1979年、ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1シリーズが放送され、口コミで評判が広がっていった頃、当時27歳のアダムスは、ソフトポルノ雑誌『ペントハウス』からの取材で長時間のインタビューを受けた。
アダムスはそれまでにも何度か取材を受けたことがあったが、いずれもごく短いもので、記事もアダムスのジョークを取り上げる程度にとどまっていた。アダムスにとって初めての本格的なインタビューは、同年、『ペントハウス』にささやかなコラム記事として掲載され、インタビューの録音テープはそれきり忘れ去られていた。
が、30年以上の年月を経た後、この録音テープが奇跡的に再発見される。そして、当時のインタビュアーだったノンフィクション作家イアン・シャーコム自身の手でテキスト化され、Douglas Adams: The First and Lost Tapes のタイトルでデジタル書籍化された。
以下は、その抄訳である。
Part One
・SFが好きかどうか・実際に読んだ作家は? その作家のどこが特別だった?「イエスでもありノーでもあるかな。望遠鏡を裏返して自分の立ち位置を外側にし、全く違う視点から見てみる、という側面は好きだね。 自分が『銀河ヒッチハイク・ガイド』でやろうとしたのはまさにそれで、優れたサイエンス・フィクションはみんなそうだと思う。宇宙船で飛び回って光線銃で撃ち合いをする、みたいなSFはすごくつまらない。僕が好きなのは、SFは人類の経験を過激なまでに再解釈させ、一見するとすごく単純でありふれた出来事にもありとあらゆるさまざまな解釈を提示させてくれるからだ。そういうのはおもしろいと思う。」
・その他の、よく名前の挙がるSF作家は? アシモフとかアーサー・C・クラークは読みましたか?「トム・ストッパード。さもなくば、トルストイが好き。ソルジェニーツィンも。カート・ヴォネガットは文句なしに素晴らしい。『タイタンの妖女』はこれまでに6回読んだけど、読むたびにますます好きになる。彼に影響を受けたことは白状しなくちゃならない。『タイタンの妖女』は、1回読んだだけだとえらく適当で何気なく書かれたように思える本だ。最後にすべてが突然きちんと意味を成すのはほとんど偶然みたいなものだと思うだろう。その後、何度か読み返してみて、同時にものを書くということについてわかってくると、そのすごい離れ技、見事に磨き上げられているからこそ、ごくさりげなく思えるのだと気が付く。」
・大学卒業後は、コメディ作家としての潜在能力を買われて人脈を広げ、1年半ほどの間、グレアム・チャップマンと共同執筆をしたものの、どの企画も日の目を見ることはなく終わったことについて。「読んだ読んだ。僕が好きなのは読んで笑えるSFを書く作家だけど、そういう人はあんまりいない。ロバート・シェクリイくらいかな。彼はすごく、すごくおもしろい作家だ。おまけにスタイリッシュだしね。巧い文章を書けるSF作家は本当に少ない。ロバート・シェクリイにはそれができる。
そう、シェクリイと……あとは、スタニスラフ・レム、ポーランドの作家で、すごくいい英語の翻訳が出ている。すごく込み入った言語スタイルで、かつ、たくさんの言語遊びを含んでいるだけに、二重の意味で素晴らしい。英語に翻訳するのはものすごく難しかったはずなのに、多くの箇所でとびきりよく出来ていた。」・さらなる大仕事が舞い込んだ——チャップマンとアダムスに『グリース』や『サタデー・ナイト・フィーバー』で大ヒットを飛ばしていたロバート・スティグウッド・プロダクションから映画製作の声がかかったのだ。「モンティ・パイソンの主要メンバーであるグレアム・チャップマンと仕事をしていた時は、「これは大きな転機になる」と思っていた。でも、そうはならなかった。サイエンス・フィクション・コメディというアイディアを売ろうと頑張ってみたが、誰も興味を示してくれなかった。コメディ部門のプロデューサーに会いに行って、「これはサイエンス・フィクションなんです」と言うと、「これはドラマだね。ドラマ部門のプロデューサーに持っていってくれ」と言われ、ドラマ部門のプロデューサーからは、「コメディ部門のプロデューサーに渡してくれ」と言われる。
それから、グレアムと僕が(元ビートルズの)リンゴ・スターから依頼され、アメリカの1時間の長さのテレビ特番の脚本を書くことになったけれど、結局はモノにならなかった。すごく良い内容だっただけに、残念だ。」・結局、何週間か金持ちアラブ人のボディ・ガードのアルバイトなどをして、ラジオのコメディ番組「The Burkiss Way」に短いスケッチを書く機会を得る。その番組のプロデューサー、サイモン・ブレットから番組向きのアイディアはないかと質問された。「サイエンス・フィクションに基づく新しい映画になるはずだった。が、結局、彼らはプロジェクトを中止した。というのも、「サイエンス・フィクション映画が売れるとは思えないから」。後から振り返ってみれば、それって『スター・ウォーズ』の約1年前のことだったんだけどね」
・待ちに待ったチャンスがついに訪れたことについて「サイエンス・フィクション・コメディというアイディアは、もうあきらめかけていた。誰もおもしろがってくれなかったからね。でも、そんな時にサイモン・ブレットが僕にあるアイディアを持ち出したんだ。『SFコメディをやりたいんだが、君ならできると思う』。思わず椅子から転がり落ちそうになったね。」
・試作はなし、いきなりの本番製作だった。第1話として私たちが聴いているものは、本当に初めて製作されたエピソードそのものだ。が、視聴者からの反応は、長らくの間、ゼロだった。「タイトルを思いついたのは、それから数日後のことだった。頭にあったのはたくさんのバラバラなプロットで、そのどれもが世界の終わりに関するものだったから、30分の独立した6つのエピソードを用意しそのどれも世界の終わりで締めくくられる、というのを考えていた。タイトルは「地球の最期」とかそういうのになるだろうな、と。
そこで不意に6年前に閃いたアイディアのことを思い出した。これまで手をつけたことがなく、ずっと思い出すことすらなかったんだけどね。ヨーロッパをヒッチハイクで回っていて、当時の僕は学生で、というか、ケンブリッジ大学に進学を控えている状態だったんだけど、この時に『ヨーロッパ・ヒッチハイク・ガイド』という本を持っていた。で、ある晩遅く、シラフとは言えない状態でインスブルックのキャンプ場を歩き回っていて、星がものすごくきれいだったこと、そしてその時に「誰か『銀河ヒッチハイク・ガイド』という本を書けばいいのに」と考えたことを思い出したんだ。
とは言え、よくよく考えてみると芯から良いアイディアかどうかわからなくて、丸6年も手付かずのままだった。ともあれ、どういう番組になるのかを説明した概略をまとめたが、BBCのシステムをくぐり抜けるのにしばらく時間がかかった。この時期、僕はドーセットにある実家に逆戻りして両親と一緒に暮らしていた。それからようやく BBCから返事が来て、「OK、第1話を書いてくれ」と言われた。で、僕は第1話を書き、それが通るまでまたしばらく待たされて、それからようやく返事が来て「OK、じゃあ話を進めて製作に入ってくれ」と言われたんだ」「第1話ができたのが大体BBCの夏休みの時期で、OKをもらうためには関係者一同が寝そべっているどこぞのビーチから戻ってくるのを待つ必要があった。かなり長い時間だったね。 待たされている間、パイロット版の脚本を『ドクター・フー』の脚本編集者、ロバート・ホームズに送ってみたら、「うん、いい感じだ。来てくれないか、話をしよう」と言われた。で、いくつかのアイディアについて少し話し合いをし、結果として僕は『ドクター・フー』4話分の脚本を書く契約をした。ここまでくるのに長い時間がかかったし、結局その間は何も起こらなかったのに、突然、『ドクター・フー』4話分と『銀河ヒッチハイク・ガイド』の残り5話分を直ちに書き上げることになったんだ。
Part Two
1979年の夏までに、ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1シリーズはBBCラジオ4で2回放送され、徐々にカルトヒットの兆しを見せ始めた。 これが「カルト」だというのは、当時のアダムスが金欠で、仕事を必要としており、『ドクター・フー』の脚本編集者の仕事に嬉々としてとびついたからだ。カルトではなく大ヒットになるとはまだ誰にもわからなかった。 このインタビューでは、当時のアダムスが抱えていた従来のコメディの手法への抵抗、『ドクター・フー』やその他のメディアへの幻滅などが語られている。
・本人いわく、幼い頃からコメディに目覚めていたとのこと。ケンブリッジにある産科病棟で看護師たちに笑いを届けていたらしい。・とは言え、成功までの道のりは長い。このインタビューを行った当時、彼は収入を得るため『ドクター・フー』の脚本編集者をしていたが、思っていた以上に妥協を強いられる仕事だとわかる。11歳の時から『ドクター・フー』のファンだったし、この番組で名を上げようと頑張ったものの、幻滅して終わった。「すごくへんな形の赤ん坊だったらしい。看護師さんは僕の腰回りをタオルで包み、「ほら、ガンジーみたいでしょ」と言いながら病棟を歩きまわっていたんだとか。」
・たとえ『ドクター・フー』は自分の思い通りにできなかったとしても、ほどなく彼は自分自身の作品で成功の味を楽しむことになった。それからほんの数ヶ月のうちに、最初の本が出て、レコードが出て、ラジオドラマの第2シリーズが出て、『銀河ヒッチハイク・ガイド』はメインストリームのヒットとなり、彼の知名度も上がった。そして何より、この成功が、既存のフォーマットに従うのではなく、自分がおもしろいと思うものを追求した結果だというのも大いに意味があった。「君が必要なんだ、君ならこの番組に独自の色をつけられる、とか言われたけれど、そんなことが許されるシステムではなかった。
一人の人間でどうにかできるようなものじゃない。湖の真ん中に浮かぶ小舟のようなもので、泳ぎながらそれを必死で動かしているような感じだった。今シーズンの『ドクター・フー』もこれまでと変わり映えしないだろう。それが残念でならない。」・不遇の日々を経た後、他の人の指針に従うのではなく、自分が「ラジオからこんな番組が流れてきたら楽しいだろうな」と思うものを書き始め、自分自身の声を手に入れた。「人はいつも商業ベースのものと良いものを徹底して区別しようとする。「大衆の好みを過小評価して損をした者はいない」という格言を持ち出したりするが、僕はひどい考え違いだと思う。僕としては、視聴者は実際のところ知的だと信じたい。だって、彼らは自分と同じ人たちの集まりなんだから。
「自分の知性をバカにされて喜ぶ人はいない。たっぷりの熱意を持って取り組んで、それを作品に注ぎ込めば、視聴者も反応してくれるはずだ。自分の判断力がとことん間違ってなければね。」・ダグラスいわく、実際のところ『銀河ヒッチハイク・ガイド』には、いわゆるギャグとかシャレといったジョークの類はほとんど入っていないとのこと。「『自分だったらどんな番組を聴きたい? どんなものにわくわくする?』と考えてみたんだ。で、よし、書いてみよう、と。モンティ・パイソンを除けば、僕をわくわくさせてくれるものを作っている人はいなかったからね。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』でお金が儲かったら、もちろん嬉しい。でも、もっと嬉しいのは、視聴者を侮ってはいけないとを証明できたことだ。「大衆はこういうのが好きだから、自分たちもそうする」みたいな言い草は好きじゃない。人を見下しているよね。
マーケットにアピールするなら無難でなきゃ、という考えを打破したいんだ。BBCの保守的な人たちが今でも『銀河ヒッチハイク・ガイド』をいっときの変わり種とかまぐれあたりとみなしていて、これがラジオドラマの本来あるべき姿だと思っていないことは僕も知っているけれど。
僕が何かを書いていると、人は決まってこう言う。『あまりに難解だね。視聴者の半分はついてこられないよ。ジョークをいくつか削ったら?』」・ダグラスの説明によると、ラジオドラマの最初のエピソードに出てくる「ありがちなジョーク」は、ヴォゴン人の宇宙船で意識を取り戻したアーサーにフォードが「気分はどう」と訊くと、アーサーが「陸軍士官学校みたいだ。自分の一部がずっと気絶してる」と答えるシーン。最初のテイクでキャストやスタッフから笑いが起こったとしても、何度か聞くうちに熱が冷める。「一番最初のエピソードを書いていた時、「ここにジョークをはさまなきゃ、3ページも書いたのにまだ一つのジョークも入れてないじゃないか」とかずっと思っていた。何か違うことをやろうとしているとわかっていても、つい自分がよく知っている変わったことを探してしまう。」
それに対し、もっとよく出来たジョークはこちら。これこそダグラス・アダムスのユーモアの真髄だ。
アーサー:ここはどこ?このインタビューを行った時期のダグラスは、最初の小説の執筆やらラジオドラマをLPレコードに収録するための編集作業やらラジオドラマ第2シリーズの準備やらテレビドラマ化のことやらで、てんてこ舞い状態だった。
フォード:ここは安全だよ。
アーサー:そうかい。
フォード:ここは狭い調理室なんだ。ヴォゴン土木建設船団の船の」
アーサー:ふうん。そういうの『安全』って言うのか? 『安全』って言葉にそんな変な用法があるとは知らなかったよ。・1979年の時点で、ダグラスは自作のマルチメディア化を自覚していた。また、メディアによって力学が異なることも鋭敏に感じ取っていた。「ひどく手こずったよ。異なるそれぞれのメディアごとに、異なる方向でストーリーを進めなくちゃならなくて――ありとあらゆるトラブルに陥った。ラジオドラマの第2シリーズ完成して放送の準備が整ったら、2作目の小説にとりかかり、実際のところ、一つのメディアから別のメディアに移ると、プロットも大きく分岐してしまう。今のところ、ラジオドラマが素材を生み出し、そこから僕は椅子に座って本を書き、素材が意味を成すようにする。
・残念ながら映画版が完成したのはダグラスの死去から4年後のことだった。この先、ひょっとするとバレエとかオペラ版も製作されるかも?「来年にはテレビドラマ化する予定なんだけど、今のところ仕事は進んでいない。今年の終わりまでには、番組の方向性を真剣に検討する予定だよ。どんな音にするかと同じくらい、どんなビジュアルにするかはすごく大事なことだし、『ドクター・フー』とか『ブレイクス7』みたいな見た目になることだけは避けなきゃいけない。今のところ僕の頭にあるのはひどく漠然としたビジュアルイメージだけだけど、ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』ってどんな感じであるべきかという漠然としたサウンドイメージから始まったしね。僕たちでやり遂げないと。
映画化するとなったら、いくつかの言葉は置き去りにして、そのギャップをビジュアルで埋めなきゃいけない。何せ映画は視覚のメディアだからね。違うものにならざるを得ない。
実際に観てみるまで、舞台化できるかどうか危ぶんでいた。これもまた全然違うものだからね。予算のない中ですべてをまとめ上げられたから、かなりガタガタだったけど。
製作したのはケン・キャンベルで、彼は本当に素晴らしかった。できそうに思えるものには興味がないんだ。できそう、というだけで興味が持てないんだね。3時間分の内容を90分の長さで上演していて、言葉の量はすごく多かったけれど、ちゃんと機能していた。ラジオと全然違うのに、ちゃんと成立していたんだ。この舞台を見てたら「これなら映画化もできそうだぞ」と思わされた。」「時折、ちらっと考えるんだ。『これって永遠に続くかも――空恐ろしいな』。で、次なる一行を書くのに立ち往生するんだけど。
テネシー・ウィリアムズは、朝、起きると、オールド・グランダッド(註/バーボンウィスキーの銘柄)を2瓶で武装し、日がな一日プールサイドに座って日光浴をし、午後11時になったら突如猛烈な勢いで25分間ほど執筆する。彼に言わせると、1日12時間、何もしていない時間があるからこそ、自分の人生でやりたいことをできる、とのこと。僕にはよくわかる。朝起きたらすぐタイプライターに向かう仕事なんて絶対に悲惨だ。
アイディアが浮かぶ時は、大抵、どこから来たのかわからない。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の第1シリーズを書いた時のことはほとんど記憶にないんだ。まるで誰か他の人が書いたみたいな感じだよ。」
Part Three
若かりし日のダグラス・アダムスが本当にやりたかった仕事について、また『銀河ヒッチハイク・ガイド』の中で自分でも気に入ってるところについて語る。
・ダグラスは締切破りの常習犯として有名だったし、奇抜なアイディアをたくさん思いついたけれど、同時に熟考を重ねる職人気質でもあり、自分の作品を批判的に見る目も持っていた。大当たりしたラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』第1シリーズでも、LPレコードを作るため時間を短くしなければならないとなると、不要と思われる箇所や登場人物をばっさり削除している。・第2話でゼイフォードやトリリアンやマーヴィンが登場し、第3話でスラーティバートファーストが登場、「究極の問い」が明かされる。この2話分に含まれたアイディアやジョークだけでも、3時間超えのハリウッド大作映画になるだろう。「地球上でのシーンはかなり短くなった。アーサーと市の職員との間の会話は半分にしたし、スピーチする女性の件は丸ごと削除した。僕には彼女がひどく場違いに思えて。
ちゃんと聴いたのは第2話と第3話だけだ。この2つは正直気に入っている。
残りはどれも問題ありだ。あれこれいろんな理由でね。」
当然、ラジオドラマの視聴者たちは一度聴いたくらいではすべてのニュアンスを聴き取ることはできなかっただろうが、これはもう一度聴き直す価値があるということは理解できたはずだ。こうして『銀河ヒッチハイク・ガイド』は、何となく聴いていただけの視聴者を熱心なファンへと変えた。再放送や、音源や脚本の販売を希望する声が増えていった。こうして小説化への期待も高まり、一時的なカルト人気からメインストリームでの大ヒットへと広がっていったのだ。
とは言え、このインタビューを行った段階では、まだ彼は有名人にはなっていない。1作目の小説を執筆中で、ベストセラーの10位以内に入れたらいいなと考えているところだった。・オリジナルのラジオドラマの中でダグラスが特に気に入っているジョークやシーンのうちの一つが、〈黄金の心〉号のメインコンピュータのエディだった。「ラジオドラマの脚本を複製しただけ、にはしたくない。それじゃ詐欺みたいなものだからね。それに、僕はずっと小説を書いてみたいと思ってたんだ、だってほら、誰だって小説を書いてみたいものだろ? 誰かが僕に近づいてきて「これを元に小説を書かないか?」と言ってこなかったら、自分から手をつけることはなかっただろうとは思うけれど。」
・大学を卒業してから『銀河ヒッチハイク・ガイド』で成功するまで、ダグラスにとってはなかなか厳しい道のりだった。「エディの箇所は気に入っている。でも作品全体の中で一番好きなのは、銀河ニュース放送の件。『宇宙のありとあらゆる知的生命体のみなさんこんにちわ。そして知的でない生命体のみなさんもこんにちわ。秘訣はいっしょにロックのリズムに乗ることだぜ、ベイビー』」
・もちろん、彼の勘違いだった。彼は作家になり、ちゃんと生き残った。が、この修行時代を通じて彼は大切なことを学んだ。「ケンブリッジ大学を卒業してすぐモンティ・パイソンのチームに仲間入りさせてもらったもので、みんなからも『あいつ、すごくうまくやってるじゃないか』と言われていた。そのうちすべてがダメになってしまい、めちゃくちゃキツくて、自分でも「まだ24歳なのに、もうすっかり終わってしまった。これでおしまい」と思っていた。
その頃、それまでの2年間がそこらの年月は完全に時間の無駄だったと感じていた。どこにも行き着けず、何も起こらなかった。『自分は作家じゃないんだ。この業界で生き残るのは不可能だ』と思った。」・ダグラスはプロ意識というものを非常に高く評価していた。自分自身にも、そして他の人にも。彼の音楽の好みにもその傾向があり、同種のプロ意識を持っているが故にポール・サイモンを特に気に入っていた。ビートルズやザ・フー、ピンク・フロイドも好きだったが、ポール・サイモンは最初に強い影響を受けたミュージシャンだった。「実際に学ぶことができたのは、自己校訂の技法だと思う。一つのセリフを冷静に見つめ、自分が書いたってことに拘泥しないでいられること。
信用の問題でもある。何かを目にして、自分でもどうやってそれを書いたかわからず、自分がそれ以上のものを書けるかどうかもわからなかったら、「これが自分にできる精一杯だ」と思ってしまい、削除したくなくなるからだ。
過去に自分がちゃんと使えるアイディアを持っていたとわかっていたら、削除することができる。自分ならもっと良いものが作れると自分を信じる準備ができているから。」・作家としてのキャリアを確立するまで、ダグラスにはさまざまな将来への夢があった8歳の時には核物理学者に憧れたりもしたが、それからしばらくやりたいことが見つからなくて不安だったという。「ポール・サイモンのレコードを聴いてギターを独学したんだ。一音一音確かめながらね。彼はすごく知的なミュージシャンだよ。マッカートニーとかディランみたいに、アイディアがいっぱいあって自然にメロディが溢れ出てくるタイプじゃない。
彼は曲を書くのに間違いなくすごく苦労していて、そういうところは自分と同じだなと思った。僕も書くのにすごく苦労するから。彼はとてつもなく頭がよくて、博識なミュージシャンだけど、それをいつもすごくシンプルな音に仕上げている。完成までものすごく頑張っても、あくまで謙虚で表に出さない感じが好きなんだ。」・それからの数年間、ダグラスは「クリーズみたいになりたい」と悪戦苦闘することになる。 ・若かりし日のダグラスの科学に対する関心の高さは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』によく現れている。が、少なくとも1979年当時のダグラスは、難解な科学理論に通じていたわけではなかった。物理は得意だったが数学は苦手(概念は理解できても計算がダメ)で、科学は大学進学に必要となるAレベルではなくOレベル(中等教育修了資格試験)しか取っていない。子供の頃は英国王立研究所のクリスマス・レクチャーに通ったりもしたが、あくまで科学の知識はつまみ食いでしかなかった。ただし、たとえ付け焼き刃の知識であろうと、そこにおもしろさを見出すことはできた。「ある日、テレビで「ザ・フロスト・レポート」を観た。この番組で初めてジョン・クリーズを観て、『ああ、自分がやりたかったのはこれだ』と思った。」
・若かりし日のダグラス・アダムスは、SFコメディというジャンルでもこの方針を貫いた。彼が書いた『ドクター・フー』の脚本には、本人も意識しないうちに、当時の最先端の宇宙論が持ち込まれていた。「まずは法則から始める。そういった法則の底を流れる論理がみえてきたら、それがどんなに基礎的で単純なものだったとしても、それらがどのように相互に作用しているかわかるようになる。
論理を把握し続けたまま、想像力を働かせて一つの物事からもう一つの物事へ飛躍してみる。それらにどんなつながりがあるだろうか。これって、科学者たちがやっているのと大差ない考え方だと思う。
優れた科学者は、複雑なものをシンプルに見せてくれる。実際のところ、彼らはみんなシンプルな法則から辿り着いたのだから。これが僕の取り組み方だ。」「僕が『ドクター・フー』の脚本の中に物質の超圧縮とか、縮退物質とか、重力場とかを持ち込んだことについて、ある人から手紙が届いた。
これらが出てくる脚本の箇所は、ある夜更けに、13個の惑星が超圧縮させなきゃいけないがどうやって説明したらいいのか自分でもわからない、でもどうにかしなくっちゃ、どうすれば話を完結させられるだろうと考えていた時に思いついたことだった。
何時間も椅子に座ってブラック・コーヒーを体に流し込み、ついに一つの解決法に辿り着いた。単に論理に従っただけでね。僕に手紙をくれた宇宙物理学者いわく、『どこでこれを見つけたのですか? 我々ですら、まだ研究段階なのに。』
ほんのちょっとした情報をもとに書いたものが、まるでものすごく巨大な知識の氷山の一角を使ったみたいに見えてしまう。ほとんどの場合、そんなことはないのにね。」
Part Four
このインタビューからほんの数ヶ月後、ダグラスが書いた小説版『銀河ヒッチハイク・ガイド』は大ベストセラーとなり、やがて世界的な名声を手にすることになるが、でもこの時点の彼はまだそのことを知らない。
・少年時代のダグラスは、 BBCラジオのコメディ番組「Beyond Our Ken」を夢中で聴いていた。この番組は、残念ながら1965年に終了する。・ダグラス・アダムスは、一番人気のキャラクター、鬱病ロボットのマーヴィンのアイディアの源泉は、かつての脚本家仲間のアンドリュー・マーシャルだと常々語ってきた。が、マーヴィンの気難しい性格は彼自身の気質を反映していると言う。「僕は「Beyond Our Ken」が大好きだった。どういうわけだか番組名が「Round the Horne」に変更された時には、『番組名が変わったってことはもう同じ番組ではないんだな』と思った。で、聴くのをやめた」
・ダグラスいわく、子供の頃の彼は「かなり神経質」で、大人になってからも「ひどく内気で自意識過剰」とのこと。とは言え、これは彼の人生におけるさまざまな局面のうちの一つに過ぎず、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の知名度が上がり著者の才能が評価されるようになるにつれ、変化が起こり始めた。「僕はひどく落ち込むことがあって、マーヴィンのセリフの多くはそんな時に出てきたものだ。そこには僕自身がかなり入っている。」
・謙虚で内省的なもともとの性格の殻を破り、その後のダグラスは数々のインタビューやカンファレンスで自信とユーモアたっぷりに振る舞えるようになる。SFのファンとかモンティ・パイソンのファンといった狭いカテゴリーの枠を超え、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が世界中のあらゆる世代から支持されるようになると、ダグラスの中で自分を疑う気持ちは消えていったにちがいない。 安定した収入も自信につながったはずだ。このインタビューを行った時にはダグラスはある程度の金銭的成功もおさめていたが、自分にはもっとお金が必要になることもわかっていた。「つい最近、パーティとかそういう公共の場に出るのが実際のところ快適だなと気がついたんだけど、自分の名前が知られるようになってみんなが僕のことをある程度知っていてくれるからだとわかった。
これまでと違う、もっと世間の光を浴びる自分自身を見つめることに折り合いをつけるのは難しい。時々自分で自分がわからなくなるし、落ち着いて自分自身を取り戻すのに時間がかかったりする。今だってちゃんと把握できているか疑わしい。でも、少なくとも今の自分は進行していくそのプロセスにも慣れてきた。」・ダグラスが6ヶ月かかって書き上げたラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』6話分に対して支払われたのは「初期費用として1000ポンド」だった。ラジオドラマ第2シリーズではもう少し値段が上がったし、テレビドラマ全6話分の脚本では9000ポンドか10000ポンドくらいもらえる見込みがあったので、ダグラスは自分の作品できちんとお金が稼げると思えるようになっていった。とは言え、テレビシリーズが製作されるかどうかは本とLPレコードの売り上げ次第ではあったが。加えて、ダグラスいわく、「海外の市場にアピールできるかどうか」の問題もあったらしい。アメリカの公共テレビネットワークは、BBC製作の番組そのものは買わないだろうけれど、リメイク権は買うだろう――実際、1970年代のイギリスのコメディ番組がアメリカのテレビ局にリメイクされたことで関係者が大金をつかんだ例があった。そしてアダムスには、自分が突然大金持ちになることへの不安はなかった。「僕にとって、お金が全然ないのと結構あることの違いは、請求書の額がどんどん膨らむことだとわかった。そういうものなんだね。生活スタイルに変化はないけど。
大金を稼ぎたいと思うのは、実際のところ、自分には絶望的に向いてないからなんだろう。本質的な側面をわかってないから、喰らいつくのが下手くそなんだ。」・ほんの腰掛け程度のつもりだった『ドクター・フー』での仕事はダグラスが思っていた以上に長くなってしまったが、ラジオとテレビの違いについてよく知る機会にもなった。自分の脚本が、テレビの製作過程で訂正され、望み通りの結果が得られないのが不満だった。「アメリカでのリメイク権の買い取りに興味があるという人がいた。「Man About the House」(1973年から1976年にかけてイギリスで放送されたシットコム)の脚本家はアメリカのテレビ局にリメイク権を売り、2年間で70万ドルも稼いだと言われたんだ。と言っても、すべては絵に描いた餅みたいなものだけどね。実際のところ、どうなることやら。」
・大人数での製作現場は、あたかも一つの企業のようなもので、ダグラスがラジオドラマを製作した時に体験した「ロックバンドのセッション」みたいな雰囲気とはまるで違う。ダグラスは『銀河ヒッチハイク・ガイド』のテレビドラマ化に意欲的だったが、ダグラス好みの仕事の現場がどのようなものかは言うまでもない。ラジオドラマでも俳優やエンジニアの意向が取り入れられたけれど、最終的には著者独自のヴィジョンにかなり近いものになっていた。「脚本を書いている時は、それがちゃんと指示通りに作られるものと信じなきゃいけない。
でも、映像になるまでに大勢の人の手を経ることになり、結局、自分が思い描いたものとは似ても似つかないものが出来上がる。そして、自分の心血を注いだすべてと、自分のもともとの意図には関係なく最終的に出来上がった完成品が評価されることを、切り離して考えることを学ばされる。
自分の思い描いていたものとまったく違うものを見てしまったら、また気を取り直してまた作家としてがんばろうと考えるのが難しくなる。だから、初めてきちんと理解したことから自分がどんな満足を得られるかを学ばなくてはならない。」・『ドクター・フー』の脚本編集者という立場で、ダグラスは新人ライターがやらかしがちな間違いをたくさん目にした。彼自身は、テレビよりもミスが許されるラジオという媒体で書き始めて幸運だったという。「僕は現場にずっといたけれど、そんな脚本家は珍しかったみたいだね。僕が実際に反対意見を口にしたことはほとんどなかったけど――言葉の言い回しとか、音響とか、ちょっとヘンだなと思った箇所くらいのもの。
ほんの少しの量のテープを完成させるために、毎日、何時間も何時間も暗い地下のスタジオにこもっていた――自分たちがこれまでと違うことをやっているのはわかってたけれど、これで良いのか悪いのか見当もつかなかった。あまりに長いこと張り付いていたら、もはや判断のしようもない。」・実際、ラジオドラマ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の脚本が最初に書かれた当時の出たとこ勝負っぷりを目にしたら、テレビ業界の人間は悲鳴を上げただろう。 『銀河ヒッチハイク・ガイド』のストーリーラインは、後の批評家から「お気楽なエピソード的」と評されたりもした。たまたまなのか狙った結果なのかは、今となっては問題ではない。が、アダムスが行き当たりばったり的な書き方をせざるをえなかったからこそ、20世紀後半の奇妙な人気作『銀河ヒッチハイク・ガイド』が生み出されたのではないかと思えてならない。「これまでに一度も書いたことのない何百もの人たちが『ドクター・フー』の脚本を送りつけてくる。そういう人たちは、良いアイディアを持っていたとしても、テレビの脚本を書くのはものすごく複雑な作業なんだということにまで理解が及んでいない。どんなに難しいことか、その上、予算の問題が絡んでくるということをわかってないんだ。
大体のところ、僕らはそのことを少しでもわかっている人たちを迎え入れる必要があった。結局、手術を受けたいと思ったら、心臓移植を任されるかどうかの前に、扁桃腺切除ができるかどうかを知りたいわけであって。そういう意味では、ラジオから始めてよかった。」
ダグラスの話ぶりだと、『銀河ヒッチハイク・ガイド』が日の目を見たのはまさに奇跡ということになる。そして、この先もう二度とダグラス独自の語り口、説明不可能なものを説明したり、コメディとか新しい視点という形で我々の概念をひっくり返したりすることはないのだと思うと残念でならない。「『ドクター・フー』の脚本を書く時は、単純にドラマの要素を思いついたとして、あらかじめプロットを組み立てられるから、今自分が何を書いていてこの先にどんなシーンが待っているのかを正確に把握することができる。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の時はそうはいかない。自分でも先のことが計算できないからこそ、おもしろくなるんだ。
先にプロットを組み立てると自動的に次のシーンを書くだけだが、そのやり方ではコメディは書けないことがわかる。だって、おもしろくないんだもの。で、余計な要素を投入してみたり、あれかこれかと引っ掻き回したりする羽目になるわけだが、それってつまり自分が組み立てたプロットが水の泡となりまた一から組み立て直すってことだ。そして、同じことの繰り返し。だったら、シーンごとに一つ一つ書いていって、最終的にうまくまとまることを祈るほうがいい――ものを書くことがものすごく難しいのはそのせいだね。
僕は自分を窮地に追い込んで書くタイプだ。今もすごい窮地にいる。完全に行き詰まってる中で、どうとか正しいセリフを見つけ出して形にしようとしている。でも、そういうのってこの番組を書いていればしょっちゅう起こることなんだよね。」Top に戻る