淡路島の北端、明石海峡に面する岩屋港。背後に神戸市と淡路市とを結ぶ明石海峡大橋が見える。


国道28号線沿いにある恵比須神社。岩楠神社は恵比須神社社殿の裏側にある。


岩楠神社の境内背後には、松尾山(マナイタ山)の山裾が迫り、岩壁の洞窟が本殿となっている。


鳥居の扁額には「岩樟神社」、案内板には「岩楠神社」と記されている。鳥居後方の祠の奥が洞窟になっている。


鳥居の左に、戦時中防空壕として利用されていた洞窟が2つある。
 淡路の国名については、『古事記』の国生み神話にある「淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)」が初見とされ、『日本書紀』には「淡路洲(あわぢのしま)」、『万葉集』には「淡路、粟路」と記されている。記紀以前の史料としては、藤原宮(694〜710年)跡から「粟道宰熊鳥」と記された木簡が見つかっている。

 名前の由来としては、淡路は「阿波路」であり、阿波(徳島県)へと続く道、というのが通説になっているが、他にも様々な説が存在する。『日本書紀』には伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神が、淡路洲を胞(え)として生んだことから、意(みこころ)は不快なものとなり、吾恥(あはぢ)になったと記されている。「胞」は胎盤のことで、生み損ないを意味するという。また『釈日本紀』には、淡路島が小さいことから「吾恥(あはじ)島」としたとあり、そのほか粟(あわ)を産するところから「あわ島」とする説。阿波や安房との混同を避けるために「あわつ島」となり、これが「あはち島」に転訛した、という説などがある。

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 岩楠(いわくす)神社は、明石海峡に面する淡路島の北端、岩屋港の向かいの恵比須神社境内の裏側に鎮座している。岩屋地区は古くから淡路島の北の玄関口として栄えた港であり、交通の要衝であった。古代には「石屋」と記されており『播磨国風土記(讃容郡)』によると、神功皇后が韓の国に渡海する際、風待ちのために船を「石屋」に碇泊したと記されている。
 国道28号線を東に100mほどいくと「オノコロ島」の伝承地の一つとされる景勝地「絵島」があり、南に約600mいくと延喜式に登場する古社・石屋(いわや)神社がある。

 岩楠神社の背後には、中世の山城「岩屋城」が築かれた松尾山(別名、マナイタ山)の山裾が迫り、鳥居のすぐ後ろには高さ10数mの切り立った岩壁がそそり立っている。岩壁には3つの岩穴が空けられている。左の2穴は人の手により掘られたもので、戦時中は防空壕として利用され、現在は資材置き場となっている。右の岩穴は祠によって塞がれており、この内部が当社の本殿となっている。格子の隙間から岩穴内部をのぞいてみると、暗やみのなかに石造りの小さな祠(ほこら)が祀られている。

 案内板によると岩楠神社が鎮座する洞窟は、現在高さ1.6m、幅1.1m、奥行きはわずかに3mだが、昔は52mもの長い洞窟だったと記されている。
 49m分の奥行きはどこに消えてしまったのか?
 吉田東伍の『大日本地名辞書〈上方〉』によれば、「此石窟は甚広かりしを、城を築く時、窟を切りたて〃、今残る処の岩窟、斯く狭くなりたりと云、惜しき事なり」とある。かつて海際まで伸びていた洞窟は、岩屋城築城の際にそのほとんどが削りとられたということだろう。昔あった52mの洞窟が、自然のものか人工のものかは不明だが、現在の穴の形状をみた限りでは、人の手によって穿たれた洞窟のようにみえる。
 なんの裏づけもないあて推量なのだが、かつての52mの洞窟は、大阪城の「真田幸村の抜け穴」のような、山城から海辺に通じる秘密のトンネルだったとも考えられる。

 地元ではこの洞窟が、イザナギ命がかくれた幽宮(かくりのみや)であると伝えられている。『日本書紀』神代上、第五段一書(十一)には、イザナギ命は神としてのつとめを終えて、「是を以て、幽宮を淡路の洲(くに)に構(つく)りて。寂然(しづか)に長く隠れましき」とある。
 幽宮の伝承地としては、淡路国一宮で、地元では「いっくさん」ともよばれている伊弉諾(いざなぎ)神宮が知られている。この地で終焉を迎えたイザナギ命は、その住居の跡に陵墓を築いて(現本殿の下)お祀りされた。これが最古の神社である伊弉諾神宮の創祀の起源とされている。
 岩楠神社の洞窟が、かつての長さのまま残っていれば、幽宮伝承地としての存在感はあったのだろうが、つくづく「惜しき事なり」である。

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 当社の祭神は、イザナギ命、イザナミ命、そしてこの二神より生まれた蛭子命(ひるこのみこと)の三柱である。蛭子は、イザナギ、イザナミの最初の子でありながら、子づくりの際に、女神であるイザナミが先に声をかけたため、足萎えのヒルのような子が生まれ、葦舟(あしぶね)に乗せられてオノコロ島から流し棄てられてしまう。
 日本神話では、イザナギとイザナミの間に生まれた船の神を「鳥之石楠船神(とりのいわくすぶねのかみ)」という。蛭子が乗った舟は葦舟とされているが、当社の社名は、石のように堅固な楠の船を意味する「石楠船」から名付けられたものだろう。

 記紀神話にその後の蛭子命の運命は記されていないが、流された蛭子が流れ着いたという伝承は日本各地に残されている。案内板にある「「西宮のエビスさん」とは、えびす神社の総本山・西宮神社(兵庫県西宮市)のこと。西宮神社の縁起によれば、蛭子命は海を漂ったのち摂津国(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)西宮の海岸に漂着したという。土地の人は蛭子命を拾って、夷(えびす)三郎殿と呼び大切に育てられ、海を司る神として祀られたという。この岩屋地区が蛭子の流される前のオノコロ島であり、「本家」であるという意味だろう。
 岩楠神社は、とうてい立派とはいえない小さな神社だが、当社に伝わる52mの洞窟が、イザナギ、イザナミの国生み神話となんらかの形でかかわった結果、創建された神社であると思われる。

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2018年5月9日 撮影

岩楠神社の本殿内部(ストロボ使用)。
前面の左右に上古の祭壇の跡がある。


境内にある愛宕神社。波戸地蔵が祀られている。


境内左手にある大きな岩。これも磐座と思われる。


岩屋港前に浮かぶ巨岩の島・絵島。オノコロ島の伝承地の一つで、
江戸中期の国学者・本居宣長はオノコロ島を絵島と見立てている(『古事記伝』)。
島の高さは20m、周囲400mほど。約2千万年前の砂岩層が露出してできた島という。


案内板