拝殿の鬼瓦にかつての社名である大元の「大」の文字が刻まれている。


拝殿と本殿は幣殿によってつながれている。


高さ4.2mの岩の上に鎮座する本殿。威容な眺めである。


本殿瑞垣の板は巨岩の凹凸にそって切りそろえてある。


本殿裏側。船の船尾をみているようだ。
 愛媛県の西南部、大洲(おおず)市を流れる肱(ひじ)川の支流である嵩富(かさとみ)川の東岸、国道441号線沿いの舌状台地先端部(標高20m)に粟島(あわしま)神社は鎮座している。

 神社に上る石段の手前に「大洲文化発祥の地 巨石遺蹟ドルメン」と刻まれた石標がある。大洲地方には、このような巨石遺跡が大小あわせて50余カ所あるという。大洲の巨石遺跡は、昭和3年(1928)におこなわれた人類学者の鳥居龍蔵、考古学者の樋口清之両博士の調査と、その後の郷土史家による熱心なフィールドワークによって、にわかに注目を集めるようになった。
 巨石遺跡の代表的なものとしては、鳥居龍蔵より「東洋一のメンヒル」といわれた高山ニシノミヤ巨石遺跡、高山寺山山頂の巨石群、冨士山(とみすやま)の盤状石、三島神社(高山東)の立石などが挙げられる。

 当社の社殿は、巨石と社殿がみごとに一体化した一種異様な建造物で、唐破風(からはふ)造りの拝殿後方に、流造りの本殿が一つの巨大な石の上に建てられている。後方から眺めると、陸に浮かぶ大きな船を眺めているようで、その重厚な存在感に圧倒される。

 粟島神社の由緒によると、かつては大元神社とよばれていたが、明治44年(1911)に南山神社に合併合祀され、昭和9年(1934)に、この地方の少彦名神社(北只字高瀬)、粟島神社(北只字城村)、天神社(北只字中屋敷)、天神社(北只字尾崎)の4社と合併し、現在の鎮座地に移転、このとき名前を粟島神社に改称したという。主祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、菅原道真命の2柱である。

 現在の形に社殿が建てられたのは、江戸時代末期の安政6年(1859)とされているが、それ以前の当地および巨石の由緒についてはよくわかっていないという。しかしながら、当社境内の巨石周辺から、縄文時代後期の土器、石鏃、石匙、石斧や平安時代の土師器が出土しており、この巨石が、古代人の磐座信仰の対象となっていたことは、十分に考えられることである。
 ただし、これは自然石の場合であり、人為的に運ばれた石ならば、この考えは当てはまらないだろう。

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 『大洲市誌』上巻(大洲市誌編纂会)によると、粟島神社の巨石は白色珪岩だが、社域の地質は絹雲母片岩で白色珪岩の産出がないことから、この石はどこからか運ばれてきたものに違いないと記されている。また、巨石の下を1m掘ると、数個の敷き石と思われる石があり、巨石の周囲の地表下に、土で覆いかぶせたあとがはっきり残されているとある。このことから石標に刻まれているいわゆる「ドルメン」と考えられているようだが、これはにわかには信じがたい。

 ドルメン(支石墓)は、朝鮮半島に多く見られる古代墓制の一つである。日本の支石墓は九州北西地域に多く見られ、昭和24年(1949)に考古学者の原田大六らによって発掘された石ヶ崎支石墓(福岡県糸島市)が最初の公表であり、3年後に志登(しと)支石墓群(福岡県前原市)が発見され、国指定の史跡となっている。昭和38年(1963)には、井田用会(いたようえ)支石墓(福岡県前原市)が発掘され、蓋石のサイズは一辺約3m、重さ約5トン。これが国内最大級のドルメンとされている。
 朝鮮半島のドルメンに比べ、日本のドルメンは規模が小さいといわれているが、より大きなドルメンとして、熊本県上天草市の矢岳巨石群遺跡に、長さ約13m、幅約6m、厚さ約2.5m、世界最大級のドルメンといわれるものがある。しかし、この巨石群からは埋葬跡や副葬品が見つかっておらず、考古学上の歴史的価値は認められていない。

 当社本殿下の巨石は、高さ4.2m、幅5.7m、厚さ5mとされている。この巨石をドルメンとすれば、支石の足が短い「南方式」で、蓋石は板状ではなく、塊状蓋石となり、地表下には石棺、甕棺、土壙(どこう)などの埋葬施設が埋められていることになる。
 2トン程度の石を平地で運搬するのに100人程度の人力が必要であるという。100トンを軽く超えると思われる当社の巨石を運搬するには、数千人の人員が必要とされる。縄文時代、これほどの人員を集められる小国が、この地方にあったとは思えないのである。

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 というわけで、やはり『大洲市誌』の「ドルメン説」には得心がいかない。粟島神社の巨石に関する発掘調査は、いつ、どのような形でおこなわれたのか、大洲市の教育委員会に問い合わせてみたが、発掘に関する調査報告、資料は残されていないという。
 昭和30年までに、地元の郷土史家が境内で発掘を行ったようだが、この時の記録は残っておらず、実態は不明であるとのこと。さらに、近年の地質調査により、周辺の地質は主に泥質片岩で構成されるものの、変成チャート(珪岩)も伴うことが判明したという。いまだ、この巨石に関する石材同定や詳細な調査はおこなわれておらず、風化作用によるものか、人為的移動によるものかは、今のところ不明であり、「人為的移動」については慎重に検討する必要がある。との見解をいただいた。

 ドルメンという墓制の背景には、やはり巨石信仰があったと思われるが、祀られているのは祖先神であり、磐座信仰で祀られている自然神とは性格を異にしている。こまかいことを言うようだが、ここは「ドルメン」ではまぎらわしいというのが私見である。
 粟島神社の巨石は、もともとは磐座信仰によって祀られていた石であろう。昭和20年代のドルメン発見に影響されて、大洲市にもドルメンがあると誤認識されたのではないだろうか。

 ドルメン(支石墓)については、岩手県遠野市の「続石」でも記している。こちらも参照されたい。

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2018年5月11日 撮影

国道441号線沿いにある粟島神社の石鳥居。
石段の手前に「大洲文化発祥の地 巨石遺蹟ドルメン」
の標柱がある。


拝殿内にある由緒書。

粟島神社 拝殿内部。