四国霊場八十八ヶ所のなかで、唯一車で横付けできない札所。長い階段が続く参道。


岩屋寺本堂。お遍路さんのほかに外国人観光客も見かけられた。


本堂の傍にはしごがあり、岩窟行場(法華仙人堂跡)に登ることができる。


「一遍聖絵」には、49院の岩屋、33の霊窟があったと記されている。
 四国八十八ヶ所霊場の第45番札所・岩屋寺(いわやじ)は、愛媛県上浮穴郡(かみうけなぐん)久万高原町、旧美川村の七鳥(ななとり)地区にある。
 七鳥の地名は、『俚諺(りげん)集』の「岩屋山に七霊鳥あり、仏法僧、慈悲鳥、鈴鳥、三光鳥(さんこうちょう)、のしこふ鳥、かつぽう鳥、杜鵑(ほととぎす)也、これによりて七鳥村と号く」に因むもの。いかにも深山幽谷の奇景にふさわしい地名である。
 岩屋寺は、山号を海岸山(かいがんざん)と称している。この地は西日本最高峰の石鎚山(いしづちさん・1982m)の西南麓に位置しており、標高約650mの山の中にあって海岸山とは奇妙に思えるが、これは弘法大師(空海)が詠んだ「山高き 谷の朝霧 海に似て 松吹く風を 波にたとえん」の歌に由来するという。

 県道12号線から直瀬(なおせ)川にかかる岩屋寺橋を渡るとすぐに岩屋寺の駐車場がある。本堂まではここから歩いて20分だが、神経痛の私にはこの山道が今回の旅でいちばんの難所となった。土産店が並ぶ坂道を上り、しばらく歩くと道半ばにある山門に出るが、ここまでですでに足を引きずっている。本堂まではさらに266段の石段を上らなければならない。休み休み登って通常の倍以上かかってしまった。
 やっとのことでたどり着いた本堂は、礫岩峰(れきがんほう)とよばれる巨大な岩壁の下に建てられている。このあたりは四国カルスト県立自然公園の一角にあり、数千万年かけて風蝕された礫岩層が、独立した奇峰となってそびえ立ち異様な山容をつくり出している。

 本堂の左に大師堂があり、その先に「たらた門」とよばれる仁王門がある。ここからさら山道に登って奥の院の「逼割禅定(せりわりぜんじょう)」まで行きたいが、そこには約20mの鎖場と21段の梯子登りが待ち受けている。それこそ決死の覚悟で挑まねばならない危険な岩場だ。すでに精根尽き果て、この岩場を登って行く気力はない。中途半端な取材になったが、これもまた致し方ないとあきらめる。

◎◎◎
 寺伝によれば、弘法大師がこの地を訪ねたのは弘仁6年(815)とされている。そのころ岩屋山には、法華仙人とよばれる土佐国から来た身分の高い女人が住んでいた。女人は岩屋の岩窟を修行の場として、法華三昧を成就し、自在に空を飛ぶことができたという。大師と出会った法華仙人は、大師の修法に深く帰依し、全山を大師に献上し、自らは近くの岩窟に住み、そこで大住生をとげたとされている。大師は木像と石像、2体の不動明王を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、石像は奥の院の秘仏として岩窟に封じ込め、山全体を本尊にしたといわれている。

 また、鎌倉時代中期の僧侶・一遍上人(1239〜89)も、文永10年(1273)7月に岩屋山に巡礼し、翌11年2月まで参籠したと伝えられている。「一遍聖絵」には、「予州(現在の愛媛県)浮穴郡、菅生の岩屋という所に参籠し給う、此所は観音影現の霊地、仙人練行の古跡なり」(巻2)とあり、そそり立つ奇峰の上に小さなお堂が見え、高い梯子を登る2人の修行者と梯子の下で拝む白装束姿の男女が、あたかも山水画のような風景のなかに描かれている。
 古くは第44番札所・大宝寺(久万高原町菅生)の奥の院とされていたが、明治7年(1874)に第1世の住職が寺に入る。同31年(1898)の大火で、仁王門と虚空蔵堂を除く建物と史料を焼失。大正9年(1920)に、総ケヤキ造りの大師堂(国指定重要文化財)を再建。昭和2年(1927)に本堂、同9年に山門が建立された。

◎◎◎
 四国遍路は、弘法大師が修行したという八十八のゆかりの寺を巡るものとされている。しかし史実の上から見ると、すべての寺に大師の足跡があるわけではない。四国遍路の開祖については、弘法大師説のほかに、空海の弟子の真済(800〜860)や伊予国(愛媛県)の長者・衛門三郎(えもんさぶろう)とするものなど諸説あり、ほんとうの由来は定かでない。

 平安時代末期の『今昔物語集』(巻31の第14)や『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の今様歌に、四国の海辺を巡る「四国辺地」について書かれている。これらが四国遍路の原形と考えられているが、全体としての成立はなされていない。
 四国霊場八十八ヶ所の起源を裏付ける史料として、 高知県本川村(現在のいの町)越裏門(えりもん)地区にある地蔵堂から発見された鰐口銘文がある。そこには、文明3年(1471)「村所八十八ヶ所」の記載があり、これによって「八十八ヶ所」の概念は室町時代中期に成立していたとと考えられている。

 古来より、人は死んだら山や海などの他界に行くとされている。岩屋寺は、縄文の時代から続く祖霊信仰、穀霊信仰に根ざした典型的な山岳霊場であったと思われる。巌面に穿たれた無数の穴は、かつては遺骨を埋葬した横穴墓ではなかったのか。より古層の岩屋を求めて、岩屋寺の南10.5kmの地点にある上黒岩岩陰遺跡に向かう。


「一遍聖絵(部分)」に描かれている岩屋寺周辺の風景。


上黒岩岩陰遺跡。約12000年前(縄文草創期)〜約8000年前(縄文早期)の各地層から多くの貴重な遺物が発掘されている。


約8000年前の地層から発掘された成人女性の骨。奥歯のすり減り方が凄まじい。
 上黒岩岩陰遺跡は、石鎚山に源を発する面河川(おもごがわ)と久万川(くまがわ)の合流点から、久万川の清流を約3kmさかのぼった右岸の河岸段丘上にある。標高1000mを超える四国山地の山ふところにあって、遺跡付近の標高は約400mほど、久万川に向かう尾根筋の南面、高さ約20mの屏風状にそびえ立つ断崖の岩陰にある。

 遺跡は、昭和36年(1961)5月下旬、開墾の手伝いをしていた地元の中学生によって発見された。翌37年から昭和45年(1970)まで、5回にわたり発掘調査がおこなわれ、結果、約1万4000前の縄文草創期から後期にかけての複合遺跡であることが判明した。縄文の生活をしのぶ貴重な考古資料は、遺跡に隣接する考古館に保管・展示されている。

◎◎◎
 注目される遺物として、河原石にきざまれた線刻女性像。縄文時代草創期の細隆起線文(さいりゅうきせんもん)土器。寛骨(かんこつ、骨盤の側壁と前壁をつくる骨)に槍が刺さった殺傷人骨。日本最古の埋葬犬骨などが挙げられる。

 縄文時代最古のヒトガタ像といわれる線刻女性像は、今から約1万4500年前の第9層(右図参照)から発掘された。長さ4.5cmの扁平な河原石(緑泥片岩)に、鋭利な剥片(はくへん)石器を用いて長い髪と乳房、下半身には腰簑(みの)らしきものをつけている。
 縄文土偶は今から約1万2000年前の縄文草創期から出現する。当初から成熟した女性像としてつくられており、当遺跡の線刻女性像は、土偶信仰の始原的な姿を示すものであり、安産や豊かな実りを祈る地母神崇拝のための石偶と考えられている。

 同じ第9層からは、発掘当時(昭和36年)世界最古の土器として注目された約1万2000年前の細隆起線文(さいりゅうきせんもん)土器も出土している。ちなみに、現在、世界最古の土器とされているのは、平成10年(1998)、青森県大平山元(おおだいらやまもと)遺跡から出土した無文土器で、土器片に付着していた炭化物の炭素年代測定により1万5500年〜1万5700年前の年代値が得られている。

 寛骨に槍がささった殺傷人骨は、約8000年前の第4層から発掘された。当初は男性の骨と見られていたが、その後の研究により女性のものと判明した。鹿の足の骨でつくった槍は、死亡直前あるいは死後まもなく、至近距離から刺突されたもので、右外側後方から投げられたと推察されている。狩りの最中の誤射もしくは流れ矢という可能性は極めて低いという。「最古の殺傷人骨」に一体何が起こったのか。一説には死亡の原因となった悪霊を取り除く死後儀礼の可能性もあるという。
 また4層からは、年齢が40〜50歳で、身長約147cmのほぼ完全な女性の人骨も見つかっている。考古館に展示されている実物人骨を見て驚いたのは、奥歯の異常な磨り減り方である。日常的に、砂まじりの硬い食べ物を噛み砕き食べていたこと。また、動物の皮をなめし、樹皮を噛んで繊維を得るなど、歯を道具として使用し、ここまで磨り減るほどに酷使していた当時の生活ぶりがしのばれる。

 人の手により葬られた2体分の犬の骨も、人骨と同じ4層から見つかっている。発掘調査終了後、ながらく所在不明となっていたが、2011年3月に慶應義塾大学の考古資料収蔵庫から発見され、炭素年代測定法により縄文早期末から前期初頭(7200〜7300年前)の国内最古の埋葬犬骨と結論づけられた。手厚く埋葬されていることから、犬は飼われていたものであり、よきパートナーとして家族同然の存在と考えていたものだろう。

◎◎◎
 縄文時代の生活は、中・小型動物の狩猟や食用植物の採集が中心であった。久万川の河岸段丘上に立地する森林地帯は、縄文人にとって理想的な生活環境であったのだろう。
 縄文人にとっての「山の神」は、食の恵みをもたらす万物生成の母胎としての神であったのだろう。岩陰や洞窟で、雨や寒さをしのぎ暮らしていた縄文人と、そこで修行した修験僧を一緒に論じるのは短絡的に過ぎるが、「一遍聖絵」に描かれた修験僧の姿に、万物生成の根本となる「山の神」信仰が脈々と受け継がれていることを感じとることができる。

◎◎◎
2018年5月12日 撮影

高さ約20mの石灰岩の断崖の下にある上黒岩岩陰遺跡。


縄文時代最古のヒトガタ像(線刻女性像)
発掘された7個の線刻礫のうち2個には
豊かな乳房がはっきりと表現されている。


遺跡に展示されている地層図。
考古館の定休日は月曜、12月〜3月は冬季休業。

久万高原町の案内図。