二の鳥居。扁額には石穴神社と記されている。


拝殿。右に鳥居があり、奥の院にはこの鳥居をくぐり入っていく。


鳥居の先に、奥の院の入り口に安置された摂社・桃若稲荷神社の石祠が見える。


磐座群の岩質は、花崗斑岩(かこうはんがん)とよばれる花崗岩組成の斑状岩。


桃若稲荷の石祠。祠の左に人ひとりが入れる石穴がある。


桃若稲荷神社そばの石穴。なかに祠が置かれている。


岩場の最奥部に見えるトタン屋根の下に奥の院の「石穴」がある。


奥の院の「石穴」。人が2、3 人かがんで入れる程度の広さがある。
 福岡空港でレンタカーを借り、カーナビに石穴稲荷神社の所在地「太宰府市石坂」を入力すると、一つ上の記載に「石穴(いしあな)」の地名が表示された。地図で確認すると、石穴稲荷神社は石坂地区の東端にあり、奥の院のある社叢は、石穴地区の境界に食い込む形で隣接している。区画整理の都合で、神社と地名が分離してしまったのだろう。石穴の地名は、石穴稲荷神社に由来するものと思われる。

 石穴稲荷神社は、大宰府政庁跡の東約1.9km、筑紫野(ちくしの)市との境にある高雄(尾)山(標高151m)の太宰府側中腹に鎮座している。筑紫女学園大学の入り口付近にある社号碑や鳥居の扁額には「石穴神社」と刻まれている。通称「石穴稲荷」ともよばれているが、古くは「石穴神社」が正式名称だったのだろう。

 車で一の鳥居をくぐり、すぐ右手にある駐車場に車を駐める。二の鳥居からゆるやかな石段がはじまり、京都の伏見稲荷を彷彿させる朱塗りの鳥居が連なる参道を50mほど進む。社叢の緑は深く、赤い鳥居とのコントラストが美しい。本殿はここから急な石段を30段ほど登ったところにある。境内は約200坪の平地からなり、正面に石穴神社拝殿。左手に摂社の清水稲荷神社(病気平癒・厄除の神様)、右手に中山稲荷神社(学問 ・道徳の神様)、石高稲荷神社(商業・家業繁栄の神様)が祀られている。

◎◎◎
 当社の由緒はそのほとんどが消失しており、詳細については不明とされている。当社のリーフレットには、主祭神は稲荷神(お稲荷さん)ともよばれる宇迦乃御霊大神(うかのみたまのおおかみ)で、「明治年間の由緒書きや信者の方達の家々に伝わる伝承を総合すると、(菅原)道真公が太宰府に下られた際、道真公をお守りして一緒に京都から九州太宰府へ来られたお神様とする説が有力」であると記されている。

 宮司家に唯一残されている史料として、「三条実美公御幣物奉納の唐櫃(からびつ)」なるものがあるという。三条実美(さねとみ)は、幕末の尊王攘夷派・公卿五人の一人で、京都を追放され太宰府の地に身を寄せたとき、大事な太刀を紛失する。困った実美が、石穴稲荷神社を参拝し、所願成就を祈ったところ、たちどころに太刀があらわれ、その御礼として供物を奉じた。そのときの供物を入れた唐櫃とされるている。

 旧神社制度では無格社の神社だが『大宰府市史 民俗資料編』(1992)によると「とくに石穴神社は稲荷社の中でも位が高いといわれ、信者が博多や粕屋郡からも多く参詣し、溝尻口から石穴稲荷までたくさんの幟がたち、露点がずらりと並び賑やかなことであった。」とある。神社のリーフレットにも「石穴稲荷神社は、古くから博多商人の間で、祐徳・大根地(おおちね)と並ぶ九州三大稲荷として信仰を集め、特に霊験あらたかなお稲荷様として親しまれてきました」と記されている。

◎◎◎
 当社の奥の院には、拝殿の右にある石鳥居をくぐり、さらに石段を登っていくのだが、土足で上がれるのはここまでである。奥の院へ上がる者はここで靴を脱ぎ、本殿横の下足棚に用意されているスリッパに履き替える。
 拝殿、幣殿、本殿に沿って上がる石段は20段ばかり、本殿の後方には、幹周り5.8mと4.2mの2本のご神木の大楠がそびえ立っている。奥の院につづく鳥居の小道を抜けると、小中学校などによくある25mプールほどの空間に、直径2〜3mの苔むした岩々が累々と積み重なる磐座群が姿をあらわす。神さびた雰囲気のなかにいよいよ神域に踏み込んだという感がする。

 奥の院の入り口に、当社4つ目の摂社・桃若稲荷神社(子どもの神様) の石祠がある。祠の左手に、重なり合った石の隙間にできた空洞、人ひとりが入れる「穴」があり、奥に朽ちた祠が置かれている。

 奥の院には、桃若稲荷の祠を左に曲り、「奥宮」と記された赤い幟を目印に、岩場の最奥部に見えるトタン屋根の下に向かう。岩場の入り口に「是より下足をおぬぎ下さい」と刻まれた石塔が立っている。苔むした丸みのある石は足元が滑りやすい。雨天時はくれぐれも注意が必要である。
 落ち葉の積もったトタン屋根の下に、大小の石が重なり合い、その隙間にできた空洞がみられる。広さは、桃若稲荷横の石穴の2〜3倍ほどあるだろうか。穴の奥には石祠が置かれ、その前に朱色の小さな鳥居が立てられ、石の神饌台には榊が供えられている。

 奥の院の磐座信仰が、この「石穴」を核として生まれたものであることは、まずまちがいないだろう。古来より「穴」は、女陰を象徴する聖なる空間として、喪失した生命力や霊力を復活再生させるシンボルとされてきた。
 現在、当社は稲荷信仰の聖地とされているが、考古学的にはさらに古い年代より、この地で神祀りが行われていたとみる学者は多いという。当社奥の院の本来の姿は、やはり日本古来の磐座祭祀の系譜に属したものであろう。かつてこの岩場は、普段は足を踏み入れることのできない禁足地であったのではないだろうか。拝殿横でスリッパに履き替えるのも、古代祭祀の名残りのように思われる。

◎◎◎
2019年4月18日 撮影

摂社の石高稲荷神社。境内には四社の摂社があり、
いずれも「稲荷大明神」をお祀りしている。


幣殿の奥にある本殿。後方に2本の大楠がそびえ立っている。