一直線に伸びた星神社の石段。鳥居の後方に随身門が見える。


拝殿。左に摂社の浮霊前角社が並列している。


本殿の背後にある磐座群。一番大きな中央の岩は高さ約3mある。


上記中央の岩を横からみたところ。


本殿背後の磐座と玉垣に入った手前の磐座。


本殿背後からやや離れたところにある磐座群。
 星神社は、岡山市北区の真星(まなぼし)地区の星神山(標高422m)山頂にある。県道72号線沿いに「星神社←」の看板が立てられており、案内のとおりにハンドルを切ると、指し示された道は「対向車よ来ないでくれ」と願いたくなる細くて急な坂道だった。幸いそれほど距離はない。ほどなく走ると、石の鳥居と山の斜面を一直線に伸びる壮重な石段が見えてきた。車は石段前の路肩駐車場に停める。

 石段はおよそ70〜80mあるだろうか、中程には随身門がある。石段周辺の木々は伐りとられていて、視界は明るく開けている。それが効果となっているのだろう、あたかも天空と地上を結ぶ階段をのぼっているような、広々とした開放感を味合うことができる。無人の村社であるが、手入れもよく気持ちのいい神社である。

 山頂の境内は以外に広く、石段をのぼった正面に拝殿、本殿が鎮座し、その横には摂社・浮霊前角(うきりょうぜんかく)社が並列している。
 本殿の背後に接して高さ3mほどの岩があり、本殿横の玉垣の中にも幅1.5mほどの岩が置かれている。 また、すこし離れたところに小さな祠をのせた磐座と思われる岩石群が見られる。

 当社の縁起には、今を去る1200年前、奈良朝天武帝の時代、当山の峰に突然黒雲が立ちこめ雷鳴を発し、山中鳴動すること35日、恐ろしくて近づく者なし。後に山上に星のごとく光を発するものあり、これを怪しみて陰陽師をして占しむるに、天より三つの星三つの巖落ちたり。これすなわち、甕速日神(みかはやひのかみ)が降臨した徴なりと告げられる。この神を鎮め崇めれば、里が繁栄するとのことで、ここに神社を造立した。この里の名が「真星」というのも、この古事に由来すると記されている。

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 日本各地に、星が落ちたところに神社がつくられ、隕石をご神体とする神社は多く見られる。なかでも有名なのが、福岡県直方市にある「直方隕石」で知られる須賀神社である。
 須賀神社の由緒によると、平安初期の貞観3年(861)4月7日夜、地域一帯が真昼のように光り輝いたあと、激しい爆発音とともに境内に隕石が落下した。翌日、深くえぐられた穴の底から、黒く焦げた石が見つかり、これを桐の箱に納めて保存したという。
 昭和54年(1979)、桐の箱に納められた石を、国立科学博物館が鑑定したところ、重さ472グラムのL6−コンドライトの石質隕石であることがわかった。その後、隕石を納めた木箱の一部を削り取り、放射性炭素による年代測定を行ったところ、こちらも伝承の日付に近い数値が得られたという。その桐箱の蓋の裏には「貞観三年四月七日ニ納ム」と書かれていたため、「目撃記録を伴う世界最古の隕石」と正式に認められた。

 ここで、須賀神社と当社の伝承年を比べてみると、須賀神社の隕石落下は貞観3年(861)。当社の伝承は天武朝(672〜686)であるから、当社の方がおよそ180年ほど古いことになる。もちろん当社の神宝とされる隕石が実際に存在し、それが鑑定されればの話であるが。

 なお同様の伝承は、当社から南西に約30kmはなれた井原市美星町の星尾神社にも伝えられている。星尾神社の縁起によると、平安時代の永久年間(1113〜1118)に、3つの流れ星がこの地に落ち、水田の中で光り輝いていた。これを採り、小祠を建てて祀ったのが当社の起こりであるという。
 3つの流れ星という点では同じ出来事のように思えるが、時代が異なっているので関連性は明らかになっていない。

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 当社の祭神は甕速日命(みかはやひのみこと)とされているが、古くは「星神明見大明神」を氏神としてお祀りしていたという。
 甕速日命は、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が火神・迦具土神(かぐつちのかみ)を斬り殺した際に、剣の鍔(つば)に付いた血から生まれたとされる神である。伝承には「この神、地上界に天降りしときには必ず磐落ちて光り放つべし」とあるが、なぜこの神が当地に降臨してきたのかは、いまひとつよく分からない。根拠のない推察だが、近世から近代の間に変遷された祭神ではないだろうか。
 また、星神明見大明神の詳細も明らかでないが、星神明見の「明見」は「妙見」のことではないだろうか。「妙見山」は西日本に多く見られるが、岡山県にはとくに多く、県内に12カ所を数えるという。
 妙見信仰は北極星・北斗七星に対する星辰信仰で、こちらなら当社の祭神としてふさわしい。

 真星の地名は、天正10年(1582)と推定される小早川隆景書状写(萩藩閥閲録)に「於真星表荒木中間一人被搦取」の記載があることから、戦国期より見られる地名であることが分かっている。(『角川日本地名大辞典』より)
 星が落ちたという伝承は、相当古くから語り継がれていたようだが、本殿背後の巨石が、空から降ってきた「隕石」とはとうてい考えられない。
 薬師寺慎一氏の『祭祀から見た古代吉備』にも、「星が落ちたという伝承は後世に出来たものと思われます」と書かれている。やはりここでは薬師寺説にならって、磐座信仰と星辰信仰は分けて考えたほうがよいと思われる。

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2017年4月25日 撮影


「星神社之縁起」
今を去る壱千弐百年以前 奈良朝天武帝の御宇霜月十三日
当山に白日突如黒雲降り雷電を発し山中鳴動すること
三十五日間恐れて近ずく者なし後山上に星の如く光を
発するものあり これを怪しみて陰陽師をして占しむるに
曰く天より三ツの星三ツの巖落ちたり則ち甕速日命
地上に降臨したまふ徴なりと里人宮を建て
この神を鎮め祭り此里の繁栄せんこと願いしが
此宮の淵源也里の名もこれに関り真星と云う
祭神 甕速日命(ミカハヤヒノミコト)

付記 星神社本社玉垣内の自然の巨大な石組みは
稀に見る立派なもので古代から祭祀の
行なわれた場所(磐座 磐境)と確認でき
史家 文化財愛好家等の拝観者が多い

昭和五十九年九月吉日 建立

星神山の山頂から石段を見下ろす。