洲本城跡の八王子木戸から、八王子神社の石鳥居をくぐり先に進むと、十二支を祀った祠群がズラリと並んでいる。


十二支の祠群を過ぎると、さざれ石の巨石に押しつぶされそうな拝殿が見えてくる。


拝殿の奥にはご神体石のさざれ石が鎮座している。


拝殿の裏にあるV字型の空間。典型的な女陰形磐座であると思う。


今にも崩れそうな境内の岩壁をコンクリートの柱で支えている。
 淡路島の南東部、洲本市小路谷(おろだに)にある標高133mの三熊山(みくまやま)の山上に、東西800m、南北600mの広さをもつ洲本城跡(国史跡)がある。洲本城は、室町時代末期、淡路水軍の安宅(あたぎ)氏の本拠として、三好氏の重臣・安宅治興(はるおき)によって、永正7年(1510)もしくは大永6年(1526)に築造されたものといわれている。

 八王子神社は、洲本城の本丸(模擬天守閣)と東の丸のほぼ中間あたりに、城跡の背後に隣接する形で、半ば隠れるようにひっそりと佇んでいる。
 嘉永4年(1851)に刊行された『淡路国名所図絵』には、八王子神社は、大永6年の頃、安宅隠岐守治興が城を築くとき、祇園五男三女の神を祀り、城郭の鎮守としたと記されている。
 ちなみに、五男三女神とは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約の際に生まれた五柱の男神(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命)と三柱の女神(多紀理毘売命、市寸嶋比売命、田寸津比売命)のことをいう。また祇園五男三女神は、京都祇園社の祭神であり、のちに須佐之男命と習合し、同一視されている牛頭天王(ごずてんのう)の七男一女の子(八王子)のことをいう。

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 八王子神社は、室町時代末期に城郭の鎮守として創建されたといわれているが、あたりの深遠な雰囲気からして、当社の信仰の根底には、縄文から弥生時代にまで遡りうる磐座信仰があり、当社の創建はそれをもとに整備されてものとみて、まずまちがいないだろう。

 八王子木戸の門跡から八王子神社の石鳥居をくぐり、十二支を祀った祠群を下っていくと、山の斜面に巨大な岩の塊が累々とつらなっており、あたかも異世界にまぎれこんだ感がする。
 石質は小さな石が長い歳月のあいだに成長し、大きな巌(いわお)になると「君が代」に詠われている「さざれ石」である。
 三熊山周辺の地質は、今からおよそ7000万年前の中生代白亜紀末期に堆積した和泉層群(いずみそうぐん)と呼ばれる地層から成っている。この地層は、中央構造線の北側にそって、愛媛県松山市の南西から、淡路島南部の諭鶴羽(ゆづるは)山地を通り、大阪府と和歌山県の隔てる和泉山脈に至るまで、東西300kmにわたって細長く分布している。
 当社周辺のさざれ石は、和泉層群の地層から露頭したもので、学名を「石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)」と呼ばれている。雨水などで溶解した石灰石が、粘着力の強い乳状液と化し、小石群を凝結して、大きな岩状を成したものである。

 拝殿右側に狭い通路がある。ここからご神体石の裏側にまわりこむと、ここにも石造の小祠が巨大な岩と岩の間の凹んだ空間に祀られている。この逆V字型の岩陰は、あきらかに女陰形磐座とみてまちがいないだろう。
 民俗学者の吉野裕子氏は『日本古代呪術』の「クラ考」のなかで、「イワクラ」の「クラ」はV字型の凹みで「穴」をあらわす日本古語であろうと推測している。柳田説では、「クラとは本来、すべて神の降り給うべき処をさした言葉である」としているが、吉野氏は「クラ」という言葉には本来、神聖な意味も、神降臨の場の意味もふくまれていないとし、石座(いわくら)とか神座(かみくら)とかは、いずれも神の降臨される大元の疑似女陰であるが故に神聖なのであると考察している。あっと思わせる卓説である。

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 当社の祭神については、国狭鎚尊(くにさつちのみこと)とも大山積尊(おおやまつみのみこと)ともいわれているが、詳細はよくわかっていない。この日、境内を掃除されていた土地の人から、当社には蛇の神が祀られているとうかがった。

  かつての日本には、狐や鳥、猿や鹿など、さまざな動物が神の使いや化身として敬われてきたが、そのなかでも蛇は特別に神聖な生き物として、破格の扱いを受けてきた。蛇を苦手にする人は、私を含めて多いと思うが、人類の蛇への敵視、畏れは、遠い祖先から受け継がれた遺伝子に起因する先天的な反応のように思われる。

 山、川、海など、多様な環境の中で生息するたくましい生命力、そして「死と再生」を連想させる「脱皮」の神秘性ゆえに、蛇は古代人の畏敬の対象であった。縄文土器や土偶にも、生気あふれる蛇の文様や造形が多く見られる。古代においては、蛇神信仰こそが原初の祖霊信仰だったのだ。すでに消え失せたかのように見える蛇信仰だが、今の時代にも絶えることなく、綿々と受け継がれてきたものと思われる。

 最後に一言付け加えたい。上記の掲載している拝殿裏の磐座の写真に竹ほうきが写り込んでいる。撮影に邪魔だと思い一度ファインダーから外したのだが、いや、待てよ。蛇神と箒神(ほうきがみ)は、元は一つの神であったとする吉野説を思い出した。氏によると、箒の本来の訓みは「ハハキ」であり、これを蛇の古語である「ハハ」に起因する。「ハハキ」は、生命更新、脱皮、地主、祖霊を象徴する呪物であり、神霊であって、箒神の特質は、蛇神に与えられている本質を、そのまま継承しているという(吉野裕子『日本人の死生観』)。やはり、竹箒は元の位置にもどして、再度撮影した。

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2018年5月9日 撮影


現在の洲本城・模擬天守閣は昭和3年に建てられたもの。


洲本城から望む大浜と洲本市街地。洲本八景の一つとされている。