別府市内を東流する境川(さかいがわ)に並行して走る荘園(そうえん)通りの一角に、お稲荷さまの赤い鳥居と幾本もの赤い幟が通りに面して立てられている。
荘園町(旧速見郡朝日村)の東南部、この付近は古くから「七ツ石(ななついし)」とよばれ、七ツ石稲荷神社に鎮座する巨石群が旧地名の由来とされている。
神社の境内には、別府八湯温泉道の七ツ石温泉とすべり台と鉄棒のある七ツ石公園が併設されている。この公園並びに温泉施設は、昭和のはじめに当時松林と雑木林であった荘園地区を宅地分譲地に開発した故石坂一馬氏がつくり、荘園町自治会に寄付したもので、その後昭和46年(1971)に別府市に寄付された。
赤に染まるお稲荷さまと巨石群。これに温泉と公園が加わると、なにが主体なのか分からなくなるが、この異色の組み合わせに、温の町ならではの情調が感じられる。
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ここ七ッ石の周辺は、「九州の関ヶ原」といわれる「石垣原(いしがきばる)の戦い」の最大の激戦地であったと伝えられている。
安土桃山時代の慶長5年(1600)旧暦9月、黒田如水(じょすい)と大友義統(よしむね)の両軍は3日間で計7度にわたり激闘を演じ、両軍の死者は黒田方370余人、大友方200余人、七ツ石付近の原野は血に染まったと語り継がれている。
戦に破れた大友家の忠臣・吉弘統幸(よしひろむねゆき)は、戦いの前夜に「明日は誰(た)が草の屍(かばね)や照らすらん 石垣原の今日の月影」という辞世の句を残し、近くの吉弘神社(別府市石垣原西6丁目)に祀られている。
案内板には、「七ツ石稲荷神社は、西暦一六〇〇年に起こった石垣原合戦の後 この付近の雑木林にある大石の周囲に白狐が現れると噂になり 近くを行き交う人たちが大石を祀り拝むようになったと言われている」とある。この伝承がいつしか狐神信仰となって、七ツ石が稲荷神社のご神体として祀られるようになったのだろう。
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「石垣原」の地名について、江戸時代の儒学者・貝原益軒(かいばらえきけん)の著した紀行文『豊国紀行』に「此処を石垣と称せしは、もとより石多き所なれば、農人畠を作らん為に、石をひろいあつめてつみあげしかば、おのづから石垣となりし故也」と記されている。
当地一帯は、鶴見岳山麓から流れる境川および春木川によって形成された扇状地であり、土砂崩壊後の土石流の堆積場所であった。かつては鶴見岳の火山活動で生じた安山岩質の礫・岩屑が至るところに散乱していたのだろう。現在残されている七ツ石は、耕地化を担う農民の手には、大きすぎて動かすことができず、そのまま放置され残されたものではないだろうか。
現在、社地内周辺に大きな石がいくつか点在しているが、信仰の対象とされている石は、鳥居をくぐってすぐの注連縄が巻かれた石と、稲荷神社拝殿後方のU字型にめぐらされた石垣の中にあるご神体石の2つだけある。
七ツ石の近くには、弥生時代のものとされる末行(すえき)遺跡、四郎丸遺跡、南石垣遺跡などがあるが、七ツ石の巨石信仰と関連する史料は見つかっていない。
伝承としては、石垣原の戦いの折、境内中央の大石の上で、吉弘統幸が最後の力を振り絞って槍をふるったという伝承があるが、それ以前の伝承は残されていないようだ。
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2019年4月19日 撮影
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入浴時間は朝7時〜夜10時まで。
堀田源泉から引かれた湯は「単純硫黄泉」で、
神経痛・筋肉関節痛・痔・疲労回復・切り傷・
うちみ・くじき・冷え性・皮膚病などに
効能があるという。
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