豊玉姫命を祀る船越鉈切神社の参道。


標高約25mの海岸段丘に鎮座する船越鉈切神社。


船越鉈切神社の拝殿。拝殿右側を入ると鉈切洞穴の入口がある。開口部には格子があり洞穴内に入ることはできない。


洞穴内の本殿。洞内から発掘された出土品の一部は館山市立博物館で公開されている。昭和42年に県指定史跡。


境内の岩場に祀られている浅間様の祠。この岩にも、なにかいわくがありそうに思える。
 房総半島の南端、館山湾の海岸沿いを走る県道257号線(房総フラワーライン)をはさんで、山側に船越鉈切(ふなこしなたぎり)神社、海側に海南刀切(かいなんなたぎり)神社が祀られている。かつて2つの「なたぎり神社」は一社一神と見なされ、浜田地区の船越の宮を上ノ宮、見物(けんぶつ)地区の鉈切の宮を下ノ宮とよばれていた。

 すでに時刻は15時を過ぎていた。明るさを考慮して先に船越山の麓に鎮座する船越鉈切神社を訪ねることにする。一の鳥居をくぐると右手に力石、二の鳥居をくぐると五輪塔が浮き彫りにされたやぐら(矢倉)があり、ゆるやかな石段を上ったその奥に、千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)が施された拝殿が見える。あたりはすでに薄暗い。スダジイやタブノキなどの常緑広葉樹林に囲まれた境内は、森閑と静まりかえっている。

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 船越鉈切神社の本殿は、拝殿背後の「鉈切洞穴」とよばれる海蝕洞穴の中にある。自然にできた鍾乳洞や海蝕洞を、ご神体として祀った例は各地にみられる。当社もこうした神社の一つだろう。
 洞穴は標高約25mの海岸段丘にあり、およそ6000年前の縄文海進時に、凝灰質の岩盤の軟質な部分が侵食されてできた海蝕洞穴の一つである。洞穴の入口は高さ4.19m(最高部)、幅員5.85m、最奥部までの距離は36.8mとかなりの奥行きであるが、伝承によると洞穴はさらに奥深くまで続いているという。
 昔、一人の修験者が、一匹の犬をつれてこの洞穴に入っていった。幾日たっても修験者は帰ってこない。数10日後、約8km離れた館山市犬石の洞穴から、犬だけが血まみれになって出てきたが、外気にふれると犬はそのまま石になったという。現在、犬石には犬の石像が祀られている。

 昭和31年(1956)10月、拝殿の建築工事に伴い発掘調査が行われ、洞穴内から縄文時代後期(約4000年前)に属する称名寺式・堀之内式などの土器や、動物や魚の骨、鹿の角や動物の骨で作られた漁の道具が多数出土した。調査の結果、魚の種類はわかったもので約50種、漁具は釣鈎(つりばり)や刺突(しとつ)具、網の錘(おもり)など内容に富んだものであった。洞穴に住んでいた縄文人が、多様な漁法を身につけていたことがうかがえる。
 また、古墳時代には一部が墓所として利用されており、中世期の人骨も出土している。その後は海神である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀る神社として、地元漁民の信仰対象となり、現在に至っている。

 水戸藩主徳川光圀(みつくに)の命により編纂された歴史書『大日本史』には、鉈切洞穴の奥に10艘以上の丸木舟が置かれていたとの記録がある。そのうちの一艘と思われる独木(まるき)舟は、社宝として拝殿前にある宝蔵に収められている。


船越鉈切神社のやぐら。
地元では、長者夫婦の墓と伝えられている。


船越鉈切神社の境内図。


海南刀切神社。鮮やかな朱の鳥居と社号標。


見事な龍の彫刻が刻まれている海南刀切神社の拝殿。


海南刀切神社。社殿の裏の巨石。


海南刀切神社のご神体石。神様がこの地に上陸した時、手斧で切り開いたものと伝えられている。


海南刀切神社。横向きのカニ歩きで、通り抜けることができる。
 もう一つのなたぎり神社、海南刀切神社のご神体は、拝殿の背後にある大岩礁である。浜に迫って峙(そばだ)つ高さ約10mの断崖が、約1mの幅で真っ二つに割れていることから、「なたぎり神社」の名称の起こりといわれている。

 『千葉県安房郡誌』(大正15年発行)には、「傳へ曰ふ、古昔此の神獨木舟(まるきぶね)に乗りて、此の海濱に来り、鉈を以て巨巖を切り路を開いて上る。故に一神にして船越鉈切の二名ありと。」記されている。
 獨木舟に乗ってやってきた神さまが、この浜に上陸した際、巨岩を一刀両断のもとに切り開き、道を通じたというもので、さらに、
 「又曰く、古紫池と云へるあり。中に巨蛇潛伏し、往々出でゝ人民を惱ます。此の時相模より獨木舟に乗りて渡る神あり。一刀を以て大蛇を退治し給ふ。故に刀切神と號すと。相州三浦郡楫谷山神社記に、安房刀切神社は當神の御子を勸請せりと見ゆ。」とあり、
 この神さまは、対岸の相模から来て、この地で良民を苦しめていた大蛇を、一刀のもとに退治したことから、刀切神とよばれていたという。

 また、『日本伝説叢書 安房の巻』(大正8年発行)には、「昔昔、そのまた昔の太昔、鉈切明神(なたぎりみょうじん)は、此地に渡られて、先ず、使神(ししん)をして霊区を求められたところ、使神は、今の上(かみ)の祠(みや)の側にある大なる洞窟に入つたまゝ、遂に復命しないので鉈切主神は、大に怒られて、其窟に至られ、窟口に命ぜられたけれども、遂に使神は出て来ないので、止む事を得ず、一旦下の祠を領して、洞窟の探険に入られたところ、洞窟には、使神は既にあらずして、凄じげなる大蛇が蟠居(はんきょ)してをつたので、主神は、之を斬殺し給ひ、かたがた民害を除き給ふた。舊伝(きゅうでん)に、手斧切(なたきり)明神は、稲田姫を祭るといへるもの、恐らくは船越の宮(上の祠)の方で、明神は、今も下の祠に祀られている。一説には、上の祠は、明神の使神を祀るともいっている。」とある。

 これによると大蛇は、先に訪れた船越鉈切神社の「鉈切洞穴」に棲んでいたとされている。現在の海南刀切神社の祭神は刀切大神(なたぎりのおおかみ)で、船越鉈切神社には海神である豊玉姫命をお祀りしているが、かつては同じ神で、刀切大神が祀られていたと思われる。なぜ、祭神が別けられ、2つの神社となったのかは、よく分かっていない。

 岩礁の割れ目は、横向きのカニ歩きで通り抜けることができる。通り抜けた先には、鬱蒼とした茂みが横たわっており、木々の隙間からまばゆく輝く館山湾の海が見渡せた。
 水平線にただよう船影をながめていると、独木舟の乗ってやってきた神が、ここから上陸し、岩礁を割り、鉈切山の洞穴に進んでいく光景が、蜃気楼のように浮んできた。

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2018年12月15日 撮影

海南刀切神社の境内図。
毎年7月に行われる雨乞いの農耕儀礼「かっこ舞」は、
市の無形文化財に指定されている。



海南刀切神社。ご神体石の背後から館山湾が見渡せる。