東京湾の出入口、洲崎の岬突端に鎮座する洲崎神社の御神石。


御神石。三浦半島に鎮座する安房口神社のご神体と「阿吽」の関係で対をなす結界石と考えられている。


御手洗山の中腹に鎮座する洲崎神社。
注連縄が掛けらた神明鳥居の後方に随神門、その後ろに「厄祓坂」とよばれる石段がつづいている。


洲崎神社拝殿。本殿は三間社流造で銅板葺。延宝年間(1673〜1681)の造営とされる。


洲崎神社に隣接する養老寺の役行者の岩屋。岩屋には開祖とされる役行者の石像が祀られている。
 房総半島の突端、一ノ宮の安房(あわ)神社から北西に10.3km、浦賀水道に突き出した洲崎の岬に鎮座するもう一つの安房国一ノ宮・洲崎(すのさき)神社に向かう。一ノ宮は、原則的に令制国1国あたり1社を建前としているが、安房国にはなぜ一ノ宮が2つあるのだろう?

 鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によると、平安時代末期の治承4年(1180)、相模の石橋山の合戦で大敗を喫した源頼朝(みなもとのよりとも)は、海路安房に逃れ、洲崎明神に参詣して源氏再興を祈願した。その後、頼朝は安房において再挙し、平家討伐を成功させたことから、洲崎神社は、再起・再興の神様として坂東武士の崇敬を集めるところとなる。
 江戸時代後期の文化9年(1797)、房総半島を巡視した筆頭老中・松平定信が当社に参詣し「安房國一宮洲崎大明神」の扁額を奉納された。以後、この扁額が安房国一ノ宮の根拠となり、安房国に2つの一ノ宮が存在することになったという。

 また『延喜式』神名帳には、安房国安房郡に「后神天比理乃v命神社 大 元名洲神」と記されており、大社・天比理乃v命(あまのひりのめのみこと)神社は、元の名を洲ノ神(すさきのかみ)と称したと記されている。洲崎神社は、この天比理乃v命神社の論社の1つであるが、もう1つの論社とされる洲宮(すのみや)神社(館山市洲宮)との間で、どちらが式内大社であるか、江戸時代から紛議が絶えなかったという。
 明治5年(1872)神祇を管轄する教部省は洲宮神社を式内社と定めたが、翌6年にこの決定を覆して洲崎神社を式内社とした。ただし、決定の論拠はあまり明白でないとされている(『日本の神々』11 関東・白水社)。

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 洲崎神社の参道は、県道257号線をはさんだ東西約320mにわたり、太平洋に面した洲崎の海岸からはじまっている。社殿は山側にあり、二の鳥居をくぐり、随神門から「厄祓坂(やくばらいざか)」とよばれる148段の石段を上った御手洗山(みたらしやま、110m)の中腹に鎮座している。
 祭神には、安房神社の祭神で忌部(いんべ)一族の祖神・天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后(きさき)神・天比理乃v命が祀られている。

 海側の参道には、浜の鳥居の50mほど先に「御神石」とよばれる不思議な石が祀られている。長さ約2.5mの丸みを帯びた黒っぽい石は、あきらかに付近の岩質と異なっており、どこかからこの地に運ばれてきたものと思われる。
 石碑に記された由緒には、神石は、その昔(1)飛鳥時代の呪術者である役行者(えんのぎょうじゃ)が飛来し、海上安全のために、一つを洲崎の地に、一つを現在の横須賀市吉井の地に置いていったという伝承と、(2)竜宮より一対の大きな石が洲崎明神に献上されたが、ある時、その一つが天太玉命(安房神社の御祭神)の御霊代として東国鎮護のために吉井の地に飛んでいったという2つの伝承が記されている。
 吉井の地に飛んでいったとされる神石は、対岸の三浦半島にある安房口(あわぐち)神社(神奈川県横須賀市吉井、祭神は天太玉命)のご神体として祀られている。2つの神石は互いに向かいあって置かれ、安房口神社の石は、先端に丸いくぼみがあることから「阿形(あぎょう)」に、洲崎神社の石は、口を閉じたような裂け目があることから「吽形(うんぎょう)」にたとえられている。あたかも東京湾の入り口両脇に配された狛犬のように、「阿吽(あうん)」で対をなす結界石と考えられ、信仰されているのだろう。

 洲崎神社眼前の海は、外洋と内海を分ける位置にあり、岬の沖合は「汐のみち」ともよばれ、昔から海の難所として知られていた。また、海上交通の関所ともいうべきところであるため、沖を通る船に奉賽を納めさせる風習は戦前まであり、航海安全を祈願した絵馬が数多く奉納されていたという。

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 当社の縁起には、御神石のほかにも役行者にまつわる伝承が多く見られる。
 社伝によれば、養老元年(717)、大地変によって山が崩れ、境内にあった鐘ヶ池が埋まってしまい、池に棲み、水底に沈んでいる鐘を守っていた大蛇が人々に災いを起こす。そこで役行者にたのみ、七日七夜の祈祷をおこない、大蛇を退治して災厄を逃れることができたという。

 また、当社に隣接する真言宗智山派の寺院・養老寺の境内には「役行者の岩屋」とよばれるやぐら(矢倉)状の岩窟があり、祠の中には石造りの脇侍(きょうじ)を従えた役行者の石像が祀られている。さらに境内には、役行者の霊力で湧いたという独鈷水(どっこすい)も残されている。
 この岩屋は、江戸時代後期の読本・曲亭馬琴が著した長編伝奇小説『南総里見八犬伝』にも登場する。岩屋にお参りした里見義実(よしざね)の娘・伏姫(ふせひめ)に、役行者の化身とされる翁(おきな)が、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の8つの数珠(じゅず)を授ける舞台となっている。

 養老寺は、江戸時代まで洲崎神社の別当寺で、開祖は役行者と伝えられている。本尊には洲崎神社の本地仏である十一面観世音菩薩立像が祀られている。

 民俗学者の五来重(ごらいしげる)氏は、修験道は山にだけあるのではなく、海辺にも「海の修験」とよばれる修行形態があり、海神や龍王や観音あるいは星が礼拝の対象になっていたと指摘している。
 東京湾の守り神とされる御神石が、いつ誰の手によって置かれたものかは明らかでないが、当社に伝わる役行者の縁起に影響を受けて、このような伝説が残されたのだと思われる。片手落ちにならないよう、近々対岸の安房口神社を訪ねてみたい。

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2018年12月15日 撮影



「一宮洲崎大明神」と記された洲崎神社の社名碑。
文政3年(1820)に吉祥院の別当賢秀によって設置された。

「御神石」が置かれている安房口神社と須崎神社の位置図。