以下は、SF雑誌「インターゾーン」1989年7・8月号に掲載された、ブライアン・ステイブルフォードによるダグラス・アダムス作品全般に関する評論記事である。ただし、訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。
シェイクスピアをみれば、生まれながらに凄い人がいて、凄い作品があり、また作品を後押しする凄い力を持っている、ということがわかる。この3つの区分けは、凄いものすべてに等しく適応することはできないが、ベストセラー作家に関しては大体のところ当てはまっている。既存のベストセラー作家たちの作品は、著者がかたじけなくもペンを紙に置くや否や、自動的にベストセラーリストに入る。こういった人々の名声は、映画とか、テレビとか、あるいはたまたまロイヤルファミリーに生まれ落ちる運命だとか、そういったもので守られている。ベストセラー作家としての地位は揺るぎなく、結果として長きにわたる作家としてのキャリアを支えてくれる忠実なファン層を築き上げる。かと思えば、読書界のちょっとした気まぐれにより、突如として思いがけないベストセラーが達成されることもある。
ダグラス・アダムスは、一貫して異端のままでいられる稀有な作家であり、このようなカテゴリーのどこにもあてはめることができない。
アダムスの名声は1979年に最初の作品が出版される前に確立されたが、いまどき珍しい媒体、ひと昔前のマスメディアであるラジオ(もちろんラジオ1ではない)から生まれたものだった。ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の人気がとんでもないベストセラー小説に変貌するとは予想外、というのも番組の人気は今でいうところの「カルト的ファン」――作品を好きな人たちか、作品をものすごく好きな人たちだけだと思われていたからである。市場で売り込むにも、ラジオドラマ『銀河ヒッチハイク・ガイド』の脚本を筋の通った散文に置き換えた三部作の一作目にあたる小説は話が途中で終わっていて、残りのストーリーは二作目の『宇宙の果てのレストラン』(1980年)に引き継がれることになったから、簡単なことではなかった。
1982年に『宇宙クリケット大戦争』が出版された時には、市場の潜在力に疑問の余地はなかった。その頃には『銀河ヒッチハイク・ガイド』は現代の民間伝承と化していた。テレビドラマ化と、それに続くテレビCMによる占拠は、そのような地位を獲得する手助けをしたかもしれないが、肝となるイメージや何気ないセリフなどが日常会話に登場する役目を果たし、世間知の修辞として実際に受容されたことを示している。
『宇宙クリケット大戦争』のような特大ベストセラーの後なら、似たようなタイプのものでありさえすれば、次に出るのがどんな本だったとしても、同じ程度の成功は保証されたと言っていい。実際に出版されたのは The Meaning of Liff という、ジョン・ロイドとの共同作業による、珍妙な定義を集めた本だった。期待たがわずよく売れたが、民間伝承のレトリックに大きな貢献をすることには派手に失敗した。アダムスは安全圏に立ち戻り、『銀河ヒッチハイク・ガイド』三部作に4作目となる『さようなら、いままで魚をありがとう』を追加した。ラジオドラマの脚本の書き換えではなく、小説として書かれた最初の本である。
しかしながら、キャリアを続けていくという点では、これは単なる先延ばし行動でしかない。『銀河ヒッチハイク・ガイド』関連以外にはこれといったものがなく、おもしろそうな未決事項がとっちらかるばかりで一貫性がどこにもない。一度達成された偉業は、次なる成功がなくては、過去のものになってしまう。借り物の魅力によりかかる必要のない、何か新しいものが必要、ということでアダムスが次に思いついたのが『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』(1987年)であり、これが驚異的な成功を収めた後にはその続編『暗くて長い魂のティータイム』(1988年)が出版された。
これらの本は必ずしも万人から高評価を得られたわけではなかった――ダーク・ジェントリー・シリーズ2作目の出版は「サンデー・タイムズ」による容赦ない酷評を呼び起こした――が、アダムスのキャリアが一過性のものでなく、彼のユーモアのセンスは文学の枠組みでも十分通用することを知らしめる役には立った。これは彼の今後の見通しのためには極めて重要なことかもしれない。というのも、創造性の一種としてのユーモアは、長きにわたって維持するのが非常に困難だからである。センチメンタルとかアクションアドベンチャーが得意な作家なら割と簡単に自分の企画を延々と引き伸ばす手を見つけられるかもしれないが、ユーモアだとそうはいかない。(多才な能力を持っていた)シェイクスピアは、持続時間の短さこそがウィットの肝だと書き、悲劇についてはそうは見做していなかったようだが、彼は、36歳という若さで人生の半分以上の時間を費やして常におもしろくあり続ける人生の見通しについて熟考しなければならないダグラス・アダムスのような人の苦境を理解する立場にいなかった。実際にそんなことができた作家を数え上げるには片手で十分だし、それでも指が何本か余りそうだ。
退場していく役者が言ったように、死ぬのは簡単でも、笑いは難しい。出版界では長らく「笑えるサイエンス・フィクションは売れない」が公理とされていたことを考えると、アダムスの最初の成功はますます驚くべきことだった。これまでSF作家の中に冴えたユーモアを発揮できる人がいなかったからではない。ロバート・シェクリィやボブ・ショウ、デイヴィッド・ラングフォードといった著名な才人たちはいたが、それよりSFの読者の側がそういった作品を求めていなかったからだ。大多数をしめるハードコアなSF読者たちは、センス・オブ・ユーモアよりもセンス・オブ・ワンダーを好み、不敬であるものを何となく冒涜的だと見做す傾向にある。過去において、笑えるSFは多くのSF読者たちからジャンルを茶化しているように思われ、彼ら自身の批評でも暗黙のうちにそう解釈されている。
アダムス本人への熱心なファンは、当然ながら、かなりの比重でコアのSF購入者の枠の外にいるにちがいない。ベストセラーの地位を獲得するには広範な人々の支持が必要だからだ。しかしながら、彼のファンについては完全にSFコミュニティの外側にいるか、あるいはSFの企画や意図を基本的に馬鹿馬鹿しいと思っている人たちで成り立っていることは疑問の余地がない。『銀河ヒッチハイク・ガイド』をSFの約束事や慣習を茶化した風刺作品として読むことは可能だが、この作品がただそれだけのものだとか、そういうことをやっているからといってそれが作品の主目的であると主張するのは愚かしいだろう。著者が今日の地位にあるのは、それ以上のものがあるからに決まっている。
コメディを分析するにあたっては、一定の危険がある。分析は真面目に行わなくてはならないが、分析するという企画そのものが逆説的にコミカルなところがあり、どのような結論になろうと説明の対象と比べて退屈で大仰なものにならざるを得ない。コメディはおもしろい。ジョークがどのように機能しているかの説明はおもしろいものになり得ない。ジョークに笑っている人にとっては、なぜ笑っているかの調査など、よくてまったくの不適切、最悪の場合はいやがらせのように感じられるのは当然のことだ。ひとたび何がどうおもしろいのかについて自覚してしまったら、そのせいでそこから先、そのジョークをおもしろいと思えなくなるかもしれないからだ。
実際のところ、ダグラス・アダムスが得意とする種類のユーモアを分析にかけることにおいては奇妙な循環性がある。というのも、彼は分析の仕事や扱いにくい疑問に対する答えを見つけるための粘り強い追跡といったものをしょっちゅうコケにしているからだ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズのもっとも有名なくだりでは、究極のスーパーコンピューターが「生命と宇宙と万物についての究極の問い」に対する究極の答えを探索したら、言わずもがな、答えは42だと判明する。アダムスの小話やスケッチが容赦なく何度も繰り返し伝えるものがあるとすれば、すべての意味を理解しようとしても自尊心を傷つけられるだけ、ということだ。このシリーズの最終的なオチは、「被造物への神の最後のメッセージ」と銘打たれ、シリーズの結末として意図的に最大級の肩透かしが待っている。
それだけに、ダグラス・アダムスの解説者になるのは、すごく厄介な(クリケットの)三柱門でクリキットの試合をするようなものであり、SFを教えることで生計を立てているアメリカの学者たちがこぞって彼を避け、自分たちの研究業務がはるかに快適なものになるようもっとウィットに乏しいアーシュラ・K・ル・グウィンやフィリップ・K・ディックに執着するのは容易に想像がつく。しかしながら、よく言われるように、とっくの昔に天使たる資格を失ったのをいいことに、天使が敢えて自分の足を汚さないところに踏み込むバカもいて(私もこの理屈には納得しているが、いざとなると対処できない)、いやはや何と言おうか……。ぶっちゃけ大げさに言うと、『銀河ヒッチハイク・ガイド』のユーモアは基本的に身の丈を超えた大仰さにある。崇高なものからくだらないものへとメトロノームのように移り行き、壮大を凡庸に溶け込ませてしまう。
このような動きには、科学的な啓蒙という文脈において否定し難い妥当性がある。その世界観によると、地球や人類の歴史といったものが天地創造の中心からあまりにも僻地の辺境へと移されてしまうため、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の項目でたった一語もらえただけでもラッキー、それが見下された代物だったとしても大いにありうる、と結論づけるよりない。作品のタイトルにもなっているこの本は、ラジオとテレビではピーター・ジョーンズが素晴らしく簡潔に表現しており、何度となく私たちにこの厳しい現実を思い起こさせる。たとえば有名な、「宇宙は大きい」で始まるモノローグ。そもそもプロットの始まりからして、地球は新しい超空間高速道路の建設のために破壊される。世界の終末も所詮こんなものだ。人類はくだらない文章の中の余分な句読点と化し、地球の存亡を唯一気にかけてくれるのは、そもそもこの惑星を発注した白いハツカネズミであり、彼らが人類の重要性なんて幻想よりもはるかに大きなことを心に留めているからだとわかる。アダムス的な世界観では、たとえ伝説の四騎士が現れたとしても、破壊の任務を遂行すること以上に、仕事の前にハンバーガーショップに立ち寄るかどうかにはるかに心を悩ませることだろう。
このようなジョークの底に、ひどくすさんだ物の見方があることを読み取るのはたいして難しくない。実際、現状にあるたくさんの苦悩を表にまとめて整理したら、明るい気分でいられる理由には低い点数をつけることしかできなくて当然だ。避け難い死についてのハイデガーのこだわりなど、ただの腰砕けとしか思えない。その一方でしかるべき実存主義者の戦略とはうまくやっていく用意はある(「あわてるな」)が、ジャン・ポール・サルトルらによって作成された理性の時代を達成するためのどんなレシピより、少なくともずっと簡潔にまとまっているという美点がある。
近代科学の世界観が、我々人類なぞまったくつまらないものだとみなすアダムスの主張を説得力をもって支援しているとすれば、一般的なSF(その任務は、結局のところ、科学的想像力の地平やその先にあるものを探求することになると考えられている)が大抵の場合全く逆の方向に進んでいくことのほうに驚くべきだろう。
人間原理(もし宇宙が今のような形でなかったなら我々はここにはいない、我々が観察者なのだから、他の宇宙もありえたと仮定して宇宙を観察することはありえない)の力で我々を創造の中心へと戻そうとする、科学にたいするすごい楽観者のように、ジャンルSFのものすごい楽観者たちは自分たちのことを良く思おうとする。時折、彼らはバカ正直に我々は支配者である運命なのだと言い出したりするが、どちらかと言うともうちょっと繊細なやり方で人類の優越主義を魅力的なものに見えるよう外見を整えている。結局のところ、我々は今なおベストを尽くしていて、そうすれば我々にもいつか立派なことを成し遂げられる余地があることがわかる、というのが彼らの言い分だ。彼らの中にいる人道主義者たちは、たとえ我々が宇宙を征服できなくても、少なくとも互いに仲良くする可能性を探求することはできると思い起こさせてくれる。
ダグラス・アダムスはその手の理論家と比べると限りなくシニカルであり、だからこそ彼は時にそういった人々を容赦なくからかっているように見える。と言っても、実際のところ、彼は単にそのままのことを述べているにすぎず、それが笑いにつながる理由は、もし笑えなかったら怖すぎて熟考できないからだ。鬱病ロボットのマーヴィンが私たちに現実はおもしろくありませんと延々と指摘し続けることはおもしろいが、その事実を熟考するのは怖すぎる。
急落法のユーモアの主な問題点は、崇高なものからくだらないものへと移っていくたびに、崇高さの上限を塗り替え続けるのがどんどん難しくなることだ。そのうち、群れの中の最後の聖なる牛を撃ち殺してしまい、あつかましい凡庸さという酸で溶かすに値する壮大なるものが残り少なくなる時が来る。ひとたび「被造物への神の最後のメッセージ」が読み上げられると、たとえ一度に一字ずつ苦しみながら読み上げたとしても、その恐るべき苦悶はせいぜい最後の数ページ分くらいしかもたない。その後は、方向を変えて建設的になるより他ない。『さようなら、いままで魚をありがとう』に添えられたエピローグで(唐突に)起こり始めたことであり、凡庸な日常に収縮されることは、結局のところ、ものすごい宇宙規模の洞察が示唆しているほど悪いことではないのかもしれないとしみじみ考えさせられる。かくして私たちは、ダグラス・アダムス同様、万物の相互関連に行き着く。
全体論的探偵のダーク・ジェントリーが猫探しのために彼を雇ったクライアントに渡す請求書には、「万物の相互関連性のベクトルを検出・三角測量」(p. 199)のためのひどくご都合主義なバハマ諸島への旅行代金が含まれていたが書き直され、(死亡した)猫探しと人類の滅亡からの救済(こちらは無料)のが費用が併記されていた。だが、このような併記で生み出される不条理は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に通底している虚無的な不条理とは同じではない――むしろ逆、鏡像とも言えるものであり、どんなにくだらなく見えたとしてもよくよく考えれば驚くほど重要なことに直結しているのかもしれないと確信を持って主張する、人間原理の精神に似ていなくもない。
『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』の世界観は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の世界観よりはるかに陽気であり、ダーク・ジェントリーの生活スタイルがどんなにとっちからっていたとしても、本質的に彼は勝者である。文学を安直に語る社会学者ならこの大変動の理由を単にダグラス・アダムスが金持ちになったからだと結論づけ、おのれの実存にいよいよ満足するかもしれないが、『長く暗い魂のティータイム』を読めばそれが間違いだとわかる。というのも、この本は後期の『銀河ヒッチハイク・ガイド』のトーンに近く、ダーク・ジェントリーも、宇宙も、さらには万物の相互関連性さえ、かなり異なったものになっているからだ。
『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』はダグラス・アダムスのベスト小説だが、一番明るい作品だからではない。くだらないものと崇高なものを本当に一つにつなぎ合わせる複雑さを持ち、タイムパラドックスを美しくも優雅に用いているからだ。気まぐれに頭の切れるところを見せるダークが、子供をおもしろがらせようとして行われた手品のトリックのための古い請求書からタイム・マシンの存在を推測し、またタイム・トラベラーの本質が象牙の塔にうまく隠されていたとわかったところで、優雅な繋がりが輪を閉じ、読者は大喜びするだろう。続いてダーク自身が行うタイム・トラベル・ミッションの重要性についても同様に読者を歓喜させる、と言いたいところだが、一般大衆向けに書かれた小説にしては珍しく少数のマニアにしか通じない。このような繋がりにもかかわらず、もっと言えば万物の相互関連性が証明されているにもかかわらず、ジェントリーの手法である全体論なるものは、でっちあげだ。
ダーク・ジェントリーのシリーズは、本当のところ、探偵モノのジャンルとは言えない。というのも、あまりにその枠組みをひっくり返しているからだ。ジェントリーは、不可能なものを取り除き、残ったものがどんなにあり得なくてもそれが真実だ、というシャーロック・ホームズ的な見解とはまったく関係がない。彼に言わせれば、我々が何かを「ありえない」とみなすということ自体が、実際のところ「ありえなさ」に根拠を与える結果となっている。何かを「不可能だ」と拒絶することは、単にそれが私たちには理解できないというだけのことかもしれない。彼が忠順に観察したように、我々の理解の及ばないことはたくさんあるのだ。
しかし、全体論的な考え方が還元主義者のものにすり替わったように見えてもそれはほんの一時のことである。ジェントリーが(自分では嫌いだと言いつつも、占星術や代替医療や超常現象の大物たちを追いかけて)やろうとしているように、ひとたび我々が不可能なものを道理のパターンの内側に受け入れてしまえば、我々の調査は論理的かどうかよりも本当かどうかが基準となる。理屈に合うかと問うのをやめ、その代わり、奇妙なパターンを形作っていないかと問わなければならない。『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』で行われているのはまさにそういうことだが、あくまでそうするように仕向けられているだけのことだ。『長く暗い魂のティータイム』では行われていないが、それは(本心では還元主義者であり続けている)ダグラス・アダムスが、結局のところ本当にそうすべきだと思えないからである。
「長く暗い魂のティータイム」とは『宇宙クリケット大戦争』に出てくるフレーズで、不死のワウバッガーの実存主義的苦境、「退屈(ennui)」を避けるための努力は究極的に不毛であるとの証明の要約として使われている。このフレーズは、小説『長く暗い魂のティータイム』の中でも、不死であるアスガルドの神々が陥っている同様の苦境を表している。神々の努力もまた水泡に帰す――実際のところ、ベッドのリネンシーツの質にこだわり抜くことで永遠の至福を育もうとする試みは、不死ならざる者たちの戦術に胡散臭いほど似ている。「不安(angst)」との戦おうとする人間の試みと同じくらい不条理だ。アダムスの頭の中の振り子が後期の陰気な『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズ作品の見地に向かって再び戻っていき、「万物の相互関連性」は荒涼として愚かしげな「被造物への神の最後のメッセージ」と似たようなものに見えてくる。シリーズ最初の作品では一時的とは言え聖なるものたりえるかと思わせた「全体論」は、単なる欠陥品だと明かされてしまった。古き神々は我々に語るものを何も持たず、もし新しい神々がいるとしたら、我々が探すべきその生誕の場は、ベツレヘムに輝く星の光ではなく、打ち捨てられた冷蔵庫に潜在する、おぞましくも不愉快な食べ物の中だ。降臨説は黙示録と同じ運命をたどる。
以前レイモンド・チャンドラーが語っていたことを私流にざっくり言い換えると、先入観のない観察者にはこの世界はかなり病んでいるという結論になってしまう。「卑しい街路をひとりの男が歩いていかねばならないが、彼自身は卑しくもない(とか何とか)(※)」ということで、彼はフィリップ・マーロウを送り込んだ。不運なことに(でも仕方ない)、マーロウの存在は通りから少しばかり卑しさを減らしてしまったし、また彼自身は卑しくないにもかかわらず、明らかに「不安(angst)」からくる荒廃を免れ得なかった。ダーク・ジェントリーは最初の時点からかつてのマーロウよりも相当卑しいし、そんな彼が歩く卑しい通りはたちどころにもっと複雑なシステムでできていることが明らかになるけれど、それが何かの助けになることはない。彼がどうしようもなく潜在的なヒーローから実質的な犠牲者に成り下がってしまう様は、マーロウのよりも急展開であり、今後別の事件で彼を信用できるという見込みを抱くのは難しい。もし彼に次なる冒険があったとして、愉快なものにもなりえるけれど、その愉快さは『さようなら、いままで魚をありがとう』とほどんど同じようなものなるのでは、という疑念から逃れることはできない――くだらない失敗についての毒舌コメディにしかなりえない危険性である。小説家としての長いキャリアの間に自分のスタイルをどうにか維持し続けたイギリスのユーモア作家がP・G・ウッドハウスただ一人なのは間違いない。ウッドハウスの向こうを張ろうとする者がいてもその見通しは明るくない。というのも、ウッドハウスは基本的に上流階級をばかばかしく見せることで彼らの意図を覆すことしかしていない――彼がこんなにも長い時間をかけてそのことだけに専念できたのは、上流階級の人々が覆されるべき意図を頑固に、英雄的なまでに、あらゆる論理に反してでも、維持し続けようとしたからである。今日のアナーキーなコメディアンには、これほどまでに頑丈な攻撃対象を見つけることはできない。昨今では、転覆に効果がありすぎてむしろ役に立たないくらいだ。聖なるものと崇められて見えたとしても、それをバカにするのは恐ろしく簡単である。主張そのものがセルフ・パロディと大差なく見えるとしたら、そんな主張をコケにしたところで未来はない。
このことが、ダグラス・アダムスのようなユーモア作家を、ベストセラー作家としての立場に陥ったり勝ち取ったりした他の作家たちとは異なる苦境に置く。大駄作ファンタジー三部作の書き手なら同じような話を延々と書き続け、練習して技術を培うこともできるし、ブームが続いている間だけでなく、次なる流行の層にどういう種類のアクション・アドベンチャーが継承しようと、それに形を合わせていく習性を養うこともできる。残念ながら、文学性のあるユーモア作家は、自分の作品を生かし続けるため、新鮮な素材を永遠に探し続けなければならない。
映画のユーモア脚本家なら、ストレスがかかった時にはスラップスティックは永遠に不滅だとの確信を持ってサイレント・ギャグに退却することができるけれど、ウィットが売りの小説家の場合、この世界(ここでいう「世界」とは、科学的な世界観と文学ジャンルの伝統的表現法の両方を含む)が新たに探求する価値のがあるものを定期的に供給してくれることに頼らざるを得ない。この種の仕事の熟練者は失業中の自分についてたやすく書けるかもしれないが、ダグラス・アダムスのようにすごく良い仕事をしてベストセラー作家になったりすると、書き続けるのは困難になる一方だという矛盾が生じる。
この先、ワードプロセッサーを閉じてベッドリネンに深く引きこもる日までベストセラー作家として生き残りたいなら、恐らくダグラス・アダムスが進むべき道は『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』であり、ダーク・ジェントリーをアダムスの長きに亘る先導者にしたいなら、まず彼のキャリアを『長く暗い魂のティータイム』で陥ったスランプから救い出してやらねばならない。未来に明るい展望は、踏み潰された無意味な啓示ではなく、入り組んで複雑な繋がりの中にある。
ダグラス・アダムスの崇拝者軍団は、彼が最新刊ではまだその域に達成していないにしろ、この先もっと本気の全体論者になれるかもしれない、そして彼の創意工夫の才が、終末論的なおぞましき「不安(angst)」のせいであっさり枯れたりすることのない、快適な牧草地へと導いてくれるにちがいない、と希望を持つべきだろう。それに失敗したら、「長く暗い魂のティータイム」が彼自身の芸術的な魂を飲み込もうと待ち受けているかもしれない。※ 参照:「簡単な殺人法」、『チャンドラー短編全集 2事件屋家業』稲葉明雄訳 グーテンベルク21)