M・J・シンプソンによる映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』評


 以下の映画評は、2005年の映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』公開直前のタイミングで、ダグラス・アダムスの非公式伝記作家であるM・J・シンプソンが自身のサイトで公開したものである(現在は削除済み)。訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


 この批評は、2005年3月31日にロンドンで少数のジャーナリスト向けに公開され、ほぼ完成に近いヴァージョンの映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』に基づくものです。私はブエナビスタとデジタル・アウトルックに招待してもらって参加しましたが、この二つの会社は寛大にも私がこの上映会に行くための交通費も負担してくれました。ここで表明する意見は、私、作家でありジャーナリストでもあるM・J・シンプソン個人のものです。この批評は、一度きりの上映に基づいているので、いくつかの細かい事実関係に記憶違いがあったとしたら、喜んでテキストを書き直す所存です。この批評はかなりの長さなので、4つのパートに分けました。


Part 1

 最初に基本的なことをはっきりさせておこう。この映画を判断する上で大事なのは、「これは良い映画か?」と「これは『銀河ヒッチハイク・ガイド』の良いリメイクか?」の2点だけである。「どのくらいダグラス・アダムスが執筆したか」は全くの筋違いだ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』にはさまざまなバリエーションがあれど、ダグラスが絶対的規範ではない。物語の中で私たちが気に入っているものの多くは他の人が創り出したものだったり、あるいはダグラスが他の人と共同で創り出したりしたものであり、彼自身のアイディアのいくつかは賢明にも最初期のヴァージョンから削除されていたりする。故に、これまでのヴァージョンからの変更について批評する際、「だってダグラス本人が思いついたことなんだから」というのは有効な返答ではない。

 言い換えると、観客にとってこの映画のどの部分をダグラス・アダムスが執筆したのかなんて全く意味がない。肝心なのは、彼が書いたように思えるかどうかだ。

 合わせて、ものすごく善良で、とびきりの才能に恵まれていて、これまでずっと私によくしてくれてた人たち、その中の何人かとは友達になれてよかったと思っている、そんな人たちが、この映画のために大変な尽力をしたことは分かっている。私はすごく優遇されてきた――自分のウェブサイトのためだけに、セットを訪問したり、キャストやスタッフにインタビューしたり、プレビュー上映に参加させてもらったり――けれど、でもそのことは私の批評的判断に与するべきではない。ディズニーはその見返りとして私に無料で宣伝させていたわけで、でも映画を批評するという段になると、こういったすべてのことが悪い箇所には目を瞑り、良い箇所を過剰に褒めることにつながる。こういったことは考慮しないし、私の意見全般にも影響させない。金の力で出来の悪い映画に良い評価を与えることはできない(少なくとも、そうすべきではない)。そしてこの映画は、心から残念には思うけれど、出来が悪い。

 本当にひどい。言っても信じられないだろうが、途方もなく、際限もなく、気が遠くなるほどひどい。『スター・ウォーズ:エピソード1 ファントム・メナス』だって、オリジナルの人気の理由を理解しそこねた善意の人たちによって大人気のフランチャイズが作り直された、絶望的なまでに勘違いの産物だったじゃないかと思うかもしれないが、映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』にくらべたらそんなの屁でもない。なにしろ……

 以下略。

 プロットはかなり変更されている。確かに、どのヴァージョンの『銀河ヒッチハイク・ガイド』もそれぞれ異なっているが、それでも核となるプロットは存在する。最初のラジオドラマ・シリーズも、テレビドラマ・シリーズも、2枚のLPレコードも、最初の2冊の小説もそうだったし、何より決定的なことに、舞台版だってそうだった。ジョナサン・ペサーブリッジの舞台版は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』サーガ全体を効率よく2時間以内で語り尽くすことができることを示す好例だが、利用できる素材ネタとしてもガイダンスとしても、映画製作者たちに完全に無視されてしまった(上映時間に関して言えば、この映画はラジオドラマ4話分をもとに書かれた小説版を脚色しており、つまり大元の素材としては2時間分しかないわけで、何かをカットする必要なんてそもそもなかったはずなのだ)。

 出来上がった代物は、先行するさまざまなヴァリエーションの中で確立され、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の基礎の基礎、アイコンとさえ呼べる要素を変更したストーリーだった。良い映画を創るためにこういった要素を変更したというならそこまで悪くもないが、残念ながら今回はそうではない。切り刻んだり書き直したりした結果、一貫性に欠けるぐちゃぐちゃなものとなって、伏線もないまま無意味に重大なことが起こるかと思えば、無意味にくだらないことが起こる。

 オープニングタイトルでは、パフォーマンスするイルカの映像に重ねて「さようなら、これまで魚をありがとう」というミュージカルナンバーが流れる。映っているイルカがこの歌を実際に歌っているという意図があるのかどうかははっきりしない。あるショットではそんな感じがするし、別のショットではそうじゃない。ポップ・ミュージックのプロモーションをやっていたチームが手がけた映画だというのに、びっくりするほど映像と音楽をマッチさせようという気がない。私の観たヴァージョンがサウンドミックスが未完成で、映画が公開される時にはこの歌がリミックスされて歌詞の意味がちゃんとわかるようになっていることを祈る。

 まともに話が動き出すのは、アーサーが目を覚まし、ノキアの携帯電話に映っている自分とトリリアンの写真をぼんやり眺めるところからである。そして、彼が携帯で誰かに電話しようとしていると、彼の自宅が揺れ始める。外にはたくさんのブルトーザーとプロッサー氏、だがフォードが現れてアーサーをパブに連れていき、そこでアーサーはノキアの携帯電話に入っている写真を彼に見せ、そこで仮装パーティのシーンにフラッシュバック、アーサーは探検家のリヴィングストン、トリリアンはチャールズ・ダーウィンに扮している。彼らが話していると、ゼイフォードが現れて自分はよその惑星からやってきたと自己紹介する。

 アーサーの家が壊される。するとヴォゴン人が現れて宣告し、パニックを引き起こしてから地球を破壊する。幸運にもフォードは自分とアーサーをヴォゴン人の船にヒッチハイクする(初めて会った時にアーサーが車に引かれそうになっていたフォードを助けたことのお返しである。フォードは自分に向かって走ってくる車と握手しようとしていたのだ。本筋にはまったく不要なこの話もフラッシュバックで挿入されている)ヴォゴン人の宇宙船の廊下で、アーサーはどうにかしてノキアの携帯電話をかけようとするが、彼らは捕まり、ヴォゴン人のキャプテンが彼らに詩を朗読し、宇宙に放り出し、そこに通りかかった〈黄金の心〉号が彼らを拾い上げ、アーサーのノキアの携帯電話が真空の宇宙を漂い、スクリーンに大写しにされる。

 携帯の広告? やり方が繊細すぎだろう。うっかり見逃すところだったじゃないか。

 ここまでは、まあ普通というか、テレビやラジオドラマでは1時間かかっていたものを、ここでは15分に詰め込んでいる。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の始まりは、いつだって、力強いものだった。ダグラス・アダムスが得意とするのはオープニングであって、その先の展開、特にエンディングとなると少々きわどかったりする。アーサーとプロッサー氏の会話は、もともと1973年10月のケンブリッジ・フットライツ・レヴューのスケッチ用に書かれたものだったが、ダグラスの言語に対する愛と冴えた取り扱い方を見る格好の例だ。

「わざわざ地下室まで降りていかなきゃ見られなかったんだぞ」「だって、地下が掲示場所ですからね」「懐中電灯を持ってだぞ」「そりゃ、たぶん電灯が切れてたんでしょう」「電灯だけじゃない、階段まで切れてたよ」「ですがね、いちおう告知はしてあったわけでしょ?」「もちろんしてあったさ。鍵のかかったファイリング・キャビネットは使用禁止のトイレのなかに突っ込んであって、ごていねいにもトイレのドアには『ヒョウに注意』と貼り紙がしてあった」

 それが映画版ではこうなる。

「わざわざ地下室まで降りていかなきゃ見られなかったんだぞ」「ですがね、いちおう告知はしてあったわけでしょ?」

 読者の皆さん、このシーンにおいて時間短縮のために何が取り除かれたかわかりますか? ジョークです。ジョークが削除されました。おもしろさも、ウィットも、ユーモアも。そもそも作るに値する知的なものを。

 映画全体を通して、それとわかるシーンはどこもばっさり短縮されている。これでは機能していないというばかりでなく、そもそも『銀河ヒッチハイク・ガイド』の良さをまるっきり理解していないと言っているようなものだ。良さとは何か。ストーリーではない。ダグラス・アダムスには長いストーリーをどうやって一つにまとめるか、まったくわかっていなかった。だからこそプロットがかくも流動的なのだ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』がかくも愉快でかくも不動の人気を維持しているのは、アイディアと、それから――これだけははっきりさせておきたい――言葉の使い方に依る。ダグラスは、コメディ・スケッチの作家だ。彼の強みは、複雑に組み立てられた3分弱の爆笑コントの中の素晴らしい対話にこそあって、ストーリーの中の優れた箇所は、プロッサー氏のシーンのように、もともと独立したスケッチだった。ダグラスは対話(もしくは独白)のセリフ一つ一つに磨きをかけ、絶対的に完璧なもの仕上げた。そのことは、ラジオドラマのプロデューサー、ジェフリー・パーキンスの、ダグラスがエピソードの半分だけ持って現れ、丸一日働いたらエピソードの三分の一にまで減っていた、という逸話によく表れている。

 だからこそ『銀河ヒッチハイク・ガイド』にはたくさんの素晴らしくも引用可能なセリフがたくさんあるのだが、その大半がこの映画から省かれていることは注目に値する。驚くべきことに、個々のフレーズはおろか単語まで差し替えられているのだ。たとえばヴォゴン人の詩の朗読シーンでは、プロッサー氏との対決シーンと同様、ほとんど意味をなさないレベルにまで省略されている。アーサーのセリフは「強調してる超現実的な暗喩」のみ、見事に組み立てられたエセ文学批評の一編が、たったの「強調してる超現実的な暗喩」ぽっち。これをどうすれば正当化できるというのか? 長い単語を削除することで映画を2時間以内におさめようとしたとでもいうのだろうか?

 お馴染みの、深く愛され、(決定的に)愉快な素材の多くが、差し替えられるか、あるいは完全に捨て去られている。フォードは、利口なやり口でプロッサー氏を泥の中に腹ばいにさせる代わりに、作業員たちに自分がたまたま持っていたショッピングカートに満載したラガービールの缶を配って気をそらせる。エアロックから放出される前に、アーサーとフォードがヴォゴン人の警備員と交わすやりとりも、映画の初期のヴァージョンでは含まれていたはずなのに、私が見たこのヴァージョンではどこにもない(「子供のころにおふくろの言ってたことを聞いときゃよかったと本気で後悔しているよ」もなし)。これらの素材を消して空いたスペースに、つまらないセリフが新しく追加されている。たとえば、フォードが「じつはぼくはギルフォード出身じゃないって言ったらどうする?」と告白するシーン、このセリフをニューヨークのアクセントで言われると実際のところ結構おもしろいのだが、これもまた直後のアーサーのセリフ、「つまり君はギルフォード出身じゃないんだね。道理でそのアクセントなわけだ」でぶったぎられる。これが「おふくろの言ってたことを聞いときゃよかった」のギャグを失った代償だ。

 〈黄金の心〉号に乗船すると、ゼイフォードはある時点で自分のいとこ(注/シンプソンは”cousin”と書いているが、小説では”semi-cousin”、「またいとこ」となっている)に「イックス――じゃなくてフォード」と呼びかける。これはファンに向けた内輪のジョークだが、ファン以外の人には通じないだろう。それでいて「クロイドンのマーティン・スミス」は削除された。私ならどのセリフを残すべきかを、a) 『銀河ヒッチハイク・ガイド』らしくて、b) おもしろい、この2点で決める。確かに、マーティン・スミスのジョークもそれ自体も、ダグラスのかつての執筆仲間の名前に言及した、内輪向けのジョークだ。ダグラスも内輪のジョークが好きだったが、気づかれないようにやるか、あるいはそれ自体がおもしろいので知らない人にはそれが本当のジョークだと思わせなきゃいけないとわかっていた。それにひきかえ、「イックス――じゃなくてフォード」は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に詳しくない人にとっては「はあ?」としか言いようがない(知っている人も「はあ?」と言いたくなるが)。

 いや、訂正しよう。「イックス」のくだりは「内輪のジョーク」ではない。内輪のジョークというからにはジョークである必要がある。が、これは明らかにジョークになっていない。

 ここから先は、ストーリーは大幅に変更されている。ゼイフォードは、ディープ・ソートが答えを聞かれ、750万年後に答える時の録画映像を持っている。哲学者のヴルームフォンドルとマジクサイズが削除されたのは仕方ないとしても、「え、来週までじゃなくて?」(注/”What, not till next week?” とシンプソンは書いているが、小説にもラジオドラマの脚本にもこのセリフを見つけることはできなかった)といった素晴らしいセリフの数々もこのシーンから削除されている。ランクウィルとフークは、説明不能の理由で子供が演じてて、とんでもない規模の遅延にも全く動じる様子がなく、彼らの子孫も無意味な答えにひどく怒っているようには見えず、不吉さもなければ重々しさもまったくないままに話は進む。ヘレン・ミレンの話し方は、朝食に何を食べたかという質問に答えているみたいだ。これは完成版ではない(といってもプレミアまであと3週間しかないのだが!)から、ひょっとするとミレンの声は何かしらの方法で改善されるのかもしれないし、完成版の音楽では「42」の啓示がジョークとして機能するように組み直されているかもしれない。私としてはそう願うほかない。

 とにかく、ゼイフォードが持っている録画映像はディープ・ソートが新しいコンピュータの名前を発表する前で終わっている。ディープ・ソートを作ったのは引き続き汎次元生命体ということになっているようだが、だとしてもこの録画映像がどこから来たものなのかはっきりしない(ある時点でトリリアンのカバンから2匹の白ネズミが逃げ出すシーンが出てくるけれど、そいつらが彼女のペットでないことははっきりしている。単に――皮肉なことだけど――ヒッチハイクしたのだろう。何と先見の明があることよ)。

 無限不可能性駆動は、この映画の中では、最高に効率的な移動機関ではなく、宇宙船を完全に無作為の場所に送り込む装置になっているが、それでいて幸運にも彼らの行き先は常にプロットの都合で登場人物が行くべき場所になっている。無限不可能性に入ったり出たりすると、〈黄金の心〉号が無作為のアイテムに次々と変わっていく。最後には大きな毛糸玉と化し、短い時間ながら登場人物が毛糸人形のストップモーション・アニメになるシーンもあり(運のいいことに、今ならお近くのディズニー・ストアでお買い求めいただけます)、最後のアイテムが花だった時には、乗組員が顔から花びらを拭っているように見える。

 映画制作者たちが「不可能性」の概念全般を完全に誤解しようとしたとしか考えられない。クジラとペチュニアの鉢植えを見て、「不可能性ってのは物が形を変えることなんだな」と思ったのだろう。そこで、ありとあらゆる奇妙なことが起こる代わりに、形態変化だけを見せることにしたのだ(それでいて「ペンギンになりかけてるぞ」のギャグはなし。フォードとアーサーは、ペアのソファの姿で乗船する)。しかし、これは形態変化駆動でもなければ超現実駆動でもなく、不可能性駆動なのだ。ったく、製作チームの誰か一人でもいいから、よくわからない単語が出てきたら辞書で確認しようとは思わなかったのか? もう一度言うが、〈黄金の心〉号の壁に描かれた、無限不可能性駆動が発明される件とか、確かにファンが喜びそうなネタ(つい「内輪のジョーク」と言いそうになったけど、以下略)は入っているけれど、肝心のところが完全に的外れなのだ。(Part 2に続く)


Part 2

 〈黄金の心〉号は、ジャトラヴァート人の故郷である惑星ヴィルトヴォードル(これまでのヴァージョンと違って「ヴィルトヴォードル星系第六惑星」ではない)にたどり着く。ジャトラヴァート人の姿が見えるのはほんの一瞬で、空っぽのエアゾールスプレーの缶がいたるところに転がっている(あと、四角い車輪の自転車も)が、基本的にこのシーンはさまざまな種類のエイリアンたちが集うモス・アイズリー(註/映画「スター・ウォーズ」に出てくる惑星タトゥイーンの宇宙港のこと)だ。中には、ゼイフォードに会えてきゃーきゃー喜んでいる日本の女子高生っぽい(ただし足が2本で胴体が5個ある)エイリアンもいる。私にはこれが何なのかさっぱりわからない。フォードが元カノと会っているシーンもあったが、元カノの姿は(視座の関係で)巨大な2本の足だけが映っている。

 ゼイフォードとアーサーとトリリアンは、鼻をイメージしたようなデザインの、ハーマ・カヴーラの神殿に入る。「大きな緑のアークルシージャー」説に由来していると思われるが、ジャトラヴァート人がアークルシージャーは人間と同じような形の鼻を持っていると考えたというのも奇妙なことに思われる(すべての鼻がダグラス・アダムス本人の巨大鼻の形に基づいている、というのは、知っている人に限定されるものの、もっと控えめに使われていたならおもしろかったかもしれない。これが精一杯のお世辞だ)。

 それにしても、私にはハーマ・カヴーラのことがわからない。伝道者のようだが、伝道者というのは伝統的によその土地を旅して回り、そこの地元民を自分の宗教に転向させるものだ。ハーマは明らかにジャトラヴァート人ではなく(初期の脚本では半分ヴォゴン人という設定だったが、ヴォゴン人がヴォゴン人以外のものとつがいになるというアイディアには何かしら不快なものがあると気付いて撤回されたのだろう)、ジャトラヴァート人の惑星に来て、ジャトラヴァート人の宗教を、ジャトラヴァート人以外の人に布教していることになる。彼の信徒たちはみんな人間そっくりだ。アフリカに行ったイギリス人の伝道者が、アフリカの神々のことを白人の居住者に布教するみたいなものではないか。意味不明だよね?

 ハーマの場面はかなり割愛されているように見えたが、初期のテストスクリーニングでこの場面のずれっぷりがとことん否定的にコメントされた可能性が大いにある。ハーマが信者の一人の鼻を取り除けると、その従者はロボット(少なくとも鼻はロボットみたいなもの)だとわかるが、説明もされないし、意味も関連もなさそうだ。

 ハーマは、惑星マグラシアの場所を示す座標を持っているとわかる。都合のいいことに、ゼイフォードはそれを探していた。それは立方体で、無限不可能性駆動にぴったりとおさまる形にデザインされていた、というのもものすごいご都合主義である。しかしながら、なぜ、どのようにしてそのようなものが存在しているのか、なぜ、どうやってハーマがそれを所有したのか、そんな説明は一切ない。というか、これまでの話を振り返ってみよう。組員が目指していたわけでもなく、ユニークな駆動システムを持つ〈黄金の心〉号がたまたま降り立った惑星で、自分たちの究極の目的地に行く手段を持っている人物とすぐに出会う。しかもその手段は、彼らのユニークな宇宙船にぴったりのフォーマットになっている。何もかもありえないことだらけの芝居を作ったというならかろうじて許されるかもしれないが、これまで観てきた通り、この映画は「ありえない」とは実際にどういう意味なのかわかっていない人たちによって作られたのだ。要するに、デウス・エクス・マキナ的プロットで話を進めようとする、手抜きな脚本がすべての原因である。

 ハーマはゼイフォードに情報キューブを渡すにあたり2つの条件をつける。マグラシア製の特殊な銃を持って来ることと、ゼイフォードが必ず戻ってくるよう人質を置いていくことだ。初期の草稿では人質はトリリアンだったが、実際の映画ではハーマはゼイフォードの2つ目の頭をとる(縛られたゼイフォードと電動ノコギリを持って近づくハーマの姿がシルエットで移り、その後ゼイフォードが首に包帯を巻いて登場する)。

 残された頭はフラダンス人形――私には何が何やらさっぱりわからない――に取り付けられ、時々出てくる3本目の腕についても何が起こったのかは不明のままで、でも後にゼイフォードが〈黄金の心〉号を操縦するには3本目の腕が要ると言うことを思えば、どうやら同じタイミングで取り除かれたようだ。今は、ゼイフォードの頭に関する事柄に戻ろう。

 これまでのところ、ハーマ・カヴーラにもいくつか少しばかり笑える点があったことに気付かされた。ニュース番組の中で、ゼイフォードに負けた時の彼の大統領選挙キャンペーンが「バカに投票するな」というスローガンに基づいていたこと、そして彼の説教のしめくくりが、信者たちの「ハクション」に続き、彼が「お大事に」と返答するところである。だが、ハーマのシーンに詰め込まれたその他の鼻に関する事柄は、ユーモアとしてまったく何の価値もなく、シーンの大半を差し支えなく削除することができるだろう。このシーンの目的な2つだけ。1つは、後に明らかになる武器を登場人物たちに取りに行かせる理由を与えることだが、物語上、彼らがたまたまそれを見つけたということにしても問題なかっただろう。それに、必要もないのに登場人物の不器用さを示そうとして、アーサーをトリリアンの前で臆病者のように見せてしまったし、とってつけたようなやり取りだし、映画がこれまでの時点で明らかにしてきたアーサーの性格にも動機にも合っていない。訳がわからない。おそらく、彼らはこのシーンの一部、ハーマが実際に脅しをかけている箇所を削除したのだろう、それなら意味が通る。というのも、現状、ゼイフォードの首切りが行われる前であれば、アーサーには臆病にふるまわなければならない理由はどこにもないのだから。

 だが、ゼイフォードの頭に話を戻すと、これに関しては疑問の余地がないと言わせてもらおう。この映画におけるゼイフォードの頭は、ゴミだ。実際のところ、ゼイフォード全体がゴミだ。ゼイフォードの核心(ダグラス・アダムスの登場人物たちにすごい深みがあったことは一度もない、これは認めるしかない)は、彼が多大な努力をして自分をクールで余裕綽々に見せようとしているところにある。サム・ロックウェルのゼイフォードは、どのシーンをとってもほんの少しだってクールだったり余裕綽々だったりすることはない。おぞましくて意地悪――といっても、なつかしくて愉快でえらそうに「サル男」呼ばわりするようなのと違って――で、喉元にもう一つの恐ろしい顔を持っていて、それが時々飛び出してくるせいでいよいよ彼がおぞましくなる。彼には3本目の腕もあるが、これがロジャー・コーマンをも赤面させるような低予算映画ばりのびっくりするような見せ方で、時折、ほんの一瞬だけ出てくるのを除けば、小さなマントの下に完璧に隠されているのだ。おいおい、予備の人工腕を作るのにどれだけお金がかかるというんだよ?

 フォードとの短いやり取りの中で、ゼイフォードは、大統領には脳足りん(half a brain)しかなれないのでもう一つの頭を用意した、と説明する。テストスクリーニングの時の批評がこの件に言及していて、ゼイフォードはあとで必要になった時に備えてもう一つの頭に取り除かれた半分の脳みそ(half a brain)を隠していたのではないかと言っていたが、我々が得られた説明もどきはこれだけ「俺の性格の一部は完全に大統領向きってわけじゃない」。なぜ彼が喉元に怒った顔を持つようになったのか、何の説明になっていない。

 伝えられるところによると、ゼイフォードの頭が上下二つの形になったのはダグラス・アダムスが考えついたことだそうだが、先にも説明した通り、言い訳としては無効である。本当にダグラスのアイディアだったなら、それは2004年頃の話ではなく、約1998年頃の映画のエフェクト技術で二つ頭をつけるための工夫だった。この6年の間に映画のエフェクトは進化し続けてたし、今ならCGIとグリーンスクリーンと人工装具を使ってY字形の背骨と横に並んだ二つ頭を作ることは完全に可能だったはずだ。ゼイフォードの二つ頭はラジオドラマではその場限りの使い捨てアイディアだったかもしれないが、彼を彼たらしめている。そして、数多の多頭キャラクターと違い、彼だけは自分自身と口喧嘩するという事実もジョークの一部だ。二つ目の頭は、何もしないからこそおもしろい。とんでもない筋違いだ。

 映画版のゼイフォードは見た目はひどいし行動はひどいしで、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の過去のどのヴァージョンで描かれてきたキャラクターと比べて似ても似つかない(映画『コンフェッション』でサム・ロックウェルがゼイフォードの役柄を完璧に演じているだけに皮肉だ)。二つ目の頭が取り除かれ、忘れちゃいけない、あの踊るフラダンス人形に突き刺された後、彼は映画の残りを半分酔っ払ったような状態であり続けるのだが、これは私にはさっぱりわからない。間違いなく、彼は映画の前半では同じ半分の脳みそだけを使っていて、残り半分とはつながっていなかったから、その半分からうっとうしく邪魔されることもなかった。時折、彼が素面に戻るのは「考える帽子」を使った時であり、これは頭にレモン搾り器のついたヘルメットのことで、それを使ってフォードがレモンを絞る。

 まさに、この「考える帽子」はこの映画で繰り返し出てくる2つの問題の好例だ。第一に、奇抜でおかしなアイディアのように聞こえるかもしれないが、コンセプトとしても実用としてもちっともおもしろくない(ケン・キャンベルが言うところの「ジョークもどき(jokoid)」――ジョークのような形をしているけれど実際のところ全然おもしろくない)。

 第二に、ジョークを機能させているのがただのレモンだということ。アークトゥランの巨大レモンでもなければ、どんなSF的産物でもない。映画全体を通して、この種の使い捨てジョークはたくさんあるが、ダグラス・アダムスの宇宙にはもともとたくさん詰まっていた、地球の産物によく似ているがちょっと違うおかしなものではなく、(踊るフラダンス人形のように)地球の産物そのものが使われすぎている。そういう視線で見てみると、〈黄金の心〉号はあるのはどれも地球の産物にそっくりだ。花も、木製のボールも、ティーポットも。異星の花っぽいものも、知覚を持つ木製ボールも、注ぎ口が5つあるティーポットもない。

 ともあれ、ヴォゴン人の一群が、ゼイフォードの副大統領ケストゥラー・ロントックと共に、彼を追ってやってくる。というのも、〈黄金の心〉号の披露式典で、彼が自分で自分を誘拐した(この件はニュース映像として流される。彼らが心配しているのは「誘拐された」大統領であって、盗まれた宇宙船ではない)からだ。ヴォゴン人たちは、トリリアンを誘拐の容疑者として連行する。アーサーは彼らの後を追おうとするが、ゼイフォードは引き続き惑星マグラシアに行きたがる。そこで彼らは〈黄金の心〉号で出発する(ちなみに、ここから先、ハーマ・カヴーラを見たり聞いたりするのはかなり先のことになる。サブプロットが完成したら、あとは用済みということだ)。

 彼らは別の惑星に着き、ゼイフォードは踊り回ってついに惑星マグラシアを見つけたと歓声をあげるが、そこはヴィルドヴォードルだとわかる。この時点では(実際にはこの後少し後なのだが)、惑星マグラシアとは何なのか、どうしてこの惑星がゼイフォードの探求の鍵となるのかについて、何の説明もない。そもそもゼイフォードの探求とは、これまでのヴァージョンでは、神話上の惑星マグラシアに押し入って莫大な富を得ることだった。この映画では、マグラシアがとびきり裕福な惑星であることについても、神話的な存在であることについても言及されておらず、従ってどうしてハーマ・カヴーラの助けなしには見つけることができないのかの説明もない。実際、マグラシアについての『ガイド』の項目は完全に抜け落ちていて、〈黄金の心〉号の乗組員たちがこの惑星について話題にすることもない。『銀河ヒッチハイク・ガイド』に初めて接する人たちには、進行中の事態に何のヒントもない。

 さてこのヴァージョンのゼイフォードはというと、先に見た録画映像に基づいて、生命と宇宙と万物についての究極の問いを探している。見たところ本人はそう信じているようだが、この問いが彼に名声と富をもたらしてくれて、かつ、惑星マグラシアに行ってディープ・ソート(あなたの言いたいことはわかるが、ちょと待って)に質問すればわかるとも信じている。この映画に論理的な対話はほとんどないが、それでも彼は銀河大統領として名声も富も既に獲得していることは指摘されている。故に、ナンセンスだが便宜的な対話の代わりに、ゼイフォードは大統領としての名声は束の間だが、「問い」の名声は不滅だと言う。

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』をまったくわかっていない人、あるいはここしばらく読んだことも聴いたことも観たこともないままストーリーを要約しようとした人なら、ストーリーの肝は究極の問いを探すことだと考えるかもしれない。実際のところは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の核となるジョークは、万物についての意味を問う壮大な哲学的探求がマイナーなサブプロットにすぎないということだ。主要な登場人物たちは誰も究極の問いのことなんか気にかけてはいないし、別次元から地球を建造したマグラシアの人々を除けば宇宙の誰にも特に知られていない。アーサーが求めるのは帰郷と紅茶。ゼイフォードが求めるのはきらきらした財力と名声とそれに付随するセックスへのシンプルで飽くなき欲望。フォードが求めるのは楽しいパーティー、つまり強い酒と気の合う仲間の集い。トリリアンに関しては確かに問いに関心を持っていたけれど、それとて「月曜の朝に列に並ばなきゃならないよりはマシ」という程度だ。

 「問い」がわかるかもしれないとなった時、登場人物たちは人並みにそこそこ興味を示すものの、取り憑かれたようになったりはしない――これまでのところは。生命の意味がわかるかもしれないというのに、一杯の紅茶やら何やらに関心を寄せる人たちの集まりだからこそ、おもしろいのだ。生命の意味を探求する人たちの集まりとなると、おもしろくない。

 〈黄金の心〉号がまたぞろランダムにたどり着いた惑星は(宝石が散りばめられたカニがいる)ヴォグスフィアだと判明し、彼らは「ホグポッド」とかいう乗り物で地表に降り立つ。〈黄金の心〉号でも惑星着陸はできるとわかっている以上、この小さな探査機は、ありきたりなドタバタコメディを生み出す以外、物語の進行に何の役目も果たしていないように見える。都合のいいことに、この惑星こそヴォゴン人たちがトリリアンを連れてきた場所だった。ここで、アーサーと仲間たちはヴォゴン人の後を追わない。後援者からここに来るよう指示されたわけでも、自分たちがいるべき場所にうまくたどり着いたと知っているわけでもない。無限不可能性駆動は単に彼らを別の惑星に連れてきただけで、そこはたまたま投獄された友人がいる場所で、彼らには絶対わかりっこないはずなのに、それでもそのことを知っているように見える。そして無限不可能性駆動は、本来の目的地である惑星マグラシアの代わりに、彼らをここに連れてきた。ハーマの情報キューブでマグラシアの正確な位置がわかっていたにもかかわらず、だ。ああ、トリリアンを連れ去ったヴォゴン人は、無限不可能性駆動ほどの素晴らしい装置を持っていないにもかかわらず、彼らより先にここに到着している。

 アーサーとフォードとゼイフォードとマーヴィンはヴォゴンシティに向かうが、彼らがアイディアを思いつくたび、パドルが出てきて彼らをひっぱたく(ただしマーヴィンは別、彼こそ何百万ものアイディアを持っていたはずなのに)。この映画で、ほんのちょっとした笑いを実際に引き出せるジョークがどれほど稀にしか出てこないか、このドタバタを見ればわかる。明言されてはいないが、ヴォゴン人の盲目的で官僚的な服従とペシャンコな鼻はこのパドルのシステムのせいだと考えられる。だが、都市の外側の荒廃した土地でしか作動していないようだし、どれだけ有効かは判断しづらい。このようなシステムがなぜ、どのような規模で、誰によって設置されているのか、ヒントは一切ない。このようなパドルは原作にはまったく存在せず、映画ではなく広告の中に出てくることからも、このシーン全体が完全に余計なドタバタだとわかる。まるで映画製作者たちはどこでもいいからほんの少しでも笑いを入れたくて必死だったけど、さすがによその惑星にバナナの皮があると認めることはできなかったみたいだ。

 そんなこんなでチームは街に入る。灰色で、四角くい、モノリス的なヴォゴン人の建物や宇宙船、あるいは彼らの文化の中にある他のすべてのものも、ヴォゴン人のキャラクターをかなり正確に反映していて、実のところ私は気に入った。建物内に入ると、ヘンソンの優秀なメンバーによる素晴らしいアニマトロニクスのヴォゴン人がいる。年寄りのヴォゴン人も、若者のヴォゴン人も、女性のヴォゴン人もいて、すごく人間ぽい声で話すのだけは興醒めだったが、きっと最終的なサウンドミックスで変更するのだろう。

(Part 3に続く)


 なお、私自身の映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』評はこちら

 

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