仁尾の明神さまとも呼ばれている。祭神は、京都の上賀茂神社から勧請された賀茂別雷大神。


拝殿をバックにした一対の注連石。


石の大きさは高さ約7m、重さは約15トンあるという。


注連縄によって結ばれた2本の石柱は「陸の夫婦岩」に見立てられる。


右に随神門、中央に注連石、左に拝殿。シンメトリーで構成されている。
 香川県の西部、仁尾町(におちょう)に鎮座する賀茂神社。境内に砂地が多いせいだろう、一見するとかなり広い神社に感じられる。一の鳥居から太鼓橋をわたり随神門をくぐると、西洋のオベリスクを想起させる一対の注連石(しめいし)がそそり立っている。いささか奇異な光景ではあるが、後方の拝殿に負けないその威容に圧倒される。それにしてもなぜこのような巨石が建てられたのだろう。

 注連石の由来によると、石ははじめ詫間町(たくまちょう)の鴨之越(かものこし)の入江にあって、漁船の通行の邪魔となり困っていたという。鴨之越は、妙見山のある庄内半島の南側、浦島太郎がいじめられていた亀を助けたという伝承が残る風光明媚な海浜である。
 一帯は遠浅の海で、引き潮になると鴨之越と丸山島の間に「丸山島エンジェルロード」と呼ばれる100m余りの砂の道(陸繋砂州)が出現し、丸山島の浦島神社に歩いて渡ることができる。また、丸山島の北側から鴨之越にも1本の砂州があるが、こちらには奇岩群ともいえる岩礁がみられるので、注連石はこのあたりの海中に沈んでいたのではないだろうか。

 航海のさまたげとなる巨大な岩塊を陸揚げして、神社の境内に設置しようという奇想天外なアイデアを考えたのは、河田安右衛門と名乗る御仁と神社の氏子年寄衆であった。これに要する資金と技術は、県下有数の資産家であった先代の塩田忠左衛門(1843〜1925)と石匠の木下熊吉に協力を依頼したという。

 現在、賀茂神社の西にある「仁尾マリーナ」は、仁尾港内の塩田跡地約5,000平方mと海域35,000平方mを埋め立てて、平成4年(1992)に完成したものである。明治期には海はもっと身近なものであっただろう。
 石の搬入は、明治27年(1894)旧8月15日、秋晴れの大潮の日に行われた。2個の大岩は、樽で組み上げた筏に乗せられ、神社の境内間際まで運ぶことができたのではないだろうか。
 注連石の建立は、明治43年(1910)旧8月22日。搬入から16年後のことである。石の高さは約7m、重さは約15トンでイースター島のモアイ像に匹敵するという。
 明治時代といえば建設機械の黎明期であり、巨大な石を運ぶ重機はまだなかっただろう。「益田岩船」のページでも記したが、修羅(ソリ)を使って石を運ぶ実験では、一人が出せる牽引力は40kgであったという。このデータをもとに単純計算すると、15トンの重さは375人で運ぶことができる。石を運び、立てるまでに何日かかったのかは不明だが、その様子は、町を挙げての一大イベントとなって、氏子、年寄総出の奉仕で綱が曳かれ、建立されたのではないかと想像される。設置当初は大きな話題となり、多くの参拝者がつめかけ賑わったのではないだろうか。

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 当社の起源は、平安時代後期の応徳元年(1084)、京都・賀茂別雷神社(上賀茂神社)の神官・原斉木朝臣源吉高(はらさいきのあそんみなもとのよしたか)によって、仁尾浦の津田島に、祭神「賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)」を勧請したのが始まりと伝えられている。
 現在地に移されたのは、南北朝時代の観応2年(1351)のことで、足利将軍家の内乱に始まる観応の擾乱(1349〜1352)において、仁尾の人々が四国管領・細川顕氏の水軍に加わり、その戦功によって、津多島から現在の賀茂神社に遷宮されたといわれている。

 津多島とは、仁尾港の西沖約800mの海上に浮かぶ大蔦島(おづたじま)のことをいう。島の周囲は約4km、島の至るところに花崗岩の奇岩巨岩が露出し、古くから巨石信仰の霊地であったと推定され、島北部の天狗神社には陰陽石が祀られている。
 島内には、今も沖津宮(元宮)が残されており、毎年秋季大祭(10月第2日曜日)には神官・年寄(供祭人)・頭人がそろってお参りするという。また大祭には、ご神饌として「コウショウノモノ」と必ず鱧(はも)の干物が供えられ、ご神霊は神輿ではなく由来のとおり御神船「北野丸(安政5年(1858)造)」に乗って仁尾町内を巡幸する。

 現在の本殿は慶長13年(1608)、拝殿は文禄5年(1596)、隋神門は慶長15年(1610)建立されたもの。明治期に入って郷社となり、昭和15年に県社に列している。秋の例祭で行われる「長床神事」は、毎年参向される細川家の使者を十万石の格式をもって歓待したことが始まりとされる。当時の遺風を伝えるものとして県の無形民俗文化財に指定されている。

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 明治期に設置された注連石が、大蔦島に伝わる巨石信仰に結びつくとは思えない。やはりこれは一種のモニュメントとして建てられたものだろう。
 ヨーロッパ先史時代に立てられた長大な立石のことをメンヒル(menhir)という。メンヒルがどのような文化的意味のもとに立てられたのかは不明だが、なんらかの宗教的な意味合いをもった巨石記念物であると考えられている。
 注連石を日本のメンヒルと考えるなら、1本の巨柱を立てることで良かったのだろうが、2本をセットにするところは、神社の社前に一対の狛犬が配置されているのと同様に、万物は陰と陽の二気から生ずるとする陰陽思想の具現化とも考えられる。

 注連石の案内板に「後日鴨の越の人が美事なこと、伊勢の二見が浦以上と感無量」とあるが、「陸の夫婦岩」と見立てるのは、あながちまちがっていないように思われる。

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2018年5月10日 撮影

案内板(部分)。

案内板