1988年5月、学術誌 Scinece Fiction Studies の第15号に、カール・R・クロップフの研究論文 Douglas Adams's "Hitchhiker" Novels as Mock Fiction" が掲載された。内容は以下の通りだが、訳したのは素人の私なのでとんでもない誤訳をしている可能性は高い。そのため、これはあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。
ダグラス・アダムスの小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズは、SF読者の間で大変な人気を博しつつも不可解な現象をも引き起こした。読者の感想が、この小説のウィットや風刺が幅広い分野のさまざまな事柄に亘っていることを一様に評価する一方で、批評家たちは文学的先例やジャンルや一般的なテーマについていつものように取り上げることなく沈黙している。この三部作が、(少なくとも)現時点で4作の小説から成り立っていることは、戸惑うほどの特徴ではない。アダムスの作品をSFピカレスク小説として論じることは十分可能だ。無頼の徒(ピカロ)らしく、多くの登場人物は見たところ何の規則性もなくあちらこちらを彷徨い、経験したことから影響を受けて変化するようなこともないまま、自身の不条理さと出会った社会の不条理さを露呈する。
このシリーズのもっとマシな捉え方として私は提唱したいのは、「疑似SF」と見做すことだ。これは、よくあるSFに対し、英雄詩に対する擬似英雄詩のような関連性を持つ。この解釈の有用性の証拠は、大きく3つに分類できるだろう。まず、疑似英雄詩のように、アダムスの疑似SF小説はこのジャンルに慣れ親しんだ読者のありがちな予想の大半をひっくり返す。次に、このジャンルの毎度のお約束をひっくり返すことで、アダムスはSFが持つイデオロギーの機能をも完全にひっくり返す。最後に、他の疑似ジャンルを書く作家たちと同様に、アダムスも、まるで作家としてヘタクソすぎるせいでそのジャンルが通常具現化している秩序や方向性とは対極の、無秩序や無目的が盛り込まれてしまった作品を書いたかのような語り口を提供する。
疑似ジャンルの機能とは何かをはっきりさせておくため、まずは英語で書かれたもっとも有名な疑似英雄詩の一つ、アレグザンダー・ポープの『愚物列伝』(The Dunciad)を簡単に検証しておこう。1728年に最初に出版されたポープのこの作品は、近代アート全般に加え、とりわけ一人の作家、コリー・シバーを風刺している。シバーは間違いなく三流の詩人兼脚本家だが、ポープに言わせると、芸術にまつわるすべての過ちを一身にまとっている人間だった。『愚物列伝』は、そんな彼を英雄詩の英雄と正反対に描く。アンチヒーローの彼は、どんな仕事にも向いておらず、芸術における彼のささやかな奮闘は、戦争におけるアイネイアースの超人的かつ高潔な奮闘とさりげなく並置されることにより、ばかばかしいまでに不適切なものとなる。ポープは、英雄詩によくある伝統的技法を片っ端から利用する。王に指名されたDunceは、女神Dulnessの息子で、彼は壮大なる競技(小便飛ばしコンテスト)に参加し、新しい王国(that of Dulness)を築く手助けをする。この場合、伝統的技法がいつもの機能とまったく逆の方向に働いていることは言うまでもなく、対象を高尚にするどころか、シバーと彼の作品をもっぱら矮小化している。
英雄詩の技法をひっくり返すことで、ポープはイデオロギーの機能をもひっくり返している。英雄詩の目的は、一つの文明が崩壊し、別の、道徳的により優れた文明がとって変わって勃興する様を描くことにある。それに対し、ポープの疑似英雄詩が描くのは、すべての文明が崩壊し、シダー率いる野蛮で原始的な混沌と夜の復活だ。そして最後にポープは、シダーは道徳的に堕落した芸術家であり、神がもたらした秩序ある世界に倣って作品を創り出す詩人とは正反対だと評する。実のところ、シダーの機知は反キリスト的で、彼の作品は混沌の滑稽な模倣であり、それ故、最終的に滑稽ではなく不滅となる。彼の作品と彼の命を受けて、ポープはこう宣言する。…a new world to Nature’s laws unknown,
Breaks out refulgent, with a heav’n its own:
Another Cynthia her new journey runs,
And other planets circle other suns.
The forests dance, the rivers upward rise,
Wales sport in woods, and dolphins in the skies;
And last, to give the whole creation grace,
Lo! one vast Egg produces human race. (III:241-48)アダムスの小説の読者なら、この詩行の中にあるイメージの一部に親しみがあるだろうし、アダムスはポープ同様に自然を無秩序で道徳的に混沌としたものとして描いているのではと私が思う理由の一つでもある。
SFにおける既存の語り口の構造は使い古され、特定のプロット配置がジャンルの中で赤面するほど定期的に登していることに気付くほどに「化石化したパラダイム」(p. 205)と化した、というスタニスラフ・レムの主張に必ずしも同意する必要はない。SFはしょっちゅう人類の精神を賞揚し、現実的には到底ありえないほどの壮大なスケールの英雄を擬人化する。だが、アダムスが描くおよそ英雄らしからぬアーサー・デントは、不器用な普通のイギリス人であり、彼の英雄的な探究たるや、飲めるに足る紅茶を探すことに限定されている。お約束のSFでは、地球は銀河コミュニティのリーダーとしての地位に就いているか、あるいは就くことになるものだが、アダムスの小説では、二人の人間と二匹のネズミを除き、地球と地球上のすべてのものが一見したところ破壊されたところで始まる。逃れた二人の人間は、大方の予想通り一人の男と一人の女であり、となると当然、この二人は最終的にどこかのエデンの園めいた惑星に落ち着き、読者は著者が新しい創世神話を作り上げるのを見守ることを期待する。だがしかし、残念ながら若い女性のトリリアンは二つの頭と三本の腕を持つ異星人に恋しており、これまでのあらゆる先例にさからってアーサーも彼女に無関心のままなら、小説シリーズ最初の3冊目まではセックスにも関心がない。読者がこのジャンルに期待するものと、アダムスが提供するものとの間の差異についてはまだまだ上げられるが、要点はとっくに明らかだ。アダムスは意識してジャンルの約束事をひっくり返しているのである。その結果がたくさんのユーモアであり、読者が通常抱く期待は何度も何度も裏切られる。このような転覆でもたらされるもっと重要な効果は、アダムスの小説が再帰的となり、ジャンルのパラダイムの破綻に言及したり、読者の反応として知られるジャンルの性質や機能に疑問の声を上げるようになることだ。
SF批評の現状を考える時には、どんなSFの定義にも反論の余地ありと認めるところから始めるのが利口だろう。どのような一般化についても、大いなる反対意見は免れ得ない。それでも、少なくともアダムスの作品に関しては、ジェイムズ・ガンが危険を承知で行なった一般化が役に立つ。SFでは、「物語の状況が、読者には予測できないけれど納得のいくもの、もっと言えばそれで当然だと受け入れられるような形で決着する時、読者を満足させられる……SFは、変化、それも大抵は科学的だったり技術的な変化によって創り出された状況におかれた登場人物たちを取り扱うことで、その独自なフィクション上の反応を獲得する」(p. 70)。SFの基本的な特徴としてガンが技術的な変化を強調したことは、他の多くの観測者たちと共通する。アシモフは、さまざまな形で「SFは、科学とテクノロジーの変化に対する人間の反応を取り扱う一分野の小説である、とも定義でき」(p. 68、下段)、そして「技術の進歩よって変化した社会のありようこそ、真のSFに顕著な特徴だ」と主張する。技術の変化の強調に加え、このような定義の大半は、SFは読者の反応、未来世界が未来の進化した科学技術にどのように対応するのかを目にすることから得る満足感によっても定義付けできるという前提も共有している。ガンもアシモフもこのような言い方はしないが、彼らが話しているのは結末についてであり、SFにおけるそうした役割を理解することは、アダムスの小説がいかに疑似SFと化しているかを明確にする上で大いに役立つ。
アリストテレスが美学的に喜ばしい作品は始まりと中盤と終わりがなければならないと宣言して以来、批評家は結末、読者が始まりと中盤で何が起こったかを解釈した先で、作品の締め括りが持つ効果の重要性を評価する。結末についての現代的な関心は、1967年、フランク・カーモードの『終りの意識』に遡るが、この作品は今なお、フィクションの結末がいかに人間の精神の生得的なパターン探しの傾向を反映しているかについての最良の研究の一つだ。カーモードは、世界の終末に対する人類の果てしなき思い入れについて簡単にまとめてから、フィクションにおける終わりは、「何もかも結局どうなったのか」をはっきりさせる経験に秩序のパターンや意味を押し付けたいという、人類一般の望みを反映していると結論づける。カーモードの研究以降、デイヴィッド・リッチャー(Fable’s End, 1974)やマリアナ・トルゴヴニック(Closure in the Novel, 1981)といった批評家は、フィクションの書き手たちが作品の締めくくりに終末感を持たせるためどのように工夫したかを示している。これらの研究は、気恥ずかしいくらい明白で、E・M・フォースターが今世紀の初頭にたどり着いていた結論を裏付けている――フィクションは、刺激を与えたり、読み手の好奇心を満足させてあげますよとそれとなくほのめかしたりすることで、読者の関心を保ち続ける、というものだ。読み手は「何もかも結局どうなったのか」を知りたいだけであり、フィクション上の結末を通じてすべての出来事とすべての登場人物が究極的にどのように関係しているのか理解したいだけなのだ。
しかしながら、ジェイムズ以降のフィクションの作家は、多くの現代SF作家も含め、はっきりした結末を与えず、結論を出さない「オープン」なフィクションを書くことを好む。このようなやり方に対する理論上の支持はかなり単純だ。マーティン・ワレスが指摘する通り(pp. 83-84)、現代の理論では、著者は読者の登場人物やプロットに対する反応をあからさまに誘導するのは最小限にすべしとされている。著者が読者の反応を操作するやり方の一つが褒美と罰を振り分けることだが、そのような終わり方は著者の作品への介入の代表例でもあるので、理論上は望ましくない。そして、悪者が無罪放免になり、英雄が報われないままに終わるのが、よくある「ニューウェーヴ」SFである。
SFにおいて、この問題は普通のフィクションと比べて少しばかり複雑になる。ガンが主張している通り(p. 70)、どんな種類であれフィクションにおける結末について指摘できることは、SFでもあてはまる。アシモフのSF探偵小説は、アガサ・クリスティの推理小説と同様に、読者に誰が何をやったかが明らかになる満足を与えて終わるし、ハーラン・エリソンの小説は、ジェイムズ・ジョイスの小説と同じくらいオープン・エンディングだ。だが、SFはこの重要な特徴に、さらに重要な様相を付け加える。SFの定義の大半は、先に見てきた通り、作品設定の中で科学や技術の現状から外挿された何かを提供し、変更された環境が対立という言葉を条件づけることに言及している。定義上、SFは我々が「観念的な結末」と呼ぶところのものを常に提供することになる。つまり、現在が向かっていく先の、未来の表意文字の一種を提供し続けるのだ。
このような一般化には、いくつかの注釈を付ける必要がある。「ソフト」SFも「ハード」SFと同じくらい知性的に書かれてしかるべきだ。多くの読者は、著者が光速を超える速さの宇宙旅行を書いてもたいして気にしない。たとえ現時点で確立されている物理法則に反していようと、だ。ロバート・L・フォワードのような極めて厳密な「ハード」SFの作家は、観念的な結末の効果が台無しになるという理由でそういったものを避けるが、たいていの読者は納得できる外挿として高速旅行ができる世界を受け入れる。また、観念的な結末はSFをファンタジーから分かつ特徴的なものと言えるかもしれない。読者が個人的に納得できる外挿の限界を無視し、故に「積極的な不信の停止」を要求する要素を含む作品はどれもファンタジーだ。結局、ガンが言いたいのは、観念的な結末は必ずしも楽しい経験ではないということになる。SFが外挿した未来は不快なものになるかもしれないが、肝心なのはSFはその定義からして常にある種の納得できる未来を外挿するということである。
となると、SFも他のフィクションと同様、登場人物をめぐるプロットが生み出す緊張を解決して終わる、伝統的なアリストテレス的結末を提示して良し、という結論になるかもしれない。ラリイ・ニーヴン&ジェリー・パーネルの『降伏の儀式』(1985年)のように、善人が勝って悪人が(叩きのめされた後に)負け、未解決案件は凍結される。が、たとえ現代文学のようにフィクションの要素を巧妙に締めくくって終わらなかったとしても、観念的な締めくくりをどうしようもなく与えることになる。読者に「何もかも結局どうなったのか」全部分かったと思わせた上で、日常生活を送っていて目にすることになる社会的、科学的、技術的な変化の過程に言及し、我々が向かう先についての問いへの納得できて信じられる答えを提示する。
アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズは、これまで見てきた通り、SFのお約束の罠を持ち合わせている。『銀河ヒッチハイク・ガイド』(1979年)では、ありとあらゆる「毎度おなじみ」を予想するよう仕向けられる。地球は脅迫される。主人公は脱出する。先に脱出した女性と出会う。驚異的なパワーを持つ宇宙船に乗り込む。ここまでのプロットを要約すると、凡百のお約束SF小説そっくりだ。が、先に指摘したように、アダムスの手にかかるとどんな約束事も約束事通りには収まらない。疑似英雄詩で行われたのと同様に、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の小説シリーズは結果的にジャンルの機能を完全にひっくり返してしまう。レムいわく、「提示されるすべてのものが原則として経験論的に、合理的に解釈されねばならない、というのがSFの前提だからである。SFにおいては説明できない奇蹟や、超験的なことはあり得ないし、悪魔の類も存在し得ない。そして、出来事のパターンは本当らしくなければならない」(p. 197)。しかしながら、アダムスの小説は頓挫した結末や結論の出ない締めくくりのオンパレードであり、その中で著者はありとあらゆる方法で本当らしさを踏みにじる。小説の冒頭、どうやら地球が破壊されたらしい、となった後、アダムスは登場人物たちを宇宙船〈黄金の心〉号に乗船させることにするが、この宇宙船は無限不可能性駆動で動いていて、旅行者たちが望めばどんな場所だろうがいつの時間だろうが連れて行くことができる。
この駆動で創り出された不可能性フィールド内では、どれほどとんでもなくありえないことも、起こりうる。かくして、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの1巻目で、この宇宙船は2基の誘導ミサイルに攻撃される。登場人物たちは不可能性駆動のスイッチを押すことで難を逃れるが、それというのもミサイルはペチュニアの鉢植えとマッコウクジラに変身し、下にある惑星の表面に墜落したからである。このような設定においては、当然のことながら、絶対的にどんなことでも起こりうるし、建前上そうあるべきと思われる物語の進行は、納得できる外挿とか観念的な結末といったものと同様に、あっさり消えてしまう。おもしろいことに、というか、ひねくれたことに、この小説はある種の結論、つまり人類の経験のすべてが終わるところから始まるが、これほどのすさまじい結末でさえ、地球は単に超空間高速道路を建設するため土木建築員によって破壊された、という形で矮小化される。さらに、シリーズ最新作(原文ママ)『さようなら、いままで魚をありがとう』の冒頭で、地球がまだ存在していたことがわかる。そうだとしても、ドラマチックな緊張感を生み出したり解明したりすることで何らかの締めくくりを達成できそうなものだが、アダムスは頑としてそのような可能性を削ぎ落とす。たとえば、最初の小説の中でもっともドラマチックな出来事の一つは、惑星マグラシアからのミサイル攻撃である。登場人物たちは、衝撃までのカウントダウンを秒読みしながら、必死で迫りくる敵を回避しようとする。が、ここでもドラマは起こらない。というのも、アダムスが先に登場人物たちは無傷で逃れることを明かしてしまうからだ。
この小説に出てくる4つの出来事では、読者の気をたかぶらせておきながら語りの結末へと向かう衝撃をわざと挫いている、と言えるかもしれない。まず最初の出来事は、超知的生命体が「生命と宇宙と万物の意味」に対する究極の答えを得るため、「ディープ・ソート」というコンピュータを建設するシーン。この問題を750万年も考えた末に、このコンピュータが出した答えは「42」だった。これでは何の助けにもならない、ということで、42という答えに対する問いを見つけるためにさらに強力なコンピュータが作られる。このコンピュータは、有機生命をも組み込んでいて、「地球」と呼ばれており、1000万年の思考の末に問題を解決することになっていた。残念ながら、この計算が完了する5分前に地球は破壊されてしまい、「42」に対する問いは謎のままになっている。次の出来事では、登場人物たちは時間をくぐり抜け、宇宙の果てのレストランで食事をする。ここでは、時間の流れから遮断され、フロアショーのクライマックスで客たちは天窓越しに時間と宇宙が終わる様を目撃できる。しかしながら、登場人物たちはそれぞれ酔っ払っていたり司会者のくだらないトークにうんざりしていたりで、帰りの客で混雑するのを避けるため、ショーが終わる5分前に立ち去ることにする。どちらの場合も、読者は数百億年に一度の締めくくりを目撃できるかと思ったのに、わずか5分の時間差でがっかりさせられる。
三番目も同様にアンチクライマックスな出来事だが、『さようなら、いままで魚をありがとう』でアーサーが新たな探究の旅の果てに宇宙に対する神の最後のメッセージを読むシーンだ。遠くの惑星の砂漠を延々と歩いた後、アーサーは燃え盛る炎で書かれた巨大な文字がメッセージを綴っているのを目にする。「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」(p. 268)。この小説のラストではスーパーハエを生み出した遺伝子工学者の話が出てくるが、これは小説本体とは何の関係もない。アダムスによる結びの言葉は、「この物語にはおちがあったのだが、いまちょっと度忘れしてしまった」(p. 271)。この出来事といいラストの1行といい、アダムスはSFの語り手としての役割を完全に放棄している。他とは何の関係もありません、テーマに沿ったパターンを探すのも無理です、というのだから、物語の締めくくりを否定している。同じ理屈で、この先どうなるのだろうという読者の好奇心にまったく貢献しないという意味で、観念的な結末をも否定している。
アダムスがSFというジャンルに与えた暴力をよりよく鑑賞するために、もう一つの特異なSF作品の例、カート・ヴォネガットの『タイタンの幼女』(1959年)と比較してみよう。ヴォネガットの小説が実際にアダムスの作品にアイディアを供給していないとしても、少なくとも何かしらおもしろいもの、有益な類似を提供している。『タイタンの幼女』では、地球は火星からの侵略に脅されている、あるいは脅されているように見える。「火星人」の宇宙船は、謎の燃料「そうなろうとする万有意志(UWTB)」(p. 186)で動く。主人公のマラカイ・コンスタントは、アーサー・デント同様、無能なアンチヒーローで、自分のコントロールや理解を超えた力に振り回される。アダムス作品と同じで、地球とその文明は偶発的なもので、超知的生命体によって操作されたより壮大な計画の中の、概ね無意味な現象にすぎない。ここでは、地球はコンピュータどころかただのメッセージボードだ。マラカイは、アーサー同様、何年も放浪した末に地球に戻ってくるが、そこで最終的に彼が理解したのは、「人生の目的は、どこのだれがそれを操っているにしろ、手近にいて愛されるのを待っているだれかを愛することだ」(p. 333)。こう理解するとマラカイは、小説の冒頭に書かれた奇妙な預言のすべてをまっとうして、死ぬ。
『タイタンの幼女』のテーマについての最良の要約、恐らく、地球を支配する超知的生命体の進化についての伝説の中に書かれている。以前、彼らの惑星には人間とよく似た生物に統治されていた。この生物は、彼らの目的がいったいなんであるかを見出そうとする試みで、ほとんどの時間を費やしていた。そして、これこそは彼らの目的であると思われるものを見出すたびに、その目的のあまりの低級さにすっかり自己嫌悪と羞恥におちいるのが常だった。
そこで、そんな低級な目的に奉仕するよりはと、生物たちは一つの機械をこしらえ、それに奉仕を代行させることにした。これで、生物たちには、もっと高級な目的に奉仕する暇ができた。しかし、いくら前より高級な目的を見つけても、彼らはその目的の高級さになかなか満足できないのだった。
そこで、より高級なかずかずの目的に奉仕させるよう、かずかずの機械が作られた。
そして、これらの機械はあらゆることをみごとにやってのけたので、とうとう生物たちの最高の目的がなんであるかを見つける仕事を仰せつかることになった。
機械たちは、生物がなにかの目的を持っているとはとうてい考えられないという結論を、ありのままに報告した。(p. 291)これは、アダムスの超知的生命体が「生命と宇宙と万物の意味」を求める様と酷似している。
が、ヴォネガットの作品とアダムスの作品との重要な違いは、アダムスの小説のほうが規模がはるかに大きく、あらゆる時空のすべての生命体を含んでいることだ。何だかんだ言っても『タイタンの幼女』には物語風の結末がある。主人公は小説の冒頭で呈示された奇妙な預言をまっとうするし、こういった預言も小説に物語の方向性を与えている。加えて、マラカイは人生の目的についての大切なレッスンを学んでから死ぬし、そういう意味ではこの小説はレムがSFとはかくあるべしと主張した通りになっている。「人類の運命にや、宇宙における生命の意味や、何千年もの歴史を誇る文明の栄枯盛衰について説明する。推論の対象となるありとあらゆるものについて、核となる問いへの答えを大量に生み出す」。つまり、『タイタンの幼女』は、およそ「ハード」SFではないにもかかわらず、もっとも有意義な意味で「理想的な結末」を提供している。その一方、アダムスの小説はあらゆるレベルで「結末」を否定する。驚異の宇宙には意味だか目的だかが存在しているのだと明らかにするどころか、むしろその無意味さを肯定する。アダムスの宇宙には、短期可能で合理的なパターンは出てこない。レムが言うところの「推論の対象となるありとあらゆるものについて、核となる問いへの答え」は呈示されず、「実験的で合理的で、説明可能な一連の出来事」もない。
このことがどこよりもはっきり示されているのが、『宇宙クリケット大戦争』で、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ1作目におけるペチュニアの鉢植えの破壊が特別に呼び起こされる箇所である。下にある惑星に激突する直前について、アダムスはこう書いた「ペチュニアの鉢植えが落ちていくとき、その心に浮かんだ思いはこれだけだった――まいったな、またか」。さらに続けて、「ペチュニアの鉢植えがそんなふうに思った理由を正確に理解できたら、宇宙の本質がいまよりもっとよくわかるだろう、そう考える人は少なくない」(安原訳『銀河ヒッチハイク・ガイド』、pp. 182-183)。この章はこれで終わり、ペチュニアのことはそれから2冊の小説をはさんだ数百ページ先、アーサーがアグラジャグという名の奇妙な生き物と出会うまで出てこない。アグラジャグは何百年もの間に何度も死んではさまざまな生き物の形に転生する魂であり、そしてアーサーはそのいずれの死にも直接的であれ間接的であれ関与していた、ということがわかる。アグラジャグは、アーサーが叩き潰したハエであり、踏みつけたアリであり、轢き殺したイモリであり、食用にしたウサギであり、中でもとりわけ惑星に激突したペチュニアの鉢植えだった。これら無意味な死に対する復讐を決意したアグラジャグはアーサーを殺そうとするが、誤って自分自身を爆破してしまい、アーサーは逃げ延びた。
この出来事はいくつかの理由で興味深い。まず、アダムスがほのめかしたさらなる情報への伏線が実際に語りの中で回収されている数少ない例であること。我々は今ではペチュニアの鉢植えがどうしてそう思ったのかを知っているし、ということは我々は「宇宙の本質がいまよりもっとよく」理解していることになる。実際、そう考えるならその通りだ。アグラジャグにとってアーサーは運命であり、時空を超えた宿命である。アグラジャグにとって、アーサーは生命と宇宙と万物についての意味であり、「何もかも結局どうなったのか」の答えである。他の感傷的な生き物と同様、アグラジャグも自分の運命に何らかの意味を見出そうとして、アーサーが何らかの悪意を持っているにちがいないという結論にたどり着くことしかできなかった。その証拠として、アグラジャグはアーサーが以前の生命体だった時に何をしたかについて2つの例を挙げる。アーサーは、ウサギだったアグラジャグを食用に殺し、そのウサギの皮を使ってハエとして蘇ったアグラジャグを叩き潰した。このいささか詩的な不正義がアグラジャグを怒り狂わせる。アーサーにできることは、アグラジャグのことを意識していたどころか彼の存在自体に気付いてさえいなかったと主張することだけだ。アグラジャグは彼の言い分を信じず、生命には何かしらの意味があるはずだとして不毛に激怒しながら自爆する。
アグラジャグとアーサーとの関係は、読者とアダムス、人類と宇宙の創造主との関係の代替であると結論づけてもいいかもしれない。アーサーとアダムスと神は、アグラジャグと読者と知覚を持つあらゆる生き物が理解しようと努める、それぞれの世界の創造主だ。アグラジャグに悲しみを与える主体としてのアーサーにできるのは、謝罪して自分の責任を否定することだ。読者が本を読んで経験したことに対して著者のアダムスにできるのは、自分の作品におちがあったとしても忘れてしまったと宣言することだけである――宇宙の創造主がご迷惑をおかけして申し訳ございませんと謝ることしかできなかったように。アグラジャグがアーサーを相手に体験したことは、読者がアダムスの小説を相手に体験したこと、人類が神の創造物を相手に経験したことの範例とみなすこともできよう。創造物全体から意味を見出そうとするどのような試みも失敗へと向かうが、アダムスの小説からもっともらしい結論を導き出そうとするのも同じようなものだ。
アダムスの小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズが持つ最大の衝撃を理解するために、少しばかりの間、ポープの『愚物列伝』に立ち戻ってみるのがベストだろう。ポープのような新古典主義の詩人にとって、「芸術は自然を模倣する」とは、著者が驚異の世界のミクロコスモスを創り出すとき、その秩序ある作品には創造者によって特定のパターンが含まれていることを意味している。シバーのような不出来な詩人の手にかかると、混乱した「未知の自然法則に従った世界」になり、水は下から上へと流れ、クジラは森を闊歩する。このような芸術の理論全体は、自然はきちんと秩序立っているという信念に基づくものであり、ポープとその仲間たちはその当時、ニュートンの『プリンキピア』を読んで確信を抱いていた。同じような確信はSFでも必須だが、それというのもSFは、宇宙とはすべての面で科学的理論を提示できるという、ある種の俄然的論理を通じて理解可能だという、割と曖昧な仮説に立脚することでどうにか存在しているからだ。それ故、SFは、私たちが秩序ある宇宙を信じていると確証した上で、結末を提供する。それに対し、アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズは、自然を模倣した芸術の一例ではあるものの、ここでいう自然界には秩序など存在せず、神も神の代理人たる創造者も内なるゴタゴタについて謝罪しなければならない。秩序ある自然の代表たるニュートンの重力の法則ですら、アグラジャグから逃れようとしたアーサーが空を飛ぶ方法を学んだ時に台無しになってしまう。ポウプは、『人間論』で哲学的な楽観主義を炸裂させ、「何という迷路! だが計画がないわけではない」として読者を熟考へと誘う。疑似SFの作者たるアダムスは、計画など何もない宇宙についての熟考を誘う――それは、結末のないアダムス作品と同様、オープンエンドな宇宙である。
〈引用文献〉
アイザック・アシモフ著、安田均・浅倉久志・加藤弘一訳『Dr.アシモフのSFおしゃべりジャーナル』 講談社、1983年
カート・ヴォネガット著、浅倉久志訳『タイタンの幼女』 早川書房、1977年
スタニスワフ・レム著、沼野充義他訳『高い城・文学エッセイ』 国書刊行会、2004年
フランク・カーモード著、岡本靖正訳『終りの意識 虚構理論の研究』 国文社 1991年
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