本殿に被さる岩屋石、その上に天蓋石と呼ばれる巨石が積み重なっている。


本殿左手にある観音堂。


胎内くぐりの入口付近。北辰妙見大菩薩が祀られている。


重なり合った花崗岩の隙き間が、胎内くぐりの出口になっている。


「おん そじりしゅた そわか」は妙見菩薩の真言(マントラ)。現在の本殿は昭和10年に建立された。


七寶山吉祥院奥之院妙見宮之景(部分)
 香川県の西部、瀬戸内海に突き出た荘内半島の付け根にそびえる妙見山(みょうけんさん・319m)の南側6合目辺りに、通称「妙見さん」、地元では「朝日の妙見さん」(朝日は字名)とよばれる岩屋妙見宮がある。
 山名の由来となった妙見宮へは「市立ふれあいプラザにお」を目標に進むと分かりやすい。ふれあいプラザにも駐車場はあるが、さらに車で細い山道を上っていくと、参道の入り口となる石鳥居の前に駐車場がある。本堂へはここから石段を10分ほど上っていく。

 妙見宮は、延喜13年(913)弘法大師の開基とされる七宝山吉祥院(仁尾町仁尾丁)の奥の院として、北辰妙見大菩薩を祀っている。社伝によれば、桓武天皇の延暦年間、弘法大師がこの岩屋に立ち寄られ、記憶力増進の修法「虚空蔵菩薩求聞持法」を修められたとき、妙見大菩薩が現れ「吾れは北辰星の化身なり、今汝に託す、末世の衆生に広大な福利を与えんと欲す。汝宜しく我が姿を此処に写し留めて、一宇を建立すべし」と告げられる。ここにおいて弘法大師は、妙見菩薩の本地虚空蔵菩薩の尊像を岩面に刻み、一宇を建立したと伝えられている。
 昭和48年(1973)4月に、本堂東の山麓から、約1200年前の供膳用の須恵器、土師器が数多く出土しており、弘法大師伝承につながる遺物と考えられている。また、昭和53年2月には、本山の吉祥院から、堂の壁に塗り込められていた棟札が47枚見つかっている。これにより元禄4年(1691)に、ご本尊並びに堂宇が再建されたことが分かる。現在の本堂は昭和10年に建てられたものである。

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 妙見とは、星宿の代表として北極星(北斗七星)を神格化したもので、国土を守護し、災いを除き、敵をしりぞけ、人々の生活に福をもたらすものとされてきた。仏教では、北極星は北辰菩薩、または妙見菩薩とよばれ、神道では、中国の道教の至高神信仰の影響により天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)に習合されている。
 この北辰・北斗信仰が、わが国に入ったのは推古天皇(在位593〜628年)のころといわれているが、その真偽は不明である。ただ、奈良県明日香村の高松塚古墳の石室天井に北斗七星が、北壁に北斗の象徴である玄武像(亀と蛇とがかみついた像)が描かれ、また、正倉院御物にも金泥・銀泥で北斗七星が描かれた合子(ごうす)があることなどから、古墳時代末期には北辰信仰が入っていたと考えられている。

 妙見宮の本殿は、中央部が弓形で、左右両端が反りかえった銅板葺の唐破風(からはふ)をもち、岩屋石を天井に、天蓋(てんがい)石をそのまま屋根としたもので、岩屋石は南北17間(30.9m)、東西9間(16.3m)。天蓋石は南北12間(21.8m)、東西13間(23.6m)の大きさをもつ。
 本堂の右手に「開運の洞穴 くぐれば開運」と書かれた案内がある。本堂右側から入り、天蓋石の左に出る一種の胎内くぐりだが、洞穴は狭く、くぐりぬけるにはそれなりの注意が必要だ。本堂に掲げられる「おん そじりしゅた そわか」の真言を唱えながら洞穴をくぐるれば、頭脳明晰となり、開運をもたらすという。

 私は上らなかったが、もみじ谷公園に車を置いて、遊歩道を上っていくコースには、瓜石、割らずの石、茄子石、山老婆石などと命名された花崗岩の巨石が数多く散在し、山頂には、重畳石、千貫石、明星来石、帽子石などの奇岩巨石が露出しているという。
 植生はマツが主で、かつて千貫石の岩上には、丸亀藩家老の命名による樹齢300年の「千貫松(せんがんまつ)」(千貫とは当時の通貨)が生えていたという。現在マツは枯れてしまったが、2代目の幼木を育成しているという。

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 案内板によると、屋根石の天井には大護摩を修されたと思われる煙の痕があるという。ひょっとしてこれは、大護摩ではなく狼煙(のろし)が焚かれた痕跡とみることも可能なのではないだろうか。

 妙見山の西北約5km、荘内半島の中ほどにある紫雲出山(しうでやま、標高352m)の山頂に、約2000年前の高地性弥生集落「紫雲出山遺跡」がある。高地性集落は、軍事的・防御的性格を帯びた集落と考えられているが、遺跡からは畿内の大遺跡に匹敵する量の石器が出土しており、人が暮らしていた痕跡も確認されている。平成28年(2016)には大型掘立柱建物の遺構が見つかっており、南西方向に燧灘(ひうちなだ)が見渡せるように建てられていたという。
 これらの出土遺物から推察して、本遺跡は必ずしも防御のためにつくられた高地性集落ではなく、瀬戸内海を運航する船を監視する番所的な役割を担った集落と考えられている。瀬戸内海の舟運は、波静かにみえて実は複雑な潮流や、かくれた暗礁になやまされるという。大陸から航海してきた舟影が見えると、狼煙リレーで他の集落に知らせるといった行為が行われていたのではないだろうか。

 こうした神社創建以前の時代を想起すると、妙見宮の巨石群は、海上からも見ることのできる重要なメルクマール(=磐座)であり、もとより妙見信仰がはじまる以前には、海人集団が水先案内や航海の安全を祈る祭祀場であったのではないだろうか。
 眼下に広がる燧灘を眺めつつ、巨石群とこの地に住んだ人々の生活、そして信仰とのつながりについて思いを馳せる。この風景を抜きにして当社の磐座祭祀は語れないのではないだろうか。

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2018年5月10日 撮影

本殿右側にある石段を上がり胎内くぐりに入る。

境内からは西の視界が開け、眼下に仁尾の街並みとその先に七宝連山、燧灘が見渡せる。


案内板