セミナー・ペーパー 『銀河ヒッチハイク・ガイド』における宗教と無神論について

 2002年ー2003年にグラスゴー大学神学部(Faculty of Divinity どちらかというと牧師養成のための学部。学問として神学を学ぶのは Faculty of Theology らしい)に提出された、クリスチャン・シュレーゲル(Christian Schlegel)のセミナー・ペーパー "Religion and atheims in Douglas Adams' Hitchhiker's Guide to the Galaxy" の概要は以下の通り。だが、まとめたのは素人の私なのでとんでもない誤読をしている可能性は高い。そのため、これはあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


1 イントロダクション

 ダグラス・アダムスと『銀河ヒッチハイク・ガイド』についての簡単な説明に続き、ダグラス・アダムスの生涯を、彼の宗教観の変遷に的を絞って説明している。
 アダムスは、10代の頃は割と熱心なキリスト教信者だったが、学校で「論理的に考えること」を学んでいくうち、物理的な論理を当てはめられない宗教的「真理」に確信が持てなくなり、不可知論者になる。この時点ではまだ神の存在は否定しきれないと考えていたが、30代になってリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』や『盲目の時計職人』を読んで進化論を知り、「神はいないと信じるのではなく、神は存在しないと納得する」。ただし、どうして宗教というものが出来上がったのか、なぜ今なお存続しているのか、という意味で、その後も宗教そのものには関心があるという。

 
2 宗教批判

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、宗教哲学やキリスト教の教会といったものがたびたび嘲笑されている。
 代表的な例を挙げると、

「ひとりの男が木に釘付けにされてから二千年」(安原訳、p. 6)

 イエス・キリストでも救世主でも神の子でもなく「ひとりの男」と書くことでイエス・キリストの神性をはぎ取り、また「木」と書くことでキリスト教のシンボルである十字架という言葉を避けている。「たまには人に親切にしようよ楽しいよ」というのはキリスト教的博愛主義の精神を端的に表しているが、思いやりのある道徳規範は必ずしも宗教や宗派と関係がない、ということもほのめかしている。

「ベストセラー」(同、p. 7)

 史上最上最高のベストセラー本は聖書だが、その聖書よりも『銀河ヒッチハイク・ガイド』というガイドブックのほうが売れている、という。ウーロン・コルフィドの著作名『神はどこでまちがったか』『神の最大の誤りについてもう少し』『そもそもこの神ってのはどういうやつだ』も、人類が神について真剣に考え続けてきたことをバカにしている。

「神の不在の最終的にして揺るぎない証拠」(同、p. 82)

 バベル魚の存在が、逆に神の存在を否定する、というくだりは、結果として、特定の目的のためにあるものをデザインした創造主=神の存在をほのめかす結果となっている。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の世界においてすら、非論理的な理由で神を亡きものにすることはできない。

3 進化か創造か?

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、進化論擁護の姿勢が強く見られる。「そもそも木から降りたのが大きなまちがいだったのだ、と多くの人が言うようになった。木に登ったのさえいけない、海を離れるべきではなかったのだと言いだす者もいた」等々。しかし、人類の不幸は人類自身が作り出したものであり、生きるとは何かという哲学的な問題を人類の苦悩と一緒にして語るのは的外れである。
 人類は神が生み出した最高傑作であり、その神への信仰なくしてはこの世界は特別なものでも崇高なものでもなくなってしまう。アダムスは人類など何ら特別ではないと書く(「人類はずっと自分たちのほうがイルカより賢いと思い込んでいた。なぜなら人類は多くの偉業をなし遂げ、車輪を発明したりニューヨークを築いたり戦争をしたりしてきたのに、イルカは水のなかでむだに時間をつぶし、ただ遊びほうけているばかりだったからだ」安原訳、p. 211)が、ここでアダムスが挙げているのは人類が科学的/文化的発展の悪い面ばかりだ。科学や文化は、これまで神に委ねられるままになっていた領域、医学とか宇宙の仕組みといったものを明らかにしてきたし、今後もそうなることだろう。『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、さらにスケールアップして、惑星が創られたり究極の問いに答えるコンピュータが登場する。

4 意味を探して

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のディープ・ソートは、説明できそうもないものを説明してくれるという意味において、無神論者にとってまさしく「機械仕掛けの神」である。宗教に代わって、科学が、哲学的な問題も含め、すべてを説明してくれる。が、おもしろいことに、ディープ・ソートが登場する場面は宗教の礼拝によく似ている。ディープ・ソートが、自分は宇宙で一番すぐれたコンピュータではない、一番なのは「わたしが言っているのはほかでもない、わたしのあとに現れるコンピュータのことです!」(同、p. 227)と叫ぶが、この言葉も「マタイによる福音書」3章11節に出てくる洗礼者ヨハネの言葉「しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない」を思い起こさせる。また、このディープ・ソートの言葉に対して、科学者フークが「だれが救世主到来を予言してくれと頼んだんだ? ("needlessly messianic")」(同、p. 227)とつぶやく辺りも、科学者たちは自分たちの仕事によって宗教は消滅するとよく分かっている。科学者たちに言わせれば、宇宙や生物の謎を解くのに、もはや超越的な存在など必要ないのだ。
 故に、ディープ・ソートが計算して出した「宇宙と生物と万物についての究極の疑問の答え」(風見訳、p. 223)は「42」となる。なるほど、宇宙誕生の背後にある物理法則の鍵となる数字はひょっとすると「42」かもしれない、この物理法則に従って生まれた運動エネルギーが生命の誕生と進化を促して、今の我々を生み出すことになったのかもしれない。が、「42」が人類が存在する理由を科学的に説明したとしても、そこには深い意味はない。
 人間は誰しも何かしら根本的なところで欠落感を抱いている。アーサーも、スラーティバートファーストに「子供のころからずっと、なんの理由もなく、なにかが起きているっていうみょうな気がしてしかたがなかったんですよ」(安原訳、p. 257)と言う。が、アダムスはこの欠落感を一蹴し、スラーティバートファーストには「意味なんぞ考えるのはやめにして、その時間をほかのことに使えと言うしかなかろう」と答えさせる。一見、現実的で前向きな考え方のようにも思えるが、アダムスが一蹴した生きることの意味を問うことこそ宗教であり、その答えはおのずと神につながっていく。
 それにひきかえ、無神論者たちは意味を見つけられないことに対する対抗策として、いわゆる「自己実現」に意味を見出そうとする(スラーティバートファーストがフィヨルド製作にのめり込んだように)。が、結局、それはつかの間の満足でしかない。

5 結論

 主人公アーサーは普通の人であり、読者は彼に共感しながら読み進めていく。さまざまな事件や冒険は、単なる物語上の展開ではなく、「学習する」ということについての寓意にもなっている。また、ダグラス・アダムス自身の信仰心の変化(子供の頃は神を信じていたのに大人になって無神論者になった)についての物語でもある。
 生まれたばかりの子供は、まず身の周りの世界を認知する。それから、認知する世界を広げていき、世界の驚異や奇跡を体験し学習していく。経験や知識で説明しきれないものに対しては、推測するしかない。科学はどんどん発達していて、宇宙や生命に関するさまざまなことを説明できるようになったが、それでもなお解決しきれないものは残る。科学で、我々の存在理由を解き明かすことができるのだろうか? アダムスにとって、その答えはダーウィンの進化論だった。アダムスに言わせれば、今ここにある世界は「なるべくしてなった」ということだろう。
 アダムスはとても知的かつ愉快な方法で自身の世界観を提示してくれたが、宗教批判として神学から借用した部分には多くの間違いや曲解がある。宗教をおちょくることに気を取られすぎて、誰もが手にすることのできる善と真を見失ってしまった("he gets caught in "poking and prodding at it" that he forgets about the good and true things it has ready for every one of us")。

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