久須美・白鬚神社の両部鳥居。近江・白鬚神社の琵琶湖に浮かぶ鳥居を模したものだろうか。


境内末社の八坂神社(正面)。左に見えるのが拝殿。


磐座に食い込むように建てられている八坂神社。


元は1つの石だったが、長い歳月の間に砕けてしまったように見える。


石質は飯能市域に多く見られるチャートと思われる。


周囲にこのような巨石群は見られない。名栗川で発生した土石流によって運ばれたものだろうか。
 埼玉県内には30を超える白鬚(髭)神社があるという。「埼玉県神社庁」のホームページによると、白鬚(髭)神社は入間地区の13市町村に集中しており、なかでももっとも多いのが飯能市でその数は8社。続いて川越市4社、狭山市3社、日高市2社、入間市2社、坂戸市2社、鶴ヶ島市1社で、計22社となっている。
 これら旧高麗郡内の白鬚神社の鎮守として知られているのが、日高市に鎮座する「高麗(こま)神社」だ。ここには高句麗から渡来し、この地の開拓に尽力した高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)の霊が祀られている。

 『日本書紀』天智天皇5年(666)10月条に、高句麗から派遣された使節のなかに「玄武若光」なる人物の名が記されている。ついで『続日本紀』大宝3年(703)3月条に「従五位下の高麗若光に王(こきし)の姓(かばね)を賜う」の記述がある。
 紀元前頃から約700年つづいた高句麗が、668年に新羅と唐の連合軍によって滅ぼされていることを考えると、『日本書紀』『続日本紀』に記された「若光」の名は同一人物と推定される。

 若光の渡来から半世紀を経た霊亀 2 年(716)、朝廷の命により、駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)上総・下総(千葉)、常陸(茨城)、下野(栃木)の7国から、高句麗人1799人を武蔵国に移し「高麗郡」が創設される(『続日本紀』卷第7)。このとき、若光は武蔵国に移り住み、高麗郡の首長として当地の開拓の任についたとされている。

 若光の生没年は不詳だが、仮に20歳で来日したとすれば、すでに70歳前後だったと思われる。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を祀り、守護神とした。これが高麗神社創建の由来となっている。若光は、晩年白鬚をはやしていたことから「白鬚様」と呼ばれ、高麗神社は別名「白鬚神社」あるいは「白鬚明神」とも称されていた。高麗郡内に点在する白鬚神社は、高麗神社の分社ともいわれている。

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 久須美(くすみ)の白鬚神社は、かまど山(293m)南麓の緩やかな傾斜地にあって、すぐ前には県道70号線、その先には名栗川(入間川上流)が流れている。当社の創建に関する記録は、天明7年(1787)12月の火災により焼失し、詳細は不明。主祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)で、摂末社八坂神社に素盞鳴尊(すさのおのみこと)、白山神社に菊理媛命(くくりひめのみこと)、稲荷神社に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られている。

 境内には朱塗りの両部鳥居が立ち、その正面に入妻造りの拝殿がある。拝殿の前には自然石によって組まれた石灯籠と手水鉢。その右側に、名栗川の氾濫によって運び込まれたと思われる巨石が複数鎮座している。石質は、飯能市域でよく見られるチャートで、高さは4mほどあるだろうか。
 本殿は、拝殿の中に置かれている。飯能市郷土館からいただいた資料『埼玉の神社』(発行=埼玉県神社庁)によると、一間社流造りの本殿のなかには、長さ33.8cm、直径14cmほどの石棒(せきぼう)1本と石塊2個が安置されているという。

 石棒は、縄文時代中期以降にみられる丸棒状の磨製石器で、男根を模したその形態は、祖霊信仰のシンボルとして呪術・祭祀に関連した遺物と考えられている。道祖神や賽(さえ)の神、岐(ふなど)の神などと呼ばれる神社や祠のなかに、石棒をご神体として祀るものが各地に見受けられる。明治期に、淫祠邪教を戒める法令が施行され、はるか古来からの土着信仰を低俗なものと否定して、撤去処分された歴史もある。

 当社の石棒がどこで見つかったものかは明らかでないが、当社の北西200mほどのところに縄文時代の集落跡「上野平長割間(ながわりま)遺跡」があるという。おそらくこのあたりから出土したものではないだろうか。

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 それにしても、石棒を祀る当社と先に紹介した高麗神社の関係が、今ひとつ見えてこない。さらにまた、白鬚神社の総本社は、滋賀県高島市に鎮座する「白鬚神社」であるともいわれている。勧請はその神の根源とされる神社から行われるものだが、高麗郡内の白鬚神社は高麗神社、あるいは近江国の白鬚神社のどちらから勧請された神社なのか。その勧請の年代や事情についてが、今ひとつ分かりにくい。

 近江国「白鬚神社」のページでは、「白鬚」の「シラ」は、新羅の最初の国号「斯盧(シラ)」の意であり、斯盧(シラ)国から新羅(シラ)国へと国号が変わる過程で「シラギ」に転訛して「白鬚」になったと記している。
 白鬚神社が新羅系渡来人の祀る神社であることは、もはや定説となっている。高句麗系渡来人である若光が、なぜ敵対し、滅ぼした国の神社と同じ「白鬚」を名乗り、祀られているのだろう。近江の白鬚神社を訪ねた者としては不可解な疑問が残る。

 古代史研究家の金達寿(キム・タルス)氏によると、高麗郡創設(716年)以前の持統天皇元年(687)や4年の条に「新羅人を武蔵に」住まわせたという記述が『日本書紀』にあり、天平宝字2年(758)には、旧新座郡の前身である新羅郡(現在の志木市・朝霞市・新座市・和光市など)が設置されている。こうしたことから、新羅系の白鬚神社のうえに高句麗系の高麗神社が重層的に重なり合った。と見ておられるようだ。

 しかし当社においては、渡来系の神々が重層するはるか以前、神社がつくられるはるか以前から、この地域の聖地であり、巨大な石塊(磐座)を中心とした共同の祭祀場だったと考えられる。
 おそらくは、石棒をご神体として久須美集落の祖神を祀ったのが神社創祀のはじまりで、のちに高麗神社の若光、白鬚神社の猿田彦命が入りこんできたものと思われる。他の高麗郡内の白鬚神社については不明だが、ともかくこの神社には、縄文時代までさかのぼる磐座信仰の気配が揺曳(ようえい)している。

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2017年12月16日 撮影



自然石で組まれた石灯籠。


末社の稲荷社。右に白山社がある。

拝殿内部に置かれた一間社流造りの本殿。本殿のなかに石棒と石塊2個が安置されているという。