M・J・シンプソンによる映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』評


 以下の映画評は、2005年の映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』公開直前のタイミングで、ダグラス・アダムスの非公式伝記作家であるM・J・シンプソンが自身のサイトで公開したものである(現在は削除済み)。訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


 この批評は、2005年3月31日にロンドンで少数のジャーナリスト向けに公開され、ほぼ完成に近いヴァージョンの映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』に基づくものです。私はブエナビスタとデジタル・アウトルックに招待してもらって参加しましたが、この二つの会社は寛大にも私がこの上映会に行くための交通費も負担してくれました。ここで表明する意見は、私、作家でありジャーナリストでもあるM・J・シンプソン個人のものです。この批評は、一度きりの上映に基づいているので、いくつかの細かい事実関係に記憶違いがあったとしたら、喜んでテキストを書き直す所存です。この批評はかなりの長さなので、4つのパートに分けました。


Part 1

 最初に基本的なことをはっきりさせておこう。この映画を判断する上で大事なのは、「これは良い映画か?」と「これは『銀河ヒッチハイク・ガイド』の良いリメイクか?」の2点だけである。「どのくらいダグラス・アダムスが執筆したか」は全くの筋違いだ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』にはさまざまなバリエーションがあれど、ダグラスが絶対的規範ではない。物語の中で私たちが気に入っているものの多くは他の人が創り出したものだったり、あるいはダグラスが他の人と共同で創り出したりしたものであり、彼自身のアイディアのいくつかは賢明にも最初期のヴァージョンから削除されていたりする。故に、これまでのヴァージョンからの変更について批評する際、「だってダグラス本人が思いついたことなんだから」というのは有効な返答ではない。

 言い換えると、観客にとってこの映画のどの部分をダグラス・アダムスが執筆したのかなんて全く意味がない。肝心なのは、彼が書いたように思えるかどうかだ。

 合わせて、ものすごく善良で、とびきりの才能に恵まれていて、これまでずっと私によくしてくれてた人たち、その中の何人かとは友達になれてよかったと思っている、そんな人たちが、この映画のために大変な尽力をしたことは分かっている。私はすごく優遇されてきた――自分のウェブサイトのためだけに、セットを訪問したり、キャストやスタッフにインタビューしたり、プレビュー上映に参加させてもらったり――けれど、でもそのことは私の批評的判断に与するべきではない。ディズニーはその見返りとして私に無料で宣伝させていたわけで、でも映画を批評するという段になると、こういったすべてのことが悪い箇所には目を瞑り、良い箇所を過剰に褒めることにつながる。こういったことは考慮しないし、私の意見全般にも影響させない。金の力で出来の悪い映画に良い評価を与えることはできない(少なくとも、そうすべきではない)。そしてこの映画は、心から残念には思うけれど、出来が悪い。

 本当にひどい。言っても信じられないだろうが、途方もなく、際限もなく、気が遠くなるほどひどい。『スター・ウォーズ:エピソード1 ファントム・メナス』だって、オリジナルの人気の理由を理解しそこねた善意の人たちによって大人気のフランチャイズが作り直された、絶望的なまでに勘違いの産物だったじゃないかと思うかもしれないが、映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』にくらべたらそんなの屁でもない。なにしろ……

 以下略。

 プロットはかなり変更されている。確かに、どのヴァージョンの『銀河ヒッチハイク・ガイド』もそれぞれ異なっているが、それでも核となるプロットは存在する。最初のラジオドラマ・シリーズも、テレビドラマ・シリーズも、2枚のLPレコードも、最初の2冊の小説もそうだったし、何より決定的なことに、舞台版だってそうだった。ジョナサン・ペサーブリッジの舞台版は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』サーガ全体を効率よく2時間以内で語り尽くすことができることを示す好例だが、利用できる素材ネタとしてもガイダンスとしても、映画製作者たちに完全に無視されてしまった(上映時間に関して言えば、この映画はラジオドラマ4話分をもとに書かれた小説版を脚色しており、つまり大元の素材としては2時間分しかないわけで、何かをカットする必要なんてそもそもなかったはずなのだ)。

 出来上がった代物は、先行するさまざまなヴァリエーションの中で確立され、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の基礎の基礎、アイコンとさえ呼べる要素を変更したストーリーだった。良い映画を創るためにこういった要素を変更したというならそこまで悪くもないが、残念ながら今回はそうではない。切り刻んだり書き直したりした結果、一貫性に欠けるぐちゃぐちゃなものとなって、伏線もないまま無意味に重大なことが起こるかと思えば、無意味にくだらないことが起こる。

 オープニングタイトルでは、パフォーマンスするイルカの映像に重ねて「さようなら、これまで魚をありがとう」というミュージカルナンバーが流れる。映っているイルカがこの歌を実際に歌っているという意図があるのかどうかははっきりしない。あるショットではそんな感じがするし、別のショットではそうじゃない。ポップ・ミュージックのプロモーションをやっていたチームが手がけた映画だというのに、びっくりするほど映像と音楽をマッチさせようという気がない。私の観たヴァージョンがサウンドミックスが未完成で、映画が公開される時にはこの歌がリミックスされて歌詞の意味がちゃんとわかるようになっていることを祈る。

 まともに話が動き出すのは、アーサーが目を覚まし、ノキアの携帯電話に映っている自分とトリリアンの写真をぼんやり眺めるところからである。そして、彼が携帯で誰かに電話しようとしていると、彼の自宅が揺れ始める。外にはたくさんのブルトーザーとプロッサー氏、だがフォードが現れてアーサーをパブに連れていき、そこでアーサーはノキアの携帯電話に入っている写真を彼に見せ、そこで仮装パーティのシーンにフラッシュバック、アーサーは探検家のリヴィングストン、トリリアンはチャールズ・ダーウィンに扮している。彼らが話していると、ゼイフォードが現れて自分はよその惑星からやってきたと自己紹介する。

 アーサーの家が壊される。するとヴォゴン人が現れて宣告し、パニックを引き起こしてから地球を破壊する。幸運にもフォードは自分とアーサーをヴォゴン人の船にヒッチハイクする(初めて会った時にアーサーが車に引かれそうになっていたフォードを助けたことのお返しである。フォードは自分に向かって走ってくる車と握手しようとしていたのだ。本筋にはまったく不要なこの話もフラッシュバックで挿入されている)ヴォゴン人の宇宙船の廊下で、アーサーはどうにかしてノキアの携帯電話をかけようとするが、彼らは捕まり、ヴォゴン人のキャプテンが彼らに詩を朗読し、宇宙に放り出し、そこに通りかかった〈黄金の心〉号が彼らを拾い上げ、アーサーのノキアの携帯電話が真空の宇宙を漂い、スクリーンに大写しにされる。

 携帯の広告? やり方が繊細すぎだろう。うっかり見逃すところだったじゃないか。

 ここまでは、まあ普通というか、テレビやラジオドラマでは1時間かかっていたものを、ここでは15分に詰め込んでいる。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の始まりは、いつだって、力強いものだった。ダグラス・アダムスが得意とするのはオープニングであって、その先の展開、特にエンディングとなると少々きわどかったりする。アーサーとプロッサー氏の会話は、もともと1973年10月のケンブリッジ・フットライツ・レヴューのスケッチ用に書かれたものだったが、ダグラスの言語に対する愛と冴えた取り扱い方を見る格好の例だ。

「わざわざ地下室まで降りていかなきゃ見られなかったんだぞ」「だって、地下が掲示場所ですからね」「懐中電灯を持ってだぞ」「そりゃ、たぶん電灯が切れてたんでしょう」「電灯だけじゃない、階段まで切れてたよ」「ですがね、いちおう告知はしてあったわけでしょ?」「もちろんしてあったさ。鍵のかかったファイリング・キャビネットは使用禁止のトイレのなかに突っ込んであって、ごていねいにもトイレのドアには『ヒョウに注意』と貼り紙がしてあった」

 それが映画版ではこうなる。

「わざわざ地下室まで降りていかなきゃ見られなかったんだぞ」「ですがね、いちおう告知はしてあったわけでしょ?」

 読者の皆さん、このシーンにおいて時間短縮のために何が取り除かれたかわかりますか? ジョークです。ジョークが削除されました。おもしろさも、ウィットも、ユーモアも。そもそも作るに値する知的なものを。

 映画全体を通して、それとわかるシーンはどこもばっさり短縮されている。これでは機能していないというばかりでなく、そもそも『銀河ヒッチハイク・ガイド』の良さをまるっきり理解していないと言っているようなものだ。良さとは何か。ストーリーではない。ダグラス・アダムスには長いストーリーをどうやって一つにまとめるか、まったくわかっていなかった。だからこそプロットがかくも流動的なのだ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』がかくも愉快でかくも不動の人気を維持しているのは、アイディアと、それから――これだけははっきりさせておきたい――言葉の使い方に依る。ダグラスは、コメディ・スケッチの作家だ。彼の強みは、複雑に組み立てられた3分弱の爆笑コントの中の素晴らしい対話にこそあって、ストーリーの中の優れた箇所は、プロッサー氏のシーンのように、もともと独立したスケッチだった。ダグラスは対話(もしくは独白)のセリフ一つ一つに磨きをかけ、絶対的に完璧なもの仕上げた。そのことは、ラジオドラマのプロデューサー、ジェフリー・パーキンスの、ダグラスがエピソードの半分だけ持って現れ、丸一日働いたらエピソードの三分の一にまで減っていた、という逸話によく表れている。

 だからこそ『銀河ヒッチハイク・ガイド』にはたくさんの素晴らしくも引用可能なセリフがたくさんあるのだが、その大半がこの映画から省かれていることは注目に値する。驚くべきことに、個々のフレーズはおろか単語まで差し替えられているのだ。たとえばヴォゴン人の詩の朗読シーンでは、プロッサー氏との対決シーンと同様、ほとんど意味をなさないレベルにまで省略されている。アーサーのセリフは「強調してる超現実的な暗喩」のみ、見事に組み立てられたエセ文学批評の一編が、たったの「強調してる超現実的な暗喩」ぽっち。これをどうすれば正当化できるというのか? 長い単語を削除することで映画を2時間以内におさめようとしたとでもいうのだろうか?

 お馴染みの、深く愛され、(決定的に)愉快な素材の多くが、差し替えられるか、あるいは完全に捨て去られている。フォードは、利口なやり口でプロッサー氏を泥の中に腹ばいにさせる代わりに、作業員たちに自分がたまたま持っていたショッピングカートに満載したラガービールの缶を配って気をそらせる。エアロックから放出される前に、アーサーとフォードがヴォゴン人の警備員と交わすやりとりも、映画の初期のヴァージョンでは含まれていたはずなのに、私が見たこのヴァージョンではどこにもない(「子供のころにおふくろの言ってたことを聞いときゃよかったと本気で後悔しているよ」もなし)。これらの素材を消して空いたスペースに、つまらないセリフが新しく追加されている。たとえば、フォードが「じつはぼくはギルフォード出身じゃないって言ったらどうする?」と告白するシーン、このセリフをニューヨークのアクセントで言われると実際のところ結構おもしろいのだが、これもまた直後のアーサーのセリフ、「つまり君はギルフォード出身じゃないんだね。道理でそのアクセントなわけだ」でぶったぎられる。これが「おふくろの言ってたことを聞いときゃよかった」のギャグを失った代償だ。

 〈黄金の心〉号に乗船すると、ゼイフォードはある時点で自分のいとこ(注/シンプソンは”cousin”と書いているが、小説では”semi-cousin”、「またいとこ」となっている)に「イックス――じゃなくてフォード」と呼びかける。これはファンに向けた内輪のジョークだが、ファン以外の人には通じないだろう。それでいて「クロイドンのマーティン・スミス」は削除された。私ならどのセリフを残すべきかを、a) 『銀河ヒッチハイク・ガイド』らしくて、b) おもしろい、この2点で決める。確かに、マーティン・スミスのジョークもそれ自体も、ダグラスのかつての執筆仲間の名前に言及した、内輪向けのジョークだ。ダグラスも内輪のジョークが好きだったが、気づかれないようにやるか、あるいはそれ自体がおもしろいので知らない人にはそれが本当のジョークだと思わせなきゃいけないとわかっていた。それにひきかえ、「イックス――じゃなくてフォード」は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に詳しくない人にとっては「はあ?」としか言いようがない(知っている人も「はあ?」と言いたくなるが)。

 いや、訂正しよう。「イックス」のくだりは「内輪のジョーク」ではない。内輪のジョークというからにはジョークである必要がある。が、これは明らかにジョークになっていない。

 ここから先は、ストーリーは大幅に変更されている。ゼイフォードは、ディープ・ソートが答えを聞かれ、750万年後に答える時の録画映像を持っている。哲学者のヴルームフォンドルとマジクサイズが削除されたのは仕方ないとしても、「え、来週までじゃなくて?」(注/”What, not till next week?” とシンプソンは書いているが、小説にもラジオドラマの脚本にもこのセリフを見つけることはできなかった)といった素晴らしいセリフの数々もこのシーンから削除されている。ランクウィルとフークは、説明不能の理由で子供が演じてて、とんでもない規模の遅延にも全く動じる様子がなく、彼らの子孫も無意味な答えにひどく怒っているようには見えず、不吉さもなければ重々しさもまったくないままに話は進む。ヘレン・ミレンの話し方は、朝食に何を食べたかという質問に答えているみたいだ。これは完成版ではない(といってもプレミアまであと3週間しかないのだが!)から、ひょっとするとミレンの声は何かしらの方法で改善されるのかもしれないし、完成版の音楽では「42」の啓示がジョークとして機能するように組み直されているかもしれない。私としてはそう願うほかない。

 とにかく、ゼイフォードが持っている録画映像はディープ・ソートが新しいコンピュータの名前を発表する前で終わっている。ディープ・ソートを作ったのは引き続き汎次元生命体ということになっているようだが、だとしてもこの録画映像がどこから来たものなのかはっきりしない(ある時点でトリリアンのカバンから2匹の白ネズミが逃げ出すシーンが出てくるけれど、そいつらが彼女のペットでないことははっきりしている。単に――皮肉なことだけど――ヒッチハイクしたのだろう。何と先見の明があることよ)。

 無限不可能性駆動は、この映画の中では、最高に効率的な移動機関ではなく、宇宙船を完全に無作為の場所に送り込む装置になっているが、それでいて幸運にも彼らの行き先は常にプロットの都合で登場人物が行くべき場所になっている。無限不可能性に入ったり出たりすると、〈黄金の心〉号が無作為のアイテムに次々と変わっていく。最後には大きな毛糸玉と化し、短い時間ながら登場人物が毛糸人形のストップモーション・アニメになるシーンもあり(運のいいことに、今ならお近くのディズニー・ストアでお買い求めいただけます)、最後のアイテムが花だった時には、乗組員が顔から花びらを拭っているように見える。

 映画制作者たちが「不可能性」の概念全般を完全に誤解しようとしたとしか考えられない。クジラとペチュニアの鉢植えを見て、「不可能性ってのは物が形を変えることなんだな」と思ったのだろう。そこで、ありとあらゆる奇妙なことが起こる代わりに、形態変化だけを見せることにしたのだ(それでいて「ペンギンになりかけてるぞ」のギャグはなし。フォードとアーサーは、ペアのソファの姿で乗船する)。しかし、これは形態変化駆動でもなければ超現実駆動でもなく、不可能性駆動なのだ。ったく、製作チームの誰か一人でもいいから、よくわからない単語が出てきたら辞書で確認しようとは思わなかったのか? もう一度言うが、〈黄金の心〉号の壁に描かれた、無限不可能性駆動が発明される件とか、確かにファンが喜びそうなネタ(つい「内輪のジョーク」と言いそうになったけど、以下略)は入っているけれど、肝心のところが完全に的外れなのだ。(Part 2に続く)

 

 なお、私自身の映画『銀河ヒッチハイク・ガイド』評はこちら

 

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