大松山の中腹にある石上布都魂神社 社殿。


大正4年に造営された本殿。


44段+18段の「迫龍の階段」を上ったところに本宮がある。


大松山山頂の磐座。石上布都魂神社のご神体とされている。


磐座の周辺には結界が張られ、禁足地となっている。


大和の石上神宮では、剣は禁足地に埋納されていた。当社でも、剣はこの磐座周辺に埋められていたのだろうか。
 石上布都魂(いそのかみふつのみたま)神社は、赤磐市石上(いそのかみ)の大松山中腹に鎮座し、『延喜式』神名帳の備前国赤坂郡「石上布都之魂神社」にあたるとされている。

 現在の社殿は、大松山山頂(標高約250m)にあった社殿が、明治43年(1910)の大火により焼失したため、大正4年(1915)に中腹の現本社に再建されたもの。山頂の旧社地に設置された案内板「寛文九年(1669) 綱政公創設時之絵図」(右図)によれば、かつてこの山上に、本殿や幣殿、拝殿、さらに神楽殿まで建てられていたようだ。この社殿を創設した綱政公とは、江戸時代中期の備前岡山2代藩主・池田綱政のことで、日本三名園のひとつである岡山後楽園を造営したことで知られる人物である。

 山頂の本宮(旧社地)には、本社境内の左手から山道を約500m、15分ほど登っていく。赤磐市惣分の「岩神のゆるぎ岩」にくらべれば、参道は整備されておりこちらの方が登りやすい。
 低山とはいえ、ここまで登ると視界は開け見晴らしも良い。鬱蒼とした樹海の先に、遠く岡山市方面の山々が見渡せる。

 山頂には巨石を配する磐座が鎮座しており、当社のご神体として崇められている。磐座の前には一段高くなった石垣が設けられ、本宮仮殿が置かれている。磐座のどこかに「イボ落としの霊水」と呼ばれる水の溜まる窪みがあるそうだが、磐座周囲は禁足地となっており、探すことはできなかった。

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 現在、当社の祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)とされているが、江戸後期の寛政年間(1789〜1801)に岡山藩士・大沢惟貞が編纂した『吉備湯古泌録』によれば、素盞嗚尊が八岐の大蛇(やまたのおろち)を斬った剣「布都御魂(ふつのみたま)」が祭神とされ、明治3年(1870)の『神社明細帳』『延喜式内神社・国史見在之神社』では「十握剣(とつかのつるぎ)」が祭神と記されている。現在の素盞嗚尊に変更にされたのは明治6年のことで、郷社に列格するにあたり御魂(剣)を祭神とすることがタブー視されたためといわれている。

 この剣の所在について、『日本書紀』巻一神代上の一書には「その蛇(おろち)を断(き)りし剣をば、号(なづ)けて蛇之麁正(おろちのあらまさ)と曰う。此は今石上(いそのかみ)に在り」とあり、さらに別の一書には「その素盞嗚尊の、蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部(かむとものを、神官のこと)の許(ところ)に在(ま)す」と記されている。
 ようするに、大蛇を斬った十握剣は、「石上」および「吉備の神部」の地にあり、その最有力比定地とされているのが、この石上布都魂神社なのである。

 十握剣は、別名「蛇之麁正」「蛇の韓鋤(おろちのからさひ)」「天羽々斬剣」(あめのはばきりのつるぎ)「蛇之韓鋤」(おろちのからさび)「天蠅斫剣(あめのははきりのつるぎ)」などと呼ばれているが、当社の由緒では、布都御魂神と十握剣は異名同神と考えられているようだ。

 この霊剣はその後、奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)に遷されたという。
 当社の由緒によると「蛇を断の剣は当社に在事明かなり、其後、崇神天皇の御宇、大和国山辺郡石上村へ移し奉る」とある。また、大正15年発行の『石上神宮由緒記』には、「もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る」とあり、「石上神宮旧記」(大和志料・中巻 大正3年)にも、仁徳56年10月に、それまで備前国赤磐郡石上の地で祀られていた「素戔嗚尊の天羽羽斬=布都斯魂神」を物部首市川が「勅命」によって「振(ふる)」の高庭に遷し「石窟の内」に蔵(おさ)めた」と記されている。

 当社の由緒では崇神朝、石上神宮では仁徳朝と、遷された時期は異なるっているが、およそ3世紀から5世紀の古墳時代に、当社のあった霊剣は大和国の石上神宮に献上、または奪われたものと考えられる。

 元々は出雲(簸の川上)にあった素盞嗚尊の神剣が、なぜ吉備に在って、さらに大和の石上神宮に遷され祀られたのか。変遷の詳細を物語る伝承は残されていないが、この神剣の移動が、大和に並ぶ勢力もっていた古代出雲と古代吉備の、栄枯盛衰の歴史の一端を物語っているように思われる。

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 かくして、当社の神剣は大和の石上神宮に奉遷されたが、その後の所在は明らかでなかった。

 明治に入り、神職の世襲制が禁止されたことで、石上神宮には水戸の国学者であった菅政友(すがまさとも)が大宮司として赴任する。明治7年(1874)、菅政友は拝殿背後の禁足地に神宝が埋蔵されているという伝承をもとに、教部省の許を得て、神宮社内の禁足地を発掘する。すると地下1mのところに、約30cmの石を積み上げて作られた3m四方ほどの部屋があり、その中から刀剣やヒスイの勾玉、琴柱形石製品、金銅製垂飾品、管玉などが発見された。これらの出土品は、古墳時代前期、およそ4世紀頃のものと思われる。

 このとき発見されたが剣が、布都御魂の神剣とされ、明治天皇のご叡覧後、刀鍛冶師の月山貞一(初代)によって三振りの模造刀がつくられ、そのうちの一振が昭和9年に当社に寄進されている。仁徳朝から約1600年の歳月を経て、伝承が奇縁となって旧地とされる当社に帰ってきたことになる。
 ちなみに、現在当社の宮司は、石上神宮とゆかりの深い物部姓を名乗られているが、これは藩主の池田綱政が、祠官・金谷肥後に命じて物部に復姓させ、式内社を再興させたものといわれている。現祠官の物部氏が、大和の物部氏に繋がる氏族であるのかは不明である。

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2017年4月25日 撮影


「寛文九年 綱政公創設時之絵図」の案内板。


山頂から見た岡山市方面の風景。


「磐座祭縁起」案内板