高梁川対岸からの眺め。右のトンネルにかかる橋が「豪渓秦橋」。


高さ60mあるという石畳神社の大石柱。石柱の下にも小さなトンネルが通っている。


鳥居を潜って石段を上がるとすぐに拝殿がある。


大石柱の先端部。高梁川とのどかな田園風景が見下ろせる。


幾層にも積み重なった岩が微妙なバランスで均衡を保っている。
 石畳(いわだたみ)神社は、岡山県の中南部、総社市秦(「はた」ではなく「はだ」と読む)の城山(荒平山、191m)の北東麓に鎮座している。

 神社の背後には山が迫り、目前には岡山県下で最大の流域面積を誇る高梁川(たかはしがわ)が大きな弧を描いて流れている。当社のご神体である大石柱(磐座)を一望するには、対岸から眺めるしかない。(豪渓秦橋からは、交通量が多いので危険)
 高梁川の川幅はおよそ100mほど。対岸にそそり立つ大岩塊は高さ60m。山の稜線までとどくその威容は巨大な塔を想起させる。

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 当社の創祀年代は不詳だが、その年代はかなり古いものと思われる。奈良時代の万葉集には「石畳 さかしき山と知りながら 我は恋しく 友ならなくに」と詠われ、平安時代の延喜式にも、備中国下道(しもつみち)郡の5社の一つとしてその名が記されている。

 祭神は日本神話に登場する経津主神(ふつぬしのかみ)とされているが、元々は自然崇拝からはじまった川の守護神であったと思われる。社殿も当社の大石柱の前では、単なる付け足りにすぎないものとなる。当社には本殿はなく、簡素な拝殿が石段を上った高台に建てられているが、これは昭和30年「旧豪渓秦橋」を架ける時に移転し、改築されたもの。かつては、ご神体の石柱の真下にあったという。

 拝殿左手の急な山道をしばらく登っていくと、ご神体岩の最頂部を間近に見ることができる。ご神体岩は、四角い積み木を何層にも積み重ねたような岩塊で、絶妙なバランスによって今の形状が保たれている。
 岩の手前に小さな赤い鳥居が置かれている。ここまで行ってみたいが、私の運動神経では危なっかしい。「危険(これより先)」の看板を横目に、こわごわと下を覗きみると、そこは断崖絶壁、眼下には大きく蛇行する高梁川とのどかな田園風景が見下ろせる。

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 「豪渓駅」のある伯備線が全線開通したのは、昭和3年(1928)のことである。それ以前、山陽と山陰を結ぶ交通・運搬の大動脈となっていたのは、高梁川を利用した水運であった。舟上から見上げる大岩塊は、神の依り着き籠る岩として崇められ、高梁川のシンボル的存在であったのだろう。水上交通の安全と発展を願う神社として、流域の人々から手厚く信仰されていたものと思われる。

  薬師寺慎一氏はその著『吉備の古代史事典』のなかで、この川の「祭祀の執行者は神社の鎮座地「秦(はだ)」に住んでいた「秦氏」に違いない。秦氏はダムを造るのが得意であり、近くの湛井(たたい)の井堰(いぜき)は彼らが造ったものであろう。飛鳥時代の創建という秦原(はだはら)廃寺も彼らの氏寺であったとしてまちがいない」と述べている。
 古代吉備国と秦氏の関係については、いまだ謎の部分が多い。薬師寺説も仮説の域を出ないものだが、県内に秦氏に関係する事物が多くみられることから、その可能性は十分にあると思われる。

 まず「湛井堰」の起源は不明とされているが、伝承によれば、備中妹尾郷に所領をもつ平家の有力な武将・妹尾兼康(せのおかねやす)によって、平安時代末期の寿永年間(1182 〜 1185)に大改修が行なわれ、現在のような用水になったと伝えられている。薬師寺説では、「大改修」が行われたということは、井堰はそれ以前に造られたことになり、最初に堰を築いたのが秦氏であったと推論している。
 「秦原廃寺」については、出土した瓦等から、飛鳥時代に創建された中四国最古の寺院跡とされている。この地域が、平安時代中期につくられた辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」(略称:和名抄)に記載されている「下道郡秦原郷(しもつみちぐんはだはらごう)」あたることから、薬師寺説ではこの廃寺を秦氏の氏寺と推察しているが、発掘調査では秦氏に直接の関わる遺物は見つかってはいない。

 『日本書紀』によると、応神天皇の時代に秦の始皇帝の子孫である「弓月君(ゆづきのきみ)」が120県の民を率いて、百済から渡来してきたという。本条に弓月君を秦氏の祖とする記述はないが、『古事記』の応神天皇条には、秦造(はたのみやつこ)の祖が渡来したとあり、9世紀初頭に成立した『新撰姓氏録』には、秦の始皇帝の末裔である融通王(弓月君)が、応神天皇14年に127県の民をつれて渡来したと記されている。
 応神天皇の絶対年代は分かっていない。弓月君の大規模な渡来は、おそらく4世紀末から5世紀初め頃と考えられている。

 秦氏は、土木、製鉄、養蚕、機織りの技術を持って渡来し、山城国葛野郡(かどのぐん)太秦(うずまさ、現在の京都市)あたりを拠点として大和朝廷を支え、平安遷都にも活躍した。
 「太秦」の地名由来に、「太」は拠点の意味で「まさ」は秦氏の「秦」をもって表記したという説がある。この「秦=マサ」説を受けて、薬師寺氏は当社の西にある「正木山(まさきやま)」は、秦氏の「マサ」と「城」を意味する「キ」から名付けられたもので「秦氏の城」の意味をもつと指摘している。
 正木山の丘陵尾根では、2010年に全長76mの前方後方墳「一丁ぐろ古墳」が発見され、2014年には、総社市秦の茶臼嶽で全長58mの前方後方墳「茶臼嶽(ちゃうすだけ)古墳」が発見されている。
 地元には、日本列島に渡来した秦氏は、まず吉備に住み着き、それから東へ進出したという説もある。まだただ漠然とした説ではあるが、今後の発掘調査により秦氏との関連が明らかになる可能性もある。今後の研究成果が待たれる遺跡である。

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2017年4月27日 撮影


石畳神社周辺地図。


案内板