1979年、ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1シリーズが放送され、口コミで評判が広がっていった頃、当時27歳のアダムスは、ソフトポルノ雑誌『ペントハウス』からの取材で長時間のインタビューを受けた。
アダムスはそれまでにも何度か取材を受けたことがあったが、いずれもごく短いもので、記事もアダムスのジョークを取り上げる程度にとどまっていた。アダムスにとって初めての本格的なインタビューは、同年、『ペントハウス』にささやかなコラム記事として掲載され、インタビューの録音テープはそれきり忘れ去られていた。
が、30年以上の年月を経た後、この録音テープが奇跡的に再発見される。そして、当時のインタビュアーだったノンフィクション作家イアン・シャーコム自身の手でテキスト化され、Douglas Adams: The First and Lost Tapes のタイトルでデジタル書籍化された。
以下は、その抄訳である。
Part One
・SFが好きかどうか・実際に読んだ作家は? その作家のどこが特別だった?「イエスでもありノーでもあるかな。望遠鏡を裏返して自分の立ち位置を外側にし、全く違う視点から見てみる、という側面は好きだね。 自分が『銀河ヒッチハイク・ガイド』でやろうとしたのはまさにそれで、優れたサイエンス・フィクションはみんなそうだと思う。宇宙船で飛び回って光線銃で撃ち合いをする、みたいなSFはすごくつまらない。僕が好きなのは、SFは人類の経験を過激なまでに再解釈させ、一見するとすごく単純でありふれた出来事にもありとあらゆるさまざまな解釈を提示させてくれるからだ。そういうのはおもしろいと思う。」
・その他の、よく名前の挙がるSF作家は? アシモフとかアーサー・C・クラークは読みましたか?「トム・ストッパード。さもなくば、トルストイが好き。ソルジェニーツィンも。カート・ヴォネガットは文句なしに素晴らしい。『タイタンの妖女』はこれまでに6回読んだけど、読むたびにますます好きになる。彼に影響を受けたことは白状しなくちゃならない。『タイタンの妖女』は、1回読んだだけだとえらく適当で何気なく書かれたように思える本だ。最後にすべてが突然きちんと意味を成すのはほとんど偶然みたいなものだと思うだろう。その後、何度か読み返してみて、同時にものを書くということについてわかってくると、そのすごい離れ技、見事に磨き上げられているからこそ、ごくさりげなく思えるのだと気が付く。」
・大学卒業後は、コメディ作家としての潜在能力を買われて人脈を広げ、1年半ほどの間、グレアム・チャップマンと共同執筆をしたものの、どの企画も日の目を見ることはなく終わったことについて。「読んだ読んだ。僕が好きなのは読んで笑えるSFを書く作家だけど、そういう人はあんまりいない。ロバート・シェクリイくらいかな。彼はすごく、すごくおもしろい作家だ。おまけにスタイリッシュだしね。巧い文章を書けるSF作家は本当に少ない。ロバート・シェクリイにはそれができる。
そう、シェクリイと……あとは、スタニスラフ・レム、ポーランドの作家で、すごくいい英語の翻訳が出ている。すごく込み入った言語スタイルで、かつ、たくさんの言語遊びを含んでいるだけに、二重の意味で素晴らしい。英語に翻訳するのはものすごく難しかったはずなのに、多くの箇所でとびきりよく出来ていた。」・さらなる大仕事が舞い込んだ——チャップマンとアダムスに『グリース』や『サタデー・ナイト・フィーバー』で大ヒットを飛ばしていたロバート・スティグウッド・プロダクションから映画製作の声がかかったのだ。「モンティ・パイソンの主要メンバーであるグレアム・チャップマンと仕事をしていた時は、「これは大きな転機になる」と思っていた。でも、そうはならなかった。サイエンス・フィクション・コメディというアイディアを売ろうと頑張ってみたが、誰も興味を示してくれなかった。コメディ部門のプロデューサーに会いに行って、「これはサイエンス・フィクションなんです」と言うと、「これはドラマだね。ドラマ部門のプロデューサーに持っていってくれ」と言われ、ドラマ部門のプロデューサーからは、「コメディ部門のプロデューサーに渡してくれ」と言われる。
それから、グレアムと僕が(元ビートルズの)リンゴ・スターから依頼され、アメリカの1時間の長さのテレビ特番の脚本を書くことになったけれど、結局はモノにならなかった。すごく良い内容だっただけに、残念だ。」・結局、何週間か金持ちアラブ人のボディ・ガードのアルバイトなどをして、ラジオのコメディ番組「The Burkiss Way」に短いスケッチを書く機会を得る。その番組のプロデューサー、サイモン・ブレットから番組向きのアイディアはないかと質問された。「サイエンス・フィクションに基づく新しい映画になるはずだった。が、結局、彼らはプロジェクトを中止した。というのも、「サイエンス・フィクション映画が売れるとは思えないから」。後から振り返ってみれば、それって『スター・ウォーズ』の約1年前のことだったんだけどね」
・待ちに待ったチャンスがついに訪れたことについて「サイエンス・フィクション・コメディというアイディアは、もうあきらめかけていた。誰もおもしろがってくれなかったからね。でも、そんな時にサイモン・ブレットが僕にあるアイディアを持ち出したんだ。『SFコメディをやりたいんだが、君ならできると思う』。思わず椅子から転がり落ちそうになったね。」
・試作はなし、いきなりの本番製作だった。第1話として私たちが聴いているものは、本当に初めて製作されたエピソードそのものだ。が、視聴者からの反応は、長らくの間、ゼロだった。「タイトルを思いついたのは、それから数日後のことだった。頭にあったのはたくさんのバラバラなプロットで、そのどれもが世界の終わりに関するものだったから、30分の独立した6つのエピソードを用意しそのどれも世界の終わりで締めくくられる、というのを考えていた。タイトルは「地球の最期」とかそういうのになるだろうな、と。
そこで不意に6年前に閃いたアイディアのことを思い出した。これまで手をつけたことがなく、ずっと思い出すことすらなかったんだけどね。ヨーロッパをヒッチハイクで回っていて、当時の僕は学生で、というか、ケンブリッジ大学に進学を控えている状態だったんだけど、この時に『ヨーロッパ・ヒッチハイク・ガイド』という本を持っていた。で、ある晩遅く、シラフとは言えない状態でインスブルックのキャンプ場を歩き回っていて、星がものすごくきれいだったこと、そしてその時に「誰か『銀河ヒッチハイク・ガイド』という本を書けばいいのに」と考えたことを思い出したんだ。
とは言え、よくよく考えてみると芯から良いアイディアかどうかわからなくて、丸6年も手付かずのままだった。ともあれ、どういう番組になるのかを説明した概略をまとめたが、BBCのシステムをくぐり抜けるのにしばらく時間がかかった。この時期、僕はドーセットにある実家に逆戻りして両親と一緒に暮らしていた。それからようやく BBCから返事が来て、「OK、第1話を書いてくれ」と言われた。で、僕は第1話を書き、それが通るまでまたしばらく待たされて、それからようやく返事が来て「OK、じゃあ話を進めて製作に入ってくれ」と言われたんだ」「第1話ができたのが大体BBCの夏休みの時期で、OKをもらうためには関係者一同が寝そべっているどこぞのビーチから戻ってくるのを待つ必要があった。かなり長い時間だったね。 待たされている間、パイロット版の脚本を『ドクター・フー』の脚本編集者、ロバート・ホームズに送ってみたら、「うん、いい感じだ。来てくれないか、話をしよう」と言われた。で、いくつかのアイディアについて少し話し合いをし、結果として僕は『ドクター・フー』4話分の脚本を書く契約をした。ここまでくるのに長い時間がかかったし、結局その間は何も起こらなかったのに、突然、『ドクター・フー』4話分と『銀河ヒッチハイク・ガイド』の残り5話分を直ちに書き上げることになったんだ。
Part Two
Part Threeに続く1979年の夏までに、ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1シリーズはBBCラジオ4で2回放送され、徐々にカルトヒットの兆しを見せ始めた。 これが「カルト」だというのは、当時のアダムスが金欠で、仕事を必要としており、『ドクター・フー』の脚本編集者の仕事に嬉々としてとびついたからだ。カルトではなく大ヒットになるとはまだ誰にもわからなかった。 このインタビューでは、当時のアダムスが抱えていた従来のコメディの手法への抵抗、『ドクター・フー』やその他のメディアへの幻滅などが語られている。
・本人いわく、幼い頃からコメディに目覚めていたとのこと。ケンブリッジにある産科病棟で看護師たちに笑いを届けていたらしい。・とは言え、成功までの道のりは長い。このインタビューを行った当時、彼は収入を得るため『ドクター・フー』の脚本編集者をしていたが、思っていた以上に妥協を強いられる仕事だとわかる。11歳の時から『ドクター・フー』のファンだったし、この番組で名を上げようと頑張ったものの、幻滅して終わった。「すごくへんな形の赤ん坊だったらしい。看護師さんは僕の腰回りをタオルで包み、「ほら、ガンジーみたいでしょ」と言いながら病棟を歩きまわっていたんだとか。」
・たとえ『ドクター・フー』は自分の思い通りにできなかったとしても、ほどなく彼は自分自身の作品で成功の味を楽しむことになった。それからほんの数ヶ月のうちに、最初の本が出て、レコードが出て、ラジオドラマの第2シリーズが出て、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はメインストリームのヒットとなり、彼の知名度も上がった。そして何より、この成功が、既存のフォーマットに従うのではなく、自分がおもしろいと思うものを追求した結果だというのも大いに意味があった。「君が必要なんだ、君ならこの番組に独自の色をつけられる、とか言われたけれど、そんなことが許されるシステムではなかった。
一人の人間でどうにかできるようなものじゃない。湖の真ん中に浮かぶ小舟のようなもので、泳ぎながらそれを必死で動かしているような感じだった。今シーズンの『ドクター・フー』もこれまでと変わり映えしないだろう。それが残念でならない。」・不遇の日々を経た後、他の人の指針に従うのではなく、自分が「ラジオからこんな番組が流れてきたら楽しいだろうな」と思うものを書き始め、自分自身の声を手に入れた。「人はいつも商業ベースのものと良いものを徹底して区別しようとする。「大衆の好みを過小評価して損をした者はいない」という格言を持ち出したりするが、僕はひどい考え違いだと思う。僕としては、視聴者は実際のところ知的だと信じたい。だって、彼らは自分と同じ人たちの集まりなんだから。
「自分の知性をバカにされて喜ぶ人はいない。たっぷりの熱意を持って取り組んで、それを作品に注ぎ込めば、視聴者も反応してくれるはずだ。自分の判断力がとことん間違ってなければね。」・ダグラスいわく、実際のところ『銀河ヒッチハイク・ガイド』には、いわゆるギャグとかシャレといったジョークの類はほとんど入っていないとのこと。「『自分だったらどんな番組を聴きたい? どんなものにわくわくする?』と考えてみたんだ。で、よし、書いてみよう、と。モンティ・パイソンを除けば、僕をわくわくさせてくれるものを作っている人はいなかったからね。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』でお金が儲かったら、もちろん嬉しい。でも、もっと嬉しいのは、視聴者を侮ってはいけないとを証明できたことだ。「大衆はこういうのが好きだから、自分たちもそうする」みたいな言い草は好きじゃない。人を見下しているよね。
マーケットにアピールするなら無難でなきゃ、という考えを打破したいんだ。BBCの保守的な人たちが今でも『銀河ヒッチハイク・ガイド』をいっときの変わり種とかまぐれあたりとみなしていて、これがラジオドラマの本来あるべき姿だと思っていないことは僕も知っているけれど。
僕が何かを書いていると、人は決まってこう言う。『あまりに難解だね。視聴者の半分はついてこられないよ。ジョークをいくつか削ったら?』」・ダグラスの説明によると、ラジオドラマの最初のエピソードに出てくる「ありがちなジョーク」は、ヴォゴン人の宇宙船で意識を取り戻したアーサーにフォードが「気分はどう」と訊くと、アーサーが「陸軍士官学校みたいだ。自分の一部がずっと気絶してる」と答えるシーン。最初のテイクでキャストやスタッフから笑いが起こったとしても、何度か聞くうちに熱が冷める。「一番最初のエピソードを書いていた時、「ここにジョークをはさまなきゃ、3ページも書いたのにまだ一つのジョークも入れてないじゃないか」とかずっと思っていた。何か違うことをやろうとしているとわかっていても、つい自分がよく知っている変わったことを探してしまう。」
それに対し、もっとよく出来たジョークはこちら。これこそダグラス・アダムスのユーモアの真髄だ。
アーサー:ここはどこ?このインタビューを行った時期のダグラスは、最初の小説の執筆やらラジオドラマをLPレコードに収録するための編集作業やらラジオドラマ第2シリーズの準備やらテレビドラマ化のことやらで、てんてこ舞い状態だった。
フォード:ここは安全だよ。
アーサー:そうかい。
フォード:ここは狭い調理室なんだ。ヴォゴン土木建設船団の船の」
アーサー:ふうん。そういうの『安全』って言うのか? 『安全』って言葉にそんな変な用法があるとは知らなかったよ。・1979年の時点で、ダグラスは自作のマルチメディア化を自覚していた。また、メディアによって力学が異なることも鋭敏に感じ取っていた。「ひどく手こずったよ。異なるそれぞれのメディアごとに、異なる方向でストーリーを進めなくちゃならなくて――ありとあらゆるトラブルに陥った。ラジオドラマの第2シリーズ完成して放送の準備が整ったら、2作目の小説にとりかかり、実際のところ、一つのメディアから別のメディアに移ると、プロットも大きく分岐してしまう。今のところ、ラジオドラマが素材を生み出し、そこから僕は椅子に座って本を書き、素材が意味を成すようにする。
・残念ながら映画版が完成したのはダグラスの死去から4年後のことだった。この先、ひょっとするとバレエとかオペラ版も製作されるかも?「来年にはテレビドラマ化する予定なんだけど、今のところ仕事は進んでいない。今年の終わりまでには、番組の方向性を真剣に検討する予定だよ。どんな音にするかと同じくらい、どんなビジュアルにするかはすごく大事なことだし、『ドクター・フー』とか『ブレイクス7』みたいな見た目になることだけは避けなきゃいけない。今のところ僕の頭にあるのはひどく漠然としたビジュアルイメージだけだけど、ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』ってどんな感じであるべきかという漠然としたサウンドイメージから始まったしね。僕たちでやり遂げないと。
映画化するとなったら、いくつかの言葉は置き去りにして、そのギャップをビジュアルで埋めなきゃいけない。何せ映画は視覚のメディアだからね。違うものにならざるを得ない。
実際に観てみるまで、舞台化できるかどうか危ぶんでいた。これもまた全然違うものだからね。予算のない中ですべてをまとめ上げられたから、かなりガタガタだったけど。
製作したのはケン・キャンベルで、彼は本当に素晴らしかった。できそうに思えるものには興味がないんだ。できそう、というだけで興味が持てないんだね。3時間分の内容を90分の長さで上演していて、言葉の量はすごく多かったけれど、ちゃんと機能していた。ラジオと全然違うのに、ちゃんと成立していたんだ。この舞台を見てたら「これなら映画化もできそうだぞ」と思わされた。」「時折、ちらっと考えるんだ。『これって永遠に続くかも――空恐ろしいな』。で、次なる一行を書くのに立ち往生するんだけど。
テネシー・ウィリアムズは、朝、起きると、オールド・グランダッド(註/バーボンウィスキーの銘柄)を2瓶で武装し、日がな一日プールサイドに座って日光浴をし、午後11時になったら突如猛烈な勢いで25分間ほど執筆する。彼に言わせると、1日12時間、何もしていない時間があるからこそ、自分の人生でやりたいことをできる、とのこと。僕にはよくわかる。朝起きたらすぐタイプライターに向かう仕事なんて絶対に悲惨だ。
アイディアが浮かぶ時は、大抵、どこから来たのかわからない。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の第1シリーズを書いた時のことはほとんど記憶にないんだ。まるで誰か他の人が書いたみたいな感じだよ。」