 この故事にちなみ、古くは「明剣宮」と呼ばれていたが、神道が仏教と習合し、中世以降は「妙見宮」と称されていた。明治2年(1869)の神仏分離令により仏式が廃され現在の社号・阿智神社と改称。明治7年に主祭神も妙見神から宗像三女神に変わったとされている。
 創建年代は不詳であるが、承平年間(931〜938)成立の『和名類聚抄』に、「阿智明神」の名で記載されていることから、当社の創建年代は、少なくとも平安時代中期まで遡ると考えられている。

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 古代、鶴形山周辺は備中国窪屋郡(くぼやぐん)阿智郷の一部であったと推定されており、「阿智」の地名は、『日本書紀』に登場する渡来人・阿知使主(あちのおみ)の伝承に因むものである。

 阿知使主については、『日本書紀』の応神天皇20年の条に「倭漢氏(やまとのあやうじ)の祖である阿知使主とその子の都加使主(つかのおみ)が、己れの党類17県の人民を率いて来帰した」と記されている。また『古事記』の応神天皇の段に「漢直(あやのあたえ)の祖が渡来した」とあり、履中天皇の段にも「倭漢直(やまとのあやのあたえ)の祖阿知直(あちのあたえ)」の記載がある。
 渡来した阿知一族は、大和国の飛鳥に近い「桧隈(ひのくま)」を本拠地としたが、阿知一族の末裔がこの地に定住し、吉備国繁栄の礎を築いたことから、この地を「阿知」と呼ぶようになり、鶴形山の山上を阿知使主ゆかりの地として祀ったものと伝えられている。

 先に紹介した石畳神社に、応神天皇の時代、秦氏の祖・弓月君(ゆづきのきみ)が、百済から渡来してきたことを記した。東(倭)漢氏は秦氏と並ぶ渡来系氏族の代表格とされている。5世紀頃よりヤマト朝廷の文書管理、財務、土木、機織(はたおり)、外交にたずさわり、急速に成長するが、6世紀に入ると分裂をくりかえし、多くの末裔・枝氏族に分かれたという。このことからも、鶴形山周辺に阿知使主一族の末裔が住みついて、渡来人の知恵と大陸の技術をもって吉備国を発展させたという可能性は十分にあり得るだろう。

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 当社の本殿西側に「天津磐境(あまついわさか)」と呼ばれる2つの石組がある。「鶴石組」と呼ばれる石組は、高さ1.5m余りの2つの石が、あたかも鶴が羽を広げた形に見えるといわれている。その奥にある「亀石組」は、大きめの石が上を向いた亀の頭に見立てられたものだろうか。どちらも注連縄を巻かれており、磐座のように見えるが、石の配置がなんとも絶妙でありすぎ、鑑賞のための石庭のようにも思えてくる。

 案内板の説明には「この神社には磐境、磐座のほか蓬莱(ほうらい)思想にもとづく鶴亀の石組、陰陽思想的な磐座が遺され、日本庭園に於ける石組の起源を探る貴重な存在として注目されている。(中略)彼ら(阿知使主一族)は帰化するにあたってその帰属意識を明らかにする為、日本に古来から伝わる磐座や磐境を設け、更に彼ら民族の先進的文化を盛り込むべく中国から伝来した鶴亀の神仙蓬莱思想や陰陽思想を導入したものといわれている。」と記されている。
 上記の「日本に古来から伝わる磐座や磐境を設け」の記述から「天津磐境」は蓬莱思想や陰陽思想を反映させるために、人の手によって設けられた磐座とも解釈できる。

 飛鳥・奈良時代より始められた作庭思想には、古代中国の影響を受けた宗教的な意味合いが色濃く反映されているという。岡山県出身の作庭家・重森三玲氏も「阿智神社の石組は、最早ただ単に磐座磐境と見ることは出来ないのみか、明らかに庭園的存在であり、原始庭園として一考することができる」(『日本庭園史大系』第1巻)との見解を示されている。
 鶴石、亀石の石組が、元から露頭していた岩(磐座)であるのか、人の手により造られた石組なのかは分かっていない。どちらにしろ、磐座や磐境と呼ばれる古代の巨石(群)をイメージして作庭された観賞用の石組といえるだろう。
 当社の「天津磐境」を神聖な磐座とみるか、幽玄な庭園の景石とみるか、悩ましいところである。

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2017年4月28日 撮影


萱葺流造りの本殿。












阿智神社 境内配置図


案内板