石上神社の参道入口。石鳥居から先は「女人禁制」となっている。


拝殿とその屋根に覆いかぶさるご神体石。


拝殿内部。


寄りかかった2つの石の間に三角形の空間がつくられ、中に石が置かれている。古代祭祀の跡のように見える。


ご神体石の背後にある巨石群。半径10m四方に大小さまざまな巨石が点在している。


「女性の方 参拝場所」。女性は参道を通らずに脇にある女性用の参拝路を通り、ここから参拝する。


水谷慶一著「知られざる古代〜謎の北緯34度32分をゆく」掲載の関係図を参考に制作。
 カーナビに「ハウスホールディングス・淡路記念館」(0799-82-2888)を指示し、海沿いを南下する国道28号線ルートを選び、岩楠神社から舟木の石上(いわがみ)神社に向かう(11.3km、23分)。

 淡路島の舟木地区(旧津名郡北淡町)にある石上神社は、昭和55年(1980)2月に放送されたNHK特集「知られざる古代〜謎の北緯34度32分をゆく」のなかで紹介され、広く知られるようになった。
 放送された番組は、奈良市在住の写真家・小川光三氏の著書『大和の原像 古代祭祀と崇神王朝』(1973年、大和書房)に記された「太陽の道」という論考が原案になっている。小川氏は、大和の古い寺社や遺跡を撮り続けていくなかで、箸墓古墳(奈良県桜井市)を基点として、東の「伊勢斎宮跡(三重県明和町)」から西の淡路島「伊勢の森」に至る北緯34度32分の線上に、なぜか太陽信仰に関わる寺社や遺跡が多く連なっていることを発見する。
 地図や磁石のない時代に、古代人はどのようにして東西200kmにわたるまっすぐな線をひくことができたのか? 氏は、太陽の出没を観測し、暦の決定、方位の決定、測量等をおこなう古代の技術者集団がいたとする大胆な仮説を提唱する。

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 この小川氏が提唱する「太陽の道」を検証するドキュメンタリー番組が「知られざる古代〜謎の北緯34度32分をゆく」である(残念ながら私はこの番組を見ていない)。
 当番組のディレクター・水谷慶一氏は、問題の緯度線上にある寺社、遺跡を検証していくなかで、淡路島の「伊勢の森」が、北緯34度32分の線上から南に3.6kmほど外れていることに気づく。これくらいの誤差は止むを得ないとも思うが、周辺の寺社を調べていて、同じ線上に、伊勢の名を冠する伊勢久留麻(くるま)神社(淡路市久留麻)を見つける。さらに地元の協力者から同線上の舟木地区に、まだ本格的な調査が行われていない、秘めやかな巨石遺跡があることを教えられる。

 俄然興味をかき立てられた水谷氏は、さっそくそこに出かけようとするが、地元の人からあそこはハメ(マムシ)の宝庫で、秋の今時分がいちばん危険だと止められる。それでも取材陣一同、マムシの危険をかえりみず、ハメよけの長靴をはいて出発する。
 水谷氏の著書「知られざる古代〜謎の北緯34度32分をゆく」(日本放送出版協会、1980年)に、今から38年前の当地の様子が記されている。

 「舟木の石上神社は、まさしく巨大な石の記念碑であった。人の背丈の二倍はゆうに越すと思われる岩がいくつもそそり立ち、そのまわりにやや背が低くずんぐりした岩がおよそ三〇メートル四方にわたって散らばっている。照葉樹の厚い葉にさえぎられて陽はほとんど射さない。ひんやりと湿った空気が澱んだあたりに名も知らぬ茸が生え、そのかげから今にもハメ(マムシ)が跳び出そうな気配である。女人禁制ならずとも、よほどもの好きな女性でないかぎりめったに近づくようなところではなかった。
 しかし、遺跡の一隅に小さな御幣のようなものがたくさん立てられ、かわらけ(土器)が散乱しているところを見ると、やはりいまだに信仰がつづけられているのだろう。富永氏(当時の北淡町歴史民俗資料館館長)の話では、舟木の村人がコージンサンを祭っているのだという。」

 当時の石上神社は、マムシの宝庫と恐れられ、樹々と下生えが密生した、あまり人の訪れないところであったようだ。テレビ放送によって一躍その存在を知られるようになり、周囲も整備されていったのだろう。今では、車一台がやっと通れる細い道だが、神社の前まで車で行くことができる。境内も鬱蒼とした、むっとするような雰囲気はなく、それなりに手入れはされているようだ。

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 舟木の地名については、古代の造船技術者集団・船木氏との関わりが指摘されているが、山のなかに造船集団が住んでいたとは思えない。おそらくは船の用材を伐り出し、供給していた地にちなむものと思われる。

 石上神社の周囲には、弥生時代後期(2世紀後半)の山間地集落遺跡「舟木遺跡」があり、近年の発掘調査で注目すべき遺構や遺物が次々と発見されている。
 遺跡は標高150〜190mの山間地にあって、広さは東西500m、南北800mにおよぶ。発掘調査は平成2年(1990)から行われ、直径約10mの大型竪穴建物跡や大量の製塩土器と、古代の中国・後漢時代に作られた青銅鏡の一部が見つかっている。

 平成28年からの調査では、新たに4棟の大型竪穴建物跡が見つかり、うち1棟から4基の炉の跡が確認された。また4棟すべてから鉄器製作に使ったとみられる多数の石器と鉄器57点が見つかっている。
 鉄器工房の規模としては、当遺跡より南西約6kmの地点にある弥生期最大級の鉄器製造集落で国史跡の「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」(淡路市黒谷)を上回る国内最大規模の可能性もあるという。
 つづく平成29年の調査では、魚を突くための鉄製ヤスや釣り針等の鉄製品104点と鍛冶工房とみられる竪穴建物跡などが見つかった。鉄製ヤスは九州北部や山陰地方での出土例があるが、近畿地方や瀬戸内海沿岸地域で見つかるのは初めてだという。

 当地に鉄器工房のあった時代は、倭人伝に登場する邪馬台国の時代と合致する。邪馬台国畿内説の弱点として、北九州に比べて鉄器の出土が少ないことが指摘されているが、当遺跡の発見により、畿内勢力も相当量の鉄を握っていたことの傍証になるといわれている。畿内説派にはうれしいニュースとなった。

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 石上神社に関する文献はほとんど見られず由緒は明らかではない。祭神については、案内板に太陽神の本体として天照皇大神と大日如来を勧請して祀っていると記されているが、神社の形態からみて当社が勧請型の神社であるとも思えない。これはテレビ放送後に想定された祭神ではないだろう。それ以前に祀られていた古い神は、水谷氏の著書にある「コージンサン」=「荒神様」であったと思われる。荒神様は、その土地に鎮まっている土俗の神のことで、村落の守護神、一族の氏神として信仰され、屋内では、かまどなど火を使う場所に祀られている。
 当社に残る「女人禁制」のしきたりは、荒神様が不浄を忌み嫌い、祟りやすいとされる属性からきているものと思われる。当社の女人禁制がどの程度厳格に守られているのかは不明だが、このような因習が今なお残されているのは、しきたりを破れば災いをもたらすという、人知を超えた畏怖の念がいまだに根付いているためだろう。

 鳥居をくぐり20mほど進むと、なだらかな丘陵の斜面に高さ約2m、横幅約3mほどの巨石が、拝殿の屋根に覆いかぶさる形で横たわっている。これがご神体石だろう。拝殿の背後にも、半径10mほどにわたって大小さまざまの岩が散見している。神社周辺から祭祀に使われたと思われる大型の弥生時代後期の器台形土器が見つかっている。このあたりが古代山間地集落の中核をなす祭祀場であったみて間違いないだろう。

 「太陽の道」説にもどると、石上神社は日本の太陽神である天照大神を祀るために、きわめて高度な測量技術をもった集団によってつくられた祭祀場ということになる。しかしながら、近年の発掘調査により、当社の巨石遺跡は、鉄器を生産し、広範なネットワークをもって交易をおこなう「海の民」によって祀られた可能性が高まっている。
 舟木遺跡のさらなる発見によって、石上神社の見方は、下の案内板から大きく変わってくるのではないだろうか。

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2018年5月9日 撮影

石鳥居の脇に赤い文字で「女人禁制」と刻まれた
自然石が置かれている。




女性用参拝路の奥にある稲荷社。


地元では「舟木石神座」とも呼ばれている。石上神社の案内板。