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県道沿いにある佐田京石。入り口右手に「平成の京石」がある。
マウンド状に盛り上がった小丘の中央から半円を描くように石柱が配されている。
高さ2mから3mもある棒状の自然石が9本並んでいる。
配石だけでなくマウンド状に盛り上がりも、人の手により造られたものではないだろうか。
平成3年に発見された「平成の京石」。
杉林の中にある支石墓と思われる組石。
水田の中にある「こしき石」。約60度に傾いた石柱は、米神山の山頂に向かっている。
こしき石。形状は縄文時代の男根を模した石棒のように見える。
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大分県の北西部、四囲を山に囲まれた安心院盆地の北東部に「佐田京石(さだきょういし)」とよばれる不思議なストーンサークル(?)がある。
「安心院(あじむ)」という難読地名の由来については、次の3説がよく知られている。(1)かつて安心院盆地は巨大な湖で、葦(あし)の生い茂った土地であったことから葦生「あじぶ」「あじむ」の里とよばれるようになった。(2)養老4年(720)宇佐公比古が勅命により菟狭川(うさがわ)の上流にいた鼻垂(はなたり、いわゆる土蜘蛛か)を討伐し、安心して住める土地となったことから「あじむ」に「安心」の字を当てた。(3)この地方は海人族である安曇(あづみ)氏族の繁栄したところで、「あじむ」は「あづみ」が転化したもの。また、後に宇佐神宮の荘園となって倉院が置かれたことから「院」を付けて「安心院」になったという。
(3)の「安心院=安曇」説は、松本清張ファンならすでに周知のことだろう。安心院は、清張古代史ミステリーの第一作『陸行水行』の舞台として登場する。小説のなかで「安心院は安曇(あづみ)です。安曇はご承知のように海神系です。つまり、朝鮮系の民族の居た所です。宗像族もそうです。この宇佐族も海神系ですから、魏使は海神系の勢力圏内をずっと歩いて来たことになりますね。……ですから、アヅミがつづまって『魏志』にいう不弥になったと思います。」と、いささか強引に、安心院を『魏志倭人伝』の不弥(ふみ)国に比定している。
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県道42号(山香院内線)から、京石川に沿って県道658号線を約1.2km北上すると、右手に佐田京石、左手に駐車場がある。
道路から一段高くなった、およそ25m×20mの平地のなかに、塚状の小丘から半円形を描くように高さ2〜3mの棒状の自然石が9本並んでいる。
なんの変哲もない静かな山里の風景のなかに突然あらわる巨石群は、あきらかに人為的な配石遺構と思われる。いままで見たこともない摩訶不思議な遺構は、多くの謎を投げかけて見るものを幻惑させる。なんともミステリアスな光景である。
遺構の規模としては、縄文時代後期から晩期にかけての集落「チカモリ遺跡」(石川県金沢市)の環状木柱列(ウッドサークル)に似ているが、石の並べ方はチカモリ遺跡に比べるとかなりアバウトである。
入り口となる通路の向かいにも、「平成の京石」とよばれる19本の巨石からなる立石群がある。平成3年(1991)付近の水田の整備中に発見されたもので、石質が京石および米神山の巨石群と同一と認められ、杉林の中に再建立されたものである。
また、杉林の中には支石墓(ドルメン)らしき石組も見つかっている。これを見ると京石一帯は弥生時代の墳墓群とも考えられるが、全体から受ける印象は、石の配列を礼拝対象にする神籬(ひもろぎ)遺跡のように思われる。
案内板には「太古の祭祀場か? 鳥居の原型か? 埋納経の標石か? 定説は未だありません。」と記されているが、これはいまだ本格的な発掘調査は行われておらず、確たる文献史料も残されていないためだろう。いつ、何のために立てられた石なのか、皆目わからないというのが現状である。
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伝承によると、佐田京石の背後にある聖なる山・米神山(こめかみやま、475m)から、神々が100本の石を降らせ、山の麓に都をつくろうとしたが、米神山の神が一計を案じて、99本目のところで作業は中断させ、都を築かせなかったと伝えられている。
伝承になんらかの史実が秘められているとすれば、京石の石は米神山から運ばれてきたと考えられる。京石の脇にあるイラストマップを見ると、米神山の山頂には環状列石があり、山中に「日ノ神谷」、「月ノ神谷」、「霊岩水」とよばれる磐座と巨石群が点在している。
この目で山頂の環状列石を見てみたいが、米神山は低山ながらかなりキツイ山であるらしい。私の脚では踏破できそうにないので登山はあきらめることにした。米神山の巨石群を写真で見る限りでは、自然の産物なのか、人の手によって築かれた遺構であるのか判然としない。
また、京石周辺に見られる謎の石として、ここから宇佐方面に1kmばかり行った水田のなかに「こしき石」とよばれる立石がある。高さ2mほどの石の上に、平らな蓋石が載っており、これを取り除くと暴風になると伝えられており、別名「暴風石」ともよばれている。
斜め約60度に傾いた石柱は、米神山に向かってそそり立っている。「米神」という山名および「こしき」という米関連の名前から「農耕神祭祀」に係る遺構跡ではないかと考えられるが、詳細については、京石同様分かっていない。
地域をもっと広げてみると、立石とよばれる遺構は大分県下に多く見られる。環状列石では、国東半島の北部、猪群山(いのむれさん、458m)の山頂にある「猪群山環状列石」、杵築市山香町の「下山環状列石」、国東市国見町の「鬼籠(きこ)環状列石」。立石では、別府市亀川にある「姫山メンヒル」、湯布院町塚原の「立石山メンヒル」、宇佐神宮の奥宮とされる御許山(おもとさん、647m)の磐座も3柱の立石であるといわれてる。
日本の環状列石および類似の遺構は、だいたいが集落から眺望できる聖なる山の麓に多く設置されている。奈良・平安時代にはじまる山岳信仰と宇佐神宮を中心とした六郷満山の修験道が融合した結果といえようが、その根底には縄文以降の呪術的な祭祀とも結びついていたと思われる。この地方にも、縄文、弥生時代の遺跡は多く点在しているが、配石遺構の時代考証に資する史料は、いまだに見つかっていないという。
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2019年4月19日 撮影
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マウンド中央の石柱。
この石を中心に、半円を描くように
8本の石柱が配されている。
「チカモリ遺跡」の環状木柱列(ウッドサークル)。
直径約60〜90cmのクリの巨木を縦に半分に割り、
切断面を外側に向けて直径約7mの円形に立て
並べられている。
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米神山周辺のイラストマップ。
佐田京石 案内板
太古の祭祀場か? 鳥居の原型か? 埋納経の標石か? 定説は未だありません。
通路を登って左側の柵内は、マウンド中央の石柱から半円形を描くように石柱が配された環状列石と推測されます。
また、右側の柵内にはドルメン(支石墓)と思われる巨石があります。
石柱の表面には、ペトログラフ(岩刻文字)の存在が指摘されています。
背後にある山は、米神山(標高475m)と呼ばれ、山頂部にも環状列石(高さ50cm程度の石)があります。
また、ここから宇佐方面に行った地点右側の水田中に、米神山側に先端が向いた立石があり、
その上に小さな扁平石を載せたものが立っています。地元ではこしき石と呼ばれ、
蓋石を取り除くと暴風になると伝え暴風石とも呼ばれています。この様に山の名やこしき石等、
米に係る名が多く有りますので弥生時代頃のものとも思われますが、定かではありません。
宇佐市教育委員会
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