唐人駄場巨石群。人気のパワースポットになっているようで、訪れる人は意外に多い。


山の斜面に首を突き出しす「亀石」(写真中央)。


古代の祭祀場を彷彿させる神秘的な岩陰。


唐人駄場で最強のパワースポットといわれる「再生のエリア」。中央の石は「亀石」とよばれている。


千畳敷石(せんじょうじきいわ)。松尾地区の海岸線まで約1.3kmのとことにある。


唐人駄場遺跡。円形の平地で直径は180mある。
現在芝生広場になっているが、かつてここに巨大なストーンサークルがあったという。


園内の観光牧場にも花崗岩の岩塊がいたるところに散らばっている。
 四国の西南端、太平洋に突きだす足摺(あしずり)岬の山中に、高さ6〜9mの巨大な花崗岩が林立する唐人駄場(とうじんだば)がある。
 午前9時、雲ひとつなく晴れた日で、巨石群に厳しい陽光が降り注いでいる。いわゆるピーカンの空合が、石の撮影ではもっとも難渋する。光と影のコントラストが強すぎて、石のディテールがとんでしまうのだ。まばゆい陽射しをうらめしく思いつつ、足場の悪い迷路のような岩場をくぐり抜けて「千畳敷石」と呼ばれる岩の上に出た。
 別名「神楽石」ともよばれるこの岩は、丘陵にせり出した舞台のようで、巫女たちが奉納神楽を舞った場所といわれている。ここからの見晴らしは、ピーカンの憂鬱も忘れてしまうほど、すばらしいものだった。岩の上から眺める紺碧の海と空は、まさに南国の様相を呈している。空気の澄んだ日には九州が見えることもあるという。沈みかけていた気分が一変し、いつにも増してテンションが上がってきた。

 唐人駄場とはまことに謎めいた名前である。高知県の方言によると「とーじん」とは、意味のわからないことを言うこと。不明瞭な言葉。くだらないこと。などを意味しており、元は「唐人」からきた言葉とされている。「だば」は、岡の上の平地。山腹の平地という意味をもつという。方言で地名を解釈すると「唐人駄場」は「よくわからない異人が住む、不思議な平地」とも読み取れる。

 そういえば、折口信夫は、太平洋を望む大王崎(三重県志摩市)の岬に立ち「まれびと論」の着想を得たという。千畳敷石の上に立って、澄み渡る水平線を眺めていると、足摺岬の「唐人」とは、海のかなたの「常世(とこよ)」から訪れて来た「まれびと」=「異人」のことではないかと想起される。
 明確な史料が残っていないため「唐人」の正体は明らかでないが、「唐人」とは、縄文時代、黒潮に乗って日本列島にやってきた南島系の宗像(むなかた)系の種族の可能性もある。この地に海人(あま)族が住み着いていたというのは、十分に考えられることだろう。

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 かつて唐人駄場園地には、直径150mを超える世界最大級のストーンサークルがあったという。しかしながら今から31年前の昭和52年(1977)、高知県がアウトドア活動ができる芝生広場として整備した際、駄馬内部の貴重な列石はすべて撤去されてしまったという。
 現在、その痕跡と思われる石が、わずかながら園地周辺に残っているが、果たしてここにほんとうのストーンサークルが存在したのかどうか?
 今となってはただの芝生広場でしかなく、その存在は想像するしかない。今さらながら悔やまれるところである。ちなみに日本最大のストーンサークルは、秋田県にある「大湯環状列石」の万座遺跡で、その直径は52mである。

 近年、唐人駄場の巨石群が、古代巨石文明の遺跡であり、人の手が加わった構造物ではないかとする説もある。しかし、これだけの巨石をいちから積み上げるのは多くの人員を要する大変な土木工事である。当遺跡では、縄文時代早期から弥生時代中期末の遺物が見つかっているが、その多くは打製石鏃(せきぞく、石で作った矢じり)である。生活の痕跡を示す土器の出土はきわめて少ないことから、当時の足摺でそれだけ多くの労働力を確保できたとは考えにくい。
 唐人駄場の巨石群は、花崗岩の節理と風化によって形成された自然の奇景であり、長い年月の間に繰り返された地震や大雨に伴う土砂崩れによってできたと考えるのが順当だろう。

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 平安時代後期の説話集『今昔物語集』(巻31第14話)に、「今は昔、仏の道を行(おこなひ)ける僧、三人伴なひて、四国の辺地(へち)と云(いふ)は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺(うみのほとり)の廻(めぐり)なり」と記されている。
 これによると、平安時代の修行僧は、四国の海辺を廻っていたと考えられる。「辺地(へんち・へんぢ・へち・へぢ)」とは、広義には辺境、辺土を意味するが、より限定しては、海辺の難路をめぐり歩く修行を意味したという。このような「海辺の廻(めぐり)」歩く修行が、中世末期あるいは近世初期に成立した「四国遍路(巡礼)」の原型と考えられている。

 宗教民俗学者の五来重氏は、『遊行と巡礼』のなかで、海辺の巨巌や岬や経塚などの行場を巡る辺路(地)修行は「海の修験道」であり、辺路(地)修行を行う場所として、「第一に海辺もしくは海を望見できる山に、行道(ぎょうどう)のできる巨巌や岬や経塚があること、そして第二に窟籠(いわごも)り(禅定)のできる洞窟があること、その洞窟は海に面していることなどが共通している。辺路はそのような行道所をつないで成立するもので、いわば小行道(小巡礼)を連結した大行道(大巡礼)が辺路となる」と記している。
 また、「山岳修行者の究極の理想が山中で洞窟入定(にゅうじょう)することにあったとおなじく、辺路修行者の究極の理想は海上他界である補陀落(常世)に帰ることであった」と記されている。

 足摺岬の突端部にある第38番札所「金剛福寺(こんごうふくじ)」は、はるか南方にあるとされる観音浄土「補陀落(ほだらく)」に向けて舟を出す補陀落渡海の寺であった。紀州熊野の補陀洛山寺が補陀落信仰の本山とされているが、当寺も嵯峨天皇の勅願「補陀落東門」を有する寺として知られるところである。

 唐人駄馬の巨石群が、海上から望見できる一種のランドマークとなっていることも見逃すわけにはいかない。岬におけるランドマークは、海を行き交う舟人が航海安全や豊漁を祈念する聖なる場所であると同時に、神の依り着く聖なる場所でもある。唐人駄場は海人族の信仰が脈打つ、海辺の聖地の一つであったのだろう。

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2018年5月11日 撮影

鬼の包丁石。


三裂石。

今回は訪ねなかったが、
唐人駄場の東方約1.6kmの地点に、円錐形の優美な
山容を誇る白皇山(しらおさん・458m)がある。
山中には多くの巨石が点在しており、
縄文時代の巨石信仰や山岳修験の場としての
歴史をもつ神聖な山とされている。


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