『銀河ヒッチハイク・ガイドと哲学』


 2012年7月、イギリスの出版社 Palgrave Macmillan から、エッセイ集『銀河ヒッチハイク・ガイドと哲学』(Philosophy and the Hitchhiker's Guide to the Galaxy)が出版された。
 編集者ニコラス・ジョルいわく、この本の狙いは『銀河ヒッチハイク・ガイド』経由で哲学とは何かを学んでもらうこと。『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくる哲学的な問いかけを検証したり、『銀河ヒッチハイク・ガイド』をネタに哲学を説明したりすることで、敬遠されがちな哲学を少しでも親しみやすくしたい、ただし安易に流れすぎて「ポップ哲学」になることは避けたい――ということで、集められた執筆者の大半は、ニコラス・ジョル本人も含め、大学で哲学を教えている教員が占めている。
 全部で9編のエッセイに加え、巻末には親切な用語解説と詳細な文献紹介が付けられている。それぞれのエッセイには丁寧な注釈もあり、この辺りは学術論文を書き慣れている執筆者陣ならではかもしれない(執筆者リストはこちら)。
 それぞれのエッセイの概要は以下の通りだが、まとめたのは哲学にも英語にも素人の私なのでとんでもない誤読をしている可能性は高い。そのため、これはあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。

 


1 'Eat Me': Vegetarianism and Consenting Animals Ben Saunders and Elöise Harding

 アーサーは、宇宙の果てのレストランことミリウェイズで、自分を食べてくれとお願いする動物と対峙する。ゼイフォードの言う通り、食べてくれ、とお願いする動物を食べるほうが、食べないでくれ、とお願いする動物を食べるよりマシなように思えるが、本当にそうだろうか? 
 普通、食事の前にこれから食べるものと会話するということはありえない。バベル魚のおかげでそういうことも可能になったが、アーサーの前にいる牛のような生き物が、人と会話できる程の知能があると分かったから食べるのを止めるのか? あるいは、たまたま会話してしまったこの動物だけは食べないことにする?
 アーサーに限らず、多くの人はあまり深く考えることなく肉を食べている。ずっと続いてきた社会的な習慣だから、と、肉食の倫理的な問題は棚上げにしている。が、これまで続いてきたからと言って、正しいことだとは限らない。奴隷制はかつて当たり前に存在していたが、倫理的に間違っているとして現在では認められていない。同様に、これまでの我々の動物に対する態度は間違っていたのではないかと問い直してみるべきだろう。
 
 
現状のモラルを検証し直す

 我々の多くは、嘘をついたり、盗んだりするのは、モラルに反すると考えている。その一方、今のところ社会的に容認されている行為だけれど、それらは本当はモラルに則しているのか、と考える人は少ない。たとえば、飢えに苦しむ人がいるのに身銭を切って助けようとしないことは、モラルに反しているのか、とか、定期的に飛行機に乗ることは犯罪ではないけれど、その行為が地球温暖化を後押ししているとしたらどうか、とか。肉食についても、同じように考え直してみるべきだ。
 みんながやっていることだから正しいに決まっている、と、我々はつい考えがちだが、肉食は本当にモラルに反しているのではないか。他のみんなも食べているから、というだけで肉食をするのではなく、食べるかどうかを自分自身で選択する責任を持つべきだ、というのが現在の動物の権利保護活動家の考え方である。彼らは、現在のような動物を取り扱い方はモラルに反しており、自ら声に出して訴えることのできない動物たちを代弁しようと考えている。
 哲学者ピーター・シンガーは、最低限の衣服と食料を手に入れることができない人がいるにもかかわらず、デザイナーズ・ブランドの高級服やボトル入りのミネラルウォーターを買うということ自体、モラルに反していると主張する。自分の高級靴が濡れるのがイヤだからと、目の前で溺れている子供がいても助けようとしないのが、道義的に許されることでないのと同じように。シンガーの見解は厳しすぎる、という批評家もいるが、モラルの範囲をどこまで広げるかはさておき、現在の社会通念では許されているからといってそのまま受け入れるのではなく、常に検証し直すことが大切なのは間違いない。
 遠く離れたところの赤の他人のためにどこまで自己犠牲すべきか、については意見が分かれるとしても、自分の娯楽のために他人を傷つけるのは間違っている、という点では意見が一致するだろう。ヒッチハイカーを拾ってあげるかどうかは個々の判断次第だとしても、拾ったヒッチハイカーにヴォゴン人の詩を強制的に聴かせるのは間違っているのと同じだ。
 ピーター・シンガーは、著書『動物解放論』の中で、我々が一般的に当たり前だと考えている動物の扱い方は間違っていると説く。食用、動物園、動物実験は言うに及ばず、ペットまで。ただし、このエッセイではとりあえず食用としての動物の扱いに限定して論を進めていくことにする。ゼイフォードの言う通り、食べてくれ、とお願いする動物を食べることは、本当に正しいのだろうか。事は、そう単純ではない。
 
菜食主義の擁護

 最初に、倫理的な菜食主義者たちの意見を簡単にまとめてみよう。
 まず、肉食は動物を殺すことに繋がるから反対だ、という声がある。人を殺すのが罪なら、動物を殺すのだって罪になるはずだ、と。でも、ソクラテスやエピキュラスが言うように、死とは生まれる前の無の状態に戻るだけのことでしかないとしたら、死ぬことや殺すことはそんなに悪いことではないのかもしれない。
 それに対する反論として、寿命を縮めるのは、生き続けていれば手に入るはずだったものを失うことになるから間違っている、という考え方がある。快適に暮らしているのに、それを強制的に終了させられるのは、人にとっても動物にとっても望ましいことではない。
 が、将来手に入るはずの利益を奪われる、というのは、時間の概念を持つ人間ならではの発想である。今という瞬間だけで生きている動物にとっては、あまり関係のない議論なのではないか、という反論も成り立つ。故に、動物に対してなるべく苦痛のない形の死を与えてやるのは、必ずしも悪いことではないのかもしれない。ただし、肉食を認めていいかどうかはまた別の問題だ。実際のところ、食肉加工のために屠殺される動物たちが置かれている環境は、劣悪きわまりないのだから。
 だったら、食用動物たちの環境を改善してやりさえすれば、動物の肉を食べてもいいのか? 実際、菜食主義ではないけれど、動物虐待に繋がるからという理由でフォアグラや子牛肉を食べないという人はいるし、工場育ちの安い肉ではなく、ちゃんとした牧場で生育された値段の高い食肉を選んで買うという人もいる。だが、肉を食べるために動物を殺すことは間違っていないと思っていたとしても、動物が受ける苦痛に無関心でいられない以上は、肉食を道徳的に問題なしと片付けることはできない。
 人に苦痛を与えるのが間違っているように、動物に苦痛を与えるのも間違っている。肌の色が違うからといって差別するのが間違っているように、種が違うからといって差別するのも間違っている。前者が「人種差別」なら、後者は「種差別」と呼ぶべきだ、と、シンガーは主張する。実際、最近の研究では、霊長類やイルカといった、「高級な」生き物だけでなく、ゴキブリのような「低級な」生き物も、人と同じように苦痛を感じるらしいことが分かってきた。
 実験の信憑性を疑うことはできるが、そもそも相手が他の動物だろうと他の人間だろうと、我々は自分以外の何者の苦痛も直接的に知ることはできないのだ。それに、動物がまったく苦痛を感じていない、という逆の確証も得られない以上、危ない橋を渡る必要もあるまい。
 
カントの哲学

 ドイツの哲学者カントいわく、他の人間を単なる手段として利用すべきではない。たとえ相手が害を受けないとしても、やはり間違っている。相手の同意なしに何かをするのも間違っているし、同意を得るために嘘をついて相手を間違いだ。嘘の説明に基づく同意は無効だし、結果的にめでたしめでたしだったとしても、やはり間違っている。
 この理屈を動物にも当てはめるとどうなるか。動物から同意を得ることが不可能な以上、彼らが苦痛を感じているいないにかかわらず、動物を人の都合で飼うこと自体が間違いだということになる。こうなると、普通の菜食主義を通り越してヴィーガンと呼ばれる完全菜食主義の域だ。飼われた牛から搾った牛乳さえ認められないのだから。
 カントの道徳感に従うなら、肉体的に害を与えるかどうかよりも大事なことがある。たとえ肉体的な害を与えるような行為でも、相手の正しい同意が得られれば、間違いとは言えない――手術の同意書にサインした患者に、外科医がメスをふるうことが許されるように。
 アーサーのジレンマに話を戻そう。「食べられてもいいです」と同意した動物を食べることは許されるのか。2003年、ドイツ人コンピュータ技師アルミン・マイヴェスは、自ら望んで食べられたい被害者を探すため、その旨をインターネット上に掲示。それに応じてきた男性と会って殺害し、食べた。同意があれば許される、というなら、アーサーもマイヴェスも立場は同じだ。マイヴェスの行為を疑問視するなら、アーサーが「食べてくれ」とお願いする動物を食べることをためらった気持ちも理解できるはずである。
 
「同意」の落とし穴

 同意があるのなら、他人を自分の都合で利用しても構わない。ゼイフォードがトリリアンを仮想パーティの場から宇宙へ連れて行ったのも、トリリアンの合意の上ならば誘拐とは言えないように。
 作家のロバート・ノージックは、身体はその人の所有物であり、本人の同意なしには何人もその身体を利用することは許されないと考える。が、ノージックの論理は、裏を返すと、本人が同意するのなら奴隷になるのも食べられるのも許されるということになる。
 同意、と一言で言っても、実際にはさまざまな種類がある。完全に自由な状態で同意することもあれば、事実上他の選択肢がなくて同意するということもありうる。また、間違った情報を与えられたせいで同意する場合もあるだろう。すべての同意は有効だと看做すことはできない。
 そもそも自ら望んで同意することができないとされる事柄もある。ジョン・ロックの主張によれば、神から与えられた生命を自ら奪う=自殺することは許されない。故に、絶対君主が臣民の生殺与奪権を持つことも認められない。そんな権利はないからだ。だから、絶対君主が求める同意はすべて無効となる。
 ロックの宗教観はさておき、実際の我々が同意を合理的判断と看做すか否かは、それぞれの文脈の中で決定されると言っていい。他人に斬りつけるのはよくないが、外科手術として行うなら話は別。自殺はよくないが、終末医療の現場で安楽死を求めるような場合もある。仲間を逃がすために、自ら食われる覚悟で獣の前に飛び出すことだってあるかもしれない。
 つまり、食べられることに同意するなんてありえない、と、言い切ることはできないのだ。だから、もしミリウェイズの牛が本当に食べられて構わないと思っているのなら、アーサーは食べていい。それでもまだアーサーがためらうとしたら、牛の同意が本物かどうかを疑っているからである。
 
牛の同意

 牛の同意が本当かどうか、判断するのは難しい。口でそう言っていても本心じゃないかもしれないし、たとえ本心だとしても、牛の知能が人間の5歳児並で、同意するとどうなるのかちゃんと理解できないまま「食べてください」と言っている可能性もある。牛の知能程度は、牛との会話で推し量るほかない。
 バベル魚のおかげで牛との会話もスムーズになり、アーサーの前にいる牛には正しく判断した上で同意するだけの知能はあるように見える。この牛が他の牛と比べて特に賢いのかどうかは不明だが、高い知能を持つこの牛は、同時に他の生き物よりも高い道徳観も持ち合わせているようでもある。しかし、知的レベルが高い者は知的レベルの低い者より立派な道徳心を持っている、と言い出したら、マーヴィンがアーサーを好きにしていいということになりかねない。それは困る。だとしたら、我々より知的レベルが劣るからと言って、動物を人間の好きにしていいという理屈も成り立たない。少なくとも、動物たちが感じる苦痛に無頓着でいい、とは言えない。
 さらに言うと、たとえ牛に高い知能があり、本心から食べられることに同意していたとしても、実は裏でひどく虐待されていてその苦痛を終わらせたいという気持ちからなのかもしれないし、恐喝されていたり薬を飲まされていたりするかもしれない。結局、牛の同意が有効かどうかを見極めることは不可能だ、ということになる。
 
3次元的権力論

 強制されての同意は無効である。が、強制とは、拷問や恐喝と言った分かりやすいものばかりではない。マルクス主義理論家のスティーヴン・ルークスは、著書『現代権力論批判』の中で、権力には3つの側面があると説く。
 まず第一に、相手の意志とは関係なく、自分の希望を強いること。これが一番分かりやすい「権力」の形だ。
 次に、相手に決めさせているように見せかけながら、実際には他の選択肢を与えないこと。もし、破壊される前の地球にいるフォードの元をゼイフォードが宇宙船に乗って訪れて、地球にとどまるか、あるいはペテルギウス第5惑星に戻るかをフォードに選ばせるとしたら、フォードに選択肢はあると言えるだろうか。
 最後に、これが一番曖昧なのだが、相手にそう望むよう仕向けることである。カール・マルクスが言うところの、資本主義社会における労働者たちはイデオロギーに支配され、自分たちを搾取する資本家に自ら屈するようになる。例えば、《黄金の心》号の自動ドアたちは、ご主人様にお仕えすることを何よりの喜びと感じているけれど、そんな彼らは他者からの抑圧とは完全に無縁と考えるべきなのか、はたまた究極の抑圧の果てにそうなったと考えるべきなのか。後者だとしたら、これほど不愉快な権力の行使は他にない。
 食べられることを望む牛を食べることは、肉食のモラルを一時的に棚上げできたかに見える。が、動物を食べられるよう望むように仕向けること自体が間違っているとしたら、ややこしい問題を回避するためにも、ミリウェイズで食べないことにしたアーサーの判断は正しかったのかもしれない。
 
作り出された同意

 食べられることを望む牛を作り出すこと自体、モラルに反する。長子の命を救うため、ドナー用としてもう一人子供を産むことがモラルに反しているように。親族が自ら望んで移植用臓器を提供することは美徳と考えられているけれど、実はそう望むよう仕向けられるとしたら、事はそう単純ではない。
 生きるより死ぬほうがいい、という生き物がいるとしたら、生きている環境があまりに劣悪でいっそ死んでラクになりたい、と思うからだ。あるいは、未来への希望を与えられず、最初から死以外の選択肢がない、とか。奴隷として育てられ、奴隷として生きることしか知らないからと言って、その人を奴隷として扱っていい、ということにはならない。
 しかし、アーサーが食べられることを望む牛を作ったのではない以上、アーサーがその牛を食べたからと言って非難するのは間違っている、と考える人もいるかもしれない。だが、その牛を食べることはそういった牛を作り出すレストランの経営方針を後押しすることになる以上、無罪とは言えないのではないか。
 食べられたいという牛と食べられたくないという牛、二頭のうちのどちらかを殺して食べねばならないとしたら、前者を選ぶほうがマシかもしれない。が、食べられたいと望むよう牛を仕向けること自体、そもそもモラルに反しているのだ。
 
結論:予防原則

 動物を殺して食べることはモラルに反している。食べられたいと望む動物なら食べていいかというと、その同意が本物かどうかを見極めることは困難だ。そもそも、食べられることに同意する動物を生み出すこと自体、モラルに反しているとも言える。
 食べていいのか、よくないのか。どちらとも決め難い複雑な状況では、食べるべきでないのかもしれない、と思うのなら、間違いを犯すリスクを避けるため「食べない」という選択をする手はある。このような行動方針を「予防原則」という。危害を及ぼす可能性が甚大な場合、リスクの少ないほうを選ぶのは理にかなっている。地球の気候変動は、ひょっとするとたいしたことはないかもしれないが、もし本当に起こった時に被害は甚大だから、今のうちに少しでも地球温暖化を食い止めるよう努力するのと同じことだ。
 もし、動物が苦痛を感じないとしたら、小石を蹴るのと同じ感覚で猫を蹴ってもいいということになる。が、苦痛を感じていないかも、という可能性に賭けて動物虐待に加担するのは、リスクが大きすぎるというものだ。お肉を食べると美味しいから、などという理由が、動物に苦痛を与え命を奪うことを正当化できるはずもない。
 


2 Mostly Harmless? Hitchhiker's and the Ethics of Entertainment Nicholas Joll

 こんなすばらしい魔法のまぼろしがランダムの手首のうえにひらめくのを見て、村人たちはすっかり心を奪われていた。宇宙船が大破するのをかれらは一度しか見たことがないが、それは見るも無惨なすさまじい大事故だったし、恐ろしい破壊と火災と死を引き起こしたものだから、うかつにもあれが娯楽だったとは気がつかなかったのだ(『ほとんど無害』、p. 208)。

 アダムスは、コメディ作家なら当然のことだが、何が人々を楽しませるかについて関心を持っていた。この章では、エンターテイメントの倫理、とりわけ、暴力を娯楽として楽しむことの倫理について考えてみたい。
 
1. 『銀河ヒッチハイク・ガイド』とエンターテイメントの倫理

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズには、エンターテイメントの倫理について考えさせられるような文章がいくつも見られる。

「もっとひどい話だってあるよ」フォードが言った。「第七次元かどこかの惑星なんか、銀河間バービリヤードの試合で球代わりにされたんだってさ。まっすぐブラックホールに落とされて、百億人死んだらしい」
「まあひどい」メラが言った。
「うん、おまけに三十点にしかならなかったんだ」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 336)

マックスは押し殺した声で続けた。
「さあ、ろうそくが灯りました。バンドは静かな曲を演奏しています。防御シールドに守られた頭上のドームが色あせ、だんだん透明になってきました。暗く不気味な空が見えてきます。どす黒く膨張した星々の老いた光が、その空に重く満ちています。ご覧ください、まもなくこのすばらしい夜が壮絶な破局を迎えるのです!」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 160)

「あんたたちがクリケットと呼んでいるあのスポーツは」と、あいかわらず地底の迷路をさまよっているような声で言った。「奇妙に変形した種族の記憶のひとつの表れだよ。種族の記憶のなかには、さまざまなイメージが長く生き残っておる。そのほんとうの意味が時の霧のなかに失われて永劫の時間が過ぎたあとでもな。とはいえ、銀河系に数ある種族のなかでイギリス人だけだろうな、この宇宙を引き裂いた最も恐ろしい戦争の記憶をよみがえらせて、それをスポーツにしてしまった種族は。それもこう言ってはなんだが、なんでこんなに退屈で支離滅裂なのかわからんと言われるようなスポーツだからね」
「わたし自身はそう嫌いではないのだが」彼は付け加えた。「しかしおおかた、あんたがたはうっかりにもせよ、胸が悪くなるほど悪趣味なことをしでかしたと思われておるよ。とくに、小さな赤いボールが三柱門を倒すところ、あれは言語道断だ」(安原訳『宇宙クリケット大戦争』、p. 129)

 上記の引用は、いずれも、娯楽として許容することの是非を読者に問いかけてくる。が、もう少し詳しく見てみると、最初の引用は「娯楽のために暴力を犯してもいいのか?」で、他の二つは「現実に起こった暴力的な出来事を娯楽として消費していいのか?」。現実世界では、前者の例は剣闘士(グラディエーター)や闘牛、ボクシング、後者の例は実際に起こった大地震やテロ事件をネタにした映画やテレビである。が、この章では、これらとは別の、第三の暴力について考えてみたいと思う。
 
2. 意見の分かれる問題

 ここで取り上げたいのは、冒頭で引用した『ほとんど無害』が提示する問題である。すなわち、「純粋にフィクショナルな暴力を娯楽として享受することは許されるか」。
 また、ここで言う「エンターテイメント(娯楽)」とは、単純に人を楽しませることだけを目的に作られたものであり、そして「フィクショナルな暴力」とは何の必然性もなく、単に暴力行為そのものを楽しむために作られたものに限定する。勿論、どの暴力には必然性があってどの暴力には必然性がないかなんて簡単に区分することはできないが、ここではその議論はひとまず棚上げにしておきたい。
 暴力と一口に言っても種類はさまざまだが、ここでは1. 人が(暴力の)対象となっていること、2. 適切かやり過ぎかは程度によること、3. そういう暴力シーンを多く含んでいること、4. 暴力の提示方法が露骨だったり怖がらせるものだったりすること、の条件を含む作品を対象とする。故に、『悪魔のいけにえ』のようなホラーだけでなく『ドラゴン・タトゥーの女』や『レザボア・ボックス』は対象となるが、『白鯨』やテレビドラマ・シリーズ『GALACTICA/ギャラクティカ』や『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズは対象外とする。
 どの程度の暴力ならば娯楽として許容範囲とみなせるかは、当然、個人差がある。が、今問題にしているのは、暴力を娯楽として楽しむことの是非だ。あるいは、暴力を娯楽として提供することの是非。故に、これ以上の細かい定義や区分は行わず、「露骨に表現されたフィクショナルな暴力を単なる娯楽として消費することは許されるべきか」について考察したい。
 
3. 『ほとんど無害』が問いかけるもの

 冒頭で引用した『ほとんど無害』からの文章では、愚かさの転嫁が行われている。文章の表面をなぞるなら、フィクショナルな暴力を娯楽として楽しむことを知らなかった惑星ラミュエラの人々を愚かだ、と言っていることになる。もう少し拡大解釈するなら、フィクショナルな暴力とは、ストレスや恐怖といったものの副産物として生まれるものであって、実際にひどいストレスや恐怖に晒されたことがなければ、それらを娯楽として享受しようがない、ということになる。つまり、ラミュエラ人たちの娯楽というものに対する考え方は正しいのだ。煎じ詰めると、こういうことだ――暴力は、娯楽になりえないし、するべきでもない。
 アダムスの文章は、ラミュエラ人の側に立ち、暴力は娯楽ではないと主張しているようだ。では、アダムスのような考え方の他に、どのような暴力的な娯楽に対する反対意見があるか、例を挙げてみよう。
 
4. 暴力的な娯楽に反対する3つの理由

 第一の理由は、暴力的な娯楽は観る人をダメにするから。暴力シーンを観れば観るほど、現実の暴力に対してどんどん無頓着になっていくし、また、そういったシーンは観ている人の暴力衝動を引き起こしかねない。
 暴力シーンをたくさん観たからって、暴力的な人間になるとは限らない、という声もある。が、テレビなり映画なり本なりが、視聴者や読者に何の影響も及ぼさないのであれば、良い影響だって及ぼさない、ということになる。教育的効果なんてありえない、ということになる。でも、そんなはずないですよね?
 
 第二の理由は、現実に暴力行為に晒されている人がいる以上、そういう人のことを忘れて暴力行為を娯楽として楽しむのは間違っているから。むしろ、現実に苦しんでいる人のことを思って、暴力的な娯楽を控えるほうが、みんなの気持ちを一つにできる良い機会になるのではないか。
 
 最後に、暴力的なシーンを楽しむこと自体、道徳心の欠如や感受性の低さや思いやりのなさの表れだから。フィクションだから許されるというものではない、というより、そういうものを楽しむことが現実の暴力に対して感覚を麻痺させるのだ――そういう意味では、第一の理由に収斂できるかもしれない。
 
5. 反対理由のさらなる検証

 反対の理由には、表面的なものと本質的なものの2種類がある。先の章で述べた第一の理由は、一見強固に思えるけれど、有益かどうかを問うているという意味で表面的なものだ。娯楽としての暴力を浴びるほど観たとしても、思ったほど極端に人格に影響しないかもしれない。そうなると、反対の理由と言えなくなる。
 それに対し、他の二つはより本質的なものである。第二、第三の理由、暴力を楽しむこと自体が間違っている、というのだから、有害か無害かは関係ない。
 だが、ここで、もっと本質的な反対理由を挙げたいと思う。暴力的な娯楽を楽しむことが間違っているのは、それがある種の誤解に繋がるから――本当の暴力とは何かを、正しく認識し損ねてしまうからだ。では、正しい認識とは何か? それは、暴力によってもたらされる本当の痛みや苦しみである。
 じゃあ、ドタバタコメディのアニメに出てくるような類の暴力も、苦痛をもたらすものとして真正面から受け止めるべきなのか? その場合、問題なのは、暴力がドタバタコメディに書き換えられていることだ。そういった娯楽を楽しむことで、現実の暴力もドタバタコメディであるかのように見えてしまう。
 惑星ラミュエラの人々、というか、ダグラス・アダムスは、いいところに気が付いた。冒頭に引用した箇所は、まさにこの認識のズレを点いている。

6. 倫理と検閲

 エンターテイメントの倫理、と言っても、そもそも人類共通の真の倫理などない、という考えがある。倫理とは、個人やグループごとに異なっていて主観的なものだ、と。だが、個人やグループごとの主観的な倫理がないとしたら、「自分はこうするのが正しいと思うけれど、他の人にもそうするよう仕向けることはできない」ということになる。
 この問題は、検閲の問題でもある。検閲というと、政治的なものとつい看做してしまうが、暴力的な娯楽をどこまで容認するかを問うなら、倫理的なものとして考えざるをえない。そういう意味では、倫理的な問題は、政治的な検閲に優先されることになる。
 
7. 倫理じゃなくて政治?

 だが、そもそも倫理を形作るのは政治的なものだ。現代の多くの社会では、社会の構成員が抱いている倫理は、経済事情だったり一部の権力者の意向だったり科学技術の進歩によって左右される。人々が、自分の頭で倫理について考えたりすることはあまりないし、それでいて、どんなに強固な倫理が提示されようとも自分の考えを変えることはなかなかない。その結果、娯楽は、倫理のことなど度外視し、もっぱら消費者を満足させる方向で作られることになる。
 このようなスタンスが正しいとは思わない。理由はどうあれ、暴力的な娯楽を作り出すことが少しでも倫理的に間違っているのなら、それを作り出したプロデューサーは責めを負うべきだ。
 ことほどさように、エンターテイメントの倫理をめぐる問題は、「大きい。むやみに大きい。」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 104)


 


3 Life, the Universe, and Absurdity Amy Kind

「それにしても、船はいまどこにいるんだ?」
 フォードが言った。彼は螺旋階段に腰掛け、手にはよく冷えた汎銀河ウガイ薬バクダンのグラスを持っている。
「さっきと同じ――だと思うわ……」
 トリリアンが言った。一同のまわりにあるすべての鏡が突然、眼下をとびすぎていく荒廃したマグラシアの姿を映しだした。
 ザフォドは椅子からとびあがった。
「じゃあ、ミサイルはどうした」
 鏡の映像は変り、驚くべき光景を映しだす。
「二基のミサイルは」とフォードがためらいがちに言った。「一鉢のツクバネアサガオとひどくびっくりしているらしい鯨とに変っちまったらしいぞ……」(『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 171)

 いきなり宇宙空間に放り出された鯨を目撃しなくても、存在の不条理について考えさせられることはある。眠れない夜など、つい「なぜ自分はここに存在しているのだろう」「私が生きている意味って何?」などと考えをめぐらし、全宇宙の広大さに比べた時の自分自身のちっぽけさに震撼する。
 哲学者も長年に亘ってこの種の問題に取り組んできた。中でも、アルベール・カミュは、人生の意味を問うこと、ひいては自殺の是非について考えることを最重要とみなした。そして、自殺は卑怯者の最終手段であると結論づけ、我々は生存の不条理さから逃れることはできないが、むしろ不条理そのものを丸ごと受け入れることが肝心だと説いた。
 人生は何て不条理なんだと嘆く資格がある人物がいるとしたら、それは間違いなくアーサー・デントだろう。が、アダムスが人生の不条理さについて下した評価は、フォードが地球について下した評価と同じだ。つまり、「ほとんど無害」。この考えは正しいのではないかと思うが、でもその前に、まずは生存の不条理さとはどういうものなのかはっきりさせ、それからその問題の解決を探していきたいと思う。
 
1 無限マイナス一

 哲学者のトマス・ネーゲルは、「人生は不条理」の例を挙げている。恋人に電話して結婚の申し込みをしたら、相手は恋人本人ではなく留守番電話だった、とか、女王陛下から叙勲される儀式の真っ最中にズボンがずり落ちた、とか。その他に、「大量殺人で糾弾された男が無実を訴えるも、その男のヒゲには彼が殺したウサギの骨がくっついていた」を追加してもいいかもしれない。
 こういった不条理な事例にたびたび遭遇すると、アーサー・デント同様、「この世界の裏でなにかが起こっているという説明しがたいおかしな気分」(風見訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 248)になってくる。が、実際のところ、そんなものはない。
 哲学者ショーペンハウアーは、生きる目的のようなものが存在するのではないか、と考えること自体、虚栄心のなせる技だと説く。『銀河ヒッチハイク・ガイド』にも書かれている通り、宇宙が「途方もなく、際限もなく、気も遠くなるほど大きい」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 104)のに対し、人間などちっぽけすぎて何の意味もない。
 実際には、宇宙の広大さと本気で向き合ったりしたら、誰しも正気を失ってしまう。『宇宙クリケット大戦争』のエピローグで、薬を注射され「すべての真実を、真実だけを語れ」と命じられたプラークが、アーガビュンソン星の法廷でいざ最終的で絶対の真実を話し始めると、誰もが恐れをなして逃げ出してしまったように。あるいは、総合認識渦動化装置に入れられて、「まったく想像もつかぬほど無限に続く生命の連鎖をかいま見る」(風見訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 96)ことが、何にもまして恐ろしい拷問とされているように。
 ゼイフォードだけは総合認識渦動化装置に入ってもへっちゃらだったが、それはその時の彼がザーニウープがゼイフォードのために作った特別製の宇宙にいたからである。我々はザーニウープのサービスは受けられないけれど、自分の人生には特別の意味があると考える方法なら他にもある。それが宗教であり、神である。
 人間の目にどれほど不条理に見えたとしても、それは神のご意志である。キリスト教弁証論者で創造論者でもあるウィリアム・レーン・クレイグは、「神が存在しないなら、この世は不毛だ。一方、神が存在するなら、人生には意味があるということになる。神が存在するかしないか、その確率が五分五分なら、神がいるという考えを選ぶほうが合理的だ。死とか不毛とか虚無よりも、幸せで意味のある生活のほうがいいに決まっているから」という。
 が、カミュに言わせれば、人生の意味を考える時に宗教を持ち出すのは「哲学上の自殺行為」だ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』でも、もう少し遠回りな表現をしているものの、宗教に異議を申し立てている。
 
2 神の存在問題の総括

 宗教を信じれば不条理の問題も消える、というのには、大きく分けて二つの理由がある。
 一つは、永遠の命を得ることで、死の問題を回避できること。だが、不死になったらなったでもっと大きな不条理を抱えることになるのではないか。実際、不死になったワウバッガーは、宇宙の全員を一人ずつアルファベット順に侮辱して回ることにするが、それというのも「あまり褒められた目的ではないし、そのことは本人がまっさきに認めるだろうが、少なくとも目的にはちがいないし、少なくともそのおかげで前に進むことができる」からだ。
 宗教のおかげで不条理から逃れられるもう一つの理由は、人生の意味とか理由といったものすべてを、自分たちより上位の存在にゆだねることができるからである。我々は神の計画に従って生きていると考えれば、すべてのことに納得がいく。しかし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』でも、確かに地球で起こったすべての出来事は自分たちより上位の存在の計画だと判明するけれど、だからと言って私たちが抱える不条理感は必ずしもなくならない。それどころか、地球は「究極の問い」を得るためのコンピュータだと知って、不条理感はより一層強まるのではないか。
 地球を作ったネズミたちにとっては、我々は意味のある存在だろう。だが、ネズミのために計算結果を出すために存在しているのだと分かったところで、なるほど我々の人生には意味があったのだな、などと納得することはできない。
 つまり、アダムスにとっては、人生の不条理について宗教に慰めを見出そうとしても無理、ということになる。
 
3 さからっても無駄だ

 銀河を旅して回ったアーサーの結論は、この世は不条理だ、というものだった。我々は、アーサーほどには不条理を体験していないかもしれないが、それでも「不条理」という言葉を「生きることの無意味さ」と置き換えれることはできる。
 我々の日々の暮らし、毎日の労働の無意味さは、シーシュポスの神話(ギリシャ神話の一つ。シーシュポスは、神々から罰として丘の頂上まで岩を運ぶよう命じられる。が、頂上近くまで来ると、岩は転がり落ちてしまう。そのため、シーシュポスは永遠に岩を運び続けなければならない)と変わらない。哲学者ジョエル・ファインバーグは、それを「スーパーマーケットの退行」と名付けた。なぜスーパーマーケットでレジの列に並ぶか。食料を買うため。なぜ食料を買うか。健康であるため。なぜ健康でなければならないか。仕事があるから。なぜ仕事をするか。お金を得るため。なぜお金が必要か。お金がなければ食料が買えないから――つまるところ、我々がやっていることは、ただの堂々巡りにすぎない。
 が、この種の不条理さというのは「無目的」という意味である。我々が「不条理だ」と感じるのは、目的が見出せない時よりも、こうなるだろうと予測した結果と実際の結果が食い違った時ではないだろうか。自分が食べたウサギの骨がヒゲにくっついていること自体は不条理ではない。自分は何も殺していない、と主張している最中に、ヒゲにウサギの骨がくっついていることに気付くからこそ、「不条理だ」と感じるのだ。
 カミュの見解も同様である。現実世界そのものは、別に不条理ではない。世界を本質的に理解することなどできやしないのに、勝手に世界を自分の都合のいいように解釈し、そこから生じるギャップを「不条理」と呼んでいるだけのことだ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、「生命と宇宙と万物についての究極の答え」は「42」だが、そもそも「究極の問い」が何なのか分からない。『宇宙クリケット大戦争』のラストでプラークが言うように、「その問いと答えは両立しないと思う。いっぽうを知ってると、もういっぽうを知ることは論理的に不可能なんだ。同じ宇宙について、その両方を知ることはできないんだよ」(安原訳、p. 309)
 カミュの言う不条理が「自分と世界との対立」だとすれば、哲学者ネーゲルの不条理は「自分自身との対立」だと言える。ゼイフォードのように二つの頭を持っていなくても、誰もが「内なる自分」と「外からみた自分」を持っている。「内なる自分」が、通常の生活で意思決定をしていく「自分」なのに対し、「外からみた自分」とは、自分を客観視して見た時の「自分」だ。人間は、生きていく上で、どちらの自分もなくすことはできない。ヴォゴン人の衛兵が言う通り、「さからっても無駄」(風見訳、p. 89)である。
 
4 パニック?

 人生が不条理だとしたら、どうすればいいのか? その答えは、カミュとネーゲルでは異なるし、アダムスは両者の中間地点に落としどころを見出している。
 カミュいわく、人は答えを求め続けるが、世界は答えを与えることができない。人生の不条理は決して消えることがないが、不条理な運命を冷笑することで乗り越えることはできるという。シーシュポスも、不毛な運命を嘆く代わりに笑い飛ばしてやれば、不条理感は軽減するし、高潔な英雄として返り咲くことも可能だ、と。
 カミュの提案は、一時しのぎにはなるだろう。でも、そのような態度をずっと取り続けていられるものだろうか。「どうせ自分なんて」と思い続けるよりはマシかもしれないが、せいぜいその程度の効力しかない。
 ネーゲルもカミュの案には懐疑的だが、理由は異なる。ネーゲルに言わせれば、そもそも不条理感をなくさねばと考えることが間違っている。むしろ、「内なる自分」と「外からみた自分」の対立からくる不条理こそ、人間の自己否定どころか人間が完全に覚醒している証であり、故に、不条理を問題と看做すのではなく、反語(アイロニー)として受け入れるべきだ、と。
 だが、ネーゲルの考えは、人間の本質に基づいた避けられない問題だから、その問題は偽の問題である、と言うようなものだ。避けられない問題は問題にならない、なんて、そんなバカな!
 ジョナサン・ウェストファールとクリストファー・チェリーは、カミュもネーゲルも、不条理という問題を深刻に考えすぎているという。もっと単純に、そんな問題は無視してしまえばいい、と。
 ウェストファールとチェリーの考え方は、デイヴィッド・ヒュームの懐疑主義への対処法によく似ている。懐疑主義を突き詰めると、日常生活をまともに過ごすことができなくなる。『宇宙の果てのレストラン』に出てくる宇宙の支配者のように、すべてを疑って生きる訳にはいかない。むしろ、ヒュームの言う通り、懐疑主義の哲学はしばらく脇において、友達と喋ったり食事を共にしたりして息抜きしたっていいのではないか。『宇宙の果てのレストラン』のラストでフォードが言う通り、人生の意味について考えるのは、所詮、「たわいのない頭の体操」(風見訳、p. 309)である。そういうことを考えるのは止められないとしても、だからと言って四六時中悩み続ける必要はないのだ。それに、この世界には、うっかり思考の深みにはまって絶望してしまう前に、我々の気をそらしてくれるものがたくさんある――ゴルガフリンチャムのかわいい女の子ではないとしても。
 
5 あわてるな

 不条理と折り合いをつけて生きていくためにはどうすればいいか。シーシュポスはカミュの見解を仰ぐべきかもしれないが、我々はスラーティバートファーストの言葉に耳を傾けたほうが良いのではないか。  

「老いぼれてしまったせいかもしれんが、わたしはずっとこう思っておるんだ――ほんとうはなにが起こっているのかわかる可能性は、もうお話にならんほど小さいものだ。とすれば、意味なんぞ考えるのはやめにして、その時間をほかのことに使えと言うしかなかろう」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p.257)

 大体、我々が人生の目的だとか不条理だとか言い出すのは、退屈している時だ。この現象について、ピーター・シンガーは、1950年代のアメリカの専業主婦が感じていた不満を引き合いに出す。  

居心地のいい家には便利な電気製品があり、おかげで家事は一、二時間で終わってしまう。買い物だってスーパーマーケットに行けば一週間分の家族のものを買うのに一時間しかかからない。そんななかで郊外の主婦たちは孤独な生活をおくっていた。家族の面倒を見ることだけが仕事なのに、子供はすぐに学校に行きだして日中は家にいなくなる。帰ってきても残りの時間の大半はテレビを見て過ごしている(『私たちはどう生きるべきか』、p. 298)。

 他にすることがないから不満や倦怠を抱くようになるのだとすれば、不満や倦怠から逃れる一番の方法は、何かすることを見つけることである。何でもいいかもしれないが、シンガーの見解では、何かやるなら倫理的な価値の高いことを人生の最終目的にするのが一番、ということになるが、実際、人類のおかれている状況の不条理さについてくよくよ悩むくらいなら、外に出て行って何か世の中の役に立つことをするほうがいい。
 具体的にどういうことをすべきか、については異論もあろうが、ともあれ忙しくしていれば人生の不条理さについてかまけているヒマはない。問題は解決されずに残っているが、気にならなくなる。まさしく、スラーティバートファーストが言っていたように。
 何だか不条理だな、と感じることがあったとしても、気にしないのが一番だ。汎銀河ウガイ薬バクダンを一杯やるのもいいが、何か新しいことを始めてみるという手もある。空の飛び方をマスターして鳥とおしゃべりする方法を学ぶとか、突然イルカがいなくなった原因を探るとか、何だっていい。哲学上な問題にぶちあたったなら、頭の中で考え続けるのではなく。ヒッチハイクの旅に出かけよう。ただし、タオルはお忘れなく。
 


4. The Wowbagger Case: Immortality and What Makes Life Meaningful Timothy Chappell

1 不死のワウバッガー

 無限引き伸ばされワウバッガーは、この宇宙にまれな不死人のひとりであった――いや、ひとりである。
 不死に生まれついた人々は、それと折り合っていくすべを本能的に知っているものだが、ワウバッガーはそういう不死人ではなかった。それどころか、そういう悟り澄ましたろくでなしどもを憎んでいた。彼が不死性をうっかり獲得してしまったのは、さる不運な事故のためだった。(略)
 最初のうちは愉快だった。大いに人生を楽しんでいた。命がけの危険に身をさらしても平気だし、いちかばちかのばくちも打てるし、有利な長期投資でぼろ儲けもできるし、ともかく早い話だれより長生きできるのだから。
 結局のところ、耐えられなかったのは日曜の午後だった。恐ろしい無気力がだいたい午後二時五十五分ごろに始まる。いくら快適でも、一日にそう何度も入浴できないと悟るころ。どんなに一心ににらんでいても、新聞の内容がさっぱり頭に入ってこないと気づく、あるいはそこに書いてあるまったく新しい剪定法を使うことはないと気づくころ。時計を見つめれば針は容赦なく四時に近づいていく、そして長く暗い魂のティータイムが始まると悟るころ。
 こうしてすべてが退屈になってきた。人の葬式に出るたびうれしそうににこにこしていたものだが、その笑みも色あせはじめた。広くは宇宙そのものが、狭くはそこに済むだれもかれもが憎くなってきた。
 この目的を思いついたのはこのころのことだった。この目的があれば前に進める。それも彼にわかるかぎりでは永遠に。その目的とはこうだ。
 宇宙を侮辱してやる。(安原訳『宇宙クリケット大戦争』、pp. 12-13)

 

 ワウバッガーは、不死の人生を意味あるものにするため、宇宙の全員をアルファベット順に侮辱していく計画を立てる。たとえ不死だったとしても、なかなかに挑戦しがいのある計画だが、そこまでひねくれていない代案はないものだろうか。
 「不死に生まれついた人々は、それと折り合っていくすべを本能的に知っている」とアダムスは書いたが、その「すべ」がどういうものかまでは書き残してくれなかった。バーナード・ウィリアムズやエイドリアン・ムーアといった高名な哲学者たちは、不死と折り合いをつけることはできない、と言うけれど、このエッセイでは、そんなことはない、と反証したい。限りがあろうとなかろうと、人生を意味あるものにすることは可能だ、と。
 
2 人生の有限性と無意味さの脅威

 永遠の命なんて無意味だ、限りある命だからこそ素晴らしい――という常套句にごまかされてはいけない。往々にしてこの世が無意味に思えるのは、永遠に生きられるからではなく、いつか死ぬ運命にあるからだ。  

おお、闇、闇、闇。人びとはすべて闇の中へ、
星座のあいだの何もない空間、空虚が空虚の中へ、
船長たち、銀行家たち、有名作家たち、
金ばなれのよい芸術の庇護者たち、大物政治家たち、組織の支配者たち、
高級官僚たち、いくつもの会議の議長たち、
大資本家たちと中小企業家たち、みんな闇に呑まれて、
『日月新報』も暗く、『ゴーダ王室名鑑』も、
『証券取引新聞』も、『商工人名録』も。
感覚は冷たく、行為の動機も消えてしまった。
わたしたちもみな彼らとともに、声なき弔いに加わるのだ、
誰の弔いとも言えぬ、埋葬すべき者のいない弔いに。
(T・S・エリオット『四つの四重奏』、pp. 65-66)

王のこめかみにとりまいているうつろな王冠のなかでは、
死神という道化師めが支配権を握っており、
王の威光をばかにし、王の栄華をあざ笑っておるのだ。
そしてつかの間の時を与えて、一幕芝居を演じさせる、
そこで国王として君臨し、畏敬され、目でもって人を殺し、
まるでいのちを守る肉体という城壁が、永遠に攻め落とせぬ
金城鉄壁であるかのように思いこみ、むなしいうぬぼれに
ふくれあがっていると、さんざんいい気にさせておいた
死神めは、時はよしとばかり、小さな針の一刺しで
その城壁に穴を開け、王よ、さらば! というわけだ。
(シェイクスピア『リチャード二世』、pp. 110-111)

 T・S・エリオットもシェイクスピアも限りある命の無意味さについて謳っているが、両者の意味合いはちょっと違う。
 前者では、私たちは自分たちの人生を意味あるものにしようと、いろいろな計画を立てても、それらにはすべて時間制限がある、と語る。死という名前の締め切りだ。こんな締め切りがなかったら、どんなにいいだろう。どんな計画にも、無限に時間をかけて取り組めるのだから。
 後者の考えは、さらに陰気だ。たとえ私たちが死ぬ前に何事かを成し遂げたとしても、それもいつかは失われる。後には何も残らない。W・B・イェイツの詩の中で、プラトンの幽霊が"What then?"と繰り返すように。
 哲学者トマス・ネーゲルは、人間は誰でも二つの視点を持っていると説く。内なる自分と、そんな自分を客観的に外から観察する自分だ。この二つの視点を持ち続ける以上、人間は自分自身のちっぽけさを意識しないでは済まない、ということになる。
 これはある意味、スピノザの哲学に通じるものがある。あるいは、総合認識渦動化装置にも。このような視点に立てば、死すべき運命にある我々など無意味もいいところだ。しかし、「小さすぎる我々」対「大きすぎる宇宙」というなら、小さいが故にむしろ我々の存在は貴重なのだと言えなくもない。あるいは、見方を変えてみようか。そもそも、宇宙自体に何の重要性もない、とだって言える――結局のところ、重要性の有無なんて誰にも決めることはできないのだ。
 サイズの大小で重要かどうかを決めるのは誤った結論である。大きいか小さいかの問題は、重要性の程度と何の関係もないからだ。ならば同様に、不死であるかどうかも、意味のある人生を送れるかどうかとは関係がないと言えるかもしれない。たとえ不死だったとしても、たとえゼイフォードのような宇宙一の大物だったとしても、やっぱり人生は虚しいと感じることがあるだろう。これはもう、理屈ではなく気分の問題だ。人生には意味などないのでは、と思えることについて、ウィトゲンシュタインは適切に言ってのけた。「生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく」(『論理哲学論考』、p. 148)
 限りある人生が無意味に思えるのは、どんなに充実した暮らしをし、いろいろなことを成し遂げたとしても、最後には死が待っているからである。死によって、生前に成し遂げたことが無になる訳でなかったとしても、生き続けていればこの先もっといろいろなことができたはず、と考えてしまう。欲しいものすべてを手に入れることはできないのだ。
 じゃあ、不死であれば欲しいものがすべて手に入るのか? 勿論、そうとは限らない。でも、死が望みをすべてかなえるための制約の一つであるなら、そんな制約はないにこしたことはない。また、死ぬかもしれない、と尻込みしてしまうような課題だって実行できるようになるだろう。仏教には、すべての欲を捨てることが悟り=幸福への道だ、という考え方があるけれど、悟りを開くという欲を叶えるためなら他のすべてを捨てても惜しくない、と言い換えることもできる。
 不死など生物学的に不可能だ、という声もある。生まれて、老いて、死ぬのが自然のサイクルだ、とも。でも、この文章では、たとえ生物学的には不可能だとしても不死でありたいと望むことは理にかなっているかどうかを検証したい。
 これまでの主張を振り返ってみると、人生を意味あるものにするのは、さまざまな課題をこなし、成功することである。そして、人生が順調に進んでいる間は、このままずっと生き続けてられたらいいな、と迷わず思うだろうし、また、かくも意味深い人生が死によって奪われるという無意味さに怯えなくて済むならもっといいな、と思うだろう。
 ハイデガーの『存在と時間』によれば、死という終わりがなくなれば、生も形を失って無意味なものになるだろう、とのこと。いつか死ぬと分かっているからこそ、集中力が増すのだ、と。でも、そのような主張は、私に言わせれば、良い哲学エッセイを書くなら試験時間内に大急ぎで仕上げればいい、というようなものだ。私の経験からいって、試験時間のプレッシャーの下で何とかおもしろいアイディアを思いついたとしても、「ああ、このアイディアについてもっとじっくり考える時間があればよかったのに!」と思うのがオチである。
 死がなくなって形が失われるとしても、それはある一次元に関してだけのことだ。不死の人生には、多くの完結した物語が含まれる。が、人生そのものが完結した物語となることはない。だからと言って、終わらない物語と化した人生が、これまでの物語のような形状を失うということを意味しない。物語に形を与えるのは、そこに含まれている課題次第だからだ。また、物語に形を与えるものは死だけではない。限界こそが形を与えるのだとしたら、私たちは、たとえ不死でも、依然「今/ここ」という時間的・空間的限界に縛られていると言える。
 とは言え、より多くを手に入れられるから、というだけの単純な理由で不死を支持している訳ではない。何でも多ければいい、というものではない。ただ、幸福な人生を送っていたら、この先ずっと続いてほしいと思うのは自然なことではないだろうか。私自身、そのように感じたことがあるし、それはごく当たり前のことだ、と言いたい。当たり前すぎて、特に議論されることもなかっただけだ、と。
 とは言え、これまでのところ、幸せな生活を満たしてくれる課題とはどんなものかについては言及してこなかった。多分、本人さえ満足なら何でもいいのでないか。それがどんなにありふれた、つまらないものだったとしても。ニック・ホーンビィの小説『アバウト・ア・ボーイ』の中で、鬱病持ちで、多幸症とはお世辞にも言えない登場人物の一人がこう語っているように。  

あのね、何年か前だけどさ、わたし、ほんとにほんとに落ちこんで、その……(註・自殺のことをほのめかして)わかるでしょ(略)……とにかくいつだって、今日はダメ、って感じだったの。明日はわからないけど、今日はやっちゃダメ。そうやって数週間すぎたら、そんなことは絶対にやらないだろうってわかった。だって、ほかにやりたいことがあったんだもん。人生は最高って感じじゃなかったし、進んでそこに参加したいって感じでもなかった。だけどね、いつだって必ず、ひとつかふたつ、やり残したことがあるって気分だった。それをやっておかなきゃ、って。あなたが『NYPDブルー』の次の展開を知りたいって考えるのと同じこと。本の仕事を終えたばかりだとしたら、実際に出版されるのを見とどけたかった。男の人とつきあってるんだったら、もう一度だけデートしたかった。アリ(註・語り手の息子)の懇談会が近づいているときだったら、先生と話がしたかった。そんな、ささいなこと。でも、いつだって、何かがあったんだよね。そして最後には、いつだって、どんなときだって、必ず何かがあるんだってことに気づいたの。それだけで充分なんだ、って(pp. 374-375)

 どんなものでも、生き甲斐になりうる。だとしたら、無限の宇宙には、生きるに値すると感じられる事柄も無限にあるにちがいない。
 
3 マクロプロス事件:不死に対する反証

 カレル・チャペックの戯曲「マクロプロス事件」(1922年)に登場するエリーナ・マクロプロスは、定期的に不老不死の薬を飲むことで、43歳の肉体のまま300年も生きている。が、次第に生きることに退屈を憶え、最後には薬を飲むのを止めてしまう。
 哲学者バーナード・ウィリアムズは、この戯曲を踏まえ、不死の人生を有意義に生きることは不可能だとする論文を書いた。かなり難解な論文なので解釈も一様ではないが、ウィリアムズが考える不死のジレンマとは、要約するとこういうことだ。不死だとしても、その人の持って生まれた気質や性格が途中で変わる訳ではない。だとすれば、結局は似たような人生の体験を永遠に反復するだけのことになる。反復を止めたければ死ぬしかない。
 だが、本当にそうだろうか。同じような体験だとしても、一度目を体験した後に二度目を体験する時では、立ち向かい方に違いが出るのではないか。また、一度切り抜けた試練に、再び切り抜けねばならないとしても、最初の時に生き延びたいと思ったのなら、二度目もきっとそう思うのでは?
 同じ人が同じ体験を繰り返したとしても、初めての時より二度目のほうがより楽しめる、というのはよくあることだ。同じ山を同じルートでもう一度登ったとしても、それは初めての時とまったく同じ体験になるだろうか? あるいは、同じプロダクションによる同じ演目のオペラを二回繰り返して聴くことは? 同じであって同じでない、としか言いようがない。
 たとえどんなに好きだったとしても、あまりに何度も繰り返すとイヤになってしまう、あるいは退屈してしまう、ということはあるかもしれない。どんなものでもいつかは飽きる、としても、いつまでもずっと同じものに固執していないで、他の新しいことを試してみればいいではないか。試してみる価値のある課題なら、それこそ無限のバリエーションがあるのだから。
 とは言え、退屈することはどういうことか、ちょっと考えてみよう。退屈とは相対的なものだ。絶対的に退屈なものは、存在しない。私がXというものに退屈したとしよう。Xは、もはや私に何も与えてくれない。が、X以外に私が興味を持っているものがあるとしたら、たとえXのことを退屈だと思っていたとしても何の問題もない。むしろ、新しいことに興味を惹かれたせいでXが退屈に思えてきただけのことだ。これが第一の退屈だとしたら、第二の退屈は、そもそもやる価値があると思える課題を持っていないせいで、何もかもが退屈に感じられる、ということ。第三の退屈は、やりがいがあると思っていた課題そのものに飽きてしまう、ということ。
 第一の退屈はともかく、第二、第三の退屈については、理性的とは思えない。やりがいのある課題がない、また課題はあるけど心が動かなくなった、というのは、ただ「生きる喜びを感じられなくなった」というだけのことにすぎない。それは、先に述べた通り、単なる気分の問題である。途中でイヤになって課題を投げ出したり、関心が薄らいでうんざりすることがあったとしても、退屈が合理的な帰結であるとすることはできない。
 ウィリアムズの論議を支持したければ、退屈するのは理にかなっていると証明しなければならないが、それには無理がある。AがXに退屈していることを正当化しようとするなら、Aは、Xが退屈なのはAが抱えている課題にXが何も寄与しないからだ、と言うほかない。つまり、何かを退屈だと主張したいなら、退屈ではない課題Yを抱えている必要がある。ということで、ウィリアムズの言う、一見もっともらしい果てしなき退屈は、単なる幻想である。
 


5. 'I Think You Ought to Know I'm Feeling Very Depressed': Marvin and Artificial Intelligence Jerry Goodenough

 私がマーヴィンと初めて出会ったのは、1978年3月15日、ラジオドラマ第2話の初回放送の時だった。以来、私はずっとマーヴィンの大ファンだが、私が思うにその理由は、マーヴィンはロボットとか人工知能とはどういうものなのかを考えるきっかけを与えてくれるからだ。そしてそれは、人間とはいかなるものなのかを知るための手がかりでもある。
 
1 ロボットとは何か

 ロボットは、人工物である。非生物の機械として誕生したが、科学とSFの発展につれ、そう単純でもなくなった。たとえばメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に出てくるクリーチャーは、100パーセント有機物で造られた(その結果、マーヴィンより不幸なものになってしまったけれど)。その後、映画『ロボコップ』のサイボーグのように機械の身体と生身の頭脳をつないだものや、テレビドラマ『新スター・トレック』のデータ少佐のように人工知能でありながら身体の一部が有機物だったりするものも登場する。
 SFにおけるロボットの系譜は、二種類に大別できる。一つは、感情を一切持たない/理解しない機械としてのロボット。ロボットという言葉の語源ともなったカレル・チャペックの『R.U.R』に出てくるのは、このタイプだ。もう少し最近の例を挙げるなら、映画『ターミネーター』だろう。外見は人間そっくりなのに、人間的な感情はまったくなし、与えられた任務を遂行すること以外何も考えないロボットの姿は、観ていて恐ろしい。
 もう一つは、もっと人間にフレンドリーなタイプのロボットやコンピュータ。映画『禁断の惑星』のロビーや、『2001年宇宙の旅』のHALなどが挙げられる(HALは途中で発狂して乗組員たちを殺し始めるけれど!)。先のタイプに比べれば親しみが持てるはずなのに、このタイプはこのタイプで何だか薄気味悪く感じられてならない。表面上は友好的でも、それが本当の感情なのか、あるいはそのようにプログラムされて振る舞っているだけなのか、区別がつかないからだ。では、『銀河ヒッチハイク・ガイド』から例を出そう。
 〈黄金の心〉号のメイン・コンピュータ、エディは、陽気な「性格」を与えられている。が、乗組員たちを寛がせるどころか、当惑させてばかりいる。過剰に陽気なだけで、場の空気が読めないからだ(もっとも、エディの性格プログラムはプロトタイプだから、まだバグが残っているだけなのかもしれないが)。
 小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の5作目、『ほとんど無害』には、コリンというロボットが登場する。ひたすら陽気で、ご主人さまを喜ばせることだけを考えているこのロボットは、とてつもないバカにも見える――知性が熱意と元気に追いついていないという意味では、ラブラドールの子犬と似ている、と言えなくもない(もっとも、このコリンの性格も、本来のプログラミングをフォードが勝手にいじった結果ではあるのだが)。また、『宇宙の果てのレストラン』には、不必要な知性を与えられたせいでノイローゼになるエレベーターが出てくる。一般の消費者にとっては必要のない機能を大量に搭載した商品が製造される現状を反映している、と言えなくもない。
 この他に、ロボットではないけれどまるでロボットのような反応をするキャラクター、というものもある。『スター・トレック』のミスター・スポックや『新スター・トレック』のデータ少佐がその好例だ。ドラマの中での彼らの役割は、主に視聴者に笑いを与えることであって、ストーリー上の重要な決断は、カーク船長やピカード船長が感情に基づいて下す。『スター・トレック』の世界では、それで正解とされているけれど、でも本当にそうなのだろうか?
 
2 哲学者は感情についてどう感じているか

 歴史的に見て、哲学は、理性と感情の関係に正しく向き合ってきたとは言えない。哲学者たちは、感情とは肉体的な弱さであり、克服すべきものだと考えていた。プラトンは、著書『パイドン』の中で、肉体は物事を論理的に考えたり知識を獲得したりする弊害になると主張し、こういった考え方が西洋哲学の伝統としてその後何百年と続いた。17世紀のデカルトの著書においても、同様の記述が見られる。
 が、精神と肉体はすっぱりと切り離すことができる、というなら、たとえ肉体がなくなっても精神は存在し続けると考えなければならない。
 デカルトは、晩年、感情と肉体のつながりについて考えをめぐらすようになり、死の前年に『情念論』を出版した。情念は、肉体によってもたらされる身体機能だが、身体とは切り離された別の情念として、意志が存在する。意志という情念がその他のすべての情念を制御するのが最上、と、デカルトは説く。

情念がすすめることが、その実行がいくらか遅れてもよいときは、それについて、即座に判断をくだすのを差し控え、時間と静止によって血液中の動揺が完全に鎮められるまで他のことを考えて気を紛らわさなければならない。そして最後に、情念の促す行動が即座の決意を必要とするとき、情念の示す理由より弱く見えようと、それとは反対の理由のほうをおもに注視して従うよう、意志をむけなければならない。(略)知恵の主要な有用性は、次のことにある。すなわち、みずからの情念の主人となして、情念を巧みに操縦することを教え、かくして、情念の引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、さらには、それらすべてから喜びを引き出すようにするのである。(pp. 179-181)

  スピノザも、すべての感情をコントロールすることで幸せになれると考えた一人だった。が、近代に入ると、理性すら本質的には感情の奴隷にすぎないのではないか、という考え方が出てくる。
 デイヴィッド・ヒュームは、著書『人間本性論』の中で、理性だけでは人は動かないと説く。むしろ、強い情念や感情や動機が、人を行動に駆り立てる――我々には、理性と同じくらい感情も必要なのだ、と。感情なしに理性は働かない、と言ってもいい。私もヒュームの考え方に賛成であり、以下の章で私なりの説明を試みるつもりだ。
 
3 感情と理性を科学する

 神経学者アントニオ・R・ダマシオは、著書『デカルトの誤り』(1994年)の中で、感情と理性に関する従来の考え方(感情に屈せず、理性的であれ)に異を唱えている。
 ダマシオいわく、彼の神経学研究の結果、感情を持たないほうが、非論理的な行動を取る可能性が高くなるという。ダマシオは、感情を司る前頭葉に傷を負った患者の例を挙げて論証する。
 近代医学における最初の症例は、1848年のフィネアス・ゲージだろう。ゲージは、事故で鉄の棒が頭を完全に突き抜けるも生還し、記憶にも論理的思考にも問題はなかった。が、前頭葉に傷を負ったことで性格は一変し、優秀なビジネスマンだったゲージは、生還後、気まぐれで自分勝手な人間へと変貌する。他人の感情というものを理解できなくなったためだ。論理的に考え、新しいビジネスプランを思いつくことはできても、それを熟考し実現することができない。結局、ゲージはサーカスの見世物小屋に出ることでしか生活の糧を稼げなくなり、事故から13年後、てんかんの発作を起こして38歳の若さでこの世を去った。
 ダマスクは、ゲージ以外にもっと最近の症例も挙げた上で、人間の頭の中で感情と理性は分ち難く結びついていると語る。この二つを切り離すことは、はなから不可能なのだ。
 だとすると、感情なしで純粋に理性的に行動するミスター・スポックのような存在はあり得ないのだろうか? でも、ヴァルカン人は、少なくとも我々と同じ、有機的な生命体である。さらに進んで、ロボットに感情を与えたらどうなるかを検証してみよう。
 
4 ロボットは感情を持てるか?

 どうしてロボットには感情がないと言えるのか? この問いに対する従来の答えは、「肉体がないから」。感情は肉体の産物であり、だからこそ感情から自由になりたいと願うソクラテスは肉体からの解放を願った。実際、人工物であっても有機物で出来たものには感情があると考えられた(フランケンシュタイン博士が造ったクリーチャーがいい例だ)。
 が、SF作品には、有機的な生命体だが感情面で難あり、という例はいくらもある。その代表格が『スター・トレック』に出てくるミスター・スポックだ。彼は、ヴァルカン人と地球人のハーフであり、人間が普通に持っている感情を欠いている、ように見える。自身が感情的になることがないため、他の人間が感情まじりの決断を下すことが理解できない。とは言え、ヴァルカン人にも最低限の感情はあるはずだ――おなかがすいたから何か食べたい、とか、眠りたい、とか。そうでなければ、どうして家族を持ち、子供を育てることができようか。実際、スポックとカークの間に、友情という名の感情的なつながりを見て取ることだってできる。
 『新スター・トレック』のデータ少佐は、スポックとマーヴィンの中間に位置している。ドラマの中では、データ少佐が完全に機械なのか部分的には生身のサイボーグなのか、はっきりとは語られていないが、スポック同様、人間の感情を理解するのに苦労している。
 スポックやデータは、ある意味、自閉症の人間に似ている。自閉症の研究者、サイモン・バロン=コーエンは、そのような状態を「マインド・ブラインドネス」と呼んだ。彼らには、「私たちの多くにとってあたりまえの行動の基礎をなしている思考や信念、知識、欲求、意図が見えない」(p. 20)。高い知能や特別な才能を持つ者もいるが、他人の思考や感情というものを理解できないのだ(マーク・ハッドンのベストセラー小説『夜中に犬に起こった奇妙な出来事』を読むと、自閉症の人たちの目にうつる世界がどのようなものか、想像する手がかりが得ることができる)。この考えは、マーヴィンを理解する一助にならないだろうか――スポックやデータと違って、マーヴィンが自閉症っぽく見えないのは何故か。
 その理由は、マーヴィンには感情があるからである。いつだって暗く落ち込んでいるけれど、それだって立派な感情だ。確かにマーヴィンは人付き合いは悪いけれど、人のことはちゃんと理解できている。
 ロボットは機械だから感情はない、と決めつけるべきではない。性欲や食欲といった、ある種の感情は欠いているかもしれない。が、ロボットにだって、少なくとも「苦痛」という感情は必要だ。なにがしかの苦痛を感じるからこそ、人は自分の身体の異常に気付くことができるのであり、それはロボットにとっても同じである。故に、マーヴィンが「ひどく痛むんです。左半身のダイオードが残らず……」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 141)と愚痴るのは、驚くに値しない。マーヴィンの愚痴は、シリーズ4作目になっても続いている。

「あなたたちをブリッジに案内するという、かくべつ知力を要する仕事を与えられたときでした。あのときわたしは、左側のダイオードが残らずひどく痛むんだといったでしょう。交換してくれと頼んでいるのに、だれも聞いてくれないって」(略)
「当ててごらんなさい」じゅうぶん居心地が悪くなるほど間を置いたと判断して、マーヴィンは口を開いた。「一度も交換されていない部品はどれだと思います? ほら、当ててごらんなさいったら」
「ああ痛い」彼は付け加えた。「痛い、痛い、痛い、痛い、痛い」(『さようなら、いままで魚をありがとう』、pp. 265-266)

 マーヴィンの文句を誰も真剣に聞かなかったことについては、後ほど振り返る。でもその前に、少し視点を変えて考えてみよう。マーヴィンにある程度以上の感情があるとしたら、自我や人格といったものも必要となるのではないか?
  
5 ロボットにも自我がある?

 ロボットは、人間に替わって仕事をさせるためにある。人間がロボットに逐一指示を出せるならいいが、人間が立ち入れないような場所(たとえば火星とか)で働かせるとなると、ロボット自身で判断を下せるようにならなければならない。
 単にプログラム化されたパターン通りに動くだけでいいなら、知性とは呼べない。が、特殊な環境の中で複雑な状況に対応するためには、まずはロボットも「自分」というものを知覚する必要がある。人間が、自分の身体を通じて、自分より右側にある、とか、物体Aは物体Bより遠いところにある、という形で世界を認識し、その認識に基づいて行動するように。大きな岩が物体XYZの上に落ちてくる、と認識しただけなら誰も何もしない。物体XYZとは自分だ、と知っていて初めて行動に移すのだ。おまけに、聴覚や視覚、触感といった、外界からのさまざまな情報を統合し、一つの世界像を作り上げるというのは、想像以上に難しい。
 さらに、ロボットには自分と自分以外を区別する必要がある。金属片が必要になったからといって、自分の足を切り落とすようなロボットであっては困るからだ。その上で、ロボットは自分の身体を主体的に動かしてもらわなければならない。
 それでも、こういった条件だけなら、ロボットに感情は必要ないように思える。が、実際には、ロボットは一緒に仕事をするものであり、仕事を巧く片付けるためには人間の感情がどのように作用するかを理解しなければならない。ロボットには自閉症患者のように振る舞って欲しくない、とでも言おうか。哲学者がいうところの「心の理論」を、ロボットにも最低限分かってもらいたいものだ――人間の発達段階で言えば、4歳児相当レベルでいいから。
 
6 どうしてマーヴィンは不幸なのか

 どうしてマーヴィンは不幸なのだろう。というか、そんな質問をする値打ちはあるのだろうか? 後者の問いについては、こう答えよう。マーヴィンがどうして不幸になったのか、何がマーヴィンの不幸の原因だったのかを探っていくと、我々自身のことについて何やら興味深いことが見えてくるからだ、と。
 マーヴィンについて分かっていることをおさらいしておこう。彼は巨大な知性を持った人工知能であり、本人もそのことを自覚している。彼には欲望があり、自我もある(いつだって自分の偉大さを周りに分かってもらいたがっている)。彼は繊細で、自分のことにかまけすぎていないときは、周りの人間の感情にも気付いている。実際、彼は自分の感情が他の人々の感情にもたらす影響すらも見てとっている。  

「話をしたいふりなんかしないでください。あなたがわたしを嫌っているのはわかっているんです」
「そんなことないさ」
「いいえあります。みんなそうなんです。それは宇宙の成り立ちの一部なんです。わたしが話しかけただけで、みんなわたしを嫌うんです。ロボットさえわたしを嫌うんです。どうぞ無視してください。そうすればすぐに立ち去って、もうお邪魔はしませんから」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 286)

 18世紀の哲学者ジャン・ジャック=ルソーは、著書『人間不平等起源論』の中で、人々が社会の中でいかに暮らすべきかを説いた。ルソーいわく、人間にはまず「自己愛」があり、大人になるにつれ「利己愛」を発達させていく。「自己愛」とは、自意識を持ち、自分の欲求を満たしたいと思うことであり、人間に限らず下等な動物だって持っている。それに対し、「利己愛」とは人間特有のもので、虚栄心や名誉欲など、人間同士の社会の中で育まれる。要するに、自分が他の人からどう見られるかが気になる、ということだ。
 「利己愛」は、自信や野心を生み出しもするが、むしろ社会的悪徳に繋がることのほうが多い、とルソーは強調する。他の人から良く見られたいと願うあまり、素の自分を隠して着飾ってみせるようになるからだ。かくして、この世は見た目がすべて、ということになる。1978年、アダムスが「人々はデジタル時計をしていればクールだと思っていた」と指摘したように。
 ルソーの洞察に従えば、マーヴィンが不幸になる理由は明白だ。マーヴィンには巨大な知能も卓越した技能もある。となれば、自分はある程度以上の賞賛を受けて当然だとマーヴィンが考えるのは当然だ。が、彼は誰からも顧みられない。彼に与えられるのは、どうでもいい仕事だけだ。「わたしはね、惑星規模の頭脳の持ち主なんですよ。そのわたしに、あなたたちをブリッジに連れてこいというんです。仕事のやりがいですって? なんですか、それは」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 129)
 
 マーヴィンは、他の人から自分の能力を認めてもらえないばかりか、しばしば忘れられ、置き去りにされる。  

「五千七百六十億と三千五百七十九年間です」マーヴィンは言った。「数えていたんです」(略)
「最初の一千万年間は最悪でした」マーヴィンは言った。「その次の一千年間もやはり最悪でした。その次の一千万年間はちっとも楽しくありませんでした。そのあとはだんだん具合が悪くなってきて」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p.187)

 ミリウェイズの駐車場で働かされ、客からひどい扱いを受けるうちに、マーヴィンの自己評価はどんどん下がっていく。  

「でも、わたしはプライドを傷つけられるのには慣れています」マーヴィンはものうげに言った。「お望みなら、バケツの水に頭を突っ込んでもいいですよ。バケツの水に頭を突っ込みましょうか? ここに用意してあります。ちょっと待っててください」(同、p.181)

 マーヴィンは他の人の気を滅入らせる。そのため、他の人はマーヴィンを避けようとする。すると、マーヴィンはますます落ち込む。悪循環である。やがて、マーヴィンは人間だけでなく人工知能も憎み始める。『宇宙の果てのレストラン』第7章で、マーヴィンは戦闘マシンをまんまと自己破壊に導いて、満足に近い気分を得た。「なんてばかな機械だ。ああ気が滅入る」(同、p.80)
 マーヴィンが不幸なのは、彼が我々人間と同じだからである。SF作品に出てくるロボットは、人間にはない能力を活かして仕事をすることが求められている。さまざまな仕事を巧くこなすために、ロボットには理性が必要だし、また理性をうまく活用するには感情が必要となる。感情なしの理性では、人間の感情や動機が理解できず、仕事を的確に行うことができないからだ。が、ロボットに感情を与えると、ロボットにも自我や自尊心が生まれ、「利己愛」、つまり虚栄心や失望や幻滅といった感情も持つことになる。
 マーヴィンは我々人間の似姿だ。だから、マーヴィンを少しでも幸せにしたいなら、彼を道具や奴隷としてではなく、我々と同じ人間として接すればいい。
 


6. From Deep Thought to Digital Metaphysics Barry Dainton

ほんとうはなにが起きているのかわかる可能性は、もうお話にならんほど小さいものだ。とすれば、意味なんぞ考えるのはやめにして、その時間をほかのことに使えというしかなかろう。たとえばこのわたしだ。海岸線の設計が仕事だ。ノルウェーでは賞をもらった。(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p.257)
 
 そのコンピュータは名前を地球≠ニ言ったが、これはあまりに大きかったためしょっちゅう惑星とまちがえられていた。とくに、その表面をうろついていた奇妙なサルに似た生きものは、自分たちが巨大なコンピュータ・プログラムの一部にすぎないということにまったく気づいていなかった。(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p.8)

 
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズは、興味深い哲学的考案の宝庫だ。たとえば、「超知性を備えた青い色('a super-intelligent shade of blue')」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p.54)と説明されるフルヴーなど、知性とは複雑な構造の肉体に宿るものだという我々の思い込みを突いてくる。
 この章では、地球が実は哲学的難題を解くための道具だった、という点に着目したい。地球は、ねずみが設計し、金を払い、管理する巨大コンピュータだった。さらに、そのプルグラム自体、ディープ・ソートという別の巨大コンピュータが計算したものだった。ディープ・ソートは、「生命と宇宙と万物についての究極の答」を「42」と計算したが、そもそも「生命と宇宙と万物についての究極の問い」とは何かを計算することはできなかったので、それを見つけ出すためにより強力なコンピュータ=地球が必要となったのだ。
 現実に、このようなことはありえるのだろうか? 惑星のような形状のコンピュータ? 我々自身もコンピュータ・プログラムの一部? そして、スーパー・コンピュータがすべての問いに対する答えを見つけるということは、本当に可能なのだろうか?
 
1. 地球はコンピュータ?

 我々が知っているコンピュータの中身、ハードディスクドライヴとかシリコンチップといったものと、地球を形成する物質や要素――海や大気、さまざまな種類の生命体、さらには人間が作り出した村や街のようなものもある――は、まったく別物だ。だから、地球がデスクトップ・コンピュータのような情報処理の装置になりうるとは到底思えない。
 いわゆるデスクトップ・コンピュータは、UCC(university classic computer)と呼ばれる。これは、一連の指示、つまりコンピュータ・プログラムに従ってパターンを記憶したり操作したりする装置のことだ。パターンは1と0で表され、どんなに複雑そうに見える計算も、実際には何ら特別な知性を必要としない、単純な機械的操作に還元される。が、1936年の時点で既に、アラン・チューリングはこの一見単純な操作が持つ真の可能性を示唆した。UCCは、別のUCCにプログラムを実行させることができる、と。だとしたら、UCCに計算できないものはない、ということになる。
 さらに言うと、UCCは別にシリコン製である必要はない。シリコンは安価で小さくて信頼性が高いから現在のUCCに広く用いられているだけのことで、そもそもチューリングが最初に考えたUCCは、紙と鉄で出来ていた。1936年には、まだシリコンチップが開発されていなかったからである。さらに時代を100年ほど遡って、UCCの原型とも言える最初の「分析機関('analytical engine')」を創案したチャールズ・バベッジは、家一軒分のサイズがある、蒸気で動くマシンをイメージしていた。金がかかりすぎるという理由でバベッジのプロジェクトを実現には至らなかったが、1970年代に再現してみようという試みが行われた時には、材料に木製のディスクと紡錘が用いられた。
 UCCの素材が何でもありなら、惑星を丸ごと使って何が悪い、ということになる。たとえば、都市の交通網を、コンピュータのデータ網にする、とか。あるいは、水たまりのバクテリアがもたらす化学的変化を、コンピュータ・システムと連動させる、とか。勿論、実際にはそう簡単にプログラム化することはできないだろうが、だからって不可能とは言いきれない。
 
2. 宇宙=コンピュータ?

 UCCの他にも、別の種類の演算方法を用いたコンピュータが出てくる可能性はある。有力候補の一つが、「セル・オートマトン(cellular automata, CA)」。格子状のセルに単純な規則性を与えて計算させるもので、隣り合ったセルをオン(生きている)かオフ(死んでいる)かによって、そのセルをオンがオンになるかオフになるかが決定され、変化する。
 単純な2Dの格子セルを使ったプログラムでもっとも有名なのが、イギリスの数学者ジョン・コンウェイの'game of life'(ライフゲーム)である。一個のセルを取り巻く計8個のセルの状態によってオンかオフかを決めさせる、というものだが、たった3つの規則を与えるだけで、安定して変化のないパターンもあれば、激しく変化し続けるパターンもある。2Dを使ってですらこれほど多様なパターンが見られるのだから、3Dともなればさらに複雑なことになることは間違いない。
 CAが単純なものから複雑なものを生み出す様は、現実世界がまるで一つのセル・オートマトン式コンピュータであるかのように思わせる。宇宙は複雑で多様なものから成り立っているけれど、科学はその複雑さの底にある極めて単純な規則性を明らかにするからだ。実際、ドイツの土木技術者でコンピュータ研究の先駆でもあるコンラート・ツーゼは、かなり早い時点から、宇宙全体が一つのCAである可能性を示唆した。物理学者のエドワード・フレドキンやスティーブン・ウルフラム、量子コンピュータの専門家であるセス・ロイドといった人々も、宇宙=コンピュータ仮説を支持している。
 フレドキンは、宇宙全体を一つのコンピュータのようなものとみなす考えを、デジタル物理学、のちにはデジタル哲学と呼んだ。が、その考えを押し進めて、宇宙は実際にコンピュータなのだとみなす説もある。CAはその最小の単位であり、時空における原子や分子の変化のパターンは巨大なセル・オートマトンの格子の中で起こっているのだ、と。さらにその上をいく考えとして、そもそも宇宙は具体的に存在せず、あるのはただの情報のみ――フレドキンに言わせれば、情報こそが何にもまさる実在だ、ということになる。多くの著名な物理学者がフレドキンに賛同しており、アメリカの物理学者ジョン・ホイーラーもその一人だ。ホイーラーいわく、コンピュータの核が0か1かのビットで成り立っているのと同じで、宇宙全体も煎じ詰めれば最小単位のビットで成り立つ、つまり、物理的に存在しているすべてのものを情報理論的に還元することができる、ということになる、とのこと。
 物質とかエネルギーではなく、情報そのものが宇宙を形成している、という考え方は魅力的ではあるが、本当にそうだ、実在する物質などない、と断言することはできない。やはり、疑問の余地は残る。
 デジタル哲学は、より純粋に科学を検証する際にも用いられる。普通の物理法則では、現実というのは連続して存在しているものであり、時間と空間を完全に分つことはできない。が、もし宇宙がデジタルなら、完全に別々のものとして取り扱えるはずだ。真相が何であるにせよ、物理学者はまず量子理論と相対性理論をつなぐ万物理論を見つける必要がある。
 デジタル哲学には熱烈な支持者もいるが、反対する物理学者もいる。アメリカの物理学者、スティーヴン・ワインバーグも反対派の一人だ。彼は、コンピュータ学者が宇宙をコンピュータと看做すのは、大工が月を見て木で出来ていると考えるようなものだと語っている。
 
3. 根幹と階層

 宇宙=コンピュータ説に議論の余地があるとは言え、決してばかげてはいない。すべてのUCCは同じプログラムを走らせることができるが、ということは、どんなコンピュータも上書きして書き換えることが可能ということでもある。Mac OS X以降のアップルコンピュータなら、ウィンドウズをインストールして併用することができ、ウィンドウズ用のコンピュータゲームで遊ぶこともできる。これと同じ状態が現実の世界でも起こるとしたら、宇宙は単なるコンピュータプログラムと化す。
 確かに、宇宙はコンピュータ・ゲームよりはるかに複雑だ。が、セス・ロイドは、ビッグバンから現在までの全宇宙を創り出すのに必要なオペレーションは10の120乗と計算した。確かに大きな数字ではあるものの、あくまで有限の数字であり、今のコンピュータならこなすことは可能だ。つまり、コンピュータを使って、一種の仮想宇宙を創ることができ、さらにはコンピュータが創った宇宙の中にあるコンピュータがさらに新たな宇宙を創る、としたら? 
 階層宇宙という考えは、コンピュータの中の仮説としては間違っていない。それが即座に多元宇宙の存在を保証するものではないけれど、そういう可能性もあることを示唆している。
 『ほとんど無害』の第3章には、平行宇宙の話が出てくる。「『銀河ヒッチハイク・ガイド』には平行宇宙というテーマについて多くのことが書かれていた。しかしそのほとんどは、上級神レベルより下の者にはまったく理解できない」し、「平行宇宙は平行でない」(p. 49)と。が、ひも理論の「ブレーンワールド」説によれば、実は宇宙は平行たりえる。ただし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が言うところの「平行宇宙」は、階層コンピュータ宇宙にはよく似ている。
 もし、本当に階層コンピュータ宇宙するなら、我々の宇宙がその階層のスタート地点であるという保証はない。我々の宇宙が下位の宇宙を創り続けるように、我々もより上位の宇宙によって創られたものであり、上位であろうと下位であろうと、階層は無限に続いていく。だとしたら、上位に位置する誰かが何らかの目的を持って意図的に我々の宇宙を創ったのだとしても不思議はない。フレドキンは、ロビン・ライトとのインタビューで、何者かが(究極の)問いと答えを求めてこの宇宙を創ったということはありうる、と語っているが、これは『銀河ヒッチハイク・ガイド』でアダムスが描いた宇宙観と見事なまでに一致する。違いがあるとすれば、フレドキンが思い描いたプログラム管理者は、ねずみの姿ではなかった、ということくらいか。
 
4. プログラム化された世界

 しかし、たとえこの世界が何者かによってプログラムされたものだったとしても、それで何か不都合はあるだろうか? 
 実際、多くの人がこの世界は全能の神によって創られたという考えを受け入れている。そういう人たちにとっては、宇宙は何者かが意図して創ったものではないと分かったほうが残念なのではないか。問題があるとしたら、創ったのが神ではなく、進んだコンピュータ技術を有しているだけで我々と大差ない何者かが趣味の一環として創ったかもしれない、彼らにとっては単なるコンピュータ・ゲーム開発でしかなかったのかも、という可能性に不安を感じるだけだ。
 この世界があらかじめコンピュータでプログラムされたものだったとしたら、我々はどの程度の自律性を有しているのだろう。完全な自由意志が与えられているとしても、あらかじめ我々の心理システムに行動規範がプログラムされていることに気付かず、自分の意志で行動していると思い込んでいるだけだったら? あるいは、我々の思考も行動も完全にコンピュータに制御されていて、自由意志などまったくないとしたら? どちらにせよ、我々は決してそれを知ることはできない。
 もっと実際的な問題もある。もしこの宇宙が上位宇宙の何者かによって創られたものだったとしたら、その上位者の気分次第で消去される可能性もあるからだ。我々が、古いコンピュータ・ゲームに飽きて、新しいゲームをインストールするために、元のデータを完全に削除してしまうように、我々の宇宙も消されてしまうかもしれない。ねずみたちは、一千年のプログラムが遂行された後でも、地球の維持費を払い続けてくれただろうか?
 ともあれ、仮説は仮説である。現実にこの宇宙は巨大コンピュータにすぎないと決まった訳ではない。ただ、たとえこの宇宙がコンピュータでなかったとしても、既にこの宇宙にコンピュータはたくさんあり、我々の存在の根幹について考えを改めさせられる機会はある。
 
5. 仮想世界

 『宇宙の果てのレストラン』第5章で、ゼイフォードは『銀河ヒッチハイク・ガイド』の運営方針についてヒッチハイカーが愚痴っているのを耳にする。「知ってるか、オフィスの中に宇宙をまるごと電子的に合成してるって話まであるんだぜ。昼間は記事を集めてまわってても、夜にはパーティに出られるからだってさ」(p. 52)。アイディアとしては悪くないが、現実の宇宙と常に同期させるのは相当に骨が折れることだろう――『ガイド』の記事には間違いが多いのも納得、とも言えるが。同じく『宇宙の果てのレストラン』第12章では、ザーニウープがゼイフォードを「電子的に合成された宇宙」(p. 121)に閉じ込める。本当の宇宙と人工宇宙の違いがあるとしたら、ザーニウープいわく、「たぶん現実の宇宙ではフロッグスター戦闘機は灰色だったと思う」。
 アダムスが言う「電子的に合成された宇宙」とは、先に述べた階層コンピュータ宇宙と考えて間違いないだろう。それも、本物そっくりだが物理的な実体を持たない、いわゆる「仮想宇宙」である。実際に存在していなくても、その中にいれば存在しているように見えるし感じることができる。コンピュータで人間の思考を丸ごと取り込み、動かすこともできる。
 が、ここまで完璧に創られた「仮想宇宙」は無理でも、「仮想現実」と呼ばれる程度のものなら既にさまざまな研究施設で実現されている。ただ、比較的最近まで、立派な研究施設のような場所でしか体験できないものだった。被験者は、ぴったりサイズのヘルメットや重い手袋を装着し、コンピュータがヘルメットの内側のスクリーンに映し出す映像を見ながらそこに映る物を手に取ると、手袋に電気信号が送られれ、まるで本当に物を掴んだかのような感触が得られる。が、仮想現実にそういった大仰な装置が必要だったのも過去の話。今では、スマートフォンを使って同種の効果(現実世界に情報を追加する)を生み出すことができる。人間の脳とコンピュータを繋いでコンピュータ・ゲームに興じる日もそう遠くないだろう。コンピュータから直接的に視覚や聴覚といった感覚を操作することも可能だろうし、認知や言語や感情といったものを完全にコントロールすることだってできるかもしれない。
 こういった技術が発達すれば、映画『マトリックス』の世界は現実味を帯びてくる。この映画の中で、大多数の人類の脳はコンピュータに繋がれ、コンピュータが作り出すシミュレーション環境の中で生きている。シミュレーションだからすべてのものは物理的には実在しないが、複数の人が互いに影響を与え合いながら一つのシミュレーション環境を共有することは可能である。大勢のプレイヤーが参加するオンラインゲームのようなものだ。
 
6. さらに過激なシナリオ

 さらに過激な仮想現実もある。我々の心は脳というハードウェア上で動くプログラムにすぎない、というもので、'Computational theory of mind'(CTM)と呼ばれている。もしCTMが事実だとしたら、人間の心をシリコン基盤のコンピュータにそっくり移行することも可能かもしれない。
 人間の脳は恐ろしく複雑な構造で成り立っているが、現時点での最新スーパーコンピュータの演算速度はそれに追いつこうとしている。近い将来、ごく普通の安価なパソコンですら同程度の機能を持つようになったとしても不思議ではない。ハードウェアの問題が解決したとしても、肝心の心というソフトウェアがなければ仕方がないが、こちらについても対処不可能という訳でもなさそうだ。実際、脳全体の神経細胞とその結合を分子レベルで解明し、コンピュータでシミュレーションしようという試み、ブルー・ブレイン計画は始まっており、2020年には実現するのではないかと言われている。
 ハードウェアとソフトウェア、両方の課題がクリアされれば、人間全体をコンピュータ・シミュレーションにすることは可能になる。さらには、地球全体をシミュレーション化することもできるようになるだろう。そうなれば、シミュレーションの地球に住むシミュレート化された人間の数が、物理的に実在の人間の数を上回る日が来るのもそう遠くない。
 だとしたら、我々は、スウェーデンの哲学者の哲学者、ニック・ボストロムの予言を受け入れるしかないのだろうか。  

1. 人類は、大勢の人間をリアルなコンピュータ・シミュレーションの住人にできるほどの技術レベルに達する前に、絶滅する。
2. たとえどんなに技術が発達したとしても、そのようなシミュレーションを実行に移すとはまず考えられない。
3. 我々はコンピュータ・シミュレーションの中で生きている。

 1の事態をうまく免れることができたら、我々は2を選択するだろうか。きっとそうだ、というなら何の心配もいらない。が、これまでの人類の歴史を振り返ってみて、政治思想家や経済学者、政府の役人や軍事プランナーたちが、多くの人類を彼らにとって都合のいい政策にあてはめようとしてきたことを考えると、そんなことは起こり得ないと言いきれるだろうか。ましてや、宗教カルトや政治運動家やロシアの新興実業家たちが、サッカー・チームを手中におさめるだけで満足してくれるだろうか。その気になれば、全世界を牛耳ることができるというのに。
 という訳で、我々も現実と向き合うことにしよう。人類がこのまま繁栄を続ければ、人類がコンピュータ・シミュレーションの住民と化す可能性は高い。それだけではない。仮想現実にだって、先に述べたような仮想宇宙の原則は適応される。つまり、我々は実は、仮想現実の住民によって創られた仮想現実の住民だった、ということもありえる。ここまでくると、実体も何もあったものではない。
 だが、これはCTMが正しいと仮定しての話である。人間の精神構造を、生身の脳と切り離したコンピュータ・プログラムとして取り扱うことができるかどうかはまだ分からない。それでも、第5章でみてきたように、技術が進めば仮想現実の情報が我々の意識を支配するようになることは確かだろう。
 想像してみようか。このまま人類が繁栄を続け、コンピュータ・シミュレーションに脳を直結できるようになったとする。未来の子供たちは、自宅でコンピュータに接続し、21世紀の子供たちが実際に学校に登校する様子を仮想現実の中で体験する。彼らは、21世紀型のシミュレーションを当たり前のものとして受け入れた上で、シミュレーションでない現実世界を生きる。そして、何百万、何千万もの彼らの子孫も、何世代にも亘って21世紀型シミュレーションを体験するとしたら、シミュレーションでしか体験したこともない子供の数が、現実に学校に登校した経験を持つ子供の数を上回るようになるのは確実だし、そうなったらあなたが実際に体験したと思っていたことも、本当は単なるシミュレーションにすぎなかったのでは、という疑念が浮かんでこないだろうか。
 無論、ここで語っていることは、あくまでフィクションというか哲学上の話である。デカルトが言うように、我々が現実だと思っているものは本当に現実なのか、あるいはすべては幻想なのか? 進んだコンピュータ技術があれば本物そっくりの仮想現実の中に人間の意識をまるごと移植することも可能であり、だとしたらいよいよ我々は現実と非現実を区別することができなくなる? オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズは、自分を取り巻くすべてはシミュレーションにすぎないという仮説は間違っていると指摘するが、果たして?
 ともあれ、アダムスならきっと、大真面目な現代の哲学者たちが人類は皆コンピュータ・ゲームの中のキャラクターであるという可能性について大真面目に議論しているのを聞いて、おもしろがるにちがいない。



7. 'God...Promptly Vanishs in a Puff of Logic' Michèle Friend

イントロダクション

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、神は「ただちに論理の煙となって消えてしまった(p. 82)」。この章では、このロジックに着目し、検証したいと思う。検証に際しては、さまざまな概念的な用語や定義を紹介するつもりだ。そして、最終的には、『銀河ヒッチハイク・ガイド』における神と論理のありようについて、一般的な結論を出したいと思う。
 
1. 神を消去するための議論

 議論を成立させるための標準的な形式は、「前提」「推論」「結論」の3つに分かれる。とは言え、一つの議論を実際にこの3つにきちんと区別するにはそれなりの技術が必要だ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』における神の不在の証明を仕分けてみると、 

1. バベル魚は小さく、黄色く、ヒルに似ていて、おそらくはこの宇宙で最も奇妙な存在である。(略)実用面から言いかえれば、耳にバベル魚を入れたとたんに、どんな言語で言われたこともただちに理解できるようになるということである。(前提)

2. このように気が遠くなるほどお役立ちなものが、まったくの偶然から進化してきたということは奇怪なまでにありえないことである。(前提)

3. これを神が存在する証拠とみなす(推論)

4. 神は言う。『わたしは自己の存在を証明するつもりはない。なぜなら証拠は信仰を否定し、信仰がなければ私は無だからである』(前提)

5. 神は真実のみを語り、自分の言ったことは必ず守る。(暗黙の前提)

6. 神自身が認めた原則により、神の存在は否定される。(推論)

それ故、
7. 神は存在しない。

 さて、この議論が正しいかどうか、一つずつ順を追って分析してみよう。
 
2. 分析

Step 1: バベル魚とは何か

 バベル魚に関する説明文の中には、事実を記述したものと、価値観による判断が混ざっている。まずは後者を取り除かなければならない。
 事実の記述とは、バベル魚は黄色だとか耳に入れればどんな言語も理解できるようになる、といったことである。このような記述については、正しいか間違っているかのどちらかしかない(今回の場合、フィクションによって正誤を決定する)。
 一方、価値観による判断とは、前提1にある「おそらくはこの宇宙で最も奇妙な存在である」といった表現だ。これは、絶対的な事実とは言えない。「おそらく」という言葉は主観的だし、何を最も奇妙と思うかなんて人それぞれだ。奇妙さの度合いを決定するための、客観的な測定法など存在しない。同じことは、推論2の「気が遠くなるほどお役立ち」にも当てはまる。
 議論の中にこのような主観的な判断が入っていると、議論そのものが弱くなる。ためしに、普段の会話で誰かが「一番役に立つ」とか「一番醜い」といった言葉を使ったら、何をもって「一番」というのかと問うてみよう。議論が白熱すること間違いなしだ。ただし、白熱した議論は暴力へとつながることも多いので、怪我をする前に譲歩するように。
 
Step 2: まったくの偶然から進化してきたということは奇怪なまでにありえない

 こんな理屈は、進化論の前では成り立たないと思う人もいるだろう。進化論ですべての生命の存在に説明がつく以上、神は存在しないと看做される。が、そうなると、そもそも神が存在するかどうかを考える必要がなくなり、議論の前提が崩れてしまう。これを循環論法という。今の時点で言えることは、ひょっとしたら将来、すべての生命の存在について科学的な説明がつき、神が存在するという前提が必要なくなるかもしれない、ということだ。

Step. 3: 神が存在している証拠がある

神が存在していることを、三段論法で証明してみる。

1・さまざまな生物が存在しているのは、進化論あるいは神による。
2・もし進化論でバベル魚の存在に説明がつかないのであれば、神がバベル魚を創ったにちがいない。
3・もし神が何かを創ったのであれば、神は存在していなければならない。

 破綻のない論法のように見えるが、弱点もある。これだけでは、神というのが一人だけなのか、あるいは複数なのかは決められない。また、たとえ神は一人だとしても、キリスト教の神なのかイスラム教の神なのかユダヤ教の神なのかは分からない。
 故に、この論法で認められるのは、我々の世界の外側にいる何者かが、何か凄い物を創った、ということだけである。たとえ何者かが存在しているとしても、それが全知全能で善意の神であるということの証明にはならない。実際、伝統的なキリスト教の神に反駁する、悪の論法というものもある。

1・この世には多くのひどいことが起こっている。
2・キリスト教の神は全知全能であり、かつ、善意に溢れている。
3・理屈の上では、全知全能の神は悪を止めることができるはずだし、そうしたいと願うはずだ。そんな神が存在するなら、悪が存在することはない。
4・悪が存在する以上、全知全能かつ善意に溢れている神というものはありえない。

 2の「かつ」という言葉には注意が必要だ。「全知全能」と「善意」の両方が成立していなければ、この議論は成り立たなくなってしまう。
 この「悪の論法」に対して、歴代の神学者や哲学者がさまざまな「神義論」を打ち出してきた。有名なものでは、ライプニッツの弁神論がある。この世に悪いことが起こりもするが、おしなべて世界は良いところだ――神はいくつかの選択肢の中から最良のものを選んでくれた、というもの。ヴォルテールは『カンディード』の中でライプニッツを虚仮にしている。
 「悪の論法」に対するもっとマシな反論もある。我々には自由意志が与えられており、悪は信仰を試すために存在するというものだ。世界が文句無しに素晴らしい場所だったら、神を信じるのも容易いことだろう。でも、試練を受けてなお揺るがないのが本当の信仰というものだ――説得力があるんだかないんだかよく分からない議論だが、次のステップをみてみれば、アダムスの頭にこの議論があったことだけは分かる。
 
Step: 4: 神は言う「信仰なしに私は存在しない」

 神の存在を論理的に証明することができ、論理的に考えれば神の存在を納得することができる。が、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の神は、伝統的な神と同様、そういう考え方を好まない。神は、あくまで自由意志による信仰を求める。キルケゴールが言うところの、"leap of faitn"(理屈ぬきで神を信じること)だ。理性を捨てて信仰に走ることを自らの意志で選択してこそ意味がある。これが従来の考え方だった。
 しかし、このように考えると、神は我々の理解が及ばない存在ではなく、我々の理屈で捉えることのできる存在へとスケールダウンする。神の存在を証明できるなら、神は存在できなくなってしまう。
 
(以下、論理学の専門用語や記号を用いての証明方法が約5ページに亘って説明されているが、ここでは省略)

Step: : 神は本当のことしか言わないし一度言ったことは取り消さない

 神は嘘はつかない。冗談も言わない。間違いをやらかして後で訂正したりもしない。これは暗黙の了解事項である。
 神が「信仰なしに私は存在しない」と言ったからには、それを取り消すことはできない。
 
Step: 6 神は無だ。論理の煙となって消えてしまった。

 「神は無だ」とは、もはや存在しない、というだけではなく、これまでも存在したことがない、という意味でもある。でも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』において、神は我々に話しかけたことがあるのだから、その時点では存在していたことになる。つまり、「神は無だ」ではなく、「神は存在するのを止めた」といったほうが正しい。宗教においては、こういう考え方はあまり例をみない。北欧神話では、神々と巨人が戦いを繰り広げた末、神々は殺され姿を消すが、それでも何人かは生き残る。キリスト教では、神の子イエスは死んでも天国で生き返る。それに比べ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』では神は論理の煙の前に完全に消滅してしまう。
 このことをきちんと理解するのは意外と難しい。神が論理によって消されるということは、神は論理より弱いことになるが、中世においてこの問題は長らく討論の的となっていた。
 神が全知全能なら、論理の規則も超越しているはず。実際、神は数々の奇跡によって、生物学や物理学の法を打ち負かしてきた。そういった自然科学の法則を超越する神ならば、論理の法則をも越えられるのではないか、と。
 しかし、論理の法則とは物理の法則よりも先に来るものだ。物理の法則なら塗り替えることも可能だが、論理の法則は我々の思考や言語の基盤となっている。これを超越するということは、支離滅裂なことをまくしたてるのと同じことだ。故に、神とて論理の法則には従わなくてはならない。
 それに、もし神が論理立てに失敗したらそれを超越するだけだ、というなら、「神が失敗する」という事実を受け入れなければならない。それでは、全知全能の神ではなくなってしまう。
 ということは、神にとって論理以上に大切なものはない。神に目的があるなら、その目的を達成しなければならない理由があるはずだ。何かを創造したなら、創造した理由があるはず――そして、その理由にもっともふさわしいものを創造したはずだ。神は愛するというのなら、その愛にも理由があるはず!
 
Step: 7 故に、神は存在しない

 神が存在するのを止める、という考えは、我々にはあまり馴染みがない。そのため、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の議論について我々はつい、神は最初から存在していなかった、という背理法を適用ししがちだ。でも、『銀河ヒッチハイク・ガイド』においては、あくまで最初は神が存在しているという前提で話が進み、論理的結論によって神は存在しなくなる。
 

3. 論理と神と宇宙を弄ぶ

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』が愉快なのは、バベル魚のような生き物が神の存在証明に繋がっていくことだ。論理的帰結によって神様が姿を消すイメージは、おもしろくて愉快でもある。実際のところ、多くの人が、神は幻想であると確証したいと考えているのではないか。大学生に論理学を教えるようになってこのかた、私には神とは論理に従属しているのではないかと思えてならない。論理とは、便利なだけでなく、最強にして恐ろしいものでもある。論理は、神と同じで生死を超越しており、論理的に考えるとは、神の高みへと上ることだ。論理的思考を身につければ、宇宙のすべてを従属させ、時空を越え、神にすら適応することができるのだから。
 とは言うものの、宇宙を旅するヒッチハイカーのためのガイド本によると、「代表的な神学者のほとんどが、そんな説はディンゴの爪の先だと主張している(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 82)」らしい。神学者にとっては、神に存在を止めてもらっては困るからだ。もし神学者がバベル魚の論理を自分たちに都合が悪いからと却下するなら、我々は神学者たちの考え方が偏っているという理由で彼らの却下を却下できるだろうか?
 それは論理学者としては正しくない。個人の性格に基づいて攻撃することになるからだ。論理学者たるもの、どんなに低レベルで自己都合しか頭にない相手であっても、非論理的な感情で判断してはならない(それこそ、神に匹敵する力を持ちながら、論理学を学んだ者が支払わねばならない代償だ)。
 ここまで、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の世界においては神が存在しないことを検証してきた。ただし、これはあくまで『銀河ヒッチハイク・ガイド』というフィクションの中に限ったことであり、フィクションの外にまで適応してはいけない。現実世界では、我々に分かっていることはほとんどないのだから。でも、少なくとも「分かってない」ということだけは分かっているし、間違って「分かっている」と思い込んでいるよりマシではないだろうか。


8. The Judo Principle, Philosophical Method and the Logic of Jokes Andrew Aberdein 

  1. 柔道の原理

 ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1シリーズの第2話目を執筆中のダグラス・アダムスは、煮詰まっていた。ヴォゴン人の船から放り出されたアーサーとフォードを何とかして救わなければならないのだが、その方法を思いつかない。絶体絶命の危機と謳っておいたくせに、「実はこんな解決策がありました」なんて書こうものなら、まるで詐欺ではないか。だが、柔道のドキュメンタリー番組を観ていた時、突破口が閃いた。「問題が「不可能」ということなら、その「不可能」こそが問題を解く鍵になる」(original radio script, p. 51)。この考え方を「柔道の原理」と呼ぼう。
 こうして生まれた無限不可能性駆動装置というアイディアは、このシーンだけでなく、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズのさまざまなシーンで活躍する。この装置が作り出された過程にも、柔道の原理は見てとれる。「もしもそんな機械が事実上不可能だとすれば、論理的に言って、その不可能性は有限のはずだ。とすれば、それがどれぐらい不可能なのか正確に計算し、その数値を有限不可能性生成機に入力し、火傷しそうに熱いお茶を入れてやれば……あとはスイッチを入れるだけでいいのではないか?」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 117)。
 問題そのものに解決させるという柔道の原理は、哲学の方法論においてとても重要な位置を占めている。この章では、無限の定義や、知識の土台、人工知能、平行宇宙といった、アダムスも関心を持ったであろう事柄を取り上げ、柔道の原理がいかに機能しているかを検証してみたい。

2. 無限を定義する

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』も、無限の定義には苦労している。「無限――かつて存在した最大のものよりもっと大きい。じつに感動的に広大である。完全に腰が抜けるほどの空間で、まさに「うひゃあ、こりゃでっけえや」な時間である。無限はとにかく滅茶苦茶に大きいので、大きいという概念すらそれにくらべるとちっぽけに思える。巨大≠ノ広大無辺≠かけ、さらにとてつもなく莫大≠かける感じといえば近いだろう。(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 201)。
 科学者と哲学者による無限の定義も、実際のところ、『銀河ヒッチハイク・ガイド』と似たり寄ったりである。アリストテレスは、無限を可能的と現実的の二つに分け、前者の無限は理論上数字を加算していくことで得られるが、後者の無限は定義することはできないとした。今も多くの科学者や哲学者は現実の無限については見ないフリを決め込んでいる。
 ガリレオ・ガリレイは、無限の問題に焦点を当てた学者の一人だった。自然数に、その2乗の数字を対応させていくとしたら、それぞれ一対一の関係を保ったまま無限に続けることができる。が、実際には平方根でない自然数のほうが多い。となると、一対一で対応できるという考えるのはおかしくないか――ユークリッド第5公準の公理8「全体は部分より大きい」に則れば、平方根の数字は自然数全体の中の一部になるはずなのに。
 後の数学者たちは、ガリレオが抱えたこの矛盾点を柔道の原理を応用することで解決しようとした。それが、ゲオルグ・カントールとリヒャルト・デーデキントの集合論だ。無限というものを考えるに辺り、この理論は現代の数学の礎となっている。

3. 知識の土台

 古代ギリシャの時代より、哲学者たちは知識というものの性質について関心を寄せてきた。現在の我々の日常会話の中にも、何かを「知っている」という表現はしょっちゅう使われているが、知っているつもりで実は分かっていなかったということがよくある。では、正しい知識と正しくない知識はどこで分けられるのだろう。柔道の原理を使えば、2種類の解決法を見出すことができる。
 まず一つの例は、古代ギリシャの懐疑主義の哲学者ピュロンのように、何もかも徹底して疑うこと。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の世界では、ゼイフォードとトリリアンがザーニウープに連れられて行った先で出会った、ちっぽけな小屋に住む宇宙の支配者の世界観がそれに近い。自分の名前を聞かれても、「さあ、なんとまあ、名前がなくてはおかしいかね? すごく変な気がするんだが、あやふやな感覚認識のかたまりに名前をつけるっていうのは」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 280)と答える彼は、しかし、ピュロンの予言通り、とても幸せそうである。究極の懐疑主義を貫けば、何事も気にならなくなるから、心の平安が得られるのだ。「人を支配したがる人は、人を支配したがっているというその事実によって、人を支配するのにふさわしくない」(同、p. 272)というアダムスの説に従うなら、宇宙の支配者にうってつけなのはこのような人物であり、ゼイフォードとトリリアンの二人も大いに納得する。この箇所に基づいて、ある人はアダムスの政治的志向がリバタリアニズムであることの証拠だと主張し、またある人はこの小屋に住む男は神を表しているのだと主張しているが、どちらの説も根拠薄弱だ。
 宇宙の支配者ではない一般人にとって、ここまで徹底した懐疑主義は正直あまり魅力的ではない。そこで、デカルトの登場だ。「われ思う、ゆえにわれあり」。何もかも信用できないとしても、疑いの余地のない科学的知識を積み重ねていくことで、ちっぽけな小屋ではなく理性の大伽藍を築くことができるとデカルトは考えた。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』でも、ディープ・ソートが同じようなことをやってのけている。「このコンピュータは感動的なまでに賢かったため、データバンクもまだ接続されないうちに、早くも「われ思う、ゆえにわれあり」というところから推論を始めていた。人々が気づいてスイッチを切るころには、すでにライスプティングや所得税の存在まで推論するに至っていた」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、pp. 223-224)。
 人間ではなく、機械が「われ思う、ゆえにわれあり」と言い出したらどうなるか。『銀河ヒッチハイク・ガイド』より少し先に、作家・脚本家のマイケル・フレインもこの問題を著書 Constructions (1974年)の中で取り上げている。

4. 考える機械

 まともに機能するコンピュータが誕生する以前から、「考える機械」とは何かという問題は推論されていた。この問題に対する一番有名な答えが、アラン・チューリングの「イミテーション・ゲーム」だ。
 ゲームの参加者は、質問する人1名と、質問に答える者2名の、計3名。質問する側とされる側は直接対峙せず、やり取りはすべてディスプレイ上のテキストを介して行う。というのも、答える側の2名のうち、1名は人間ではなく機械だから。さまざまな質問を投げかけ、どちらが機械なのか判別できれば質問者の勝ち、判別できなければ機械の勝ちだ。その機械は、チューリング・テストにパスした――要するに、人間と同じように考えることができると看做される。
 チューリングは、「機械は考えることができるか」という問いを「機械はこのゲームに勝てるか」に置き換えた。これもまた、一種の柔道の原理と言える。機械は本当に考えているのか、単に考えている人間のフリをしているだけなのか、その区別がつかないというけれど、そもそもフリかどうかの区別ができないのなら無理に区別する必要はないのではないか。コンピュータに知性が感じられるというなら、そのように取り扱えばいい。
 この先ますます技術革新が進むと、人工知能は、普通の人間レベルのチューリング・テストを楽々とくぐり抜け、超人の域に達するだろうと考える学者もいる。人間が設計したものなのに、人間よりはるかに知性が上回るものが誕生する、というのは、ディープ・ソートがディープ・ソート本体より優れたコンピュータをデザインしたのと似ているかもしれない。「そのコンピュータから見ればたんなる演算パラメータにすぎないものも、わたしごときには計算することさえかなわないでしょう。しかし、そのコンピュータを設計するのはこのわたしです」(同、p. 245)。
 では、コンピュータの技術が進めば、「人間そっくりな人格」(同、p. 128)ではなく、人間そのものをそっくりコンピュータに移植することはできるのだろうか。移植後も、移植前と同じ人格だと判断できるだろうか。これは、通常のチューリング・テストよりはるかに難しい。ちなみに、『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、アーサーはねずみたちから脳を買い取る代わりに電子頭脳をつくってあげると言われる。ねずみに「単純なやつでじゅうぶんだろうし」と言われてアーサーはわめくが、そこですかさずゼイフォードがアーサー・デントのチューリング・テストを申し出る。「単純なプログラムじゃないか。いつでも『なんだって?』か『それはどういうことだ?』か『お茶はどこだ?』と言うようにすりゃいいだけなんだから。だれにも違いなんかわかりゃしない」(同、p. 270)。他の人に違いがわからなくても自分にはわかる、とアーサーが言い返すと、ねずみはこう切り返す。「わからないようにプログラムする」(同、p. 271)。
 とは言え、実際問題としては、電子頭脳に移されたアーサー・デントの人格は元の人格とまったく同じとは言えない。せいぜい、アーサー・デントのゾンビだろう。「機械は考えることができるか?」という問いに対し、チューリング・テストという柔道の原理は有効だったが、アーサー・デントのチューリング・テストとなると無効と言わざるを得ない。柔道の原理は、すぐれた問題解決方法ではあるが、万能薬ではないのだ。

5. 多元宇宙

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』の続編には、平行宇宙が次々と登場する。シリーズ4作目の小説『さようなら、いままで魚をありがとう』は、ヴォゴン人に地球を壊されなかった世界の話だし、5作目『ほとんど無害』では『ガイド』による平行宇宙の説明を読むことができる。「『ガイド』によれば、平行宇宙についてまず知らなくてはならないのは、平行宇宙は平行でないということだ」(『ほとんど無害』、p. 50)。そもそも『銀河ヒッチハイク・ガイド』の始まりであるラジオドラマのパイロット版の脚本では、地球が破壊されたことにショックを受けているアーサーを慰めようと、フォードが平行宇宙について解説するシーンがある。自分たちがいる宇宙の地球は壊されてしまったけれど、地球が壊されていない宇宙もあるのだ、と(Gaiman, p. 38)。平行宇宙とか多元宇宙といったものは、我々の直感では信じ難いけれど、量子力学の理論では存在しうると考えられている。
 量子論が登場する以前にも、ゴットフリート・ライプニッツのモナド論のように平行宇宙の可能性を示唆する理論はあった。20世紀に入り、アメリカの形而上学者デイヴィッド・ルイスは「起こりえたかもしれない世界」=「可能世界」という考え方を提唱したが、これは物理学者が考えるところの平行宇宙や多元宇宙とは別物である。

6. 柔道の原理の三段階

 これまでみてきた柔道の原理の使い方をおさらいしよう。まず、問題は問題としてそのまま受け入れる、というもの。『銀河ヒッチハイク・ガイド』でアダムスが用いた無限不可能性駆動はそれより一歩前進しているが、多くの哲学者たちは納得できない現状を甘んじて受け入れよと主張する。これはかなり消極的な問題解決法であり、アダムスの言葉を借りるなら「他人ごと<tィールド」(『宇宙の果てのレストラン』、p. 58)を起動せよということだ。が、もし問題の解決が直感に反しているなら、解決を知ったからと言って違和感が消えるというものではない。そういう直感を捨て去るように訓練すればいいのかもしれないが、実は解決に違和感があるということ自体が問題に対する最高の答えであるとも言える。そう考えれば、「現状を甘んじて受け入れよ」型の柔道の原理が前向きなものになるのではないか。
 が、柔道の原理は、単に我々の懐疑心をなだめすかせるためだけのものではない。むしろ、従来のものの見方を全面的にひっくり返し、これまで何の問題もないと思われていたところで議論を噴出させることも多い。カントールによる無限の定義や、チューリングの「イミテーション・ゲーム」がそれに当たる。直接的な問題解決にはつながらないとしても、「アーサー・デントのチューリング・テスト」の不満足な結果は、逆に問題のありかを照射してくれる。
 そして、もっとも有効な柔道の原理の使い方は、問題それ自体を解決とすることである。アダムスの無限不可能性駆動はまさにその好例だ。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という答えについても同じことが言える。

7. ジョークの論理

 柔道の原理はさまざまなな哲学的問題を取り扱う上で有効である。また、『銀河ヒッチハイク・ガイド』でも柔道の原理は有効活用されている。が、アダムスいわく、「さまざまなアイディアはジョークの論理から生まれたものであって、現実世界と関連するものがあったとしてもそれは単なる偶然の一致だ」と語る。アダムスの本業は哲学者ではなくコメディ作家なのだから、当然だろう。ということは、柔道の原理はジョークの論理に起因するのだろうか?
 では、この問題を柔道の原理そのものを用いて考えてみよう。
 そもそも、哲学にジョークの論理が含まれていたとしてもそれが問題と言えるだろうか? また、アダムスが「ジョークの論理」という言葉を使ったのは、単に学生が彼の作品をテーマに論文を書こうとするのを思いとどまらせたかっただけのことかもしれない。が、彼の作品に哲学的な方法論が多く含まれている。つまり、哲学のすべてがジョークの論理に由来するものでもないにせよ、さまざまなところで見出すことができる、ということだ。
 アメリカの認知科学者マービン・ミンスキーは、ジョークは人間の理性が機能する上で欠くべからざるものだと指摘している。現実社会において、一般常識が通用しなくなることはよくある。そういった際に、ジョークは状況を把握したり他の人とコミュニケートするのに役立つというのだ。もしミンスキーの指摘通りだとしたら、ジョークの論理はますます歓迎すべきものとなる。柔道の原理でジョークの論理を保護するどころか、ジョークの論理こそ最良の問題解決法だと証明することになるのだから。
 実際、何人かの哲学者はジョークの論理の重要性に気づいている。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが「シリアスな哲学的問題は、完全にジョークとして書き換えることができるだろう」と言ったという話もある。哲学もジョークも、従来のものの見方をひっくり返し、これまで隠されていた、往々にして不愉快な人生の真実を探求したい、という衝動に基づいている。アダムス作品の熱心な読者なら、作品の中に同じ衝動を見つけることができるだろう。まさしく『銀河ヒッチハイク・ガイド』こそ、ウィトゲンシュタインが言うところのシリアスな哲学的問題をジョークとして書き換えた作品である。


9. The Funniest of All Improbable Worlds - Hitchhiker's as Philosophical Satire Alexander Pawlak and Nicholas Joll

 本書では、これまで『銀河ヒッチハイク・ガイド』に登場する多くのアイディアが哲学的なものであることを示してきた。この章では、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が哲学的な風刺であるということを明らかにしたい。

1 「風刺」と「哲学的風刺」の定義

 風刺とは、文学であれ何であれ、対象を嘲って攻撃するものだ。セルバンテスの『ドン・キホーテ』、スウィフトの『穏健なる提案』、ビアスの『悪魔の辞典』、オーウェルの『動物農場』、あるいは『スピッティング・イメージ』や『シンプソンズ』など、どれも嘲ることによって非難している。あるいは、非難することで笑いを取っている(この差は優先順位の問題だ。嘲ることで非難する場合は、ユーモアは攻撃のための手段であり、攻撃することで笑いを取る場合は、ユーモアそのものが最終目的となる)。しかし、風刺には、本来の形から姿を変えることが不可欠なように思える。この姿かたちを変えることにもいくつか種類があって、まずはカリカチュア。『スピッティング・イメージ』はその一例だ。他には、ジャンルや形式を巧く利用すること。ビアスの『悪魔の辞典』がこれに当たる。辞書というフォーマットを利用し、シニカルなものへと作り替えている。あるいは、マーク・トウェインの『アーサー王宮廷のヤンキー』。中世の英雄譚と見せかけて、実際には19世紀の文明を皮肉っている。こういった変貌のフォーマットには、ファンタジーやサイエンス・フィクションも含まれる。スウィフトの『穏健なる提案』や『ガリバー旅行記』、そして『銀河ヒッチハイク・ガイド』。
 風刺とは元の形を変形させて嘲り攻撃するものだ、というなら、では「哲学的風刺」とは何だろうか。
 「的」という言葉には複数の意味合いがある。「哲学的風刺」とは、第一に、「哲学を風刺する」、つまり哲学を攻撃対象とする、という意味がある。第二の意味は、「風刺としての哲学」。こちらは、哲学を攻撃するのではなく、風刺の中に哲学的な要素が含まれる、という意味になる。さらに、「哲学的風刺」が、第一と第二の両方の意味を同時に満たすということもありうる。
 では、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はどのカテゴリーに入れるべきなのだろうか。それを探る前に、いったん哲学のことは脇において、『銀河ヒッチハイク・ガイド』にどのような風刺が含まれているかを検証してみよう。

2 SFの風刺としての『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、SFでありながら同時にSFを風刺している。SFというジャンルの約束事を軽視したり、ひっくり返したりしているからだ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、SFの形式やテーマを攻撃対象としている。'Douglas Adams's “Hitchhhiker” Novels as Mock Science Fiction' によると、

(1) 人類最後の生存者
 SFでは、人類最後の男女は結ばれて子供を作り、人類の歴史の新たな始まりとなるのが普通だ。しかし、アーサーとトリリアンはそうならない――一応、トリリアンはアーサーの子供を産むけれど、通常の性行為は行われていない。

(2) スペースオペラ
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』には、まるでSFのサブジャンルである「スペースオペラ」であるかのような文章が登場する。

 強力な宇宙船は異邦の太陽の間を飛びまわり、銀河系空間の最辺境星域をめぐって冒険を探し、報酬を求めていた。その時代、人々は勇敢で、賞金は高く、男は真の男であり、女は真の女であり、アルファ・ケンタウリの小さなムクムクした生物は真のアルファ・ケンタウリの小さなムクムクした生物であった。誰もが未知の恐怖に雄々しく立ち向かった。立派な行いを実行し、これまで誰も分割したことのない無限数を分割した――こうして帝国はつくりあげられた。(風見訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 150)

 この他、『銀河ヒッチハイク・ガイド』で引用される『銀河大百科事典』は、アイザック・アシモフの壮大な『ファウンデーション』三部作のパロディになっている。

(3) ロボット 
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくるロボットは、一般的なSFのロボットの基準にあてはまらない。普通のSF作品のロボットが無感情だったり敵対的だったり、あるいはムダに陽気だったりするのに対し、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のロボットは神経症気味だ。詳しくは本書の第5章をご参照あれ。

(4) 説明
 SFでは、新しいアイディアやガジェットについて科学的、技術的に「説明する」ことが好まれる。が、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、そういう「説明」をパロディ化する。無限不可能性駆動やレストラン数論ドライブはこの好例だ。さらには、もっともらしいプロットそのものをも無効にしてしまう。生命の意味を知りたい? 答えは42だ。答えの意味が知りたい? 幸いなことに、そのためのコンピュータが作られた。ただし、不幸なことに、コンピュータが答えを出す5分前に壊されてしまった。「神の最後のメッセージ」も明らかになるけれど、ちょっと期待ハズレだった。

 SFというジャンルの風刺はアンチクライマックスにならざるを得ない、と思われるかもしれない。が、その心配は杞憂だ。
 まず、SFの風刺を通して、さまざまなものを風刺できる、ということ。たとえばテクノロジー。SFは、テクノロジー礼賛に傾きがちだ。実際の世界では、新しいテクノロジーは往々にして厄介事を引き起こしているというのに。アダムスは、新しいガジェットの類に目がなかったが、その一方でこの種のトラブルについてもたくさん書いている。「このボタンを二度と押さないでください」ボタンや、〈黄金の心〉号の使えないラジオ、自動栄養飲料合成機など。ことによっては、ちょっとした行動が、とんでもない事態を招いてしまう。物事の仕組みを理解する/理解できないことこそ、人生の重要な特徴だ。
 第二に、SFでなら壮大なテーマを取り扱うことができる。スタニスワフ・レムは、ある種のSFは「人類の運命や、宇宙における生命の意味や、何千年もの長きに亘る文明の栄枯盛衰についてのレポートであり、論理的なるものすべてに対する夥しい数の答えを呈示する」と言う。もし『銀河ヒッチハイク・ガイド』がそういったものを風刺しているとしたら、これはかなりシリアスなものだと言えるのではないか。

3 広い意味での風刺としての『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 アダムスは、初期のシノプシスの中で、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のストーリーを『ガリバー旅行記』に例えている。アーサーとフォードは、「さまざまな変わった宇宙人と出会うが、そういった宇宙人は、『ガリバー旅行記』のように、強欲だったり気取ってもったいぶったりしている人類の姿を現している」
 官僚的なヴォゴン人や、強欲なマグラシア人や、高圧的なはつかねずみ、超好戦的で同時に愚かでもあるサイラスティック・アーマーフィーンド人(『宇宙クリケット大戦争』に登場し、軌道上コンピュータのハクターに究極兵器の設計を命じた種族)、そうそう、「ティーザー」と呼ばれる、子供っぽいイタズラを仕掛けて回る金持ちの坊ちゃんたちもいる。そして、ゴルガフリンチャムの箱船船団。B船の無能な連中こそ、実のところ、我々人類の祖先なのだが。そういう意味では、『銀河ヒッチハイク・ガイド』におけるゴルガフリンチャム人と人類の関係のほうが、『ガリバー旅行記』におけるヤフー人と人類の関係よりも、より徹底していると言える。

「あきらめろよ」フォードは言った。「あそこのぼんくらどもがきみの先祖なんだ」(安原訳『宇宙の果てのレストラン』、p. 323

 『ガリバー旅行記』同様、『銀河ヒッチハイク・ガイド』にも空想上の鏡像が見られる。が、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の場合、「鏡像」ではなくもっと直接的に描かれていることもある。ゴルガフリンチャム人が、愚かな人類のパロディではなく、本当の本当に人類の先祖だった、というように、主人公アーサー・デントもまた、「紳士的なイギリス人」のパロディだったりする。その他の『ガリバー旅行記』との類似点としては、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のねずみと人類の関係が、『ガリバー旅行記』の馬と人類の関係に呼応していること、アダムス、スウィフト共に、科学や哲学を茶化していることなどが挙げられる。

4 哲学の風刺としての『銀河ヒッチハイク・ガイド』

 『ガリバー旅行記』で、空飛ぶ島ラピュータで暮らす科学者は大抵どこかイカレている。ムダを省く研究をして、却って余計な手間を増やしているような連中ばかりだ。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』でも、科学者たちが無限不可能性駆動の開発に勤しむ姿が茶化されていたりするが、アダムス本人はスラーティバートファースト同様に「科学の大ファン」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、p. 206)であり、スウィフトほど科学者たちに対して辛辣ではない。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の風刺が辛辣になるのは、科学よりもむしろ哲学である。『銀河ヒッチハイク・ガイド』に登場する哲学者たち、ベストセラー作家のウーロン・コルフィドを始め、ディープ・ソートを止めようとするマジクサイズとヴルームフォンドルの二人は、その代表格だ。「永遠の真理のほうはこっちにまかせといてもらいたいね」(同、p. 231)とすごんでおきながら、ディープ・ソートに「互いに激しく意見を衝突させ、一般紙で互いをこきおろしつづけることができれば、そして目端のきくエージェントを見つけられれば、一生を通じて甘い汁が吸えるでしょう」(同、p. 233)と言われると、あっさり納得してしまう。
 この場面だけを取り上げみても、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が哲学を風刺していることは間違いない。だが、それだけだろうか? 『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、哲学を風刺していながら、同時に、風刺としての哲学も含んではいないだろうか。

5 哲学の風刺から、風刺としての哲学へ

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、バベル魚は神の不在を証明する。「『なんだ、こんな簡単なことだったのか』と人間は言い、今度はためしに黒を白と証明しようとして、次の横断歩道で車にはねられて死んでしまった」(同、p. 82)。これは、哲学が物事を単純化しすぎるあまり、現実の世界を無視しがちなことを示している。
 ここでもう一度スウィフトに戻ってみよう。スウィフトの意図は、読者の気晴らしではなく、怒りを喚起することだった。実際、子供向けに書き直されていない『ガリバー旅行記』は、18世紀のイギリスの政治、宗教、科学、そして哲学に対する、複雑な見解が詰まっている。それに対し、『銀河ヒッチハイク・ガイド』にも同様の風刺はあるだろうか――勿論、ある。ヴォゴン人、マグラシア人、アーマーフィーンド人、ゴルガフリンチャム人はその好例だ。
 だが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はそれだけにとどまらない。アダムスはインタビューの中で、

私がサイエンス・フィクションを好むのは、望遠鏡を逆さにして、自分たちの立ち位置を外側に置くことでまったく異なる視点から物事を見させてくれることです。これこそ、私が『銀河ヒッチハイク・ガイド』でやろうとしたことであり、すぐれたサイエンス・フィクションとはそういうものだと思います。宇宙船の中をうろつき回って、光線銃でお互いを撃ち合っているだけのサイエンス・フィクションなど、ひどく退屈です。そうではなくて、私が好きなのは、人類の歴史を根本的にひっくり返すような過激な解釈を可能にしたり、ぱっと見たところではごく単純なありふれた出来事にまったく異なる解釈をもたらしてくれることです。そういうところがおもしろいのです。

 アダムスが好む視座の転換は、SFに限らず哲学でもよく行われている。
 デイヴィッド・ヒュームは、かつての自分の視座が不自然だったと認めているし、イマヌエル・カントは、何かを理解したと考える時、それは自分自身のありようを投影していると語る。こういった視座の転換は、エトムント・フッサールの現象学や、20世紀の実存主義哲学にも繋がっている。
 話をアダムスに戻すと、『銀河ヒッチハイク・ガイド』ではアダムスの「視座の転換」の能力をあちこちで見つけることができる。ゴルガフリンチャムの箱船船団はその好例だが、その他にも、『さようなら、いままで魚をありがとう』に出てくる正気のウォンコの、内の外が逆さまになった家(「この世界は完全に狂ってしまったとついに悟って、気の毒な世界を収容するためにこの“精神病院”を建てた」、p. 216)という例もある。
 視座の転換は、風刺につながる。当たり前と思っていた物事を、懐疑的な目で見られるようになるからだ。そして、こういった視座の転換は、哲学的な問いかけを含むことが多い。
 ここまでの内容を要約してみると、

・『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、SFやテクノロジー、そしてスウィフト流に、人類の愚かさを風刺している。
・『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、哲学を風刺しているという意味で、「哲学的風刺」である。
・『銀河ヒッチハイク・ガイド』は風刺としての哲学を内包しているという意味で、「哲学的風刺」である。

 それではここから先は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が風刺としての哲学であるかどうかを検証してみよう。比較する相手は、ヴォルテールの『カンディード』だ。

6 『銀河ヒッチハイク・ガイド』、ヴォルテール、そして生命の意味

「これがありとあらゆる世界の中で最善の世界であるなら、ほかの世界はいったいどんなところだろう」『カンディード』第6章

「これが宣伝文句なら、クレーム対策局はいったいどんなところだろう」ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1シリーズ第3話

 ヴォルテールはフランス啓蒙主義の哲学者である。バスチーユに投獄されたこともあるし、フランスを国外追放されたこともあった(イギリスに滞在していた時には、スウィフトと会っている)。ヴォルテールの哲学の根幹をなすのは懐疑主義だが、それは良識への懐疑というよりもどちらかというと形而上的な定説や神学的教義への懐疑だった。『カンディード』でヴォルテールが主な攻撃対象としたのは、ライプニッツと彼の信奉者たちの哲学である。
 ヴォルテールが問題視したのは、ライプニッツの哲学が持つある種の楽観主義だった。1710年に発表した『弁神論』の中で、ライプニッツは、神は善であり全能であるのだから、神が作ったこの世界は、たとえ人間の目には何らかの問題があるように思えても、ありとあらゆる可能な世界の中で最善の世界のはずだ、と主張する。
 が、1755年にリスボンで大地震が起こり、何万人もの人々が亡くなった。こんな災害が起こる世界が、本当に「最善の世界」なのだろうか。ヴォルテールは、1759年の『カンディード』でライプニッツの楽観主義に真っ向から反論する。
 ある種の理想郷のような男爵の館に生まれたカンディードには、パングロスという名の師傅がいた。「パングロスは形而上学的=神学的=宇宙論的暗愚学を教えていた。原因のない結果はなく、またおよそあらゆる世界の中で最善のこの世界の中において、男爵閣下の城館は世の城館の中でもっとも美しく、夫人はおよそあらゆる男爵夫人の中でだれよりも立派である、彼はそんなことを見事に証明してみせるのだった」(ヴォルテール、pp. 264-265)。
 パングロスがライプニッツ派の学者のカリカチュアであることは言うまでもない。城館を追い出された後、カンディードはリスボンの大地震、そしてドイツの七年戦争と、酸鼻きわまりない地獄絵図のような出来事に出くわす。カンディードが元いた理想郷のような男爵の館もブルガリア兵の襲撃を受け、カンディードの初恋の相手キュネゴンドは惨い目に遭う。果たして、カンディードは、師であるパングロスの楽観主義的世界観をどう受け止めるべきだろうか。
 『銀河ヒッチハイク・ガイド』と『カンディード』には6つの類似点がある。
(1) きっかけとなる災害
 ヴォルテールに『カンディード』を書かせるきっかけとなったリスボン大地震のような自然災害は、アダムスにはない。が、アーサーの冒険の始まりが地球の破壊であるのに対し、カンディードの冒険の始まりはエデンの園からの追放である。

(2) 安心感の喪失
 カンディードもアーサーも、これまで当たり前だと思っていたことが覆されるため、安心して日々を過ごすことができない。アーサーの場合、次第にこれまで真実だと思っていたことの大半に疑いの目を向けるようになる。

(3) 愛の喪失
 カンディードはキュネゴンドと再会するが、もはや彼女を愛していないと悟る。アーサーはフェンチャーチと相思相愛になるが、超空間での事故により彼女を永遠に失う。

(4) 楽観主義と悲観主義
 『カンディード』では、パングロスが楽観主義を、マルチンという老学者が悲観主義を体現している。『銀河ヒッチハイク・ガイド』では、悲観主義はマーヴィンで決まりだが、楽観主義の候補者は何人もいる。ゼイフォード、フォード、〈黄金の心〉号のコンピュータのエディ、それから『ほとんど無害』でフォードに幸福を感じるための条件を解除された(そのせいでなにが起きても幸福を感じられるようになった)ロボットのコリン。

(5) 探求
 カンディードもアーサーも、自身の幸福を求めて旅を続ける。アーサーの場合は、「究極の疑問」を求める、という目的もあるにはあるけれど。

(6) 人生の意味
 カンディードもアーサーも、人生に意味などないという結論にたどり着く。カンディードが、さまざまな試練を経て、この世界は最善な世界とは程遠いと考えるようになるのに対し、アーサーは最初からこの世界が最善だなどとは考えていない。とは言え、そこはイギリス人流に、「そんなにひどくもないかも」くらいに思っている。が、『カンディード』にせよ『銀河ヒッチハイク・ガイド』にせよ、著者が読者に向かって、人生に意味などないというメッセージを送っていることは間違いない。もし『銀河ヒッチハイク・ガイド』が、『カンディード』同様、人生の意味というアイディアを風刺しようと意図しているのだとしたら、『銀河ヒッチハイク・ガイド』は注目すべき方法で、深淵な哲学上の問題と風刺を結び付けていると言えないだろうか。

7 究極の真実を求めることを風刺する

 本書の第3章では、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が人生に意味があるというアイディア自体を冷笑している、と指摘した。主なポイントは3つ。

1 『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、人生は理解し難いものであり、自分自身のことがどんなに重要に思えても宇宙全体からすればほとんど何の意味もない、という食い違いの問題を強調する。
2 42という答えは不条理だが、この不条理さもまた「1」を強調する形となっている。
3 『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、不滅だからとか別の何者かの偉大な計画の一部だからといった理由で、人類の存在には意味がある、という考えを否定する。

 この3点に立脚した上で、「生命と宇宙と万物についての究極の問い」とは何を意味するのかを図表にしたものが、256ページに掲載されている。生命とはどういった性格のものなのか、生命が引き起こすものは何なのか、生命の目的とは何か、生命の重要性とは何か――ひいては、我々はいかに生きるべきか。
 「生命と宇宙と万物についての究極の答え」=42、とは、人生には本質的に意味があるという考えを風刺しているが、知っての通り、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はそこで終わりではない。「究極の答え」を計算するためのコンピュータ=地球は、答えが出る5分前に道路工事のため破壊されるのだから。さらに、実は5分前どころか、ゴルガフリンチャムの箱船船団が人類の祖先がすり替わったために計算がおかしくなっていた、というオチまでつく。その上、『宇宙クリケット大戦争』のラストでは、答えと問いは同じ宇宙に並び立たないのだ、という話が出てくる。もし、誰かが答えと問いの両方を知ってしまったら、「問いと答えは互いに打ち消し合って、それといっしょにその宇宙は消滅するらしい。そしてそのあとに、もっと変てこでわけのわからない宇宙が現れる。それはもう起きてしまったって可能性もある」(安原訳、pp. 329-310)。
 アダムスにとって、宇宙の存在意義だの目的だのといったものは、クリームパイをぶつけて笑いを取るための道化役でしかないようだ。実際、アダムスの友人ジョン・ロイドも自伝作家M・J・シンプソンのインタビューの中で、アダムスが人生に意味があるとは信じていなかったと話している。だが、クリームまみれの道化にも一抹の救いはある。数字が答えとして意味をなすと考える余地はあるからだ。たとえば、物理学的に、42が生命、あるいは宇宙の誕生に関わるとしたらどうだろう。実際、42が宇宙の膨張に関するキーとなる数字ではないかと看做されていた時期もあった。原子番号42の元素モリブデンは生命に重要不可欠であると考えられている。
 「被造物への神の最後のメッセージ」は、さらなるカスタードパイのように見える。何しろ、メッセージの中身は「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」(『さようなら、今まで魚をありがとう』、p. 267)なのだから。だが、このメッセージは少なくともマーヴィンには慰めになったようだし、フェンチャーチの閃き(「世界を善にして幸福な場所にする方法」を思いついたものの、忘れてしまった)の内容とも相反しない。最後のメッセージとフェンチャーチの閃きは、宇宙や生命に本質的な目的などない、という。が、さまに「究極の真実」など存在しないということが、慰めであり解放なのだ。本質的な目的がないからこそ、人生の意味について前向きな解釈が持てるようになる。「いかに生きるべきか」の答えをあきらめることにはならない。
 アダムス独自の人生に対する考え方は、イギリスのテレビ局チャンネル4の Break the Science Barrier という番組でのインタビューによく現れている。世界の驚異を堪能するだけでも、生きている値打ちは十分にある、というものだ(ただし、そういった驚異を鑑賞する能力がある人間に限定される話ではあるけれど)。

この世界がとことんこんがらがっていて複雑で、豊かで、ヘンテコであるというのは、それはもう間違いなく素晴らしいことだ。こういった複雑なものが、本当に単純な、ほとんど無に近いようなところから発生したというのは、最高に凄い考えだと思うし、そういったことがどのようにして起こったのかをわずかながらにでも知るこができたら、それも素敵なことではないだろうか。こんな世界で70年から80年の時間を過ごす機会は、私に言わせれば、とても有意義な時間だと思う。

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のありえない世界が、哲学についての風刺を含むさまざまな風刺に加え、「究極の真実を風刺する」という形で風刺としての哲学をも含んでいることをみてきた。まあとりあえず、こんなところで十分かな。


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