「Lewis Caroll in cyberspace」

 以下は、2001年8月12日、「オブザーバー」の公式サイトに掲載された、イギリスの作家ロバート・マクファーレンのエッセイである。ただし、訳したのが素人の私なので、少なからぬ誤訳を含んでいる可能性が高い。そのため、この訳はあくまで参考程度にとどめて、全貌をきちんと知りたい方は、必ずオリジナルにあたってくださるようお願いする。


Lewis Caroll in cyberspace

サイバースペースのルイス・キャロル

 1979年、銀河の西の渦状腕の貧乏人向け隅っこにあるぱっとしない惑星にて、ダグラス・アダムスと呼ばれる非常識なまでに背の高いサルの子孫が、『銀河ヒッチハイク・ガイド』と呼ばれる本を出版した。

 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズはさらに4冊も出版されて完結し、パン・ブックスという出版社が出した本のうちで恐らくもっとも驚くべきプロジェクトとなり、間違いなくたいへんな成功を収めた。常識なまでに背の高いサルの子孫はさらにジャンル分け不可能な本を書き進めていったが、そこには2冊のダーク・ジェントリー・シリーズと、The Meaning of Liff と、他の生き物を絶滅に追いやる私たちの能力に目を向けた悲喜劇『これが見納め』、それから迷宮めいたコンピュータ・ゲーム、さらに迷宮めいたウェブサイトがある。

 そして2001年5月、彼は心臓発作を起こし、49歳というとんでもない若さで死去した。

 最近の作家で、アダムスほど感染力のある文体を持つものはほとんどいない。パラドックスを好み、物事を宇宙規模で俯瞰し、意味ありげなナンセンス(「船が空中に浮かんでいるさまは、レンガが絶対に浮かばないさまにそっくりだった」)を見事に駆使して、彼の本は何百万ものジョークを打ち上げた。言語にも、アダムスはいくつもの不朽のフレーズや、「生命と宇宙と万物」といった究極の大全を遺している。

 私たちにおなじみの、風変わりな登場人物の創意工夫に富んだ一群には、さらにゼイフォード・ビーブルブロックスや、受賞歴のあるフィヨルドデザイナーのスラーティバートファースト(「そのほうが美しいバロック調の雰囲気が出ると思っておるんだ」、超自然的なまでに抜け目のない探偵ダーク・ジェントリーと鬱病ロボットのマーヴィン、さらに電動修道士、しゃべるマットレスに非常に親切なブタまで出てくる。

 何よりもまず、彼はコミック・ライターだった。彼の死後に溢れ出てサイバースペースの隅々にまで増え広がっていったアダムスへの追悼文は、実際のところ、彼の文章を大真面目に受け止めるものだった。しかし、自身のキャラクターにバンバンだのトリリアンだのヴルームフォンドルだのと名付ける作家をどうすれば大真面目に受け止められるだろう? 恐らく、アダムスについて考えるもっとも有効な手立ては、彼を20世紀のルイス・キャロルとみなすことだ。どちらの作家も、もう一つの世界を創り上げる素晴らしい才能があった。どちらの作家も、自分の文章をムチャな悪ふざけをしていたらたまたま真実にぶち当たったかのように見せかけるため、背後でとんでもない苦心惨憺をしていた。そしてどちらの作家も、それぞれの時代の独断主義について大真面目に風刺するという長所があった。

 キャロルは、ウッドハウスともども、アダムスにとってコメディのヒーローの一人であり、キャロルを好む気持ちが彼の文章に風合いを添えている。キャロルの素晴らしき擬叙事詩「スナーク狩り」(1976年)と同様、『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズはあらゆるものの究極の意味を探求する優れた風刺小説だ。キャロル作品の仲間たちが何の収穫もないままスナークを追いかける一方、アダムスは地球を、生命と宇宙と万物の答えを計算するためにむなしくも捧げられ、期待に応え損ねた巨大コンピュータとして描く。最終的に出された答えが「42」だったのは、この数字に取り憑かれていたキャロルへの目配せだ。

 アダムスは、科学のパロディのようなナンセンスを愛する気持ちをキャロルを分かち合ってもいた。『銀河ヒッチハイク・ガイド』の最初のほうに出てきて、アーサー・デントに想像を絶する苦痛を与えた、ヴォゴン人の船長による失恋詩はその一例である。「おお、ふるぶるの爛れなげれし洟汁よ!/なんじが排尿はわが目には/病にぐじゅれし蜂の陸続の粟粒膿瘍のごとし/ゲロゲロよ、いまなんじにこいねがう/わがふんべりの泥具場を/いざ、がさがさの包み腐れもてタガ輪のごとくわれをしむりきたれ」。これは、そのとっちらかり具合といい、すぐれた音楽性といい、明らかにキャロルの詩「ジャバウォッキー」へのオマージュだ。「夕火の刻、粘滑なるトーヴ/遥場にありて回儀い錐穿つ。」("Twas brillig, and the slithy toves/ Did gyre and gimble in the wabe.")

 アカデミックな数学者でもあったルイス・キャロルが『不思議の国のアリス』シリーズに代数的な思考をしのびこませていたように、テクノロジー大好き人間のアダムスも自分の文章に20世紀後半の科学をさらりと組み込んだ。たとえば『ダーク・ジェントリー』シリーズの1作目では、フラクタルやカオス理論が出てくる。1987年にこの小説が出版されると、ポップ・サイエンス界ではホットな話題になった。同じ年にジェイムズ・グリックのベストセラー『カオス 新しい科学をつくる』がベストセラーになり、その後の悩める世代の若者たちに刺激を与え、マンデルブロ集合と葉っぱのような形のフラクタル図法のポスターを壁に貼らせることになった。

 カオス理論に言及している一番有名な文学作品といえばトム・ストッパードの「アルカディア」だが、この作品が登場したのは1993年で、その頃には壁のポスターは全部剥がされていた。つまり、アダムスは最先端の科学者ではなかったにせよ、最先端の流行発信者だったのだ。それも素晴らしく優秀な。「宇宙規模のアイディアを日常生活のありふれた物事と結びつける彼の能力はユニークだ」と、彼の友人のスティーヴン・フライは述べている。

 アダムスの作品を再読してみて、私は二人のコメディの先達、ラブレーとスウィフトを思い出した。この二人との共通点は、アダムスもまた「サイズ感」で遊ぶのが大好きだということだ。彼のよくできたジョークの多くが、突然のサイズ変換によって展開する。ヴォゴン人の宇宙船は銀河の一角を陣取っている。そして、それらは丸ごと犬に飲み込まれる(訳者註/「犬に飲み込まれる」のはヴォゴン人の宇宙船ではなく、ヴラハーグ族とガガグヴァント族の子孫たちが作った宇宙艦隊。「堂々たる艦隊は虚無の空間を引き裂き、ついに遭遇した最初の惑星に猛然と襲いかかった――それはたまたま地球だったが、大小の差を完全に計算しまちがっていたため、誤って小さな犬の口に飛び込んで全艦隊が飲み込まれてしまった」)。

 こういうものと対峙すると、私たちの精神は、何とかしてレンズの焦点を合わせようと、必死でズームインとズームアウトを繰り返す。ラブレーは『ガルガンチュア物語』で、ガルガンチュアとパンタギュルエルが通り過ぎた田舎道を突然ガルガンチュアが丸ごと飲み込む、といった、同じようなトリックを使っている。そして『ガリバー旅行記』では、終わることなくサイズの変動が起こる。『銀河ヒッチハイク・ガイド』のオープニングでも、優れたマトリョーシカ効果がある。アーサーは、地方自治体の掘削機材の前で仰向きで寝転がり、自分の家が潰されてバイパスになるのを阻止しようとするのだ。

 12分後、空に銀河超空間土木建設課に派遣されたヴォゴン人の宇宙船団が現れて、超空間高速道路の建設のため地球を取り壊しにきたと告げる。アダムスは、少なくとも惑星サイズの頭脳を持っていたようで、このようなユーモアのねじれやこじれが間違いなく大好きだった。

 スウィフトのウィットにみられるギザギザと尖った切れ味には欠けるものの、アダムスにも愚かさや唯我論を笑顔で拒絶するところがある。表向きのユーモアの下には意図的に隠されたかなりの数のショッピングカートがあって、熱狂的に飛び込んだ者たちに激突せんと待ち構えている。というのも、アダムスは仲間のサルの子孫たちからそこそこ低く見積もられているようだからだ。

 とりわけ彼は思い上がったヒューマニズム――地球は我々のために特別にあつらえられたという信念――にうんざりしている。自作を通して、彼は、我々がいかにちっぽけな存在か、なのに我々がこの特別な小さい惑星に与える衝撃がいかに不釣り合いなまでに大きいかを力説する。

 それから、二元論者たちが『スター・ウォーズ』について厳格かつわかりやすく善と悪とに分かれていることにもがいているのと比べ、アダムスの銀河の見方はもっと人をまごつかせ、そしてもっと人間味がある。混沌、まごうことなき混沌がこの世を支配している、と、彼は言う。が、自分のタオルのありかを心得ている限り、なんだかんだで大丈夫だよ、とも。

 

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