拝殿の後方に流造りの本殿、その後方に国道が走っている。


国道192号線(伊予街道)沿いに並ぶ八幡神社の磐境。奥に本殿を囲む瑞垣が見える。


国道沿いの境内北面、約60mにわたって板状の列石が連なっている。


案内板の配置図に「御藪」と記されている境内の北西角地。


「御藪」側の列石。こちらは小さな石が多い。
 徳島県の西部、JR徳島線「三加茂(みかも)駅」のすぐ北側、JRと国道192号線(伊予街道)にはさまれた「東みよし町立歴史民俗資料館」の西隣に金丸八幡神社は鎮座している。
 国道を走っていて、まず目につくのが神社境内の北側、約60mにわたって連なる板状の列石で、角を曲がった西側にも10数mほど続いている。列石は「阿波の青石」とよばれる板状の結晶片岩からなり、大きいものでは、地表から高さ1.5m、幅1.2m、厚さ約30cmにおよぶという。
 列石の正体は明らかでないが、町の史跡・文化財では古代の磐境(いわさか)と考えられており、全国的にも珍しい遺構とされている。

 当社の創建年代は不明。扁額には「八幡神社」と記されている。徳島県神社庁での社名もそうなっているので、こちらが正式名称なのだろう。社伝によれば、もとは当社の前方(南側)にある霊峰・金丸山の中腹に鎮座しており、「金丸正八幡神社」と称していたという。祭神は神功皇后、応神天皇、武内宿禰の三柱であるが、明治28年(1895)の古社取調書によれば、往古は建石神社と称して、大巳貴命を祀っていたという。

 当社は、延喜式神名帳にある阿波国美馬郡「田寸(たき)神社」に比定されているが、もと金丸山にあった八幡神社が、中世以後武門の隆盛にともなって広く信仰され、すでに衰退していた田寸神社の社地に祭られるようになったと推察されている(日本の神々2)。
 萬治3年(1660)に八幡宮として新しく建てられ、その後何回となく再興・修理が加えられ維持されてきた。明治4年、神仏分離後に八幡神社と改称し、神殿を造営。明治13年、幣殿・拝殿を新造し、現在の神社となった。近代社格は村社である。

  祭礼は、毎年4月15日・10月15日の例大祭で、10月15日の前夜に行われる「宵宮の神事」(県指定無形文化財)では、境内にかがり火がたかれ「おんじゃくの神事」が執り行われる。「おんじゃく(温石)」とは、直径30cmの筒に石の錘(おもり)を入れ、五色の色紙を細長く切って飾られたもの。これを縄で拝殿の軒先に吊り下げ、ブランコのように前後に揺り動かして、神殿に飛び込ませる。これが神を天降らせる「降神の儀式」で、その後、各宮座から選ばれた6人の青年たちによる神代神楽が奉納される。

◎◎◎


八幡神社拝殿の扁額。



八幡神社列石[磐境]配置図(明治28年5月調)
 案内板(写真上)に掲載されている「八幡神社列石(磐境)配置図」(明治28年(1895)5月 調査)を見ると、当時は当社の境内地に歴史民俗資料館も含まれている。村社の境内地規模が平均300坪(31.5m×31.5m)といわれているから、ずいぶん広大な敷地をもった神社だったようだ。

 配置図では、半円状の記号が立石を表わしている。これを現在の配置と比べてみると、明治期から現代に至る地域開発によって、多くの立石が取り除かれていることが分かる。
 図には、国道側の境内西側から歴史民俗資料館の東側までの約110mにわたって立石が描かれているが、現在の資料館周辺に立石はほとんど見られない。また、配置図の左側にある「御幸道」の左右にも立石が描かれているが、現状では「御藪」の西側に10数個の立石が残されているのみで、こちらもほとんどの石が取り除かれている。
  現在、地上に現れている立石の総数は387個とされている。明治の段階では、おそらく現在の2〜3倍はあったと思われる。

◎◎◎
 当社の列石は「磐境」と見なされ、「神籠石(こうごいし)」とも呼ばれているが、これらの認識は近年になり、いささか変わってきたようだ。

 案内板(写真下)「金丸八幡神社の列石」によると、「かつて、これを古代の神籬石であろうと発表したものを見た記憶がある。その後、一度実地について見たが、いわゆる神籬石というような古いものでなく、境域を限り、神域を郭する二重の列石に過ぎないことを確めた」とある。ここで気になるのは「神籬石(ひもろぎいし)」の表記だが、後ろに「神籬石が最初に学問の対象として取りあげられたのは、肥後久留米市の高良山(こうらさん)である」と記されているから、これは古代山城の列石遺構を表わす「神籠石」のまちがいだろう。

  案内板では、当社の列石を「結界石」と仮定しているが、これは神社境内の周囲に巡らした「玉垣」と考えたほうが分かりやすい。案内板にも「いわゆる玉垣にあたり適当な石材がえがたいところから地元産の緑泥片岩の板石を用いたまでで、とびとびに建て並べたものであろう」と記している。
 「磐境」も「玉垣」も、神域を区分けをするために設けられた一種の「垣根」という点では同じものだが、その中にもいくつか特別な区分けがあり、ひとくくりに論じることはできない。

 『神社建築』山内泰明著(神社新報社)によると、神社の敷地である境内を5段階の組織に分けて分別されている。
(1)神聖区域(鎮座)
 神霊を鎮座する本殿の位置で、瑞垣(透塀)で囲って禁足地である。
(2)神厳区域(権地)
 本殿位置に準じ、権殿(ごんでん)、神庫(かみぐ ら)、又は摂末社の敷地とする。
(3)清厳区域(祭祀)
 祭祀を行う祝詞殿、拝殿、神饌所(しんせんしょ)、あるいは神輿庫(みこしぐら)、祭器庫等を配置する。
(4)清雅区域(奉納)
 奉務と参拝に必要な社務所、斎館、神楽殿、雑器庫、神門、手水舎等の施設を配置する。
(5)自由区域
 余地のある土地で、さらに参拝者の休憩所とか絵馬殿、舞台等神賑い(かみにぎわい)に関する催し物等をここで行う、自由に解放する区域である。

 形式は必ずしも一様ではないが、当社の境内に当てはめ区分けをすると、神聖区域(本殿)を囲うものが「瑞垣」であり、清雅区域・自由区域を囲うものが「玉垣」と考えられるので、案内板の見解は順当なものだろう。

 「磐境」とは「祭場の一つ。神霊を招き降し祭りを行うさい、ふさわしい石を運んで築きめぐらした場所」(『神道辞典』神社新報社)をさすが、古代において、これほど広大な祭祀場が必要とされたとは思えない。私もこれを「磐境」と解するのには、いささか抵抗があった。
 案内板の文章は、どこから引用されたものなのか、出典が明らかにされていないのは不親切だが、この案内板を読んで納得することができた。
 列石の造立時期についても「玉垣の造立に中世にさかのぼる例がないのであるから、損傷は甚しいがいちおう近世に入ってからの造立と見るのが穏当であろう」にも同意する。

◎◎◎
2018年5月9日 撮影



 金丸八幡神社の列石

 国鉄徳島本線三加茂駅に接する八幡神社の境域をめぐり、二重に板石を建てめぐらしていることは古くから知られ、かつて、これを古代の神籬石であろうと発表したものを見た記憶がある。その後、一度実地について見たが、いわゆる神籬石というような古いものでなく、境域を限り、神域を郭する二重の列石に過ぎないことを確めた。

 近年この種の遺構を注目するようになり、施設は精粗さまざまであるが、これを結果(界の誤植か)石と名づけ、その範疇に属せしめることにし、若干資料を紹介した一文をまとめ“歴史考古”(日本歴史考古学会発行)に投稿しているので、近刊の同誌に掲載される予定である。

 こんな機会であったから、最後に神社を訪れ田中猪之助氏の案内で、列石を改めて見たがやはり、いわゆる神籬でなく、わたくしのいう結界石の範疇に属せしめるべきものであることを再確認したので、いちおう所見をのべて参考に供しよう。

 ここで、まず神籬石の定義を明らかにしておかなければならない。神籬石が最初に学問の対象として取りあげられたのは、肥後久留米市の高良山である。山頂から中腹をめぐって麓に達する切り石は背を揃えて透き間なく建ち並び、麓の入口に門跡の遺構がある。つまり、山頂を神座とする聖地説にもとづき、神籬石と名づけたのである。その後、同式の遺構が北九州の各地へかけて(周防でも)発見せられ朝鮮における山城との比較検討から、だいたいにおいて、古墳時代末期の山城説が唱えられるようになったのである。つまり祭祀遺構として名づけた神籬石であったが実は軍事遺構だったのである。それにもかかわらず、なお神籬石と呼んでいるところに問題があり、定義を明らかにする必要が、研究の前提条件になるとわたくしがたびたびの機会に強調しているゆえんである。

 さて、神籬石をこのように定義すると、八幡神社の列石が、それに該当するといえるだろうか。これを神籬石と名づけたのは聖地をめぐる表標としての本義からであろう。果して然らば、この列石が神籬石とよばれるにふさわしい古代の遺構といえるということが次の課題であろう。

 聖地を中心に立石をめぐらす例は、古代祭祀遺跡に往々見られるが、多くは環状で、八幡神社のように規短整然としたものはない。おそらく境域を限り神殿を郭するためのもので、いわゆる玉垣にあたり適当な石材がえがたいところから地元産の緑泥片岩の板石を用いたまでで、とびとびに建て並べたものであろう。つまり玉垣の代用と解してもよく、玉垣の造立に中世にさかのぼる例がないのであるから、損傷は甚しいがいちおう近世に入ってからの造立と見るのが穏当であろう。

 気づいている人は少ないと思うが、伊勢神宮の内宮にせよ、外宮にせよ、高い板塀を四重にめぐらし、正殿を囲うている。そして、外側から板塀、外玉垣、内玉垣、瑞籬と呼んでいる。一般の人々は板垣を入り外玉垣から拝するのである。玉や瑞は美称にすぎず呼名はちがっていても、すべて垣であり、神厳のために四重にしたまでで、本義は一重に変りがない。とにかく、これより内は神聖な地であり、みだりに人の入ることを許さぬ標識であり、古語にいうユイ、シメの進化であること、疑をいれる余地がない。

 これを要するに、塀や垣は占地の標識であり、木造では腐朽しやすいので石造にかえて恒久化を図るようになるのは、自然の理であろう。このような移り変りにも一定の時点がありわが国では鎌倉中期が顕著な交替期であったと、わたくしは確信している。それには適当な木材がえがたくなってきたのと同時に、石造化の負担にたえられるまでに、経済的自立化が進んだことを反映していることを見のがしてはならないと思う。そして、このような石造りの遺構が、このころからぼつぼつ見えはじめるのであるが、なお遺例の知見にあるものは少なく、すべて、神社や仏寺など、信仰の対象となる聖地に限っている。神仏混淆の世であるから、仏教用語ではあるがこれらを総称して、私は結界石と呼ぶのである。あえて八幡神社の列石を、その範疇に入れんとするゆえんである。それにしても、いわゆる神籬石式に建て並べたこの列石は立地条件にもとづく必然性とはいえ、珍しい遺構として保存管理に値すること改めていうまでもない。
(三加茂町史より抜粋)