県境の島・生名島に向かう生名フェリー。5分ほどで因島の土生港から生名島の立石港に到着する。


立石山(左)のふもと三秀園に鎮座する巨大なメンヒル。


立石の傍らには白龍弁財天が祀られている。


見る角度によって石の印象は変わってくる。庭園東側(海側)から。


石の高さ約5m(地下2m)、周囲約20m(地下周囲25m)あるという。庭園北側から。
 愛媛県今治市から広島県尾道市に至る「しまなみ海道(西瀬戸自動車道)」をひた走り、因島(いんのしま)南インターで高速道を降り、土生港(はぶこう)の長崎桟橋に向かう。車は桟橋近くの駐車場に置いて、愛媛県の北東端、生名島(いきなじま)に渡る生名フェリーに乗船(往復140円)。長崎瀬戸を挟んだ両港間は約300m、生名島の立石港にはわずか5分ほどで到着する。

 生名島メンヒルは、立石港から県道173号線を北に歩いて約5分、三秀園(さんしゅうえん)とよばれる日本庭園のなかに鎮座している。三秀園は、尾道市因島土生町で「麻生組」として、船舶解体業や旅館業、土木事業で財を成した麻生イト(1876〜1956)によって造られた庭園で、昭和初期に完成した。イトは当時、女性事業家ではなめられるという理由で男装をしており「男装の女傑」の異名をもつ。

 三秀園の後方にそびえる立石山(139m)は、いわゆる神奈備山であり、円錐形の秀麗な山容は、古くから霊峰として信仰されてきた。信仰心の厚いイトは、立石山の登山道を整備し、観音霊場として甦らせた。登山道には、古代巨石信仰を思わせる遺構が各所に点在している。なかでも山頂付近の「磐座」と呼ばれる巨石群は、弥生時代から古墳時代にかけての複合遺跡であり、太型蛤刃石斧、石包丁、石鏃、ナイフ型石器などの石器類と、弥生式土器片が多量に出土している。

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 メンヒルとは、長大な自然石を単独で地上に立てたもので、先史時代の巨石遺構の一つとされている。当メンヒルの案内板には「この立石(メンヒル)は、神霊の宿る石神として弥生時代の人々の信仰対象でありました。生名島の石ではなく、(原産地不明)海上運搬されたものと思われます。」と記されている。
 この案内板によると、立石は弥生時代以前に海を渡って、どこかから運ばれてきたことになるが、私にはちょっと信じられない話である。

 7世紀初頭に造られた石舞台古墳(奈良県明日香村)の巨大な天井石の重さが約77トンといわれている。当立石の重さは推定約150トン、石舞台古墳天井石の2倍近い大きさとなる。丸木舟に板材を継ぎ合わせた弥生時代の準構造船で、これほどの巨石を海上運搬できたとは、とても思えない。ここはやはり、山の上から落ちてきたと考えるのが順当だろう。
 案内板には岩質について「原産地不明」としか記さていない。「生名島の石ではなく」という説明に、どのような調査は行われたのか、疑問が残るところである。

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 注連縄の巻かれた巨大な立石の傍らには、覆屋(おおいや)に囲まれた白龍弁財天を祀る小さな祠が建てられている。弁財天は、元来インドの河神であることから、海や湖や川など、水にまつわる神様として知られている。

 旧生名村のホームページ(アーカイブ)によると、三秀園が造られた昭和以前、立石は白砂の浜に直立しており、高さ7mの威容を誇っていたという。
 どうやら当時の風景は、現在とはだいぶ異なっていたようだ。現在、立石から海までは、県道173号線をはさんで約60mほど離れている。この60mが埋め立てられた区域にあたるのだろう。現在の立石の高さは約5m(旧生名村では約4.5m)とされているので、石は約2m余ほど、埋め立てによって地下に埋没したことになる。

 庭園がつくられ、立石は巨大な庭石と化し、人工説まで出てきたが、かつて立石は、海のすぐそばに鎮座しており、その圧倒される存在感は、海を行き交う人々のメルクマールとなり、海辺に座す石神様として手厚く信仰されていたのだろう。
 また、背後にそびえる立石山が、この立石の名前に由来するものであれば、立石は、立石山の神霊が降臨する磐座であったとも考えられる。島の人々にとって、立石山山頂の磐座を奥宮とするなら、立石は里宮的な存在であり、石神と磐座、2つの性格をもった古代の祭祀遺跡であったと思われる。

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2018年5月12日 撮影

案内板


立石山周辺案内図

長崎瀬戸の背後にそびえる立石山。