水門湾の最奥部に鎮座する亀石神社。地元では「亀岩さま」と呼ばれている。


瀬戸内ののどかな風景も楽しめる。


珍彦命が乗っていた大亀の化身と伝えられる。


海に迫り出すように建てられた長床式の拝殿。扁額には「亀岩宮」と記されている。
 その名のとおり、亀の形をした岩をお祀りする「亀石(かめいわ)神社」は、児島湾と吉井川河口の東側、水門町を流れる千町川(せんちょうがわ)が、水門湾に注ぐ河口部東の海辺に鎮座している。

 境内は狭く、海辺の小さな砂浜には、石の鳥居と灯篭2基、海に迫り出すかたちに建てられた吹き通しの長床式拝殿と、水際の玉垣に海に向かって頭をもたげる長さ1.8mほどの亀石があるのみ。いささか殺風景な佇まいだが、正面には水門湾をはさんで児島半島の山並みが見晴らせる。おだやかな瀬戸内の景色と相まって、海辺の街の長閑な空気を感じられる。
 私が訪ねた時は、亀石はかろうじて浜に浮き上がっていたが、満潮時には背中付近まで水が押し寄せ、あたかも本物の亀が海に浮かんでいるように見えるという。

 この亀石、地元では「亀岩さま」と呼ばれ親しまれているが、動かすと災いをもたらす「祟り石」でもあるという。江戸時代中期、岡山藩主の池田綱政公が、後楽園の庭石にしようと船で運び出したところ、旭川の河口で船が動かなくなってしまう。あきらめて海に投げ捨てると、夜な夜な光を発するなど不思議なことが続出したという。恐れをなした綱政公は、急いで石を元の場所に戻したという話が伝えられている。
 また、イボ取りの霊石としても知られており、イボに悩む者は、玉垣の中にある小石を借りてきて、イボを撫でこするとイボが取れるという。さらに、胃病などの「イ」のつく病気すべてにも霊験があるという。治ったときには、借りた石と同じような石を探してきて、2つにしてお返ししなければならないといわれている。

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 当社の祭神は、珍彦命(宇豆毘古命、うづひこのみこと)、海童神(わだつみのかみ)の2柱で、神社社記によると、神武天皇東征のおり、吉備の速吸門(はやすいのと)に来たとき、大きな亀に乗った釣り人が現れて、神武天皇の水先案内をする。このときの大亀が化身し岩となり、当社のご神体となったと伝えている。

 『古事記』および『日本書紀』なかに、上記由緒の元型となった神武東征神話が残されている。
 神武天皇(このときは神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)と呼ばれている)45歳の時、塩土老翁(しおつちのおじ)より「東方に美しい国があり」と聞き、そこで「安らかに天下の政(まつりごと)を執り行なおう」と仰せられ、ただちに兄の五瀬命(いつせのみこと)とともに東征の旅に出た。軍舟を率いて日向(ひむか)の国を出立し、豊国の宇沙(宇佐)、筑紫の岡田宮、安芸の多祁理宮(たけりのみや)を経て、吉備の高島宮(現岡山市南区宮浦の高島神社とされているが未詳)に8年滞在した(日本書紀では3年と記されている)。
 その高島宮から東征を進める際、潮の早い速吸門(はやすいのと)において、亀の甲にのって釣りをしながら、左右の袖を振って進んでくる人に出会う。「お前はだれか?」と尋ねると「私はこの土地の神で、名は字豆毘古(うずひこ)と申します」と答え、「お前は海路を知っているか?」と尋ねると「よく存じております」と答える。神武天皇は字豆毘古に水先案内をたのみ、波の荒い浪速の渡(なにわのわたり)を越えて、波静かな河内国の白肩の津(しらかたのつ)に碇泊したとある。

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 社地のすぐ背後(北側)には、標高20mほどの小高い山・東幸島山(通称:宮山)の山裾が迫っている。近世以前、このあたりには浅い海が広がり、東幸島山や千町川対岸の西幸島山は海に浮かぶ島であったという。
 たぶんこの亀石は、東幸島山から崩れ落ちた転石ではないかと思われるが、近世以前であれば海の底に沈んでいたはずで、海から顔を出したのは江戸時代に入ってからのことだろう。
 石を動かそうとした池田綱政公の伝承や、当社の初見に宝暦9年(1759)の記載が残されているということから、当社の創建は江戸前期〜中期頃のことではないかと思われる。

 神武東征を史実とするかはともかく、江戸期に顔を出した亀石が、神武東征神話を受け継いで現代に伝えていることは貴重である。
 毎年旧暦6月15日の夜には、船の帆柱に提灯を山形に飾りつけた「シャギリ船」が、笛や太鼓をにぎやかに奏しながら湾内を巡回する「亀石まつり」が盛大に行われている。いにしえの「吉備の穴海」を舞台とした、神話時代にさかのぼる夏の風物詩といえるだろう。

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2017年4月28日 撮影



案内板


満潮時には亀の甲羅あたりまで水がくる。