尾針(おはり)神社は、岡山市北区京山の住宅街の一画にあり、境内のすぐ隣には4、5階建ての茶色い外装のマンションが建っている。朝からの雨のせいか、境内に人影はなく森閑と静まり返っている。一見したところでは、これといって特徴のない、ありきたりの村社のように見えるが、当社はれっきとした平安時代の延喜式に記載のある式内社(論社)である。
しかし、江戸時代には式内社尾針神社の所在は不明であったという。亨保6年(1721)編の岡山藩の地誌『備陽記』に当社の記載はなく、元文4年(1739)編の『備陽国誌』にも、式内社尾針神社について「今廃りて何れの所といふをしらず」と記されている。
当時の式内社比定社として、酒折宮(さかおれぐう、現在の岡山神社)、御野郡(みのぐん、現在の岡山市中心市街地)の半田山本宮、上伊福村の別所栗岡宮(現在の尾針神社)などが挙げられていた。
当社が尾針神社の論社となったのは、明治3年に岡山藩により編纂された『神社明細帳』によるもので、ここに御野郡上伊福村別所の栗岡宮の相殿に、天火明命(あめのほあかりのみこと)を祭神とする尾針神社があることが記されており、当社が、明治初年まで「栗岡宮」と呼ばれていたことから論社とされ、のちに栗岡宮が尾針神社と改号されたという。
当社の創建年代は詳らかではない。当地一帯は、かつて「 備前国御野郡伊福郷 」 と称され、この地に住む伊福部氏の祖神とされる天火明命を祀ったことが、当社のはじまりとされている。伊福部氏は、古代豪族・尾張氏の系統に属する氏族とされており、産銅もしくは産鉄に関係する氏族であったと考えられている。
民俗学者の谷川健一氏は『青銅の神の足跡』のなかで、「伊福」の地名は、濃尾平野に吹き込む西北西の寒風「伊吹おろし」からきたもので、たたらまたはふいごをもって、強い風を炉におくるさまを示したものとしている。
美濃・尾張の尾張氏とその氏族・伊福部氏が、いつごろ当地に移住してきたのかは不明だが、尾針の社名は「尾張」から、御野の地名は「美濃」から転訛したものと考えられる。
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尾針神社は、南北120m、東西約40mの小さな丘陵地の上に鎮座している。境内の入口は南側にあり、石の鳥居をくぐり石段を上がると神門、その奥に拝殿、本殿は三間社神明造で周囲には瑞垣が配され、その背後に境内社の祠が5つの並んでいる。
境内社の先に小さな社叢があり、入口に「史蹟 磐境の遺跡」と記された案内碑が立てられている。三方を木立に囲まれた社域のなかには、長さ約6m、高さ約1.6mの船形石と、やや小さい同型の石が、南北線上に並び、これを取り囲む形で大小10数個の石が点在している。
当社境内の東側斜面から土師器・須恵器が出土しており、すぐ南の県立岡山工業高校の敷地内からは、弥生時代後期から中世にかけての多くの遺構・遺物が出土している。また、北東約1kmには弥生時代前期の集落と水田跡が発掘された「津島遺跡」もあり、この辺りに古くから人々が住んでいたことがうかがえる。
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当社の磐座群で、どのような祭祀が行われていたのかは不明だが、『吉備の古代史事典』の著者・薬師寺慎一氏は、当社のすぐ西にある京山(きょうやま)の遙拝所ではないかと推察されている。
京山は標高82.2m、東西約0.9km、南北約1.2kmの小さな独立峰で、神社側から眺めるとたしかに円錐形の美しい山容を呈している。山頂には、平成10年(1998)まで「京山ロープウェイ遊園」があり、展望台があった「京山タワー」や観覧車は、岡山市内の各所から眺められるメルクマール的存在であったという。
薬師寺氏は、「イワクラから、真西に見える聖なる京山に沈む春分・秋分の太陽を拝んでいたという構図が考えられる」という。当社の祭神・天火明命 (あめのほあかりのみこと)は、別名を火明命(ほあかりのみこと)・天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)と呼ばれ、その名前からもわかるように、太陽を神格化した神とされている。古代においては、太陽信仰と神体山信仰が結びついているので、氏の説にはうなずけるものがある。
しかし京山の山頂には、現在は崩されてしまったが古墳があり、南東丘陵頂部(京山1丁目、池田動物園の南)には、古墳時代前期の前方後方墳である津倉古墳(墳長約39m)がある。神体山信仰は祖霊信仰にも結びついている。
遥拝の対象は「山」であったのか、「墓」であったのか?。どちらにしても、当社の社殿が建てられる以前から、京山と何らかのかかわりを持った信仰空間であったことは、ほぼまちがいないだろう。
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2017年4月26日 撮影
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昭和48年(1973)に改築された本殿。
杜殿は、すべて昭和になってから再建された。
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